【憤懣】情けないですよ!日本【在日駘蕩】

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483朝まで@名無しさん
半島にいった日本人の行いと、内地におしかけてきた朝鮮人の行いは全然ちがう。
半島は文明人により近代化されて職場が作り出され、内地は野蛮人により汚された。

「醜い韓国人」 朴泰赫 1993 光文社
日本人は、農村振興運動を進めた。日本統治時代以前の韓国の農村には、河川に堤防
もなかったし、水利組合も存在しなかったが、水利組合が結成されたために、河川地
域が整備されて堤防が建設され、それまで恒常的だった水害から、農地や農作可能な
土地を守ることができるようになって、新しい農地がつくられ、多くのところで稲作
が可能になった。この結果、日本人地主も増えた。また畜産が奨励され、日本人がつ
くった金融組合が、希望する農家ごとに子牛一頭を無料で与えてくれた。与えたとい
うよりは、貸したものだった。牛が成長して子牛が生まれたら、一頭を組合に返すと、
成長した親牛は、無償で農民のものとなるという制度だった。

日本人は植林と治水に力を注いだ。山を管理し、植林を進めるために、総督府は山監
(サンカン)という監督官を村に置いた。また村人が、植林した山に入ることを禁じた。

私の小学校の日本人教師や山林局に所属していた山監や若い農村教導師は、緑化につい
て情熱にあふれていた。真面目で、献身的な青年が多かった。日本統治時代には、その
せいではげ山だった山々が緑に覆われるようになった。農村教導師は、農村振興運動の
一環として農村の改革と生活改善のために、村から村へと巡回していた。

私が小学校に入学する前に、満州事変が起こり、やがて支那事変(日中戦争)に移って
いったので、村でも戦時色がしだいに感じられるようになっていった。私は、父親に違
れられて公会堂で農村教導師が講演をするのをたぴたび聴いた。名調子の演説が多かった
484   :03/09/05 22:17 ID:FWorSzC6
(中略)
あるいは金融組合による子牛を貸し出す制度についての講演会で、別の農村教導師が「夕
焼けほのぼのと燃えあがる空を背にして、牛を連れて家に帰る美しい姿を目にしたときに
は、感激の熱い涙が、ポタリポタリと落ちるのであります」と熱弁を振るった。

私の小学校時代には、日本統治がもう二十五年以上になっていたので、村の人々の大半が
日本語を聞いて理解することができた。そこで講話は、通訳なしに日本語で行なわれた。
人々は話に耳を傾けながら、しばしば韓国語で「ケンジャンハンラサム」(立派な人だな)とつぶやいたり、「ヨクシ、ヨクシ」(なるほど、なるほど)と相槌を打った。

また「カを合わせて朝鮮を蘇生させましょう!今日の朝鮮では、山川草木が空からくれた
天の恵みである雨水を貯え切れず、海に流してしまっています。ああ、もったいない、も
ったいない。そこで陸は、いつも旱魃に悩まされています。木がもっと山に生い繁れば、
天の息みの雨の40パーセントを、飲み水や、水田の水として、または地下水として貯え
ることができます。徹底的に山に木を蓄えようではありませんか。水は生命の源であり、
農耕の源なのです」といった話もあった。
485朝まで@名無しさん:03/09/05 22:17 ID:FWorSzC6
日韓併合以前の韓国の山々といえぱ、乱伐したり、燃料にしたりしたために、ほとんどが
はげ山だった。日本統治時代には植林が進んだので、多くの山々が緑に覆われるようにな
っていた。私の村の山にも草木が繁り、兎を追うことができた。しかし、独立後にまたか
って気ままに木を切るようになったので、はげ山に戻ってしまった。


日本人地主は、韓国人の小作人の間で、きわめて評判が良かった。日本人がやってきてか
ら、改良された堆肥を奨励したし、化学肥料が配給されるかたわら、改良品種や、進んだ
農業技術を導入したので、収穫が増えたし、農地開拓と河川整備を進めたので、村人の生
活水準が大きく向上したからだ。

それに日本人地主は、昔の両班たちよりもはるかに寛容だった。両班のように小作人(ソ
チクイン)である常人を理不尽に苛めるようなことがなかったし、不作のときには、小作
料を安くしてくれた。日本人地主のほうが、物わかりがよかった。だから、日本人の地主
は人気があった。みんなは、韓国人の地主の小作人となるよりは、日本人地主の小作人に
なりたがったのは、当然のことだった。日本人のもとで働いていた常人たちは、羨望の自
で見られていた。
486朝まで@名無しさん:03/09/05 22:18 ID:FWorSzC6
日本人が所有していた農地は、独立後に、「敵産」(チョクサン)としてすべて没収された。
しかし、日本人が今日の韓国農業の発展の基礎をつくったことは、否定できない。

私たちの村は、李朝時代にはいつも水害で悩まされていた。そこで農作が思うようにでき
なかった水田地域を、「べべーミ」(船が浮かぶような水田)と呼んでいた。しかし、1911
年(明治四十四年)、川に堤防が築かれたために、水害から逃れることができた。それか
らは「ベベーミ」という悪名のあった水田が一等級の水田に変わって、多収穫地として生
まれ変わった。この話は、私の父親がしてくれた話である。

母はいつも韓服を着ていた。しばしば李朝時代のころの生活がいかに苦しいものだったの
かを、話してくれた。村には五つの農業用水池があった。日本人が京釜線を敷くのにあた
って、池を掘って線路の盛り土をしたということを教えてくれたのも、母だった。

日本統治時代になってから、村の人々はまともな生活を営むことがでぎるようになったの
だった。私の村では、独立運動系の人々を除けぱ、ほとんどの村民が日本人を尊敬してい
たし、敬愛していたといってよかった。村の人々のあいだで「イルボンサラムン・キョン
ウカタルダ」(日本人は、事理に明るい〈すべて正しい〉)という言葉がよく交わされた。

それでも村の人々が、外国人である日本人に対して屈折した感情をいだいていたことも事
実だった。何といっても、韓国は外国の支配下にあったのだ。日本人のもとで働いたり、
日本人と結ぶことによって成功している者は、陰で「アブチェビ」(ゴマスリ)と呼ばれ
た。これにはたぶんに嫉妬心理も手伝っていただろう。