1 :
徳川吉宗:
朝鮮通信使は朝貢だと思っていたが・・。
根拠を示して反論してくれ。
2 :
チョン殺せ:02/07/08 05:22 ID:wFGahu3K
お前がまず「朝鮮通信使は朝貢」の根拠を示せば?
3 :
:02/07/08 05:52 ID:7+IwurYv
将軍の代替わり毎にご機嫌伺いに来る琉球使節と朝鮮通信使は、朝貢の一形態
といえような。
ところで清朝の宮廷席次では、琉球王>>朝鮮王だったって話をどこかで
読んだけど本当?
4 :
000:02/07/08 06:24 ID:kft+DFUK
一種の参勤交代だセヨ
5 :
000:02/07/08 06:29 ID:kft+DFUK
ただし
その形式そのものは中国に
していた朝貢となんら変わらんな
6 :
:02/07/08 07:04 ID:mi2zDiVl
金仁謙著の「日東荘遊歌」(東洋文庫、定価3100円)
(大阪港の感想)
「その昔、桜船で下る王濬(おうしゅん)が益州を称えた詩があるが
ここに比べてみれば間違いなく見劣りするであろう」
「倭の十一隻の金の桜船が命を受けて迎えに来ていた・・・
その豪華絢爛 万古に例を見ない見事さである」
(大阪の感想)
「三神山の金闕銀台とは まことこの地のことであろう」
「人家が塀や軒をつらね その賑わいの程は我が国の錘絽(ソウルの繁華街)
の万倍も上である」「我が国の都城の内は実際には一里に及ばない・・・
(大阪は)ほぼ十里と言われる土地は全て利用され・・・」
「北京を見たという訳官が一行に加わっているが かの中原の壮麗さも
この地には及ばないという」
(淀城の水汲み水車の感想)
「その仕組みの巧妙さ見習って作りたいくらいだ」
(京都にて)
「人々の富める様は大阪には及ばないが都の西から東までの距離は
三里に及ぶという」「惜しんで余りあることは この豊かな金城湯池が
倭人の所有するところとなり 帝だ皇だと称し子々孫々に伝えられていることである
この犬にも等しい輩を 皆ことごとく掃討し四百里六十州を 朝鮮の国土とし
朝鮮王の徳をもって 礼節の国にしたいものだ」
(名古屋の感想)
「山川広闊にして 人口の多さ 田地の肥沃 家々の贅沢なつくり
遠路随一といえる中原にも見あたらないであろう 朝鮮の三京も大層立派であるが
この地に比べれば寂しい限りである」
(江戸の感想)
「楼閣屋敷の贅沢な造り 人々の賑わい 男女の華やかさ 城郭の整然たる様
橋や船にいたるまで大阪、西京(京都)より三倍は勝って見える」
7 :
000:02/07/08 07:17 ID:kft+DFUK
そもそもその目的は、幕府が諸大名に幕府の威光をしめすために
わざわざその渡航費用までだしてやって将軍の代替わりの御披露
にあわせて呼び寄せていたんだよ
そのやりかたは中国の朝貢となんら変らないないんだよ
他の諸大名は自腹で参勤交代やっていたのにね
ただし諸大名の参勤交代と違って道すがらあの下ーに下ーに
はやって無かったようで庶民は普通に応対していたようだね。
8 :
000:02/07/08 08:53 ID:kft+DFUK
ただし中国と日本の朝貢の違いは中国はアガシ数1千名を
貢物として要求しチョンはそれに答えていたが
日本はアガシの要求はしなかったということ
当然、チョンは中国に対して精神的にも奴隷国の存在
だったということだが
9 :
通りすがい:02/07/08 09:10 ID:KWofXJJz
>>1 ちょうこう【朝貢】
―する
外国人がやって来て、その国の君主にみつぎ物を奉ること。
間違ってないぞ。
10 :
000:02/07/08 09:20 ID:kft+DFUK
中国の場合は、いざとなればその貢物は
肉饅頭に変ることもあったと思うが
日本の場合は負担になると思い要求
しなかったんだと思う
11 :
:02/07/08 09:22 ID:li1SPXsW
支那に送るODAは、倭の朝貢と向こうは解釈しています。
12 :
000:02/07/08 09:30 ID:kft+DFUK
11>>
ただ金銭(渡航費用)は日本もシナもチョン
に払っていたんだよ。
チョンの金は使い物にならないしね
(偽者ばかりでチョンの貨幣は価値がなかった)、
13 :
:02/07/08 10:39 ID:xqSdWNwp
韓国がらみの歴史関係の本をパラパラ眺めてると、朝鮮通信使のところで必ずと
いっていいほど「通信使が朝貢関係かのように受け止められてはならない。
これはあくまでも友好使節であって挑戦の文化を日本人に伝えていたのだ・・・」
というふうに書かれているんだが、これは正しいの?
14 :
000:02/07/08 10:56 ID:kft+DFUK
朝鮮通信使=使い=パシリ
ということだと思うが
15 :
:02/07/08 10:57 ID:foA5LhUT
文化はともかく、軍事的には、朝鮮にとって日本は脅威だったはず。
16 :
:02/07/08 10:59 ID:xKqFrA+G
>>13 そんな注釈を入れなきゃいけないほど、朝貢に酷似してたんじゃない?
17 :
000:02/07/08 11:00 ID:kft+DFUK
確かにチョンには半万年のすばらしい
土民文化があったセヨ
18 :
:02/07/08 11:02 ID:+iALq4JG
朝鮮の語源は貢物少なし。 ソースは諸君!の5月号くらい
19 :
:02/07/08 11:16 ID:8/NhEzPF
今の韓国側の立場では「冊封使」と主張してるね。
対等な友好使節というものから一歩踏み込んでる。
「源何某を日本国大君に封ず」みたいな・・アホかと。
貢物シコシコ運んでくる「冊封使」(藁
20 :
000:02/07/08 11:22 ID:kft+DFUK
そもそも朝貢とは朝廷に貢ぐことだろ
天皇陛下に貢げば朝貢だが
将軍(国外、欧米では大君)に貢いだ
訳だからその形式は同じでも朝貢とは言わないでしょう
だから位の序列を言うと
天皇陛下>>>>>>>将軍>>>>>>>>李氏朝鮮王
となりますな
21 :
、:02/07/08 12:00 ID:ldVvI4GZ
確か対馬藩の宗家が書簡を偽造していたため両国の認識が異なっていたらしい
22 :
:02/07/08 12:30 ID:Qarerap8
新井白石が、あまりに儀礼が煩雑なのと無駄に金がかかるので、簡素化したらしい。
朝鮮は例によって、前例をたてに大反対したが、学識豊かな白石に論破された。
吉宗の代になったら全て元に戻された。
日東壮遊歌の中身を読むと朝鮮人は、文句ばかり言っていて今の韓国人となんら変わらない。
23 :
:02/07/08 16:21 ID:YGJDCjQA
>>22 参勤交代への影響を危惧したんじゃないの?
連鎖的に簡素化→なし崩し的に廃止、みたいに。
24 :
>3:02/07/08 18:36 ID:Sk8cgFBy
当職も琉球王>>朝鮮王は読んだことが有る。中国の属国リストにでも記載されているのだろう。
ソースはたくさんありそうだ。
ところで、漢委那国王(漢字が違っていたらスマソ。倭か?)は金印であったが、(中国は何でも属国にしたがる、タイ、ベトナムも属国と理解していたようだが一方的に、)
朝鮮はたしか銀印しかもらってなかったと思う。李朝のときでさえ銀印だったような。
どうでもいいことだが。
要約すれば、倭国は遠いし、海有るし、属国にしたいけど、向こうは熱心でないし、とりあえず金印でも授けるか。
朝鮮は熱心に擦り寄ってくるから、銀でいいやだ。貢物よこせ、って感じかな。というか大唐国新羅郡だね。
25 :
徳川吉宗:02/07/08 20:20 ID:Sk8cgFBy
昆陽ト忠相ヲ之へ。
朝鮮国は清国ノ属国ナルカ日本国の属国ナルカ可調以目安箱。
26 :
000:02/07/08 23:04 ID:+wY1B7dn
なにも言えないチョンというのも哀れだね
27 :
:02/07/09 02:12 ID:Tv20jyW0
>>22 そうそう。それで、新井にグチグチ文句垂れてた売国学者が対馬の
雨森芳洲。ノ・テウ前大統領が国会演説で取り上げてから日韓友好
を推進した「進歩的」(ワラ 学者に格上げ。
そういう意味では、雨森芳洲は今でも朝日やフジテレビみたいなエ
セ友好家の先駆けとなってるわけだから十分進歩的いえる。
朝貢外交も友好使節に違いないが、どちらが先に使節を送るかということも大事だ。
1朝鮮→幕府、幕府→朝鮮
2幕府→朝鮮、朝鮮→幕府
1と2を交代で繰り返してたら対等だったといえるが
いつも先に使節を送るのが朝鮮で幕府は専ら答礼だけなら、朝貢外
交の朝貢使と冊封使の関係だな。
28 :
:02/07/09 02:22 ID:visbrYdi
>>27 >>27 雨森は特に賣国学者というわけでもないよ。
少なくとも、朝鮮>日本などということは一度も言っていない。
対等であるべき、と唱えたことが日本>朝鮮が当然の認識だった
幕府において顰蹙を買った、ということなんだよ。
まともな時代だったんだねぇ(w
29 :
:02/07/09 17:15 ID:eWXKiIzF
age
30 :
名無しさん:02/07/09 21:14 ID:2HH7PmwM
31 :
:02/07/10 01:38 ID:ZZbnSjZ+
age
32 :
:02/07/10 01:51 ID:2wgj6/bN
朝貢です
33 :
:02/07/10 03:47 ID:s7+3Qzvp
厳密にいうなら、朝鮮が日本の属国だったわけではないし、朝幕ともに朝鮮国を属国だと
みなしていたとは思えない。
ただ日本国−上位 朝鮮国−下位 という序列を徹底して示したと言えるだろう。
まあ、李朝はすでに明・清の冊封下にあったわけだから、明・清朝と正式国交のない日本
(朝幕とも)がそんな国と「対等」外交するはずないんだけどね。
したら日本は明・清朝の下位国だと自分で言っているようなもんじゃん(w
34 :
はぽねす:02/07/10 03:56 ID:Xs8Qnqv+
35 :
__:02/07/10 04:14 ID:0+Yo1cBl
>>34 地域は忘れてしまいましたが、以前「からびとおどり」について
保存会のお爺さんが「からびととは、朝鮮人のことだけではなく
外国人全般を指したものです」と言っていました。
36 :
はぽねす:02/07/10 04:16 ID:Xs8Qnqv+
>>35 唐人の意味自体はね。
ただ、唐人踊りは朝鮮通信使を模したもの。当時の人々が朝鮮からやってきた人間を
どれだけ尊敬していたかよく分かりますね(笑)。
37 :
7743:02/07/10 04:19 ID:Dh/ESKIv
朝鮮通信使は、日本に文化伝授の役割を果たしていたと言ってたぞ。
朝日テレビだけどな。
38 :
:02/07/10 04:35 ID:1UoEfW6i
「オマエ、唐人か?」
日本語の分からない外国人、から転じて
馬鹿の意で使う。年配者に使うと危険。
39 :
:02/07/10 04:40 ID:wobBm8do
>>34,36
いやぁ、通信使はいい文化を伝えてくれてたんですね。
江戸時代の人は、本質を見抜く目を持っていたようで(笑)
李氏朝鮮で絵の名手と言われていた人の作品を見たことが
ありますが、唐人踊りに通じる画風の絵でした。
漫画みたいで愛嬌のある絵ではあったけれど、芸術性は
まったく無かった。
40 :
揚げ屋:02/07/11 17:25 ID:Rr72Yqh0
定期あげ
41 :
アンチ デンパ民族1:02/07/11 23:31 ID:7BzkbA4Z
要は昔の大阪、名古屋、東京をみてすばらしい街であるが、これが倭人の所有
する街とは信じられない、勿体無い、我々のものにできれば如何にすばらしい
ことか!と言っている訳ですが倭人を酷く下等な民族として見ているのに
その下等な民族が作った街、文化はすばらしいと非常に矛盾した事を言って
いるんです!大昔から朝鮮の人々は矛盾した考えを少しの疑問をもたず受け
入れる事ができた民族だった事が分かる。
当時朝鮮は李氏朝鮮時代の中期で中国の清の属国として従属する立場にあり、事
大主義の朝鮮人たちにとっての中国は彼らの中では絶対的な存在をしめていたと
思われますが、その中国が倭と馬鹿にしていた民族ですので、街、文化は素晴ら
しいと思うがそれを作り上げた民族に関しては下等であると信じざる得なかった
のだと思います。しかし我々日本人であればすぐに街、文化=民族となるので
それが素晴らしい物で自分たちより勝るものであるならば、それを作り上げた
プロセスや技術、それに民族に興味が湧いてそれを真似しようとするでしょうね!
実際それが幕末〜明治における文明開化、脱亜入欧だった訳ですから。
彼等朝鮮人の精神病理の根源は、ずばり中国や他国による属国の歴史が長い
ということに尽きます!その歴史のお陰で自国独自の文化も、武道も、アイデ
ィンテティーも自信も、国の長期的な展望も育たなかったと言うことです。
そして中国の意に添わぬ考えや思想は民族の滅亡へとつながります。続く
42 :
アンチ デンパ民族1:02/07/11 23:33 ID:7BzkbA4Z
我々は韓国の事を事大主義と馬鹿にしますが、彼らにとって強大な中国や
ロシアを間近に接する彼らにとってほかに選択肢は無かったのかもし知れ
ません。朝鮮人の古い諺にお「お上が黒といえば白い物も黒い」と言う意味の
諺があるそうですがその諺がいかにも矛盾を孕んだ言葉ではないでしょうか?
韓国は事大主義、矛盾、自己矛盾は言い方は悪いか知れないが、彼らの一つの
形を変えた文化の一種ではないかと思います。ただ我々からみれば精神病に
見えてしまいますが、抑圧された者はそのストレスを解き放とうとする時
自分より弱者にぶつけます。そして強者に対しては認めてもらいたくて
もがき苦しみます。そんな周辺環境でいろんな矛盾に対して自ら思考を停止する
事で自我の崩壊を防いできたのでしょう! 結果として我々日本人とは姿
形は似ているけれど思考パターンは似て似つかぬものへと変貌を遂げたと
思われます。 つくづく可愛そうな民族です。
43 :
:02/07/11 23:41 ID:VK+KgVYp
朝鮮通信使はかの国伝統のたかりでしょ
定期あげ
45 :
_:02/07/12 02:08 ID:Jf58fEyA
「日本の都市がうちのだったらよかったのに」的発言は
通信使が保身に気を使った結果じゃないのかと思う。
「あいつ日本人と仲良くしてたニダ!」対策。
46 :
:02/07/12 04:13 ID:LBlpR0ax
>>41-42の視点で見ると今は日本に事大してる事になるのかな?
法律等はそのままコピー、主要産業も日本の真似、サブカル系も追っかけて来る。
建前上日本を否定しているが、日本で認められた物は割とすんなりと受け入れている。
また、熱烈に日本に認められる事を求めてもいるように感じられる。
自慢のITにしろ日本に誉められたから有頂天になってるのかも(笑
47 :
あげ:02/07/13 03:07 ID:YdbC+8gB
あげ
48 :
:02/07/15 03:34 ID:eY+3bAUx
朝鮮通信士総合スレッドage
49 :
:02/07/15 03:51 ID:XMuiBPTL
age
50 :
:02/07/16 21:52 ID:5vXENaCI
age
51 :
000:02/07/16 22:47 ID:XPCSgkB1
朝鮮民族長年の夢、民族統一(天下統一)
将軍さまは金正日ニダ
故に将軍さまは一番偉いのです
時の将軍徳川3大名です
52 :
:02/07/17 14:46 ID:T6sAdOIt
age
53 :
:02/07/17 14:54 ID:ZPIfVr/z
このスレ見るまで朝鮮通信使なんぞずっと忘れてたYO
つーか、「通信士」しか変換できないんですが
54 :
:02/07/17 17:21 ID:WiMa1zqQ
そう、忘れた頃にageられる通信士(w
55 :
:02/07/18 22:14 ID:cdn4s6uq
自分的に朝鮮通信使は朝貢の使節ではないと思うのれす。
国交の回復を働きかけたのは専ら徳川家康なのです。
しかし日本により甚大な被害をうけた朝鮮の国王はそれを信じず家康からの熱いラブコールを幾度となく
拒否していたのです。
大戦後の緊張感バリバリです。朝鮮は日本と仲良くする気などなかったのです。
両国の国交回復は1607年になります。
1609年には己酉条約が結ばれ貿易も始まりますた。しかしこれは朝鮮側の積極的な国交樹立の意思ではありません。
当時、海西、建洲では女真が勃興しはじめていたのです。
明は朝鮮の出兵により遼東に目を配る余裕を失い、且つ多くの士卒を失っていました。
この北方の脅威を抱える中で朝鮮は南方の緊張関係を自力の外交で修復する必要性があったのでふ。
56 :
:02/07/18 22:39 ID:cdn4s6uq
江戸時代のすべての期間を通じて幕朝関係はとても良好で、通信使は親善大使的な役割しか
見えてきませんが、万が一に備えての偵察も彼らの重大な任務だったと思います。
朝鮮出兵の前、朝鮮の文官が国力を偵察しに来ましたが、
通信使も人口、都市、武器、軍馬に関心を抱いています。江戸までの長い道のりをよく観察しています。
将軍への謁見も親善の名目以外にも戦略的に新しい指導者、首脳陣の諜報が重視されていたのではないでしょうか?
一方、日本からの使者は首都はおろか釜山の倭人館で停められ、それ以上国内に入ることを許されることはありませんでした。
>>56 豊臣秀吉の人も見抜けなかったり、日本を見てデムパな感想を残す連中では
何人来ても無駄と言うもの。
ついでに。幕府ご禁制の密貿易である「抜け荷」だけど、これ、いくら
近いと言っても魅力的な商品がない朝鮮相手には行われていないのだよ。
必ず、中国へ直接、あるいは中國経由の南蛮品。
どうしてだろうね。
59 :
:02/07/18 22:56 ID:cdn4s6uq
>>57 確かね、副使の人は日本は侵略するって報告してたんよ。
でも正使が「来るわけないだろゴルァ」って・・・・・・
60 :
好事家:02/07/19 14:20 ID:7rQUbBso
定期age
61 :
_:02/07/19 14:25 ID:X2YcRsXx
「ご禁制の朝鮮キムチを高値で売ったあとの利益はお代官様と山分けという事で」
「金智屋よ、そちも悪よのう」
62 :
:02/07/19 14:31 ID:NahNeGMD
韓国の方には資料は残ってないのでしょうか?
63 :
:02/07/19 17:02 ID:pJu123ax
琉球使節の正装って美しいものだったそうだけど、
幕府に「李朝さんみたいに奇異で面白い格好してくれないと、
異国の朝貢使節団てイメージ湧かないんだよね。
それに李朝みたいにアホな格好してくれないと民衆の見世物にならなくて、
目立たないでしょ。そこんとこヨロシコ」
と言われて琉球の正装とは違う珍妙な格好で行列させられたそうだ。
李朝に非は無いが、琉球可哀相…。
李朝の装束については、秀吉の時代(開戦直前の李朝の使節)から、
公家の日記に「変な格好」って思いっきり書かれちゃってるんだよね。
定期age
65 :
:02/07/21 00:48 ID:EwnR9EIN
>>13&
>>55 韓国人の学者?と
>>55は、朝貢と冊封を勘違いしてる可能性が大。
朝貢は、力関係上仕方なく一方が一方を立てつつ行う外交。下の国
が献上して、上の国がより多くのお返しする。ただそれだけ。
冊封は、力のある国の影響力を利用して国内をまとめる、要するに
上から下に役職を与えてるわけね。
>>19 確かに。朝貢であれ冊封であれ、下の国がから上の国に使節を派遣
するわけだからね。
>>21 それは、李氏朝鮮が中国の配下にあって、中国と日本の二つに同時
に仕えるわけにはいかなかったから。
>>24 那→奴だったと思う。
ちなみに金印は、日本と大月氏にしか与えていない。
>>33 だから、
>>21の対馬の宗氏の誤魔化しがあったわけ。
66 :
:02/07/21 01:10 ID:ZUrn7CV2
対馬は日本軍撤退から3ヶ月か6ヶ月後には使者を派遣していますな。
家康が積極的に動いたのは幕府の正当性を内外に示すためと、
明との正式な貿易の斡旋をしてもらうため。
67 :
55,56れす:02/07/21 08:06 ID:YHwE1Lc6
>>65 朝鮮側は過去に一度も臣下の礼をとったことはないし、
政治体制にしても日本の政令の影響を受けることはなかったのれす。
通信使もなんらかしらの物を幕府に献上していたわけですからその行為自体を「朝貢」といえば「朝貢」
なのですが、
1の言う「朝貢」は国家間の主従の有無を問うものだと思いましたので、それに対して
そうではないし、
付け足しとして、もっと多角的な要素を含んでいたということを言いたかったのれす。
だって朝鮮側は日本の首都までの情報を集めていたのに対して、自分の国の情報はずーと秘匿し続けた
んれすよ?修交の経緯からいっても戦略的な要素が満載です。
朝鮮に(日本)侵略の意気地があったかどうかわかりませんが、
王国の南方の安全を保障するのに(外交的にも軍事的にも)情報は多いいに越したことはありません。
倭乱の惨禍こそ彼らにとって最も記憶に新しく、且つ悲惨な体験でした。
王国の安全を背負う。
現代の私たちが考える以上に通信使達の役割や目的は大きかったはずなのれす。
68 :
:02/07/21 09:13 ID:XWjgDJEd
>>65 冊封使は上の国が下の国へ派遣するんでは?
確か琉球へは中国の冊封使が来て琉球王朝は最大級にもてなしをしてるはず。
だから韓国は朝鮮通信使は冊封使だと言ってるんでは?
69 :
55,56れす:02/07/21 09:38 ID:YHwE1Lc6
>>66 家康が積極的に動いたのは幕府の正当性を内外に示すためと、
明との正式な貿易の斡旋をしてもらうため。
なるほろ、幕府の威厳を諸侯に示すとか日本側にも様々な動機がありますね。
70 :
66ッス:02/07/21 11:00 ID:MwS/M8U9
琉球にも斡旋を要請していますね。
加藤清正も明に使者を派遣していたと思います。
全て失敗していますが明からの貿易船が再び来航するようになったので、
問題はなかったんだと思います。
71 :
age:02/07/21 21:19 ID:zwe04HSy
age
72 :
:02/07/22 16:51 ID:hktIcEdw
>韓国は朝鮮通信使は冊封使だと言ってるんでは
朝鮮通信使は「新将軍就任」をお祝いするためにやってきたんだよね。
なんでこれが冊封使になっちゃうの?
まさか李朝が新将軍を任命していたとでも(以下略
朝貢冊封体制化で建前上同格扱いだった室町期、
李氏朝鮮は対馬を倭寇基地撃滅を名目に対馬侵攻を行ったが、
「これに怒った将軍義持が朝鮮に討伐軍を送るらしい」という
噂が流れると、李朝は慌てて弁明(謝罪だな)のための使節団を日本に送り込んでいる。
つまり王朝創立30年ほどでまだ十分に力のあった李氏朝鮮と、
国内統一のままならない室町幕府でもこれほどの歴然とした力の差が存在していたわけで
室町幕府と比較にならない、政治、経済、軍事力をもった徳川幕府に対し、
更に力の衰えた李氏朝鮮が冊封使を送るなんてのは、
いかに非現実の世界に生きていた李朝の王族・両班でも思っていなかったのでは。
73 :
TTB:02/07/22 20:38 ID:meeuOfAC
>>65 朝鮮通信使が幕府への朝貢使節だったという解釈は可能だが、
朝鮮通信使が幕府への冊封使だったなんて解釈は成り立ちようがないよw
朝廷からの勅使は、将軍の上座から勅旨を伝える。
それ以外は、将軍と勅使は同格もしくは将軍>勅使で対面、
幕末には勅使が上座に座り、勅使>将軍という形になった。
もし朝鮮通信使が幕府にとって冊封使なら、上と同じような形になるはずだが、
果たして朝鮮通信使の正使は上段の間の上段に上がれたのだろうか?
74 :
73は:02/07/22 20:41 ID:meeuOfAC
75 :
名無しさん:02/07/22 20:45 ID:j7D5/D+U
>>72 義時の時代の話ソースキボンヌ
自分で調べてみたい。
76 :
名無しさん:02/07/22 20:45 ID:j7D5/D+U
義時じゃなくて義持だった。
77 :
:02/07/22 22:27 ID:Bi7IHp38
68は客観的に韓国人の主張の論拠をわかりやすく説明しているだけで
68自身の解釈ではないような・・・。
78 :
:02/07/22 23:09 ID:bhNXcVCB
「冊封⇔朝貢」の関係を
「奉公⇔御恩」と勘違いしてる人がいるような…
79 :
:02/07/23 00:51 ID:qR3eTY8O
>>65 だから、
>>21の対馬の宗氏の誤魔化しがあったわけ。
沈惟敬との国書偽造事件は文禄・慶長の役で朝鮮通信使とは関係がないと思うんですが。
しかも交渉相手が明だし。
80 :
定期揚屋:02/07/23 00:54 ID:7kqdNK2F
定期age
81 :
定期揚屋:02/07/23 10:29 ID:TosIEOMd
定期age
82 :
:02/07/23 10:51 ID:ZAkSsh37
対馬の宗氏が、前だか後だかに、密かに家来を日本の特使として釜山に派遣して
朝鮮国王を奉じる儀式をやっていたらしいね。
前、放送大学かなんかで見た。
83 :
:02/07/24 12:37 ID:F6fNSpap
御恩と奉公って軍役とかが関係してくるから全然違うのでは?
84 :
:02/07/24 17:27 ID:0HiLCEvd
age
85 :
れすれす:02/07/25 00:30 ID:LFcIVu7g
>>59 >>57 確かね、副使の人は日本は侵略するって報告してたんよ。
でも正使が「来るわけないだろゴルァ」って・・・・・・
侵略の可能性を肯定したのは正使の方なのれす。
これは1590年に秀吉に謁見した使者で、帰国後、朝鮮王への復命で正使の黄允吉は「秀吉は小さく、顔は浅黒で
容姿はこれといって異表はないが、人を射るように眼光は鋭く、胆力もあるようにみえる。
必ずや侵攻してくるだろう。」との進言に対し、
副使の金誠一は「秀吉の目は鼠のようで少しも恐れることはない。」と報告したのれす。
朝鮮王国は当時は西人派と東人派の派閥抗争が繰り広げられており、抗争の結果、副使側が所属していた
東人派の勝利により副使の倭は恐れに足らずとの見解が採用されたのれす。
86 :
:02/07/25 11:39 ID:y3aVE2fG
定期age
87 :
:02/07/26 07:25 ID:5P9cyHHX
age
88 :
:02/07/26 07:38 ID:c4E7i7Cy
東アジアには3つの独立した国があった。
中国、インド、日本。他の国は、3国の内国か、属国である。
インドは、インド皇帝の下に藩王(内国)が存在し、中国にも階層構造を
持っていた。日本も、天皇の下に将軍をおき、さらに大名(藩=内国)が
存在していた。
日本の内国「薩摩」の属国に琉球王国があったが、琉球王国はさらに、
中国(清)の属国であった。
また、朝鮮も中国の属国であると同時に、日本の属国であった。
独立国は、皇帝が存在し、下に王を置くものだ。
89 :
れすれす:02/07/27 01:34 ID:vufbbAz+
あまり知りませんでしたが、朝鮮通信使は15世紀初頭からすでに盛んだったようレスね。
高麗は元に服属し日本を攻め、倭寇は復讐を果たすかのように高麗を荒らし、高麗人を連れ去りますた。
両国関係が険悪だった時代れす。
やがて朝鮮では李氏が、日本では室町幕府が成立し共に明の冊封下にはいると明の冊封国同士を前提として
対等の関係で外交がスタートしまふ。
李朝は王国成立当初から倭寇の取り締まりと国人返還を求め、交渉の使者を派遣し続け、日本からも1404年に
足利義満が「日本国王源道義」と称してこれに答えたのがきっかけですた。
回礼使や通信使が李朝から室町幕府に派遣され、その後日本は明の冊封体制から抜け出ますが
両国の国交は継続し、その関係はなんと足利義昭(信長に追放されたヤシ)の代まで続きまふた。
90 :
保守:02/07/27 14:40 ID:oh+yAp2K
age
91 :
れすれす:02/07/27 21:40 ID:efyWwEcg
蛇足れすが、
日本が明の冊封下にはいり、東アジアの国際秩序に加わる機会は義満以前にもありましたが、
日本が南北朝の混乱期にあったことと、明の太祖からの通交の要請を当時大宰府を占領していた
征西将軍、宮懐良親王が拒絶したことにより実現していなかったのれす。
しかしさすが皇族れすね。
異朝に屈するを潔しとしなかったのでしょう。しかし皇族とはいえ一地方の太守に過ぎないのに国書を・・・
李朝と室町幕府との国交は活発で日本からの李朝に派遣された使者はのべ60回にわたりましたが、李朝が派遣した通信使は
応仁の乱が日本で起こったために廃止され、通信使はわずか50年の期間で回数は5回。
しかも渡海に成功したのはたったの3回でふた。
しかし報ヘイ使や回礼使も含めれば李朝からの使者の訪問回数はもう少し多くなりまふ。
92 :
れすれす:02/07/27 23:14 ID:efyWwEcg
この時代、日本は仏典の需要は信じられないほど高く、その多くを朝鮮から得ていまふた。
室町幕府が国交を修交するまえからも北九州の有力大名達が独自に倭寇を取り締まったり、連れ去られた李氏(高麗)の
国民を送還したり、剣などの方物を献上したりし、その見返りとして仏典を求めていますた。
その最初の大名は筑州太守守蔵忠住が被虜人民を帰したことに始まりまふ。1392年のことです。
1394年に九州探題の今川了俊が被虜人659人を送還し、翌年に朝鮮からの回礼使に「両蔵経」の舶載にたいして
礼を述べまふた。
大内義弘も翌年に禁賊と被虜人民の送還を約したさい大蔵経を求め、この後も再三大蔵経を求めますた。
さらにこの後も渋川道鎮などが経典を求め、
この時期50本もの大蔵経が日本に持ち込まれまれたのれす。
室町幕府と国交が結ばれた後でもこれは変わらず足利家は経典を献上され続けました。
93 :
:02/07/28 01:08 ID:j9LmJj12
>>91-92 経済史で習ったけど、当時の日本は銅や硫黄といった鉱物資源の産出国で、
毎年莫大な量の鉱物が大陸に輸出されていたらしい。
朝鮮からは木綿などが大量に輸入されていたらしく、国産化の必要もなかった。
現在では信じられないことだけど、本当に豊かな資源国だったんだね。
「大蔵経」も版木製作の手間を考えれば、朝鮮から輸入した方が遥かにコスト安
だったんだろう。でも、上の書き込みを読む限り、「強奪」のイメージも少々・・
94 :
:02/07/28 01:23 ID:tvt+lLbL
>>88 > また、朝鮮も中国の属国であると同時に、日本の属国であった。
ソース有る??
95 :
れすれす:02/07/28 04:38 ID:YcqzTpyt
>>93 そうれすね。日本も昔は資源国・・・シクシク。
当時の両国の献上品にもその特徴がみられますね。
日本・・・扇子、槍、刀剣、漆器木椀、盆類の工芸品、練緯絹、銅、赤銅、
生脳、胡椒、甘草、丹木、沈香、象。
李氏・・・黒細麻布、白細苧布、綿(糸由)、花度類、人参、松子、清蜜、斜皮、
虎、クロテン。高麗大蔵経、その他の仏典印本。
李氏は生脳や硫黄といった工業製品を強く求め、日本は経典をもとめますた。
またこの時期に琉球の貿易が拡大したこともあり、東南アジアの物産も日本に入ってくるようになりますた。
献上した物では胡椒、甘草、丹木、沈香、象などがそれにあたいまふ。
貿易の利益の恩恵をうける宗家や大友家からも献上品がおくられ、硫黄、犀角なども送られていました。
珍しいものでは宗家が孔雀を送ったほか、幕府が象を献上していまふ。
象を献じたのは義持で1411年のことれす。
余談になりますが「太宗実録」によれば前工曹典書・李璃が醜いという理由でこの象につばを吐きかけたところ
象が怒り、李璃を踏み殺すという事件がおきていまふ。
明・・・・・ドクター・ヘル
琉球・・・・ブロッケン伯爵
李氏朝鮮・・あしゅら男爵
室町幕府・・ゴーゴン大公
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:02/07/28 15:10 ID:7ANdBAwT
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とむ: