666 :
マンセー名無しさん:04/03/28 13:53 ID:YtNWk4lX
666ゲト
667 :
マンセー名無しさん:04/04/04 01:58 ID:l7B4KGP7
ハン板にはあんまり関係ない話だが、この漫画の最初の方に出てくる
白川義則の美人の妹、操が創立した済美が甲子園で決勝進出だ。
668 :
マンセー名無しさん:04/04/06 01:38 ID:sIwa8e9z
今週号
「朝鮮は数百年来我が清国にすすんで隷属しておるのだぁ〜」
との台詞、
どっかの在日団体がクレーム付けないかな〜?ワクワク
進んで属国になっていたという件が味噌ですな
>>668 朝日の投書爛で取り上げられたりして(w
>>668 日本文化が公式非公式問わず最近それなりに韓国にも入っていってるようだけど、
韓国だとこの漫画が入って行こうとしたときどういう扱いになるんだろうね?
・発禁
・実際の歴史に一切関係がない妄想漫画扱い
・半島関連のところはばっさり切り捨て
672 :
:04/04/06 19:09 ID:iqKxgVI2
しかもまるっきり史実だしな。
>>671 絶対出せないから、安心してマンガの続きを楽しみましょう。
673 :
マンセー名無しさん:04/04/07 00:29 ID:kezHNCRA
>>672
サイゾーで連載を切られて
読者欄で反江川の投書をいやみたらしく取り上げられたのも
「ウヨク=反朝鮮」認定されたからだろうね。
674 :
マンセー名無しさん:04/04/07 00:44 ID:u+rDVhts
>>668 >今週号
「朝鮮は数百年来我が清国にすすんで隷属しておるのだぁ〜」
との台詞、
どっかの在日団体がクレーム付けないかな〜?ワクワク
足利政権もそれやってた。
江戸時代まで琉球もやってた。
675 :
マンセー名無しさん:04/04/07 00:46 ID:kezHNCRA
>674
君、内実を調べてからいえば〜?
>>674 室町幕府がどこに隷属したというのですか?俺は知らんから教えてくれ。
677 :
マンセー名無しさん:04/04/07 00:52 ID:u+rDVhts
>>674 一応、臣下の礼をしておけば経費の面倒が見てもらえて、貿易の利益が
上がるのがメリット。
「花より団子」
>>676 足利義満が日明貿易にあたって、朝貢:すなわち中国皇帝から
「日本国王」と認められて許可を得る形をとったことを言っていると思われ。
当時明朝は鎖国が建前で、朝貢貿易の形をとらない限り密貿易しかなかった。
ちなみにこの朝貢貿易は献上品の数倍以上のお返しが期待できるボロ儲けだったそうな。
679 :
マンセー名無しさん:04/04/07 01:15 ID:i/JJ9UW+
これ韓国で、でてるよ
何巻までかは知らんけど
680 :
マンセー名無しさん:04/04/07 01:31 ID:nZ9oxi5I
>>679 そりゃ凄いね。
でも、ビニールで包まれた18禁として売られているんじゃないの?
681 :
マンセー名無しさん:04/04/07 01:52 ID:GR7IoZbW
高校生=工房も入るぞ!!
>>678 >ちなみにこの朝貢貿易は献上品の数倍以上のお返しが期待できるボロ儲けだったそうな。
完全な隷属せずにぼろ儲けしてもなお、ケチと呼ばれなかった当時の日本。
自分から進んで隷属して国名まで選んでもらったのに、なおケチと呼ばれた当時の半島。
やっぱこの辺りから後の帰趨も見えて来る物か・・・・・・w。
荒波越えてくるんだから当然だ
韓国人でも坂の上の雲は有識者なら人気だから問題ないんじゃなかな。
内容を読みもしない反日馬鹿は食わず嫌いに反応するだろうけど。
>>667 済美て千舟町の制服が可愛い女子校だよな。いつ共学になったのだ?
創部2年とか言ってたからその頃か?
687 :
マンセー名無しさん:04/04/07 23:47 ID:6vrkKkTK
>>678 そう、当時の貿易は、
朝貢or密貿易
しかなかったというのが味噌。
だから室町後期に「倭寇」という名の密貿易が盛んになると
「国王」名で朝貢形式をとるのも立ち消えになっちゃった。
事実問題として軍事占領された朝鮮とはまるで事情が違うよ。
>>682 >完全な隷属せずにぼろ儲けしてもなお、ケチと呼ばれなかった当時の日本。
>自分から進んで隷属して国名まで選んでもらったのに、なおケチと呼ばれた当時の半島。
>
>やっぱこの辺りから後の帰趨も見えて来る物か・・・・・・w。
日本は元に屈しなかったんで、明とすれば日本から使者は大歓迎するわな。
689 :
マンセー名無しさん:04/04/08 00:48 ID:7cYH4v45
690 :
マンセー名無しさん:04/04/08 00:52 ID:7cYH4v45
まったく清国の将軍の言うとおりだと思った。
海の向こうから口を出したばっかりに、我々は…
道端で死んでいる動物に必要以上に憐れみをかけると
憑かれるというのは本当だったんだ。
692 :
マンセー名無しさん:04/04/08 21:28 ID:1hF862uC
江川すごいな江川。
在日朝鮮人によっぽどいやな目に会わされたことがあるのかな。
>692
それは悪口になるのでは。「偏ってる!」と言う意味に取れる。
わざわざ描くかどうかは別としても、当時の状況を鑑みれば
このような描写はあってもおかしくない、江川にどんな経験が
あるかなど関係ない、という姿勢の方がよさそう。
694 :
マンセー名無しさん:04/04/12 20:58 ID:Ff7cmH38
>693
漏れもごく妥当な描写だとおもうよ
でもその「当然」が今まで許されなかっただけで・・・
695 :
マンセー名無しさん:04/04/16 23:35 ID:LIS/F3uy
華夷秩序によれば、中華に朝貢する諸国の王は中華の皇帝によって認定され、地位を保証される。
日本国王を誰にするのかは中華の皇帝が認定するのであり、その日本国王を否定する者は中華皇帝の権威に挑戦する事になる。
もしも中華皇帝が認定した日本国王を認めない者が居れば、中華皇帝はそのような者を懲罰しなくてはならない。
日本では征夷大将軍がシナ歴代王朝との貿易を行なう際に日本国王として認定される場合があったが、
中華皇帝が日本国王と認定した征夷大将軍が天皇の地位にとって代わる事例は一度も発生しなかった。
つまり、中華皇帝の権威が保障する日本国王の地位は、日本国内ではまったく通用していなかったのだ。
中華皇帝から日本国王として認められた征夷大将軍も、あくまで天皇の臣下としての身分を逸脱せず、
征夷大将軍、つまり夷狄を制圧する役人として働き続けた。
ここで夷狄というのは、外国一般を指す。
つまり中華皇帝も例外ではなく、日本国内では夷狄の酋長の一人に過ぎなかったのだ。
>>678 朝貢にはいろいろあって、オレ詳しくは無いけど、
日本は10年1貢。朝鮮は1年2貢だったかな。
明の永楽帝は義満にすごい気を使ってるからね。
朝鮮は女まで差し出しても(ry
697 :
マンセー名無しさん:04/04/17 00:10 ID:QSIPEtvT
>>696 簡単に言うと
本当に奴隷にされた奴と
権威付けに付き合って貰うお客の違いだね
698 :
:04/04/17 00:10 ID:bHRanKcd
なんか最近、作者の日本批判が鎮静化してきたような気がする。
江川達也ってもともと全学連が先生やって、それで漫画家に転進したような感じだったから
既存の権威には極めて批判的だったけど、
自分で漫画書くために資料集めて、内容推敲していくうちに、既存の歴史教育と左翼史観に
疑問を感じ始めたフシが伺える。
>>698 サイゾーって雑誌でそこら辺の事を言っていた>資料。
まぁ何度か兵站のことで第二次大戦時のとの違いを書いているから
そこら辺を批判するんだろうけど。
>>696 > 明の永楽帝は義満にすごい気を使ってるからね。
二回の元寇失敗で、日本は中華帝国にとって、ちょっかいをかけてはいけない
国になったからな。
以後、このハンドルでの書き込みは
最後のロシア皇帝ニコライ二世の日記
朝日選書〈403〉保田 孝一【著】
よりの抜粋です。
1891年4月25日
午後五時、長崎に向け出航した。私の心はずっと以前から長崎にある。
予定より二日前に長崎に到着できるのが嬉しい。そこでの停泊は素晴らしいと
いう話だ。将校集会室で日本について長時間話し合った。
中国よ、その黄色い川と黄色い人々よ、さようなら。すべての者が中国を去るのを
喜んでいた。
午前中、小波のために船が少しばかり揺れた。祈祷はいつものように、
午前九時半に始まり、その後フリゲート艦(1)の上下のデッキを視察した。
それから、日本旅行の準備のために「お菊さん」(2)を読み始めた。昼食後、
下に下りてドミノを楽しみ、日本産のクルミを割った。
(1)パーミャティ・アゾヴァ号。通称アゾフ号。
(2)ピエル・ロティ著、一八八七年。ロティはフランスの海軍士官作家。
淡い恋愛小説で、これを読んだ外国人は長崎を好きになるらしい。
1891年4月27日
午前七時過ぎ、ついに待望の日本の小高い海岸を見た。素晴らしい晴天の日だった。
すべての乗組員が上方に出ていったのは当然だ。
パペンブルグ島(1)を通過する。この島で、日本人がカトリック修道士を海に投げ捨てた
という伝説がある。ここで艦は左に向きを変え、美しい狭い水路に入った。
湾のずっと奥に長崎を見た。そして、わが艦隊のヴラディーミル・モノマフ号とナヒモフ号、
義勇艦隊の新しい汽船オリョール号が見えた。そのほかに、日本の船が三隻停泊していた。
オリョール号から雷のようなウラーが鳴り響いた。ウラジオストクへ向かう千四百人の新兵
たちだ。ウラジオストクからハバロフスクまでの鉄道建設を開始するため、この船で、建設
委員たちとともに、提督ペレレシンが鉄道愛好者として同行する。
東京駐在の公使シェーヴィチや公使館員、領事、日露各艦の艦長、シベリア鉄道の建設
責任者らに接見した。
晩に将校集会室に現地駐在の海軍少尉ら八人が集まった。彼らはみんなロシア人村の
稲佐に住み、そこで、それぞれ結婚(2)している。正直なところ、私も彼らの例にならいたい。
しかし、こんなことを考えるなんて、なんと恥ずかしいことか。復活祭直前のキリスト受難
週間が始まっているというのに。
(1)高鉾島。
(2)日本人の現地妻との結婚。
先日、横須賀行って、三笠見学してきたぞー。
その後バルチックカレー食べ行ったのはいうまでもないw
目が覚めると、素晴らしい日和が、上陸するようにと手招きしていた。
十二時にプリンス有栖川宮(1)がフリゲート艦にやってきた。若い海軍士官だ。
彼は一八八九年にガッチナ宮(2)を訪れたことがある。好感の持てる人物だ。
午後二時、ゲオルギオス(3)、ヴォルコフ(4)と一緒に長崎市に向かった(5)。
人力車であちこちの商店を訪問し、自分のために相当量の品物を買った。
まず鼈甲屋(6)へ行く。ここの店主はすでにアゾフ号を訪れ、私に小箱と魅惑的な
作りの鼈甲製の水雷艇をプレゼントしてくれていた。彼の店でいくつかの品物を
買った。長崎市の家屋と街路は、素晴らしく気持ちのよい印象を与えてくれる。
至るところ掃除が行き届き、小ざっぱりしていて、彼らの家の中に入るのが楽しい。
日本人は男も女も親切で愛想がよく、中国人と正反対だ。特に驚いたのは、
ロシア語を話す人が多いことだった。午後五時にフリゲート艦に帰った。
昼食の後に、右腕にドラゴンの入れ墨をする決意をした。そのために晩の九時から
朝の四時まで、ちょうど七時間かかった。この種の気晴らしは一度経験すれば
十分だ。もう一度やりたいという誘惑を撃退できる。ドラゴンは見事に彫られており、
腕はまったく痛まなかった(7)。
(1)有栖川宮威仁親王。
(2)ペテルブルグ郊外の離宮。
(3)ニコライの従兄弟。ギリシャ親王。
(4)侍従武官。
(5)ニコライの長崎到着後、公式行事は五月四日から。五月三日がロシア正教の
キリスト復活祭に当たり、その日まで斎戒のため公式の行事などを避けなければ
ならなかった。ニコライの市中見物は戒律を破るものだったらしい。
(6)江崎鼈甲店。ニコライ直筆の「善人江崎栄蔵殿 皇太子ニコライ」という
ロシア語の署名入り肖像写真が現存。
(7)「お菊さん」でもロティが入れ墨してもらう場面があり、ニコライの従兄弟
イギリス親王ヴィクター、ジョージの兄弟も一八八一年来日時に入れ墨して
いるという。長崎県立図書館蔵「機密報告書」には、野村幸三郎、姓不詳又三郎
両名で連日ロシア艦を訪れ、ニコライ、ゲオルギオス及び士官数名に入れ墨したと
報告があるらしい。
面白いなぁ
1891年4月29日
朝、起床し礼拝室に出席した。曇天で、ときどき雨が降り、それが長崎の美しい
景色をスポイルしていた。
わが軍艦へのいろいろな納入請負人が素晴らしい贈り物を献上してくれた。
カヘイ(1)は、昔の貴人が旅行しているところを描いた優雅な屏風を贈ってくれた。
午後二時半にコチュベイ(2)と一緒に、昨日と同じ埠頭に上陸し、同じ人力車
六六七号に乗った。二人で市場をぶらついた。市場は、なんとチャーミングに
つくられていることか。そして、信じられないほど商品の値段が安い。
市場をぶらついている群衆を眺めるのは楽しい。みんながお喋りし、みんなが
微笑している。しかし、われわれが雨の降る街路を、日本の傘をさして買い物
して歩いたとき、大笑いが起こった。日本人はとめどもなく笑った。こういう場面
には十分満足した。
六時ごろ、購入したすべてのガラクタ(3)を船に積んで帰艦した。
食後に侍従武官長バリャティンスキーが入れ墨をした。私は将校集会室でドミノを
楽しんだ。
(1)不詳。
(2)侍従。
(3)「露国皇太子殿下御買上ケ物品調表」によると、四月三十日までの買い物
合計額は千百五十四円八十三銭。現在の価格にして一千万円以上。わずかな
刀剣類を除いて、ほとんどは日用品や家具類だった。
1891年4月30日(木)
朝食後にオボレンスキー(1)と一緒に上陸し、専用の人力車六六七号に乗り、
写真館(2)に直行した。撮影の後、舟で湾を渡り、ロシア人墓地を訪れるために
稲佐へ行った。
ロシア人墓地の掃除は行き届いていた。小礼拝堂も将校の墓も水兵の墓も、
よく手入れされていた。視察の終わりごろに、坊さんと日本人監督官が現れた。
彼らは私がだれであるかに気づいたので、微行を止めにした。
坊さんの願いで、墓地を管理していた寺(3)を訪れ、一八五八年にウンコフ
スキーがアスコリド号の士官や乗組員とともに暮らしたという部屋でお茶を
ごちそうになった。
稲佐の全住民が寺の境内に駆けつけてきた。この村には多数のロシア人将校や
水兵が住んでいた。埠頭への帰り道に、幾組かの幸せな夫婦者(4)の家の近くを
通った。日本の寺から見たロシア艦隊の姿は、ただただ魅惑的で、私はそれを
忘れることができない。
(1)侍従武官。
(2)写真師、上野彦馬。
(3)悟真寺。現在では、日本海海戦で戦死したロシア人四百人の共同墓地など、
約千人のロシア人がこの寺に眠っている。
(4)ロシア人将校と日本人妻の夫婦。
1891年5月1日(金)
午後二時に主キリストの『眠りの聖像』(1)をゲオルギオスと私とで運び出した。
上陸したいのは山々だったが、終日フリゲート艦にとどまっていた。晩の祈祷の
終わりに、われわれは『眠りの聖像』を掲げて上部甲板を歩いた。
(1)主の遺体を描いた布。
部下への示しがつかないからか、さすがに週末三日間は艦内で慎ましく
暮らしていたようです。
1891年5月2日(土)
風雨の強い、移り気の嫌な天気だった。美しい長崎が非常に冷淡に見えた。
祈祷の終わりに、衣替えして、ご聖体を頂いた。
揚子江遡航についてパパに長い手紙を書き始めた。今日はまったく上陸したく
なかったので、気持ちが楽で、書くことができた。下の船室で卵を赤く染めた。
軍艦の中でこういうことをするのは不思議な気がする。
パパとママがいないのが、ひどく寂しかった。まったく新しい環境だったのだ。
余談だが。
「皇国の興廃この一戦にあり」でぐぐったら
なぜかエロゲのサイトが引っかかった。
↓このページ。
ttp://www5c.biglobe.ne.jp/~ape_frog/nikki04.html んで、↓こんな紹介がある。
>列強国、国家間戦争時代。
>兵器の物量、性能、生産技術、国家資源、全てにおいて優勢な敵連合軍の猛攻に追いつめられた帝国民族の存亡をかけた最終本土決戦。
>数百万もの屍が折り重なる荒廃と殺戮の帝都。
>行こう苦しみの海へと・・・
>少女達の流した血潮が、花をさかせるその日まで。
1891年5月3日(日)
九時半まで眠り、目が覚めると素晴らしくよい天気だった。十二時に私の小型舟艇の
下士官、漕ぎ手の水兵たちと三度のキスを交わし、それから艦の乗組員のところを回り、
復活祭を祝った。
午後六時に花火が打ち上げられ始めた。最もよかったのは、日本人がロシア語で書いた
プログラムであった……(1)
(1)「……」保田氏は「以後省略」などの意味で用いているようです。
花火かぁ
どんなのだったのかな。