後世に語り継ぐべき半島人

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だが、頭腦明晰と搖がぬ節操はもとより軍人だけの特色ではない。それゆゑ私はこ
こで、韓國のあつぱれな文民についても語らねばならぬ。十九日間の韓國滯在中、私
は申相楚氏とは殆ど毎日のやうに會ひ、朝鮮日報前主筆の鮮于W氏と三人で、扶餘、
群山まで弥次喜多道中をやつた。ここでその樂しい思ひ出をつぶさに語る紙數は無い
が、とまれ、申氏も鮮于氏も頗る頭のよい男であつた。そして當然の事ながら、志操
堅固の人であつた。そればかりではない、日本について、韓國について、齒に衣着せ
ず物申す兩氏の自由闊達はまことに見事であつた。あの二人を眺めてゐると、日本よ
りもむしろ韓國のはうにこそ言論の自由があるのではないか、とさへ思はれたのであ
る。アメリカや日本や韓國の政治家を私は糞味噌に言ふ事があつたが、さういふ時も、
申氏と鮮于氏の喋りやうはまつたく自由であつた。およそ右顧左眄する事が無く、そ
れゆゑ二人は自由なのである。
 鮮于氏は朝鮮日報のコラムに「金載圭は犬畜生よりも劣る。犬だつてあのやうな事
はしない」と書いたといふ。右にも左にもよい顏をしたがる韓國の大統領候補も、平
和憲法は改正さるべきだと内心思ひつつも、國内國外の情勢を氣にしてそれを言ひ出
せぬ日本の政治家も、右顧左眄するがゆゑに自由ではない。友人から聞いた話だが、
日本社會黨の或る代議士は、「非武裝中立」なんぞ荒唐無稽と承知してはゐるが、な
にせそれが社會黨の表看板、どう仕樣も無いのだと告白したといふ。この代議士も、
要するに、黨の建前に縛られて本音が吐けぬ、つまり自由でない譯である。
 もとより韓國にもさういふ手合は多い。鮮于氏から聞いた話だが、或る著名な大學
教授が「維新憲法は四月頃までに改正しなければならない。さもないと學生がをさま
らぬ」と言つたといふ。そこで鮮于氏が「あなた自身はどう思つてゐるのか」と尋ね
ると、教授は「自分としては改正の要無しと考へるが、それでは學生が承知しない」
と答へたさうである。日本の大學にも、學生に迎合して學生に束縛されるこの種の腑
拔けが多い事は、私自身がよく知つてゐる。
(つづく)
157 :04/02/07 20:51 ID:qkmr4qT7
(つづき)
 とまれ、申氏も鮮于氏も頗る自由闊達であつた。二人が日本を腐すと私が笑ひ、私
が韓國を腐すと二人が笑つた。が、眞劒に論ずべき時は、三人とも頗る眞面目になつ
たのである。例へば、扶餘へ向ふ車中で申氏が言つた、「松原さんはずゐぶん自衞隊
の惡口を仰有るが、自衞隊にも頭のよい侍がをりますぞ」。申氏がかつて日本を訪れ、
自衞隊を見學した際、ブリーフイング役の將校が申氏にかう言つたのださうだ、「え
え、日本の自衞隊は男なのか、女なのか、それが解りません。日本の軍隊か、アメリ
カの軍隊か、それも判然としない。要するに妾のやうなものでありますから、いかが
致しませう、ブリーフィングなんぞは止めにして、早速一杯やるに如くは無いと存じ
ますが……」。なるほど見事な將校である。相手が韓國有數の飮兵衞だと看破つての
應對ならなほの事見事である。が、その申氏の話を聞き終ると、鮮于氏が大層眞劒な
表情で言つた、「しかし、申さん、そんな妾の軍隊にゐて、誇りだの生甲斐だのは一
體どうなるんだ、え?」
 鮮于氏と申氏はともに一九二二年生れ、同郷の、竹馬の友である。鮮子氏は著名な
小説家で、小説家だけあつて大層話上手で、彼の冗談に私は車中で何囘となく腹の皮
を縒つた。が、すでに述べたやうに、申氏にせよ鮮于氏にせよ、時に頗る眞劒になる。
私は鮮于氏が「子供に土産を買つて歸る時なんぞ、ふと思ひますよ、この國はこの先
どうなるか、今のうちにうまい物を食はせておいてやらう、つてね」と言つた時のし
んみりした口調を忘れる事ができない。これまた飮兵衞の鮮于氏の事だから、「子供
に土産を買つて歸る」のは、大方、飮み過ぎを反省しての事だらうが、それだけでは
決してない。太平樂を享受してゐる日本の飮兵衞が、「この國はこの先どうなるか」
などと、さういふ事を考へる筈は斷じて無いであらう。
(つづく)
158 :04/02/07 20:52 ID:qkmr4qT7
(つづき)
 申相楚氏にしても、普段はにこやかだが、時に頗る眞劒な表情になる。申氏は若い
頃まづ日本軍から、ついで八路軍から、三度目は北朝鮮軍から脱走した體驗の持主な
のだが、三月三十日、申氏の案内で「自由の橋」まで行つた時、これまで三度脱走し
た申氏が、四度目の脱走を敢行ぜねばならぬやうな事態だけはどうしても避けねばな
らぬ、と私が言つたところ、彼は急に嚴しい表情になり、かう答へたのである、「い
や、もう逃げようとは思ひません。年が年だから兵隊にはなれないが、今度北が攻め
て來たら、手榴彈で一人でも敵を殺して死ねれば、それで本望だと思つてをります」。
 この二人の飮兵衞を時に頗る眞劒にならせるもの、それが韓國にあつて日本に無い
ものなのである。そして、頭がよくて、つまり知的に怠惰でなくて、それで眞劒勝負
を強ひられると、人間は道義的にも見事に振舞ふのだといふ事を、私は今囘韓國で確
かめた。道義的に振舞ふと言つても、それは道學先生振るといふ事ではない。自由奔
放に振舞つてゐるかに見えながら、どこかで節を折らうとはしないといふ事である。
申氏は髪はぼさぼさで、風采を構はず、濃紺の背廣の胸のポケットに、黄色い大きな
女物の櫛を突込んで平氣でゐるやうな男だが、朴大統領の思ひ出を語る時の語調には、
節を折らぬ人間特有の眞情が溢れてゐた。或る時、申氏に朴正煕氏は「君のやうに權
力を授けようとすると斷る人間がゐるものかね」と言つたといふ。また、禁煙中の朴
正煕氏に會つた時、煙草を吸ひたくて申氏がもぢもぢしてゐると、朴大統領が言つた
といふ、「申議員、もぢもぢしてゐるのは、要するに煙草が吸ひたいのではないか」。
「お察しのとほり」と申氏が答へると、朴氏は言つた、「よし、では一緒に煙草を吸
ふ事にしよう」。
 かういふ思ひ出を語る時、申氏は眼を細め、懷かしくてたまらぬといふ風情だつた
が、朴正煕氏の孤獨について語る時、申氏は何とも悲しげになるのであつた。或る時、
朴氏が尋ねた、「申議員、君は今でも李承晩の惡口を言つてゐるのかね」。「言つて
をります」。すると朴氏は言つた、「さうか、私はもう言はない。大統領といふ地位
が惡黨に利用されがちなものなのだ。私はもう李承晩の惡口は言はない」。
(つづく)
159 :04/02/07 20:53 ID:qkmr4qT7
(つづき)
 だが、殺される十日程前、朴大統領は與黨議員のパーティーに出席し、退席する際、
竝んで見送る議員達と握手をしたが、申氏の前まで來ると、申氏の耳元に口を近づけ、
「近頃、なぜ酒を飮みに來ないのかね」と尋ねたさうである。晩年の大統領は、茶坊
主どもが巧妙に張り囘らした「人のカーテン」によつて外部から遮斷されてゐた。
「知りて言はざるは不忠」といふ事を重々承知してゐた申氏も、まさか「人のカーテ
ンゆゑに」とも言へず、「昨今、酒を愼んでをります」と答へたが、朴大統領は「を
かしいな」とでも言ひたげに、申氏をじつと見詰めたといふ。「それが私が見た最後
の大統領でした」と悲しげに申氏は言つた。
 これを要するに、「大統領といふ地位が惡黨に利用されがちなもの」だといふ事を
よく承知してゐた頭腦明晰なる朴正煕氏も、いつの間にかおのれの周圍に張られたカ
ーテンには氣づかなかつた、といふ事なのかも知れぬ。が、それを神ならぬ身の吾々
がどうして輕々に批判できようか。昔、韓國の或る代議士は、代議士のでたらめに腹
を立て、「代議士なんぞ、皆、白手乾達だ!」と、自分が代議士である事も忘れ、國
會で叫んださうである。「白手乾達」とは、ゆすりたかりで生計を立ててゐるならず
者、といふほどの意味らしい。實際、今囘私は韓國の右顧左眄する政治家には失望し
たが、一方、事大主義やローカリズムを脱しえないさういふ「白手乾達」をも持駒に
せざるをえなかつた朴正煕氏はさぞ大變だつたらうと、私は朴氏に同情を禁じえなか
つた。
*『道義不在の時代』松原正(ダイヤモンド社)