日本語の読解能力が未だ形成途上の段階にあるので、すべての記事を吟味することは
できなかったが、辞書を引きながらも、概ね言わんとしていることは理解したつもりです。
中には我々の世代の、墓碑銘のことまで憂慮してくれる方があったようだが、
もし我々の世代が、子孫によって墓石に偉業を刻まれるとするならば、
「我々民族の文化的始祖」と言って栄誉を称えられることだろう。
よく日本人は同音異義語の問題を例に出して、いかに漢字を廃止することが不合理な
選択であるかのように説くことが多い。確かに世界中の他の言語を見ても、同音異義語に
よって文章の意味の把握が難しくなってしまうというのは言語として異常な事態であると
認識している。そこで、このような弊害を避けるために日本人は漢字によって同音異義語
の意味を確定していく道を選んだ。すると、日本人の言語処理の過程は、耳に入ってきた
生の音声を脳内で漢字に変換して、それでようやく正確な文意の把握を図るということに
なる。あたかもワープロに入力されたひらがなを辞書機能によって変換するときの過程と
全く同じことを各々の脳内で常に行っているのである。こういう方法を合理的な言語処理法
と言えるのかはひとまずは差し置くにしても、我々はこのような日本人と同じ思考様式に
よって言語処理を行っていこうとは考えていないのである。確かに、例えば、同音異義語に
よって文意の把握が遮られるというのならば、それは日本人のように脳内で漢字に変換して
意味の確定を図っていくというのもひとつの手であろう。だが同時に別の手段として、
その言葉と同様の意を表す他の言葉に置き換えていくことによって文意の正確さを得るという
方法も考えることができる。我々が目指そうというのまさにこの後者の手段なのである。
このような言葉の置き換えという努力の過程の中で、我々は徐々に固有の言葉というものを
広げていくことができる。固有の言葉を広げることによって、我々は、これまでのような
他の民族によって、自民族の文化的命運が左右されるという依存的不安定的な境遇から
免れて、自民族による新しい自立的安定的で強固な文化を築き上げていくことができる。
こういう努力によって作り上げられていった文化は、今後、他の民族によって異なった文化が
我々民族にもたらされたとしても、そのような外来の文化に屈することなく、強く堪え忍んで
後世にまで伝え遺すことができる生命力を持つことができる。我々は何としても、この崇高な
試みを成功させたいのだ。そして、我々民族が世界に冠たる自立した一個の民族として永久に
繁栄していける基礎を築きたいのだ。我々世代が総力を挙げてこれから試みようとする文化の
土台作りは後世の世代に多くの恩恵をもたらしこそすれ、決して不肖と蔑まれ、亡族の輩と
罵られて祖先の眠る霊廟から我々世代の御霊のみが分かたれて葬られるということはないはずだ。
もう一度言う。我々世代の墓碑銘は「我々民族の文化的始祖」だ。