おまえら八月十五日靖国参拝しませんか?in'03-14

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42福田村事件(関東大震災虐殺は真実)
関東大震災の直後、デマが飛び交う首都周辺で、六千人を超える朝鮮人とともに、
六十人近い日本人が虐殺された。その中に、県人が含まれていたことは、あまり知られていない。
売薬行商で千葉を訪れていた女性や幼児を含む九十人が、自警団という名の普通の人々になぶられ、
利根川に沈められた。現場の地名を取って「福田村事件」という。彼らは、なぜ死ななければならなかったのか。
七十七年という時を経て、ようやく事の真相をただそうという組織が、千葉、香川両県で立ち上がった。今回は、
差別が生んだ悲劇と言われる同事件の過去と今を追う。

概要と経緯
惨劇は、大正十二年九月六日に起きた。関東大震災から六日目。一帯には戒厳令がしかれ、
「朝鮮人が井戸に毒を入れた」などという流言が飛び交っていた。  舞台は、千葉県東葛飾郡福田村(現野田市)。
香川からの売薬行商の一団が地元民に襲われ、女性、子供を含む五家族十五人のうち九人が惨殺された。
今なら香川側でも大騒ぎになる事件だが、歴史のやみに沈む。「福田村事件」だ。

●方言が発端
事件を掘り起こした元高校教諭石井雍大さんらの研究成果を基に、悲劇を再現すると―。  残暑が厳しい日だった。
荷車に薬や日用品を積み、幼児を乗せた一行が、福田村三ツ堀の利根川の渡し場に近い香取神社に着いたのは、
午前十時ごろ。
大人たちは、既に玉の汗をかいていた。渡し場まで後二百メートル。団長が渡し賃の交渉を終えるまで、
団員は休憩を取る。足の不自由な夫婦と一歳の乳児ら六人は、鳥居の元に腰を下ろし、ほかの九人は十五メートル
ほど離れた雑貨屋の前にいた。
この十五メートルの差が生死を分ける。渡し賃の交渉過程で異変が起きた。「言葉が変」「朝鮮人じゃないか」。
半鐘が鳴る。生存者の証言によると、駐在所の巡査を先頭に、自警団が「ウンカのごとく」集まったという。
「どこから来た」。一行は抗弁する。「四国から」「日本人じゃ」。言い訳するほど「聞き慣れぬ言葉」に不審が募る。
巡査が本署の指示を仰ぎに場を離れたのが悲劇の始まりだった。
鳥居組は「逃げ隠れしない。十分に調べて」という態度だったが、雑貨屋組は抵抗の姿勢を示したのだろう。
「やっちまえ」の怒号とともに惨劇の幕が開く。