後世に語り継ぐべき半島人

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霞ヶ關の外務省門前で壯烈な最期をとげた來島恆喜が、大隈重信の馬車に投げつけ
た爆彈は、大井憲太郎の一黨からゆづり渡されたものであつた。來島がこの爆彈の授
受について聯絡した大井の同志、葛生玄たくがありし日の來島の話をしたところによ
れば、來島は、最後まで韓國獨立黨の金玉均・朴泳孝支援のことに思ひを殘してゐた。
來島は、かねてから金玉均一黨の志を援けて、韓半島において一命を棄てるつもりで、
金玉均とも固い盟約をしてゐたのであるが、條約改正の問題が急迫して、ここで一命
を棄てることに決斷した。そのために韓國の同志への盟約を果しえないこととなつた
一事のみが心に殘る、と語つてゐる。この話は『玄洋社社史』ほか諸書に書いてある
が、來島の言葉は多少の差はあるが、その趣旨は同じである。來島が、最後の必死行
を決斷したあとにまで、心を殘した韓國獨立黨と玄洋社との關係は、どのやうなもの
だつたのだらうか。それを語る前に、ここではまづ金玉均その人のことから説明しな
ければならない。
(つづく)
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(つづき)
金玉均は、朝鮮兩班(士族)の出身で、はやくからその學識才智を大院君にみとめ
られ、政府の要位についた。そのころの韓國は、李王朝の暗黒專制の支配下にあつて、
王朝政府は、大清帝國に隸屬してをり全く亡國の慘状を呈してゐた。金玉均は、同志
朴泳孝とともに韓國の國情に慷慨し、隣國日本が維新後、急速に近代下して行く状況
を見て、韓國もまた日本に學び、國政の改革を斷行して、獨立の實をあげねばならな
いとの志を立てた。明治十三年(一八八○)いらい金は、しばしば日本に渡つて國情
を視察し、とくに慶應義塾の福澤諭吉をたづねて、韓國改革のことについて指導を求
めた。福澤は懇切な指導を惜しまなかつたばかりでなく後藤象二郎等の有力な政治家
へも紹介した。かくして金玉均、朴泳孝等は、日本との親善提携を深めながら、韓國
政治の進歩的改革を謀り、清國からの獨立を求めようとして準備を進めた。明治十七
年十二月、この金・朴等の獨立黨は、クーデターを企てたが、京城駐留の清國軍ひき
ゐる袁世凱のために撃破されて、同志とともに日本へ亡命して來たのである。十八年
韓國政府は、亡命者の引渡しを要求したが、日本政府は、さすがに國際法の慣例をも
つて、その要求を拒否した。しかし日本政府は、かれらが韓國政府内の親日要人であ
つた時代には、すこぶる好意的であつたが、いまや韓國の危險人物として敵視される
にいたつては、はなはだ迷惑な存在として冷視するやうになつた。だがそれとは反對
に、日本の反政府の在野人の中には、韓國國政の暗黒專制の實情を知つて、この亡命
者たちに深く同情し、この獨立黨を積極的に支援しようとする動きが現はれて來た。
(つづく)
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(つづき)
そのころ(明治十八年)東京芝公園の附近を根據とした玄洋社の社員(久田全、來
島恆喜、的野半助等)は、越後や大和の同志たちとともに、金玉均を援けて韓國に義
勇軍を組織して事をあげようとの計畫をねり、久田が福岡に滯在中の頭山滿に聯絡し
て、その同意をもとめた。頭山もほぼ同意したといふので、美和作次郎以下の同志連
中が續々として上京し、なほ社外では熊本、金澤、青森等の同志も新たに參加するに
いたつた。頭山は、上京の途中、神戸に滯在中の金玉均とはじめて會見した。かれは
金玉均を有爲の人材とみとめて、資金を提供したが、そのまま再び福岡に歸つてしま
ひ、上京が非常におくれた。上京して來ての頭山は、金玉均や日本人が事を急ぐのに
同意しないで、大いに自重の説を主張した。麻布の龍源寺に集まつて新しい案がねら
れた。それは釜山に「善隣館」と稱する語學校を建てて、ここに青年を集めて大いに
準備を重ね、この語學校を據點として獨立黨の運動を支援しようといふのであつた。
金玉均もその會合に參加し、善隣館の設立趣旨書は中江兆民が執筆した。
資金は前田下學、赤澤常容等が擔當することにした。
ところがこの時、大阪地方で有名な大井憲太郎等の事件が發覺して、全國的な大檢
擧が始まつた。大阪事件といふのは、大井憲太郎、小林樟雄、新井章吾等の急進民權
論者の一黨が、韓國へ武力進出して專制政府を倒して、獨立黨を支援しようとした事
件である。それは玄洋社員が、初め芝公園で計畫したのと似たやうなものではあつた
が、その連累者すこぶる多く、檢擧の手は全國各地に伸びた。大井一黨は、この計畫
では、金玉均等の韓國人には事前諒解なしに進めてゐたのではあつたが、事件が大き
くなつて來ると、その餘波は當然に波及して來る。玄洋社と聯絡してゐた者の中でも
大和の樽井藤吉等のやうに、嫌疑をかけられて檢擧される者もあつた(樽井は、結局
免訴となつた)。そのやうな譯で、玄洋社の善隣館建設案も流産のやむなきに至つた。
(つづく)
152 :04/02/07 20:48 ID:qkmr4qT7
(つづき)
大阪事件のために金玉均の活動は、はなはだしく困難となつて來た。韓國政府は、
ひそかに金玉均、朴泳孝等の身邊に刺客を放つておびやかした。日本政府は、大阪事
件いらい金玉均をいよいよ迷惑がり、かれを小笠原諸島に流島、軟禁した。當時の小
笠原行きは、なかなか長途の船旅で、金玉均の不自由もはなはだしいものであつた。
來島恆喜や的野半助は、小笠原諸島開拓の調査と稱して同島へ渡り、悲境の金玉均を
はげまし他日の蹶起を盟約したのである。金玉均は、その後小笠原から北海道へ移さ
れ、明治二十四年(一八九一)に至つて北海道における拘束を釋かれて東京に歸つた。
それは來島が自決してからすでに二年後のことだつた。
東京に歸つて來た金玉均は、朝鮮の青年を集めて祖國獨立の運動をはじめた。日本
人では、頭山滿、岡本柳之助、犬養毅などが、同情者で援助をつづけたが、運動は思
ふやうには伸びなかつた。亡命者の運動が停滯して來るときは、悲慘なものである。
かつての盟友朴泳孝との間にも不和不信の情が生じて苦しんでゐたらしい。東京にお
ける金・朴の獨立黨の運動は、停滯してゐたのではあるが、それでも韓國政府や清國
にとつては、かれらの存在は油斷ならぬものだつた。そこで韓國政府は、李逸植、洪
鐘宇等の人物を東京に送りこみ、金・朴等の暗殺計畫を立てた。
洪鐘宇はヨーロッパ歸りの才氣渙發の男で金玉均と親交を結ぶにいたつた。やがて
信頼關係が深まると、金玉均と親交を結ぶにいたつた。やがて信頼關係が深まると、
金玉均に對して、韓國の問題についての解決を謀るには、一つ決斷して清國の宰相李
鴻章に直接談判してみようではないかともちかけた。運動の停滯に苦惱してゐた金玉
均の心は動いた。頭山や岡本は、洪の人物も提案も全く信じがたいとして強く反對し
た。金は、その反對に理由のあることを十分に諒解したらしいが、亡命十年の生活に
疲れた金玉均としては「虎穴に入らずんば虎子を得ず」の心境で、大轉囘の機をつか
みたい念にかられてゐた。かれは上海行きを決意したが、さすがにそれを決死の旅と
感じた。かれは、十年來の知己頭山滿に對して、ぜひ大阪まで見送つてほしいと切望
した。頭山は、大阪まで同行した。
(つづく)
153 :04/02/07 20:49 ID:qkmr4qT7
(つづき)
金玉均は神戸出帆の郵船西京丸で、上海に渡航し二十七日同港着、上陸して東和銀
行に投宿したが、翌日このホテルで洪鐘宇のために暗殺された。この暗殺は、清韓兩
政府の計畫したもので、上海で洪が金を暗殺し、東京で李逸植が朴泳孝を暗殺する豫
定だつた。朴泳孝のグループでは、金玉均上海到着直前にその情報を知つた。金と朴
との間は、すでに述べたやうに當時は絶交状態にあつたのではあるが、緊急非常のこ
とでもあるので、その情報を福澤諭吉に告げて、郵船會社の電信で金に知らせてくれ
るやうに依頼した。また金玉均直系の門下生にも聯絡し、自分らは李逸植を逆に捕縛
するから立ち會ふやうにと申し入れた。しかし金玉均系と朴泳孝系との對立は、その
ころ極めて鋭くなつてゐたので、金玉均の門下生は、この情報を朴の謀略工作だと斷
じて、その申入れをきかなかつたのみでなく、福澤に對してもその信じがたいことを
力説した。それで福澤は、郵船會社への電信依頼もしなかつたらしい。朴泳孝一黨は、
刺客李逸植を逆に監禁して猛追及したが、李逸植は韓國公使館の通報によつて救出さ
れた。朴泳孝とその門下生は、強迫罪によつて起訴されたが、大井憲太郎、鳩山和夫、
大岡育造等の民權黨辯護士が熱心に辯護し、その結果、門下生二名が微罪(禁錮二ケ
月)になつたのみで朴泳孝等は、無罪の判決をうけた。
さて金玉均の方はどうなつたか。刺客洪鐘宇は、上海租界の米國警察に檢擧された。
しかしそれは清國政府(上海道臺)の申入れで清國側に引き渡された。清國政府の李
鴻章は、洪鐘宇を優遇し、金玉均の遺骸とともに、清國軍艦、威遠號に搭乘せしめて
韓國へおくりとどけ、韓國王に對して暗殺の成功を祝する電報を發した。韓國では威
遠號が到着すると金玉均の遺骸をひきずり出して、寸斷し、楊花鎭といふ所で、梟首
(さらしもの)にして、「謀反大逆不道罪人玉均」云々との札を立てた。その凄慘な
状況は見るものをして畏怖戰慄させた。
(つづく)
154 :04/02/07 20:49 ID:qkmr4qT7
(つづき)
これは清韓兩國の專制政府が、金玉均等の獨立進歩の運動をいかに強く憎んでゐた
かをしめすものであるが、その暗黒政治と無法とを國際的にも公開したやうなもので
あつた。そのころ日清兩國の間では、韓國問題についての外交が緊迫してゐたのであ
るが、日本では金玉均慘刑の報が傳はると「清韓の暴政府を討て」との國民感情が激
しく燃えあがつた。五月二十日、東京淺草の本願寺で金玉均の葬儀が行はれたが、と
くに民黨の政治家や玄洋社の壯士などの會葬が多かつたばかりでなく、おびただしい
市民が會葬して、金玉均への同情を表はした。對清開戰論は、時とともに強大となり、
片岡健吉、河野廣中、林有造等の自由黨系指導者は、陸奧外相に對して猛烈に對清開
戰をせまつた。玄洋社では、的野半助、平岡浩太郎等が陸奧外相および參謀次長川上
操六に對して、開戰の決意をもとめた。七月二十五日、日清兩國艦隊は、豐島沖にお
いて事實上の交戰状態に入り、七月二十九日、陸軍は牙山を占領し、八月一日、日本
は清國に對して宣戰を布告した。
玄洋社の韓國獨立黨に對する援助は、金玉均の暗殺といふ悲劇をもつて終り、その
業績としては格別のものでないやうに見えるが、それは玄洋社の後年のはなばなしい
大陸活動の序曲となるものであり、玄洋社の大陸政策を準備した第一段階として注目
すべきものである。
(つづく)
155 :04/02/07 20:50 ID:qkmr4qT7
(つづき)
日清戰爭は、日本國民の異常なる熱意をもつて戰はれた。政府も軍も民權黨も、す
べてが平素の對立關係をすてさつて、擧國一致で戰つた。玄洋社員も、もとより活發
に動いた。その中でも、平岡浩太郎の甥、内田良平(後年の黒龍會創立者)等十四名
が、日清戰爭開戰直前に朝鮮半島に渡つて、東學黨軍と聯絡し協力關係を結んだこと
は、注目すべき記録である。東學黨は、農民の宗教團體であつて、催時亨、全ぼう準
等の指導のもとに、韓王朝の閔族に反抗して亂をおこしたが、閔族は清國軍の力をか
りて、この農民軍の抑壓につとめた。内田等は、東學黨の本據をたづねて全ぼう準一
黨に會見し、これを激勵し盟約を結んだ。また玄洋社出身の山崎藤三郎は、陸軍の偵
察任務を志願して壯烈な最期をとげた。しかしここには、戰時中の記録については割
愛することにする。日清戰爭に、熱意をもつて戰つたのは、大アジア主義者ばかりで
はない。いはゆる藩閥官僚でも、自由民權論者でも、文人でも武人でも、すべてが總
力を結集して戰つた。明治維新によつて近代的に強化された新興國日本は、老廢帝國
清國に對して連戰連勝して、日清戰爭は、日本の一方的勝利をもつて終局を結んだ。
清國は、和を乞ひ、明治二十八年(一八九五)四月、講和條約が調印されたのである。
*『大アジア主義と頭山滿――日本人のための國史 四』葦津珍彦 (日本教文社)