おまえら八月十五日靖国参拝しませんか?in'03-14

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35平頂山虐殺事件
銃声とともに時間が止まった…1932年9月16日
撫順炭鉱(撫順市南部)では、日本人が中国人労働者を酷使して石炭を奪っていました。
1932年9月15日、抗日義勇軍がこの撫順炭鉱事務所を攻撃しました。これに対して日本軍は、
隣の平頂山村の住民が抗日軍に通じているとして皆殺しにする計画をたてたのです。
当時この村には400世帯3000人余りが住んでいました。大部分は貧しい炭鉱労働者とその家族です。
翌朝、トラックで乗りつけた日本兵は、村を包囲し住民を追いたててガケ下に集めた。そして、機関銃で
一斉に射殺。まだ息のある人を銃剣で刺し殺した。
数日後、ガソリンをまいて遺体を焼き、ダイナマイトでガケを爆破し埋めた。3000名の内生存者はわず
か30人たらずであった。

              【平頂山事件の生存者】
●父も母も祖父母も…みんな死んでしまいました。
ガケ下には大勢の人が集められていました。みんな不安気に肩を寄せあっていました。そのうち日本兵が
「匪族がせめてきているからお前たちを守るんだ」と大声で演説しました。
そのあとすぐ鉄砲の音が2発なると、機関銃の音がひびいたんです。すぐに妹に弾があたり血が噴きだし
ました。祖父にもあたり倒れました。泣き声や叫び声、機関銃の音が一緒になってそれはものすごい状態
でした。父が私に麦わら帽子をかぶせてくれたのを覚えています。
やがて銃の音がやみ、叫び声もしなくなり静かになりました。麦わら帽子のかげから様子を見ると、日本兵
たちが倒れた人たちの上にのぼり銃剣で突きまわっているんです。だんだん私の方へも近づいてきました。
私は息を殺して死んだようにしていました。すると日本兵の革靴が私の首すじに触れたんです。あの時のヒ
ヤッとした感じは今も忘れません。
どのくらい時間がたったのか、私は父の手をとって「お父さん!早く逃げよう!」と言いましたが、父は返事
をしません。首のところを見ると血がどんどん噴き出ているんです。妹も顔中血だらけにして母に抱かれてい
ました。私が「お母さん!お母さん!」と何度呼んでも返事をしてくれません。祖父母も返事をしてくれませんでした。
父も母も、妹も、祖父母も、みんな死んでしまいました。