おまえら八月十五日靖国参拝しませんか?in'03-14

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南京大虐殺についての質問に答えて
(1994 8 THIS IS 読売 闇に葬られた皇室の軍部批判ー支那事変
に対する日本人としての内省三笠宮崇仁)

三笠宮「最近の新聞などで議論されているのをみますと、なんだか人数
のことが問題になっているような気がします。辞典には、虐殺とはむごた
らしく殺すことと書いてあります。人数は関係はありません。
私が戦地で強いショックを受けたのは、ある青年将校から「新兵教育には、
生きている捕虜を目標にして銃剣術の練習をするのがいちばんよい。それ
で根性ができる」という話を聞いた時でした。それ以来、陸軍士官学校で
受けた教育とは一体何だったのかという懐疑に駆られました。
また、南京の総司令部では、満州にいた日本の部隊の実写映画を見まし
た。それには、広い野原に中国人の捕虜が、たぶん杭にくくりつけられて
おり、そこに毒ガス弾が発射されたりしていました。ほんとうに目を覆いた
くなる場面でした。これこそ虐殺以外の何ものでもないでしょう。
しかし、日本軍が昔からこんなだったのではありません。北京駐屯の岡村
寧次大将などは、その前から軍紀、軍律の乱れを心配され、四悪(強姦、
略奪、放火、殺人)厳禁ということを言われていました。私も北京に行って、
直接聞いたことがあります。−中略・ー」

1943年1月、若杉参謀の名で支那派遣軍参謀(大尉)として南京に派遣
された。現代人物事典には「軍規律の頽廃、捕虜虐殺の実態を見て批判
的な意見を述べるが、かん口令をしかれた」との記述がある。翌年少佐。
その後大本営陸軍参謀、機甲本部付、航空総軍参謀。
24 :03/07/15 01:06 ID:sqTDcqoA
さて、このスレは毎回激しい議論が交わされています。
主催者「青楓会」はハングル板の住人をオルグしようとしてるのではないか?
いや、「青楓会」こそ我等の偉大な先祖を日本人として敬う立派な人間だ。
賛否両論、百家争鳴、喧喧諤諤がこのすれの特徴です。

まずはこのスレで、靖国について学びましょう。
そして、自分の目で見て判断してください。

参加するにしても、しないにしても、全ては自己責任で。
25 :03/07/15 01:10 ID:HYfAPYra
★虐殺の村

「みんなが朝鮮人を殺している。行かない方がいいぞ」
敷香(ポロナイスク)に近い山間の村、上敷香(レオニドボ)。その手前に
広い川がある。そこにかかる橋のそばで、1人の日本人が卞徳万さんに
話しかけてきた。

終戦直後の8月18日だった。

卞さんは、隣町の仕事先から自宅へ帰るところだった。気になって恐る恐れ
る村の様子を見ると、上敷香警察署が燃えていた。慌てて逃げた。1カ月半
後、戻ってきたときには跡形もなかった。しかし、隣人でナガヤマと日本名を
名乗っていた同胞から、重大な証言を聞いた。

「警察にみんなが引っ張られていったんだ。日本人たちは最初、署内で俺た
ちを射殺しようとしたのさ。その後で火を放った。おれはけがをしたが、運良く
生き残り、遺体を積み重ねて天窓から逃げたんだ」
そのナガヤマと名乗っていた人は旧ソ連軍に虐殺の経過を証言後、北朝鮮
へ渡ったというが、その後の行方は定かではない。
この事件は91年8月、韓国・ソウル在住の主婦、金景順さん(68歳)が遺族
として東京地裁に賠償請求を提訴したほか、この虐殺事件を追跡調査した
林えいだい氏の「証言 樺太朝鮮人虐殺事件」(風媒社)によって詳しく紹介
されたこともあって、注目を集めた。
金さんの訴えによると日本の警察や憲兵が8月17日、「朝鮮人がソ連のス
パイをしている」として20人前後の人を上敷香署に連行し、翌18日、同署に
火を放ち、虐殺した。金さんは、事件の日、燃える警察署前で父と兄の助命
を訴えたが、「お前も殺すぞ」と脅され、遺体を確認できぬまま避難したという。
26 :03/07/15 01:10 ID:HYfAPYra
94年8月、当時もなおレオニドボに住んでいた卞さんを訪ねた。卞さんは、
現地では唯一の残留韓国人1世だった。
卞さんは、住宅地の外れにある空軍基地のコンクリート塀へと私を案内して
くれた。塀沿いの道が二股に分かれている草地の中に、小さな慰霊碑が立っ
ていた。金景順さんが92年9月、虐殺された父親の金慶白さん(当時53歳)
、兄の貞大さん(同18歳)をしのんで上敷香署の跡地に建てたものだ。
卞さんは、「あの時、金さんの父親と同じ目に私も遭っていたかもしれない…」
とつぶやいた。そして「私が教育を受けていたら、この事件の本を書くのだが」
とも。
既に事件発生から、半世紀を経て当時の名残をとどめるのは上敷香署の土台
の破片だけだった。雨がシトシトと降り続け、なんとも暗い空模様の下で「この
事件をこのまま風化させてよいのだろうか」と、やるせない思いにかられた。
95年7月、金景順さんの訴えは「賠償請求期限の20年を既に過ぎた」として
東京地裁に棄却されてしまった。納得できるはずもなく、金景順さん控訴した。
その5カ月後、金さんは連邦保安局に保管されていた資料から、上敷香事件
に関する旧ソ連軍の調査結果などを知ることができた。
事件に巻き込まれながら助かった申学淳さんの尋問調書によると、8月16日、
仲間6人と、金景順さんの父慶白さんの家で酒を飲んでいた時、日本の警察官
が来て全員スパイ容疑で上敷香署に連行された。署内にはほかに11人の朝鮮
人がいたが翌17日、2人ずつ呼び出されて銃殺が始まり、申さんも胸と足に銃
弾を受けたがどさくさに紛れて逃亡、その後同署から火の手が上がった。また、
事件から13日後に行われた現場検証では、手錠されたままの3人の遺体が見
つかるなど、18人の死体の具体的な状況が書かれていた。