後世に語り継ぐべき半島人

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日韓はすこぶる「厄介な隣人」同士だが、「兩國關係を考へていくには、その厄介な
ところをみつめて、そこから出發していかないと、それはきれいごとで終つてしまふ」
と李健氏は『日韓相互理解の構圖』の「プロローグ」に書き、「相互嫌惡の實態をみ
つめなければならない」とエピローグに書いてゐる。
李健氏に限らず、日韓關係を論ずる者は必ずその「厄介」を言ふ。けれども、さう
して厄介を強調する事が、厄介に拍車をかける結果になるといふ事は考へない。李健
氏の新著は二百ページだが、そのうち百五十ページ以上が、文祿・慶長の役以後今日
までの「日本人の對韓意識における傲岸不遜」に對する批判であり、日本の「前科」
を洗ひさへすれば「きれいごとで終」らないと、著者は考へてゐるらしい。
なるほど著者は在日韓國人としての厄介な心理について語つてはゐる。例へば「外
國で日本選手とその國の選手のボクシング試合を見ることがある。なにがなんでも日
本選手に負させたい氣持ちがある」と書きながら、すぐにつづけて「しかしその一方
で(中略)もつと深いところで、私は日本選手を應援してしまつてゐる。それに氣づ
くとき、私は苦笑する」と書いてゐるが、著者が日本と韓國との「相互嫌惡の實態を
みつめ」てすこぶる眞劍ならば、「もつと深いところで」日本の選手を應援してしま
つて「苦笑する」、などといふ悠長な文章はつづらぬはずである。
(つづく)
147 :04/02/07 20:45 ID:qkmr4qT7
(つづき)
私は親韓派であつて、これまで何囘か韓國のために辯じた事がある。けれども、韓
國のために辯じて何か得をしようと思つた事は無い。また今後も得をしようなどとは
思はぬ。それゆゑ率直に言ふが、韓國人が日本の前科を洗ひ立てるのは、兩國の友好
親善に役立たないのである。韓國人が日帝支配の三十六年を言ふ。日本人が「ごもつ
とも、われわれは反省してゐる」と言ふ。もとより決して本氣ではない。韓國人を喜
ばすためである。「それは實に效果的なんだよ、一度やつてみろ、安重根をほめてみ
ろ、韓國人はとたんに氣を許す」、私は親韓派の日本人にさう言はれた事がある。
要するに、日本の「前科」を洗つて日韓關係を論じた事になると考へるのはすこぶ
る甘いと思ふ。李健氏はわが吉田松陰や福澤諭吉の朝鮮觀を批判してゐる。福澤は
「痲疹に等しき文明開花の流行に遭ひながら、支韓兩國はその傳染の天然に背き、無
理にこれを避けんとして一室内に閉居し」うんぬんと書いた。また吉田松陰は「國力
を養ひ、取り易き朝鮮・滿洲・支那を切り隨へ」うんぬんと書いた。けれども、私は
日本人だから、私にとつて松陰や諭吉は安重根以上に大切な先學なのである。われわ
れが親を愛するのは親が立派だからでも、金持ちだからでもない。同樣にわれわれ日
本人は、「征韓論」を唱へたからとて、松陰や諭吉を惡しざまには言はぬ。が、李健
氏はさういふ事を少しも考へずに日韓關係を論じてゐる。それゆゑ李健氏の著書は、
在日韓國人及び親韓派の日本人を喜ばせるに過ぎまい。「日本の特殊性・優位性を主
張する日本至上主義」の「國學・神道」によつて「儒教のもつ普遍主義」が否定され、
日本は「征韓」へと傾いたやうな事を李健氏は言ふが、自國の「特殊性・優位性を主
張」したがる國粹主義は、常に「普遍主義」よりも強力なものなのである。
(つづく)
148 :04/02/07 20:46 ID:qkmr4qT7
(つづき)
最後に豫言しておくが、この拙文を讀んで、「征韓論」を肯定するとは何事かと、
いきり立つ韓國人が必ず出で來たるであらう。「そのとほり、あいつは日韓共同の敵
だ」と、韓國人に迎合して私をののしる日本人も必ず出で來ると思ふ。けれども、日
本の「前科」を論じて韓國人を喜ばすやうな事だけを言ふ、さういふ言論に一體何ほ
どの力があるか。今や韓國人は韓國に對して率直に苦言を呈する日本人の意見に耳を
傾けるべき時なのである。
第三十六囘光復節祝賀式典において全斗煥大統領は「われわれはみづからの失敗を
他人に轉嫁してはならず、成功を他人に頼つてもならぬ。國を失つた恥辱についても、
日本帝國主義のせゐだけにする事なく(中略)われわれ自身のいたらなさを嚴しく自
責せねばならぬ」と語つたといふ。まさしくそのとほりだと、日本人が言つてはなら
ないのなら、日韓の附き合ひはいつまでもまやかしでありつづけるであらう。
(五七・六・一)
*『續・暖簾に腕押し』松原正(地球社)