後世に語り継ぐべき半島人

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だがこの時代に痛感したのは、日中鮮の有力者のみでなく、大衆までもが、パワー
・ポリティックスに流されたことだ。中國の反日ナショナリズムは、初め敵とした反
米英を一轉させて米英權力に利用されて、日本とソ聯二國のみを敵目標とし、滿洲里
の一戰で、ソ聯軍に威壓されると、ただ日本一國に敵目標をしぼつた。しかも猛烈な
反日で、眞におびやかされたのは、日本の滿鐵や大財閥でなくて、中小の弱い日本人
だつた。それで關東軍青年將校の暴發は、東京の財閥的中央權力に反抗する暴走のコ
ースをとつた。おびやかされたのは、日本人よりも朝鮮人だつた。朝鮮の大衆の間に、
反中國の熱風がおこつた。私がシナ服を着て、ソウルの街路を歩いてゐたら、一群の
韓國人に投石され、罵られ、危地をまぬがれた日の悲しい悲痛の想ひ出は、忘れられ
ない。國家の政府政黨のみでなく、國民心理までがパワー・ポリティックスで動かさ
れてゐる間は、東洋の仁義は望みがない。
三・一事件の有名な獨立宣言文を起草した崔南善先生には、しばしば會つて、その
學風に敬意を感じた。併合直後から、獨立運動の國際的指導者として有名な、呂運亨
先生は、私のもつとも親しみ敬した沈才波勇の士だつた。先生が戰中に投獄された時
に、私は釋放をもとめて、しばしばソウルに行つた。そのころ日本でも韓國でも、私
の動きは支持されないで白眼視されたが、日韓共に、有識の學者は決して協力してく
れなかつた。呂さんが、小磯内閣時代に假釋放された時に、呂さんは朝鮮ホテルに私
を招待して微力、無名の日本の青年の勞を謝して、懇ろに長時間にわたつて話された。
(つづく)
127 :04/02/06 20:20 ID:NIDmkial
(つづき)
未だ大戰は、つづいてをり、釋放はされたものの、その進退は、きびしい憲兵の監視
下にあつた。しかし國際指導者としての呂さんは、さすがに卓見があつて、日本帝國
の慘敗と、韓國獨立が近いことを、決定的に確信してゐた。そしてひそかにその時の
構想をねつてゐた。かれの長い獨立運動史の詳しい言説を私は語るほどの知識は全く
ないが、かれは獨立後の韓國が依然として弱小國であること、敗戰後の日本が慘たる
地位におちることを信じてをり、その時にこそ、日本人が對韓優越感を棄て、韓國人
が對日報復感情に流されないで、一切過去のパワー・ポリティックス心理を棄て、相
扶け合つて行かねばならないと論じて、それを東京の知人に傳へてくれとて「萬里相
扶」との四文字を墨書して渡された(時の文書は現存)。少なくともこの時の呂さん
の話は、私のユートピアとはまつたく一致してゐたと斷言し得る。
八月十五日に降伏した日本總督の行政權をただちに引きついだのは、呂運亨の指導
する建國準備委員會であつた。かれは古い同志、李承晩、金九の歸國を待ち、自らは
人民黨を組織した。かれは三十八度線によつて、北がソ聯、南が米國のパワー・ポリ
ティックスに服することに反對して、南北間を頻りに往來してゐたが、これは、林論
文のいはゆる「國際政治の價値基準」に一致しなかつたためか、何者にか暗殺されて
しまつた。その後の韓國には朝鮮動亂がおこる。この時、私は、明白な反共主義者で
あるにかかはらず、ささやかながらユートピアン青年を結集して「國聯――米軍支持」
反對、中立の運動をした。
*『新編日本史のすべて』(原書房)葦津珍彦 村尾次郎監修 昭和六十二年發行より