伝説記者オデヨン

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28←◎  ◆TRICKHvHso
230 名前:zeong 投稿日:2003/09/18(木) 16:29 ID:+ofdom98

手紙の全文を公開しておきます。

呉?泳 様


拝啓 時下ますますご清栄のこととお喜び申し上げます。

本日お手紙を致しましたのは他でもありません、
貴員の[速報, 世界] 2003年 09月 17日 (水) 21:12付の記事、
「日帝が強奪した朝鮮『北関大捷碑』靖国の森に放置」に関してです。
今般、韓国の友人からこの記事の内容について知らされ、大変驚きました。
なぜなら、翻訳の関係か私の知り得た事と異なる部分や、
扇動的とも思われる表現が多かったからです。
無論、文化の違いもあるでしょうし、
韓国においてはこのような書き方が通例かもしれません。
しかし、このような一方的な書き方は日韓両国に無用の軋轢を惹起し、
結果としては日韓友好を大きく阻害する要因になると思い、筆を取った次第です。
しかし、単に感情的な抗議を行っても事は双方の利益となりません。
また、私の知りえなかった事を貴員が独自の調査で明らかにされた可能性もあります。
そこで、その記事の内容に関して質問をさせて頂きたく思います。

まず、翻訳や表現に関する問題です。
貴員の記事に「靖国の森に放置」という表現がありますが、
これは正殿の隣という神社の中心部分であり、
貴員も記事の中で指摘されているように、
明確な意思の下に移築したと靖国神社側は言っております。
故に、「放置」は妥当な表現とは言えないのではないでしょうか?
主観としてはともかく、事実と異なるわけですから、誤解を生むような表現は、
日韓友好の見地からしても適切とは言えないと思います。  
これは単なる翻訳上、あるいは文化の違いでしょうか?
29←◎  ◆TRICKHvHso :03/09/19 01:03 ID:+4i0yeBe
231 名前:zeong 投稿日:2003/09/18(木) 16:30 ID:+ofdom98
また、「密かに毀損する可能性も申し立てられて問題としている」とありますが、
そのような事を仰っているのは金晶東教授以外におられるのでしょうか?
さらに、教授のご意見は、靖国神社及び日本の歴史学界に対する暴言であると思います。
このような指摘に対する貴員のご意見を拝聴したいと思います。

さて、このような表現や翻訳の不備などに起因する問題はともかく、
事実関係に関しても若干の質問がございます。
私も「北関大捷碑」の件に関しては興味を持ち、調べております。
故に若干の知識を有しておりますが、貴員のお話との間に齟齬があります。
是非、以下の点に関してご教示頂き、私の蒙を啓いて下さいますようお願い致します。

靖国神社にある「北関大捷碑」の来歴に関するエッセイとしては、
崔書勉 「七十五年ぶりに確認された咸鏡道壬辰義兵大捷碑」(『韓』Vol.7-No.2、1978)
が夙に知られております。
このエッセイ中で、崔氏は石碑の来歴を示す資料を五つあげられており、
そのことは貴員もご存知であると思います。
一つは嘯海生なる学生の記した一文であり、一つは新聞記事、残り三つは学会誌の彙報。
この内、靖国神社へ石碑が移されたことを示すのは嘯海生の記した文章のみであり、
これには「距今六年前」に石碑が靖国神社に移置されたとあります。
崔氏はこの文章の出典文献は「明治四十二年(一九〇九)」(70頁)に比定しておられます。
従って、嘯海生の記した石碑は、
1903年以前に靖国神社に置かれたと見なすことができるでしょう。
他方、崔氏のあげられたその他の文献は、いずれも1905・1906年のものです。
それらによれば、石碑は1905年5月27日に朝鮮の海岸まで搬出され、
1905年10月28日に宇品に到着したとあります。
この石碑の文面は『考古界』(5-8、1906.2.11)にみえ、
これが今日「北関大捷碑」と呼称される石碑であることは間違いありません。
以上に明らかな通り、嘯海生の述べた靖国神社に移し置かれた石碑とは、
その時期からみて、今日言う所の「北関大捷碑」とは無関係の、
別の石碑であることは明らかです。
崔氏はこの点を看過したまま、エッセイを綴っておられます。
30←◎  ◆TRICKHvHso :03/09/19 01:04 ID:+4i0yeBe
232 名前:zeong 投稿日:2003/09/18(木) 16:31 ID:+ofdom98
さて、嘯海生の一文を「北関大捷碑」を論ずる埒外とすると、石碑の来歴に関しては、
残る四資料によらざるをえません。
ところが、これらの資料は、日本への招来のみを記すのみで、
靖国神社へ、何時・如何なる経緯で移されたかについては、一切述べられていません。
すなわち、「北関大捷碑」の靖国神社への来歴は、
現在、未詳のままということになります。

ところで、石碑が日本に招来される以前、
朝鮮半島ではどのような経緯があったのでしょうか。
崔氏の示された彙報によれば、「所在地の重立たるもの数十名」が
「遂に之を撤去して(池田)少将に譲与せしより」とあり、
日本の略奪ではなく、所在地住民の合意による譲与であると明示しております。
ちなみに崔氏は「この記事の内容の真偽を問うことは、今更意味があるとは思えない」(73頁)とし、
冷静に判断を留保する立場を取られております。

以上の如く、崔氏引用文献上から確認できる範囲では、
「北関大捷碑」は所在地住民の合意に基づき日本に移されたが、
その後、何時靖国神社に移されたかは明らかではありません。
しかし、近年崔氏のエッセイを論拠とした雑文が陸続する状況です。
これはかえって、崔氏の資料検討を軽んずる行為であると思います。
近年、北島万次氏は、論拠未詳ながら「日韓併合の直前、靖国神社へもたらされた」(『歴史学研究』639、1992)とし、靖国移置は1910年直前とされています
31←◎  ◆TRICKHvHso :03/09/19 01:04 ID:+4i0yeBe
233 名前:zeong 投稿日:2003/09/18(木) 16:32 ID:+ofdom98
しかしながら、貴員は「1905年大勝費を強奪して靖国神社に持っておいた」と記事に書かれております。
これはどのような史資料を根拠とされたものなのか、是非、お教えください。

日韓友好と貴社の益々のご発展、そして貴員のご健康とご多幸を祈念致しております。


                               敬具                                


                               ZEONG 拝
                                    

追伸  一週間経っても(9/25必着)この手紙に明確な反論がない場合、
    貴員が根拠のない、あるいは薄弱な記事をお書きになり、
    意図的に日韓友好を毀損するような報道を行っているものと判断します。
    また、私の手紙に対する御回答はインターネット開示させて頂きますので、
    この点をご了承頂きます様、お願い申し上げます。