1 :
takayama ◆kRFqbI1c :
産経新聞記者からスタートし、論説委員をつとめ、現在は大学教授と言う
異色の経歴を持つ高山正之が『20世紀特派員』に書いたものです。
2002年3月までは、sankei.co.jpに掲載されていましたが、有料に
なったようなので、資料として貴重だと思い、スレッドを作りました。
2 :
ジャンゴー:02/05/19 04:52 ID:ZfUZCF7G
2
3 :
takayama ◆kRFqbI1c :02/05/19 04:53 ID:fe5NYchI
20世紀特派員 植民地の日々−01
ハノイヒルトン−床の上にさびた鉄の輪が残る
ベトナムの首都、ハノイには冷戦崩壊直後の1990年にも1度来たことがある。ホテルの部屋は
暗く、明かりも40ワットぐらいで、天井や壁をヤモリが好き勝手にはい回っていた。そのヤモリが
体に似合わず大きな声で鳴き、それが人間さまの笑い声そっくりで夜中にびっくりして跳び起き
ることもしばしばだった。レストランも照明は暗く、そのころはやっていた喫茶店にいたってはほと
んど真っ暗だった。ベトナム戦争時代の北爆と灯火管制のおかげで「夜目が利くようになったか
ら」という説明だったが、本当だったのだろうか。
《原型のまま》 それから7年後のこの春に訪れてみると、街は驚くほど変わっていた。ホテルか
らヤモリが消え、自転車の洪水だった道路も、バイクと自動車に主役の座を渡し、郊外に出れば
どこにでも見かけたアメリカ軍の遺棄戦車や戦勝スローガンの垂れ幕が取り払われていた。
外国人の姿も目立ち、ハノイ中心部のホアン・キエム(還剣)湖で会ったアメリカのコンピュータソフト
ウエア企業、ロータス社の社員、マーク・バーグランドは「1回8000ドルもする人工授精を6回も失
敗」して養子を求めにきたと話す。ほかに17組の夫婦がここやダナンで養子の斡旋(あっせん)を
受けているという。「ベトナム戦争はもう遠い歴史でしかない」とバーグランドは言った。
長らく空席だった駐ベトナム・アメリカ大使にダグラス・ピーターソンが指名され、赴任してきたのも
この時期だった。実はピーターソンもハノイは初めてではない。1966年、アメリカ空軍パイロットと
して、F4ファントムに搭乗し、ハノイ爆撃に何度か出動した。いわゆる第一次北爆である。何度目
かの出撃のとき、地上砲火で撃墜されて捕虜(POW)になった。捕虜の収容先は、あの「ハノイヒル
トン」だった。彼はそこで6年半を過ごした。
4 :
takayama ◆kRFqbI1c :02/05/19 04:54 ID:fe5NYchI
ピーターソン大使はこの体験についてあまり多くを語らないが“同宿者”だったジョン・マケイン上
院議員(アリゾナ州選出)はよく覚えている。「個室は奥行き1・8メートル、幅60センチで、床に埋め
込まれた鉄の輪に足を固定された。窓もなく、夏場には鎖で繋がれたまま熱射病になった。ホテル
としてはまあ、三流だね」
その「ハノイヒルトン」はハノイ市内の中心、通称ファーロー(刑務所)通りにある。訪れてみるとす
でに取り壊され、跡地にはシンガポール資本の企業が25階建てと13階建ての「ハノイ・セントラ
ルタワー」を建設中だった。完成後はホテルとオフィスが入る予定だが、その一角に獄舎の一部
が原型のまま残されるという。
しかし、それは「ハノイヒルトンとしてではなく、監獄の正式名・メゾン・サントラル(中央刑務所)と
して」だと、国立歴史学委員会のブイ・ディンタン教授は「フランスがここにきてベトナム人のため
に最初に建てたのは学校でも工場でもなく、この監獄」だったと言う。解体中の獄舎を覗いてみ
ると、薄暗がりのコンクリート床にさびた鉄の輪が残っていた。その輪にはピーターソン大使を含
む335人の米軍POWのほか、「何十倍ものベトナム人がつながれた」とブイ教授は話す。
その中には、20世紀初頭の対仏抵抗運動のリーダーだったファン・ボイチャウ(潘佩珠)もいれ
ば、レ・ズアン、グエン・バンリンなどの名もある。ド・ムオイが脱獄に使った下水管の一部も保存
されている。ブイ教授によると「メゾン・サントラルはそのままベトナム独立史でもある」という。
収容定数460人のこのモダンな監獄が完成したのは1889年で、フランスはそれから数年の
間に、ほぼ同じ規模の監獄を全土に7つ建設した。サイゴン(ホーチミン市)のカムロン刑務所も
ハノイの「メゾン・サントラル」と並ぶ荘厳な建築物で、南北ベトナムが統一されたとき、取り壊す
のはもったいないから、と今では国立図書館として再利用されている。
《ギロチン台》 有名な「プーロ・コンドール」もこの時につくられた。ベトナム語では崑島(コンダ
オ)と呼ばれる南シナ海に浮かぶこの島の監獄は1896年に完成、ディエンビエンフーでフラン
ス軍が敗れる1954年まで反仏レジスタンスの終着駅として機能した。4棟の監獄のかたわらに
はレンガ壁の処刑場がある。
そこに立たされた数千人の中で最も有名なのがボー・ティサオだろうか?、抗仏独立戦争さなか
の1949年夏、フランス側についたベトナム人官吏を暗殺したというのが罪状だった。彼女は当
時13歳、そして16歳のときにもう1件の暗殺を企て、失敗してこの島に送られた。ベトナムでは
彼女を悼む歌「ビエト・ボー・ティサオ」は国歌についで広く知られている。
この監獄はその後、南ベトナム政府に引き継がれ、ベトナム戦争当時はベトコンを収容する「虎
の檻(おり)」として、世界に知れわたることになる。7つの監獄はもっぱら政治犯用として使われ
たが、20世紀に入るとこれでも足りなくなったため、フランスは定員の3倍まで囚人を詰め込む
ことにし、それでもあふれると、別の定員緩和策をとった。ギロチンの投入である。
ギロチンは今、ハノイの革命博物館に1台、そしてホーチミン(サイゴン)の戦争記念館に1台が
残されている。重さ50キロの鉄の刃が4・5メートルの高さから落ちてくるこの処刑台は「全土の
監獄に置かれ、総数は30台にのぼった」(ブイ教授)という。
執行状況は「調査中」だが、ブイ教授によると「1902年からの10年間の記録では24380人が
収監され、その半分の約12000人が首を落とされた」という。それが本当なら1日2人に執行さ
れた計算だ。この数字が必ずしも誇張とはいえないことをうかがわせるエピソードがある。20世
紀初めに「反仏闘争の首謀者の1人、リヨン・タムキーにギロチン刑が執行されたが、あまりに多
くの首を切ったため、刃がなまり、首を半分切られただけで、釈放された」というのだ。彼はその
後、1913年まで反仏活動を続けた歴史上の人物である。
しかし、それでも囚人は増え続け、フランスはもっと大型の監獄四つを新設する。最後のひとつ
となったのは、四階建のサイゴン第2刑務所「チーファ」で、完成は第2次大戦さなかの1943年
になる。
「フランス人はここにいる間、ひたすら監獄を作っていた」とは、ブイ教授の感想である。しかし、
フランスはそれだけのためにここにきたわけではない。
*豆事典
*ダナン 港町として古くから栄えたベトナム中部の中心都市。ベトナム戦争への大規模直接
介入を決めた米軍は1965年3月、この地を上陸拠点としており、米空軍基地や南ベトナム政府
軍第一軍団司令部も置かれて、一時は軍事的要地にもなった。現在は商業港としてにぎわって
いる。
*レ・ズアン(1908−86年) ベトナム南部クアンチ省の貧農の家に生まれ、1930年、インドシナ
共産党(ベトナム共産党の前身)の創立にホー・チ・ミンらと参加、その後は常に党の指導的立場
にいた。31年に抗仏運動で逮捕され、合計10年間の獄中生活を送る。51年に党中央委政治
局員、60年には党第1書記に選出された。第1書記は76年、書記長と改称、レ・ズアンが初代
書記長に就任した。
*グエン・バンリン(1915年−) ベトナム共産党前書記長。14歳で抗仏独立闘争に参加、1930年、
フランス当局に逮捕される。獄中歴10年に及ぶ。ベトナム戦争中は南ベトナムでの宣伝工作を
担当し、76年、政治局員兼書記に登用される。一時失脚したが復活し、86年、党書記長に選出
された。91年引退した。
*ド・ムオイ(1917年−) ベトナム共産党書記長。19歳で抗仏闘争に身を投じ、24歳から4年間、
獄中で過ごす。ベトナム戦争時代は北部から南部への武器供給路「ホーチミン・ルート」の建設、
維持を指導した。1981年、副首相、88年には首相に選出され、91年から党書記長。
*ディエンビエンフー ハノイの北西400キロ、ラオス国境に近い高原の町。フランス植民地軍が
精鋭部隊を常駐させていたが、ベトナム人民軍に包囲され1954年5月に陥落。このフランス軍の
決定的敗北により同54年7月、ジュネーブ協定が成立。米中ソの思惑でベトナムは南北に分断
された。
*ベトコン 「南ベトナム解放民族戦線」の俗称。共産主義者や農民、宗教家、知識人などの諸
団体を含んだ民族統一戦線として1960年12月に結成され、69年には南ベトナム共和臨時革命
政府を樹立、北ベトナム政府軍と結んでゲリラ戦を続けた。
20世紀特派員 植民地の日々−02
フランス的手法−重税、アヘン乱売、そして投獄
フランシス・フクヤマは「歴史の終わり」の中で、「工業化に成功した西欧諸国は18世紀半ばに
して、1人当たり国民所得が今日の第3世界を上回っていた」と書いている。ニューヨーク・タイム
ズ紙(1996年8月20日付)の社説にも「19世紀、人口2900万のイギリスには200万人の家住
み召し使いがいた」とある。
フクヤマはその豊かさを「白人キリスト教国家のみが、いち早く工業化をなし得た成果」と断言す
るが、さてどうだろう。電気炉を開発したからといって、それでただちに「糞尿あふれるパリ」(アラ
ン・コルバン著「においの歴史」)を大改造できたり、中流以上の家庭がすべて住み込みの召し使
いをもてるようになったわけではない。フクヤマが別の項で書いているように、その成果を「軍事
的有利さ」に変えて植民地を獲得し、資源や富を吸い上げたからこそだという説明もある。
《生死にも税》 ベトナムにきて、まず監獄とギロチンを用意したフランスはその好例といえるか
もしれない。彼らがいかに資源と富の回収にいそしんだかを潘佩珠(ファン・ボイチャウ)が「越南
亡国史」に書いている。潘はベトナムの100年に及ぶ独立抵抗史の前半を仕切った最大の指導
者である。
「フランスの課税はひどかった。人々にはほぼ1カ月分の収入に当たる人頭税がかけられた」と
いう。これはイスラム勢力がアラーへの帰依を拒むペルシャなどで懲罰的に行ったジズヤと同じ
で、収入に関係なく一定額を全成人に課す方法だ。イスラムはこれだけだったが、フランスは「ほ
かに田畑、家屋、市場、河川の渡し税も用意した。さらに死亡と出産を対象とする生死税、葬式
や先祖の祭り、結婚式にも税金をかけた」と潘は記している。「越南亡国史」は1905年、潘が
日本を訪れたときに出版したもので、ここに列挙したのはまだ序の口だった。
女性ジャーナリスト、アンドレイ・ビオリスの「インドシナSOS」によると、ベトナム植民地政府は
このあと、種々の専売制を導入し、自家製だったジオガ(どぶろく)などアルコール類をフランス企
業「フォンテーヌ」の独占にして自家醸造を法律で禁止した。海岸線の長いベトナムでは塩も自
家製が普通だったが、酒と同様、専売制になり、「コメと同じ価格」になった。
「ニョクマム法」というのもできた。「人民の健康を保持するため」、ニョクマムの容器は衛生的な
ふた付きのビンとすることを義務づけた。その種の瓶(ビン)はフランス企業が独占製造していて、
瓶はもちろん高値で売られた。
「20世紀の初めの平均的農民、労働者は年収32ピアストルだった」とアメリカのベトナム史研究
の第1人者、プリンストン大学のジョン・マカリスター教授はその著書「革命の原点」で述べている。
現在の円にすると約3万円に当たる。前述した直接税の合計は7ピアストル、塩など専売による
間接税も入れると20ピアストルとなり、収入のほぼ3分の2が直接、間接の税金としてしぼりと
られていたことになる。これでもまだすべてではない。
もともとフランスが東南アジアに来たきっかけは阿片戦争の応援だった。イギリスはこの戦争で
香港を手に入れ、アヘン貿易の権利も取って1908年まで続けた。フランス、アメリカの貿易商
もこの「再開されたアヘン貿易」に加わり、巨万の富を築いた。アメリカでは後のフランクリン・デ
ラノ・ルーズベルト大統領の母方のデラノ家などがその筆頭格だった。
アヘンのうまみを知るフランスは、それをこのベトナムで商売にした。「各都市にはアヘン窟が
置かれ、地方の村にも『R・O』の看板をかけた店ができ、村の監督者はその割り当て量を消化
するよう命令された」とビオリスは告発している。
「R・O」はレジ・オピアム(アヘン公社)の略で、植民地政府は「年間1500万ピアストル(現在の
価格で20億円)の収入を得ていた。アヘン吸引者もこの強制割当制で一挙に21万人に増加し
た」とビオリスは書く。
フランス本国ではアヘン売買、吸引は20世紀に入る前に犯罪として禁止されていたし、フランス
は1912年のハーグ国際アヘン禁止条約も批准している。しかし、同じ批准国であるイギリスの
植民地、マレー半島やビルマで、そしてフランス領インドシナでこうした商売がその後も公然と続
けられたのは、この条約に「その植民地、保護領のために、この条約を批准、又は廃棄をなしう
る」という例外規定があったからだ。
《強制連行も》 賦役もあった。鉄道、道路、フランス居留民のための快適な都市、ダラトなどの
建設に狩り出された。賦役には軍務も含まれ、第1次大戦では43000人がヨーロッパ戦線に出
兵し、ほかに49000人が炭鉱労働者として強制連行された。第二次大戦前にはさらに大規模
な強制連行が行われ、29万人がヨーロッパ、アフリカに送り出されている。
重税、賦役などで追い詰められた農民はインドやビルマ(ミャンマー)での農民と同じように、やが
て田畑を手放す。土地を手にいれるのは精米業者として入り込んでいた華僑やコーヒー、コメな
ど大型プランテーションを経営するフランス人たちだった。しかし、土地を失った農民にも人頭税
はかかる。滞納は投獄だった。残る手段は“逃散”だが、「住民はパスポート所持を義務づけら
れ、許可なく村を離れることを禁止した。背けば、親族まで投獄された」(ビオリス)フランス領イン
ドシナの成立直後から第二次大戦までフランス人が飽きもせずに監獄を作り続けた理由がここ
にもあった。
こうした統治には当然、強力な警察組織と軍隊が必要で、20世紀初頭にすでに「シュレテ(秘密
警察)」を数百人抱え、さらに近代装備を施したフランス人兵士2万人を常駐させた。その維持
費、さらにインフラ整備を行いながらも、植民地政府はスタート早々に単年度400万ピアストル
(約7億円)の純益を上げた記録が残っている。まさに3日やったらやめられないのが植民地経営
だった。
マカリスター教授は、「フランスは圧政を敷いたが、反面、戸籍を整備したし、財政の効率化をも
図った」と称賛する。しかし、それは人頭税やアヘンの割り当てを決めるための作業でもある。
富と資源を確保した植民地政府はさらにベトナム文化の破壊にも手を伸ばした。
*豆事典
*フランシス・フクヤマ(1952年〜) シカゴ生まれの日系アメリカ人で、アメリカ国務省政策企画部
を経て、民間有力シンクタンク「ランド研究所」顧問となる。1989年夏に論文「歴史の終わり」を発
表し、「西側の自由民主主義がソ連や東欧の共産主義を圧倒して思想としての勝利を収め、全
世界的に広がる」と説き、ソ連・東欧の崩壊と冷戦終結を予言するかたちになった。
*ジズヤ イスラム世界で行われていた人頭税。イスラム勢力は7世紀以降、西アジアや北アフ
リカを領土とすると、異教徒たちには従来の信仰を保持することを許す代わりに人頭税を課した。
征服者側にとって重要な財源だったが、次第にイスラム教への改宗者の数が増大したためジズ
ヤの財源としての重要性は失われ、20世紀に入ってから廃止された。
*ニョクマム ベトナムやカンボジア料理でよく使われる調味料。魚醤(ぎょしょう)ともいわれる。
*ハーグ国際アヘン禁止条約 1912年にオランダのハーグで開かれた国際アヘン会議で結ば
れた条約。この条約ではアヘンの生産、利用には触れておらず、貿易のみを禁止した。その後、
1931年に国際連盟の規約にもとづいて国際アヘン条約が結ばれ、生産を制限すること、利用は
医療・学術面に限ることなどが初めて決められた。
*ダラト ベトナム南部の海抜1400〜1500メートルにある高原都市。熱帯だが年間を通じて気
温が18〜23?で、日本の軽井沢を思わせる避暑地になっている。20世紀初頭に開発され、フラ
ンス風建築のヴィラが点在している。付近ではホーチミン(サイゴン、南西240キロ)へ供給する
花や野菜の栽培が盛ん。郊外には、日本の戦争賠償で建設されたダニム・ダムがある。
20世紀特派員 植民地の日々−03
東風一陣−大国に翻弄される小国の悲哀
ベトナム中部最大の都市ダナンから少し南に下るとホイアンの街がある。東シナ海で漂流する
と、潮流に乗ってこの辺りに流れ着くといわれ、遣唐留学生だった阿倍仲麻呂も帰国の船が難
破して、ここに漂着している。そういう潮流の取り持つ縁もあって日本との交易も盛んで、ホイア
ンは江戸時代初めまでは日本人町として知られていた。
《読めぬ言葉》 7年前にベトナムを取材したとき、この街をベトナム外務省のルー・フォンさんと
訪ねた。彼女の父は大使の経験もあるベトナム労働党(ベトナム共産党)の高級幹部だった人で
あり、彼女自身もキエフ大学に留学し、ロシア語のほか、英、仏語も話せる。この国では怖いも
のなしのエリート外交官である。
その彼女が一瞬、しゅんとした。街中の川にかかる赤い橋に「日本国人所作」云々の漢文、正し
くはベトナム国字(チュノム)でその由来が書かれているのだが、フォンさんにはそれが読めない
という。「自分の国で、自分たちの祖父母が使っていた言葉を読めないつらさが分かりますか」
ベトナムも日本と同じ漢字文化である。ただ、日本では難しい漢字を平易な仮名文字に作り替え
たのに対してベトナムでは逆にもっと字画の多い造成漢字チュノムを作った。フランスは凝りす
ぎのチュノムをやめさせ、かわりにローマ字表記の「クオックグー」を強制した。
この辺は評価の分かれるところだが、フランスはさらに踏み込んで公用語にフランス語を据える
作業を始めた。この国は11世紀から中国風に科挙の制を取り入れてきたが、1903年からこの
科挙に仏文のエッセーを必修科目として加えた。そして第一次大戦後には全科目ともフランス語
に切り替えていった。
しかし、そのフランス語教育も対仏独立戦争、ベトナム戦争で中断され、今はローマ字表記だけ
が残っている。ベトナム語で革命を「カクマン」、漁業を「スイサン」というが、なぜ、そういうのか
ルー・フォンは語源を知らない。ベトナム共産党のバイブルでもあるホーチミンの「獄中日記」は
チュノムで書かれ、優れた漢詩も多いが、今それを読める党員はいない。
イギリスの近代史家、クリストファー・ソーンはこれを「文化的侵略」と呼ぶが、ベトナム国内にも
こうした言語、文化つぶしとも呼べる政策に強く反発する男がいた。潘佩珠(ファン・ボイチャウ)で
ある。彼は1867年、地方の名家に生まれたが、フランス語エッセーが入る前の科挙の試験を首
席でパスしている。学者としての名声に加え、早くから国際社会に目をむけて、ベトナムの進むべ
き道を説く姿は吉田松陰に似ていなくもない。
彼が育った時代はフランスがベトナムを次々に武力で植民地化し、それに反抗して各地に反仏
抗争が燃え広がっていく時期に合致する。その中で最大の抵抗は1885年、安南国王ハムギ帝
を据えてベトナム全土でフランス軍に抵抗ののろしをあげた文紳(ブンタン)の乱だった。名のあ
る部将は山岳部に隠しとりでを築いて奇襲をかけ、ゲリラ戦を展開した。
しかし、しょせん武器は刀と旧式の銃のみ。一方のフランス軍は連発式ライフルに73ミリ野砲な
ど近代兵器を送り込み、抵抗の芽を摘んでいった。結局、11年間に及んだ抵抗は完全に鎮圧さ
れ、ハムギ帝は捕らわれてアルジェリアに流され、2度と故国に帰ることはなかった。
圧倒的なフランス軍の強さの前に抵抗を放棄し、現状を容認する人々がでてくる。人心は乱れ、
伝統は捨てられていった。そのころのベトナムについて、潘はジャーナリストのアンドレイ・ビオリ
スに語っている。
「昔は官吏とは良識ある人を意味した。彼らは三年ごとに試験を受け、俸給も信じられないほど
安かった。たまに悪い役人もでるが、そういうとき、民衆には国王に直訴する権利が認められて
いた。フエの王城の前に太鼓が用意され、直訴する民がたたくと、国王は自ら門を開いて直訴に
耳を傾けなければならなかった」
しかし、と潘は嘆く。「今はフランス人の通訳や下僕だった人々が知事などの要職につき、思い
付くままに新しい税を課した。フランスの下僕になったものだけが私腹を肥やし、子弟をフランス
に留学させられた」
潘はその当時、すでに海外の情勢に目を見開いていた。文紳の乱のさなか、ハムギ帝は清に幾
度となく救援を請うた。中国は朝貢する属藩国の危機を救う義務がある。ところが、清は救援す
るどころか朝鮮をめぐって対立していた新興国日本を抑えるためにフランスと手を結び、その代
償にベトナムを放棄する。それは2千年にわたってアジアに君臨し、朝貢の見返りに安全保障
を約束してきた中国と周辺諸国の規範が消滅したことを意味した。
《驚異の勝利》 潘はこれを「琉球血涙新書」にまとめている。もうひとつの朝貢国、琉球がやは
り清王朝に見捨てられ、日本に併合された“悲劇”を綴ったものだが、それは「琉球」に託してベ
トナム自身の姿を投影させた憂国の書であり、同時にもはや過去の規範が通用しなくなった新し
い時代に入ったことを知らせる警告の書でもあった。
朝鮮をめぐる争いでは、朝鮮の領有をねらうロシアと日本が衝突し、日露戦争が勃発する。ベト
ナム人が芙桑(フータン)と呼ぶ同じ肌の色をした日本人が、白人の大国ロシアに自ら戦いを挑
み、勝利を続ける様子はベトナム人には驚異に映った。
「日本の戦いぶりは村々を流す歌謡(カーザイ)師や弾月(ダンゲット=一弦琴)の講釈師が歌や
語りで伝え歩き、人々は狂喜して聞き入った」と、このころの街の様子を川本邦衛・慶応議塾大
学教授は「ベトナム詩歌と歴史」に書く。
潘も当時の印象をこう書き留めている。「この時に当たって東風一陣、人をして爽快たらしめる
事件が起きた。旅順、遼東の砲声が私たちの耳に響いてきたことだ。日露戦役は私たちの頭脳
に一新世界を開かしめた」潘はベトナムを救う糸口を求め、この新興日本に旅立つ決意をした。
*豆事典
*阿倍仲麻呂(698〜770年) 天平時代の文人。19歳で遣唐使の一員として唐にわたり、官吏登
用試験の科挙に合格して要職を歴任した。その後、何度も帰国を願い出て753年にやっと認め
られたが、途中で船が難破し、安南に漂着。苦労の末に唐の都・長安に帰還した。帰国は実現
せず、長安に没した。
*ベトナム労働党 ベトナム共産党の1951〜76年の呼称。1930年2月、ホーチミンを中心に香
港で結成した政党が同年10月にインドシナ共産党と改称、マカオで初の党大会を開いた。41年
には民族統一戦線組織であるベトナム独立同盟(ベトミン)を結成。45年の8月革命後、一時偽装
解散したが、51年にベトナム労働党として公然と活動を再開、76年ベトナム共産党と改称した。
*キエフ大学 1834年に設立されたウクライナを代表する大学。赤色の建築で有名。農奴出身
の詩人・画家で、革命家でもあったタラス・シェフチェンコ(1814〜1861年)にちなんでシェフチェン
コ大学とも呼ばれている。
*吉田松陰(1830〜59年) 幕末の志士・教育者。長州藩士の二男として生まれ、幼時に軍学者
の吉田家の養子となる。ペリーの来航に触発され、アメリカ船(黒船)に乗り付け、密航を願い出た
が、拒絶され、故郷の萩の野山獄に幽閉された。後に松下村塾で藩士の師弟を教育した。高杉
晋作ら幕末を代表する志士が集まった。明治政府の中心となる伊藤博文や山県有朋も松下村塾
の出身である。
*ハムギ帝(1872〜1947年) グエン朝ベトナムの第8代皇帝。1884年に即位したが、ベトナムは
すでに南部のコーチシナがフランス直轄領になっており、帝の即位の年には北部のトンキンもフラ
ンス保護領となったため、実質的には中部の安南国の国王でしかなかった。翌85年7月、臣下と
ともにフランス駐留軍を急襲。フランスはハムギ帝の廃位を宣言し、兄を皇位につけた。約3年間
ゲリラ戦を続けたが、部下の密告でフランス軍の捕虜となり、流刑地のアルジェリアで死亡した。
*フエ ベトナム中部の古都。フランス語読みでは「ユエ」。漢字で「順化」とも書く。紀元前3世紀
ごろから発展、19世紀初頭のベトナム統一後は帝都として栄えた。
16 :
:02/05/19 11:22 ID:aSPO+x9j
あげ
20世紀特派員 植民地の日々−04
国際都市東京−祖国独立の夢託し、相次ぐ訪問
ほぼ1世紀に及ぶベトナム独立抵抗史の後半の主役がホーチミンだとすれば、前半の主役は潘
佩珠(ファン・ボイチャウ)になるだろう。その潘が横浜港に着いたのは1905年(明治38年)4月中
旬だった。日露戦争の帰趨を決めた日本海海戦はそれから1カ月余り先になり、ロシアのバル
チック艦隊はこのころ仏領インドシナのカムラン湾で落ち着かない最後の休養をとっていた。
横浜市内に宿をとった潘は、同じ市内で中国語の新聞「新民叢報」を発行する梁啓超に手紙を
したためた。梁は康有為と並ぶ変法自彊運動の推進者で、その数年前に起きた戊戌の政変に
よって国を追われ、日本に亡命していた。
潘は日本に独立の支援を頼みにきた。その彼が最初に面会を求めたのが日本の政財界人では
なく、中国からの亡命政客だった事は、この頃の「日本」の姿をある意味で象徴しているかも知れ
ない。
《留学ブーム》 この時代、つまり20世紀の入り口にあった日本には、実にさまざまな国から亡
命者や祖国を思う留学生が集まっていた。「慶応義塾50年史」によれば、最初の留学生は朝鮮
からで、1881年(明治14年)、開化派の重鎮、金玉均が送り出した6人が来日し、「2人が慶応
義塾に、1人が中村正直の同人社に語学留学し、残る3人が陸軍士官学校に入った」とある。
83年にも金玉均は60人を慶応義塾に預けたが、日本語を習得した学生は税関、郵便事業、農
業、さらに陸軍にも入り、祖国近代化の実務を学んだ。彼らの一部は開化派による政変、いわ
ゆる甲申の政変(1884年)に加わるが、開化派は敗れてリーダーの金玉均は日本に逃げ、亡命
政客の第1号となる。金は一時、小笠原諸島にまで身を潜ませたが、1904年、上海で政敵の
手先に暗殺される。
中国からは、1895年に広東蜂起に失敗して清王朝に追われた孫文が亡命、98年には前述し
た梁ら変法自彊派が逃げてきて、シンガポールに脱出した康有為もやがて合流する。ともに広
東出身の孫文、康有為は満州民族の清と対決する「滅満興漢」の姿勢では共通していたが、孫
文は、いわゆる三民主義に基づいた共和制国家を、康有為は梁啓超とともに漢民族の王政復
古−立憲君主国家を目標に置き、この二派は東京を舞台に論争を続けていた。
中国からは留学生も大量にきた。日清戦争直後の96年に13人が東京高等師範学校(嘉納治
五郎校長)に留学して以来、毎年数百人単位の留学生が日本を目指し、潘が横浜に降り立った
1905年には「東京だけで8600人」(朝日新聞05年12月7日付)にも上っていた。この中には
文学者の魯迅、北京大学の教授となる弟の周作人なども含まれる。
日本留学のブームに火をつけたのは変法派の張之洞が著した「勧学篇」といわれる。大国中国
がなぜ小国日本に負けたのか。張はその答えはアジアでいちはやく富国強兵策をとり、近代化
を目指した日本にあること、そして日本には中国では得られない世界の文献が準備され、日本
語さえマスターすれば、そうした文献が全て習得できると説き、中国人青年に留学を勧めた。
当時の日本はこうした亡命政客や留学生の受け入れにかなり好意的だったようだ。慶応義塾や
東京高師、汪兆銘も学んだ法政速成科(現法政大)などが留学生枠を設けたほか、東京同文書
院、嘉納治五郎の私塾の弘文学院、語学研修を兼ねた士官学校予備校でもある振武学校など、
アジアからの留学生の受け入れ施設も用意された。
主に朝鮮人学生を引き受けていた福沢諭吉は「(アジア諸国の青年を)文をもって誘導し、速や
かに我が例にならいて近時の文明に入らしめるべし」と書いている。それが当時の日本の雰囲
気だった。
《武器ほしい》 しかし、もっと切迫した訪問客もいた。例えばフィリピンからきたマリアーノ・ポン
セである。フィリピンは1898年の米西戦争で、やっとスペインの圧政から解放されたが、独立を
支援するはずだったアメリカはそのままスペインの後釜に居座り、かえってアギナルド将軍の率
いる独立軍を追い詰めていた。ポンセは新たな宗主国、アメリカと戦っているアギナルド将軍に
頼まれて武器を求めにきたのだ。
日本政府にはアメリカと事を構えるのにためらいがあった。しかし、ポンセに同情した孫文が民
族主義者の宮崎滔天ら政財界人に働きかけ、結局、憲政党の中村弥六議員が中心になって日
清戦争の戦利品だったモーゼル銃20万丁をフィリピンに送り出した。世にいう「布引丸」事件だ
が、この船は途中、東シナ海で台風のために沈没する。
アギナルド将軍は満足な武器もないまま、その後3年間戦い続けたが、1901年にアメリカ軍に
捕まってフィリピンの独立運動は消滅する。
潘の訪日もポンセと同じだった。宗主国フランスと戦う武器がほしい。それを得て「ベトナムとは
歴史的なつながりのある広東の軍閥の協力を求めて武装蜂起する予定だった」と後に死刑を待
つ監獄の中でまとめた「獄中記」に記している。
潘は梁啓超に会うと、その意図を素直に告げた。梁は首を振った。日本はロシアと文字どおり国
家存亡がかかった消耗戦をしているさなかで、ベトナムに武器を回すほどの余力がないことを説
明し、ベトナムを支援すれば、フランスのみならず欧米諸国を敵に回すことになるという国際情
勢を説いた。
そして「まず、人材を育て国内に実力を蓄えよ、軍備は瑣末なことで、日本にはむしろ外交援助
を求めるべきだと諭した」(獄中記)。梁はさらに日本にベトナムの現状を理解させるために有力
者に会うことを勧め、まず進歩党の犬養毅、大隈重信に潘を紹介した。潘はそれからの数カ月
間に政財界要人の知遇を得る。この中には後藤新平、頭山満などの名もあった。
潘は二つの決断を下した。ひとつは安南王朝の始祖、嘉隆帝の直系5代目に当たり、ベトナム
の独立をうたう「維新会」のリーダーでもあるクオンデ候を日本に亡命させること。そしてもうひと
つが中国、朝鮮にならってベトナム青年に日本留学を勧めることだった。
*豆事典
*変法自彊運動 中国・清朝末期の改革運動。日清戦争の惨敗とこれに続く列強の中国分割
に危機感を深めた康有為(1858〜1927年)、梁啓超(1873〜1929年)ら若い知識人層が、中国の
近代化のためには政治、教育体制を根本的に改革しなければならないと主張し、光緒帝により
登用された。しかし、反対派による戊戌の政変(1898年)でこれら若手官僚は失脚し、運動は頓
挫した。
*金玉均(1851〜94年) 朝鮮・李朝末期の王朝官僚で、近代的改革を目指した開化派の主導
者。日本の力を借り、上からの改革運動を推進しようとした。1884年に甲申の変を起こし、親清
(中国)派を打倒しようとしたが、敗走して日本に亡命した。
*魯迅(1881〜1936年) 中国の文学者。1902年に日本に留学。当初、医者を志し、仙台医専に
入学したが、2年で中退して文学運動に傾斜した。帰国後は、教員生活を送りながら「狂人日記」
「阿Q正伝」などの代表作を著した。
*周作人(1885〜1967年) 魯迅の弟で随筆家。1906年、日本に留学、立教大学で文学を学び、
帰国後、北京大学教授となる。
*東京同文書院 日清戦争後に組織された大陸政策推進団体の東亜同文会が1899年(明治32
年)、東京に開設した中国人留学生のための教育施設。1922年(大正11年)までの間に3000人近
い留学生が学び、1858人が卒業した。東亜同文会は1901年、大陸で活躍する人材育成のため
の東亜同文書院を上海に設立している。
*マリアーノ・ポンセ(1863〜1918年) フィリピンの革命運動家。スペインに留学して医学を学び、
1898年には訪日して孫文、犬養毅らと親交を深める。アメリカ統治下のフィリピン議会議員を1期
務めた。
*宮崎滔天(1871−1922年) 熊本県出身。孫文らの中国革命運動の協力者。1905年、東京で
中国革命同盟会結成に参画、11年の辛亥革命(清朝崩壊)に協力した。
20世紀特派員 植民地の日々−05
日本の花−日露戦勝で「東遊」ラッシュ
ホーチミンがまだ阮愛国を名乗ってパリにいたころに付き合いがあった仏文学者、小松清はトン
キン地方に咲き乱れる「日本の花」のことを書いている。
《1941年4月のある日、私はパリ時代からの旧友である詩人、阮江(グエン・ジャン)につれられ
てグラン・ラック(大湖)のほとりを歩いた。水辺には薄紫色の花が一面に咲き乱れていた。水ヒ
ヤシンスの1種だろう。しとやかな気品をもった花である。花の名を聞かれ、知らないというと「越
南人は『日本の花』と言ってます」と彼はいった。「日本が日露戦争に勝ったとき、だれかがこの
湖に植えた。ハイフォン港に入る日本の貨物船から入手したらしい」と。花は幾年かのうちに増
え、だれ言うともなしに『日本の花』と呼ぶようになった…》
いい話である。それがどんな花なのか、私は興味をそそられ、何冊かの植物辞典や園芸店に当
たったが、「水ヒヤシンス」の名さえ見つからなかった。小松は「水ヒヤシンスは九州の水田など
に自生している、浜葵に似た花」とも書いている。それをヒントに福岡市植物園に尋ねたら、数日
して「中南米原産のほてい葵ではないか?」という返事をいただいた。金魚鉢などに浮かべるほ
てい草のことである。これなら確かにサイゴン川でもハノイ周辺の水田などでも多く見かけた。
薄紫のヒヤシンスのような花もつける。20世紀初め、ハイフォン、サイゴン(ホーチミン)などの港
はバンメトット・コーヒーなどプランテーション作物を運ぶ貨物船でにぎわった。そんな船がほて
い葵を持ち込んだのだろう。そして日露戦争というタイミングに水田や沼で薄紫の花を咲かせた
のだ。
《大きな刺激》 「日本の花」の正体が中南米からの外来雑草だったのはちょっと残念な気もす
るが、同じ皮膚の色の小国が白人大国に勝った事実が白人の作った無限地獄ともいうべき環境
下のベトナム人にどれほど感銘を与え、どれほど勇気づけたかをこの小さなエピソードは十分に
物語っている。
「日本の花」が咲いたころ、もうひとつ、今度はまぎれもなく日本からベトナムに届けられたもの
があった。中国からの亡命政客、梁啓超の勧告を受けて、潘がベトナム青年に呼びかけた「遊
学を勧むる文」という小冊子である。
「亜州なお大邦あり。東海に伯気存し、米虎欧鯨をしてわが黄人種の蹂躙に」初めて歯止めをか
けた。なぜ、日本がそれをなし得たか。答えは日本にある。東京はすでに中国、朝鮮、インドな
どからの学生であふれている。ベトナムの青年も「日本に行き、そして学べ」と潘は訴えかけた。
小冊子は梁の主宰する新聞社「新民叢報」で数千部が印刷され、潘に随行してきた曽拔虎が香
港から広東、そしてベトナム国境を密かに越えて持ち帰ったと言う。潘の名声は高かった。彼が
姿を消し、植民地政府のシュレテ(秘密警察)が必死に行方を追っていることも知られていた。
その潘が、日本に密かに渡っていた、そして日本への密航を呼びかけてきたことは衝撃となって
ベトナム全土を駆け抜けた。ベトナム独立史に「東遊(ドンズー)」と大書される日本留学運動が
スタートする。
この冊子の反響はよほど大きかったようで、潘が世の親に子供を留学させるよう説得する「全国
の父老に敬告す」とともに瞬く間に国中に読み回され、さらにはハノイ、サイゴンなど数カ所にフ
ランス官憲の目を盗んで日本行きの青年をかくまい、密出国の手助けをする地下組織ができた
と潘は後に記述している。
日本側にもベトナム人学生の留学ラッシュの記録がある。同文書院幹事の柏原文太郎がまとめ
た「安南学生教育顛末」には、小冊子ができた1905年暮れにはもう3人の若者が日本の土を
踏み、その後「60人余を受け入れ…」とか、驚いたことに「9歳、11歳の2人は東京小石川礫川
小学校に…」など幼い子供まで留学してきたことを示す記述も見える。学生は「いずれも清国広
東、広西人と称した」(明治41年、内務省調査)密航者だったが、日本側はその辺を、実に鷹揚
に扱い、中国、朝鮮の若者と同じように、同文書院、振武学校(福島安正校長)などに入学を認め
1907年には「300人のベトナム人子弟が日本で学んでいた」と小松清は書いている。
この「東遊」のうねりに呼応してハノイに「東京義塾」も作られた。創設者のファン・チューチンは
潘とともに日本に行き、見聞を広めて、「わが国を引き比べれば実に雛と大鷹の差がある」こと
を痛感、日本での活動は潘に任せ、ベトナムに戻ってこの学校を作った。名前でも分かるように
福沢諭吉の慶応義塾をモデルにしたものだ。
《皇子が密航》 潘はこの「東遊運動」とともに、もうひとつ、ベトナム独立の悲願をかけた博打
を打った。ベトナムに独立を取り戻す民族派の秘密結社、維新会のリーダーに推挙されたクオン
デ侯を日本に密航させることだった。
クオンデは19世紀初頭にベトナムを統一した嘉隆帝の直系5代目に当たる。当時23歳、小松
も「高貴な雰囲気をもつ貴公子」、「国民の声望も厚い」という形容詞を使っている。実際、植民
地政府も、反仏抗争を抑え込める人材として、安南国王に就任を迫ったこともあった。国王の座
に最も近い皇子を亡命させれば、日本も本気でベトナムに目をむけるだろう、というのが潘の読
みだった。
潘は人を介してクオンデに日本の状況を伝え、祖国脱出を訴えた。クオンデには美しい妃と3人
の子供がいた。フエの王城は植民地政府が厳重な警備を敷いていることを除けば、日々を暮ら
すには何不自由はなかった。王領はフランスがすでに没収していたが、それに代わって数千ピ
アストルの扶持も出ていた。日本への脱出はそれらをすべて捨て去ることになるが、クオンデは
ためらうことなく潘の申し出を快諾した。
1906年2月、クオンデは王城を出た。小松清著『ベトナム』によると「貧しい農民の身なりで海
岸に至り、ジャンクでハイフォンに行き、そこからフランス汽船に火夫として乗り込んで香港」に
渡り、さらに2カ月かけて4月、クオンデは念願の日本に一歩を踏んだ。24歳の春だった。それ
は同時に美しい妃とも3人の子供たちとも再び会うことのないクオンデの半世紀に渡る流浪の旅
の始まりでもあった。
*豆事典
*小松清(1901〜62年) 評論家、仏文学者。フランス留学から帰国後、マルローなどフランスの
新たな文学動向をヒューマニズム的行動主義として紹介。半自伝小説「ヴェトナムの血」など著
書、訳書多数。
*グラン・ラック ハノイ市の北にある「タイ湖」(外周13キロ)のフランス語での呼称。大きな湖の
意味。「西湖」「霧の湖」とも呼ばれ、ハノイで最も美しい湖として市民から愛されている。湖岸に
は桃の木が植えられ、ヨーロッパ風のヴィラも点在、水上レストランや遊覧船乗り場もあり、夜景
が美しい。
*ほてい葵 ミズアオイ科の浮遊性多年草。熱帯または亜熱帯の中南米原産の水草で、九州
など日本の温暖地にも野生化している。
*ハイフォン ハノイの東約100キロに位置する港湾都市。ベトナム北部の海の玄関口で、街の
中心にはフランス風の建物が並んでいる。軍港でもあり、米軍は1972年5月から73年1月のパリ
和平協定調印まで、この港を機雷によって封鎖した。郊外はベトナム最大級の工業地帯になっ
ており、日本人ビジネスマンも多数滞在している。
*バンメトット 標高500〜1000メートルの中部高原地帯の中心地。月平均気温は乾期で20度前
後としのぎやすく、コーヒー、ゴムが特産品になっている。
*嘉隆帝(1762〜1820年) ベトナム阮(グエン)朝の初代皇帝(在位1802〜20年)、阮福映のこと
で、ベトナムではザロン帝と呼ばれる。在位中は内治に尽くし、長期の内乱で疲弊した国民を休
ませることに気をつかった。統一の途上でフランスの援助を要請したことがフランスのベトナム
支配を招き、阮朝4代目の嗣徳(トゥドゥック)帝の時代にベトナムはフランスの保護国になった。
26 :
XX:02/05/20 09:25 ID:7PW6jj6E
ageとこ
20世紀特派員 植民地の日々−06
我、日本を恨む−アジアの「新盟主」への期待
日本に上陸したクオンデ侯にとって、最初の1年間は希望と使命感で弾けそうだった。「何よりも
心を打ったことはこの文明社会の一切の仕組みを動かしているのが、全て日本人だったことだ。
彼らの瞳は勝利と誇りと自信に輝いている。ああ、越南に一日も早く独立を…」仏文学者、小松
清に語った日本の初印象である。
潘佩珠(ファン・ボイチャウ)の紹介で会った日本の要人も好意的だった。犬養毅もその1人で、ベ
トナムに深い同情を寄せ、クオンデのために本郷森川町にかなり立派な邸宅も世話した。ただし
クオンデを戴く「維新会」は本国でテロ活動を行っている反仏抵抗組織であり、日本側も彼に公
然と名乗らせる訳にはいかなかった。そのため「阮福民」という偽名の表札が掲げられたが、本
郷界隈ではだれでも素性を知っていて「安南の皇子」で通っていたという。おおらかな時代では
あったようだ。
クオンデはここを根城に大隈重信、宮崎滔天(とうてん)、頭山(とうやま)満らと会い、週末には振
武学校などに通うベトナムの青年志士が集まって独立の夢を語り合った。学生たちはここでベト
ナム新憲法「新越南公憲」の草案を書き上げ、同名の武装行動隊も発足させた。2年前に孫文
が東京で旗揚げした「中国革命同盟会」に刺激を受けたといわれる。「まず人材を育てる」という
潘の計画は順調そうに見えた。
《国際的常識》 しかし、クオンデのもうひとつの、そしてもっと切実な訪日の目的、日本を動か
して独立の支援を得る工作は遅々として進まなかった。このころの要人とのやり取りの記録をみ
ると、クオンデや潘の気持ちの中には日本をかつての中国に見立てていた気配がある。「亜州
なお大邦あり。米虎欧鯨に蹂躙される亜州…のために異人種排斥するは日本に如かず」(潘佩
珠の小村寿太郎あて書簡)
虐げられたベトナムを救うために日本が当然、力を貸すべきだと言う思い込みであるが、中国の
亡命政客、梁啓超が潘に指摘したようにフランス植民地の抵抗組織に、日本が武器援助した
り、それ以上の独立支援を行ったりすることは考えられなかった。
反政府勢力に援助を与えることは、欧米が植民地を獲得するさいに宣教師の送り込みと同じぐ
らい頻繁に用いた手口で、この時代でもアメリカは民族自決に燃えるフィリピンのアギナルド将軍
を支援する名目でスペインに戦争を仕掛け、フィリピンを獲得している。さらにこの直後には太平
洋と大西洋を結ぶ運河建設の最適地を得るため、アメリカはまず、コロンビアの1州だったパナマ
に反政府勢力を育て、それに肩入れする形で介入しパナマ独立という事実上の“植民地化”に成
功している。
アメリカに反旗を翻したアギナルドに頼まれ、フィリピンに武器を送ろうと計画した「布引丸」事件
に対し、アメリカが激怒したのは「日本のフィリピンに対する領土的野心」を疑ったからで、クオン
デらの組織を支援することも全く同じ理由で「日本の仏領インドシナへの野心」と受け取られるの
が当時の国際的常識だった。
加えて、この時期の日本は財政的にも苦しかった。日露戦争のツケである。この戦争は潘のいう
ように人種戦争という一面があった。だからこそ潘を感激させ、アジア諸国に、中東に、そしてア
メリカの黒人問題に大きな衝撃を与えた事は、既に触れた。
そして、その特異さゆえにポーツマス講和会議で「黄人種・日本」は孤立し、アメリカ大統領セオ
ドア・ルーズベルトの主導するままに賠償金を放棄させられた。それは、米に引き受けて貰った
巨額の戦争債権の償還ができなくなったことを意味した。
1907年6月、日本はフランスに3億フランの借款を申し入れ、かわりに中国南部の広東、雲南
などでのフランスの排他的優位性を認める日仏協約を締結した。日本が国際社会で生きていく
ために選んだ道はクオンデのいう「仏賊」と盟友関係になることだった。
その仏領インドシナでは同じ07年、羊のようにおとなしかったベトナムの民衆が重税に反発す
るデモを各地で展開した。翌08年6月にはハノイの仏軍守備隊兵営でフランス人兵士、士官の
食事に毒物が混入される事件が起きている。死者こそ出なかったものの、守備隊は数日間、総
督府を守るという機能を完全に止めてしまった。
容疑者が挙げられ、「つめの下にクギを刺され、通電した鞭でたたかれ…」(革命博物館資料)と
いった取り調べの結果、混入された毒物は皮肉にもフランスがベトナム住民に専売していた生ア
ヘンだったことが判明した。それ以上の驚きだったのは事件の背後に「維新会」のメンバーなど
で構成する大掛かりな反仏組織ができあがっていて、末端は現地兵や警察官の中にまで深く浸
透していたことだった。
主犯格の兵士ら13人はギロチンにかけられ、その首は街頭にさらされた。家族や友人ら数百人
が捕らわれ、崑島(コンダオ)の監獄に送られた。日本への留学生の身元も洗われ、その家族も
投獄された。そして締めくくりが本国を通して日本政府に突き付けた不穏分子の身柄引き渡し要
求で、3億フランの対日借款がその切り札だった。
《国外へ追放》 日本政府は屈した。ほかに選択肢がなかったことは述べた。ただ、黙って引き
渡せば、潘もクオンデもギロチンで処刑される可能性があり、それはさすがに忍びない、日本は
フランス側と協議して「引き渡さないが、国内にはとどめ置かない」国外追放という妥協を取り付
けた。
1909年1月、国外追放を前にして、本郷森川町のクオンデの邸に集まったベトナム人青年の
数は5、60人だったと小松清は著書「ベトナム」に書いている。彼らは潘の言葉に泣いた。アジ
アの新盟主と思い込み、期待していた青年には日本の対応は冷酷な裏切りに見えただろう。
《重苦しい沈黙を破り声があがった。ゲアン県出身の青年、チャン・ドンフー(陳東風)だった。「僕
は日本を離れない。心から愛し、希望をつないできた日本に裏切られたベトナム人の幻滅がど
んなものか、それをみせてやりたい」、チャンは仲間が全て去った後、小石川の東峰寺で首をつ
り、自らの命を絶った》チャンの墓は今、雑司ケ谷霊園に残る。「訪れるものはない」と霊園事務
所の人はいう。
*豆事典
*犬養毅(1855〜1932年) 政党政治家。新聞記者を経て1882年(明治15年)立憲改進党の結成
に参加、1890年の総選挙で岡山県から初当選し、以降18回連続当選。1929年(昭和4年)、政友
会総裁。31年には首相に就任して満州事変後の困難な政局運営に当たったが、翌32年の5・15
事件で暗殺された。
*維新会 1904年(明治37年)、潘佩珠を中心に、クオンデを盟主に推戴して結成されたベトナ
ム民族運動組織。活動の中心は日本に置かれ、日本への留学を推進する東遊運動(ドンズー運
動)や抗仏武力闘争の準備を進めた。
*中国革命同盟会 中国で最初の明確な綱領を持つ革命政党で、1905年に孫文が中心となり
東京で結成。三民(民族、民権、民生)主義を掲げ、機関紙「民報」を発刊した。中国南方を中心
に反清武装闘争を展開し、1911年の辛亥革命につなげた。中華民国成立後には中国国民党と
なった。
*布引丸事件 1899年(明治32年)、日本の民間有志がフィリピン独立運動を支援するため、武
器・弾薬を送ろうとして失敗した事件。フィリピン革命政府から日本に送り込まれたマリアーノ・ポ
ンセは、亡命中の孫文を介してアジア解放に関心を抱く宮崎滔天、犬養毅らと知り合い、彼らの
協力で陸軍の使い古された武器・弾薬を払い下げて貰う事に成功。三井物産所有の老朽船、布
引丸を譲り受け、武器を積んで長崎港を出たが、暴風雨のため中国・寧波沖で沈没した。
*ポーツマス講和会議 1905年、アメリカ・ポーツマスで行われた日露戦争の講和会議。日本の韓
国における権益の承認、旅順、大連の租借権、南樺太の日本への割譲などが決められたが、賠
償金は獲得できないなど講和内容に対する国民の不満が高まり、東京では暴動が発生した。
■ 20世紀特派員 植民地の日々−07
松岡総領事代理−きわどい“二重作戦”演じる
日本を頼って来ながらも、その日本から国外退去を命じられたベトナムのクオンデ侯は1909年
10月30日、神戸港発の日本郵船の客船「伊豫丸」で上海経由香港に向かうことになった。ベト
ナムにはもちろん帰れない。落ち行く当てのない流浪の旅の始まりである。
《唯一の楽園》 クオンデは出発前に世話になった犬養毅のもとを訪ねた。犬養は「我ら微力に
してこれ以上のご援助できぬは慚愧の極み」とわび、4千円の餞別と従者の分を含め3丁の短
銃を贈った。ここで犬養が言った「我ら」とは日本政府を指す。日仏協約の締結は日露戦争の戦
争債券償還のための借款が目的であり、また、フランスと今ことを構えれば、日本は欧米諸国が
もつ東南アジアの市場から締め出されてしまう。その辺を理解してほしいということである。
クオンデは「余は日本を唯一の楽園として修学のため来日した。これまでの日本の厚情に深く感
謝する」と謝辞を述べている。しかし、旅立ちはそう、すんなりとはいかなかったことが当時の内
務省の記録に残されている。出港を2日後に控えた28日、クオンデが投宿していた神戸のホテ
ルから行方不明になる事件が起きた。警察が懸命に行方を追い、やがてクオンデが親しくしてい
た「東京・鶴巻町のS女史のもとに潜んで」いたことが分かる。
内務省はクオンデを伊豫丸出港日の30日、新橋駅発の汽車に乗せ、船を門司まで追いかけて
乗船させた。クオンデが出国をいやがるのは当然で、すでにフランスはシュレテ(秘密警察)を動
員して出国の情報をキャッチし、反逆罪の首謀者として逮捕の準備を整えていた。ギロチンによ
る処刑の可能性もあった。
伊豫丸は11月3日、上海に入港した。しかし、クオンデは下船しなかった。波止場にはそれと分
かるシュレテがひそみ、乗客を検問し、ときには身体検査もした。夜は夜で、水上艇が数隻でて、
サーチライトで伊豫丸の周辺を照らし続けた。泳いで脱出するのを警戒しての措置である。
翌日、フランス総領事が上海の日本総領事館を訪ねてきた。「伊豫丸にクオンデ侯と2人の従者
が乗っていることは確かめた。3人の偽名を教えろ」という。日本側が意図的にこの政治犯をかく
まえば、借款問題も極めて難しくなるだろうという脅しもにおわせた。
応対した総領事代理・松岡洋右(まつおか・ようすけ)は、このとき29歳であった。翌5日、伊豫丸
が香港に向けて出港する日に、事件が起きた。伊豫丸のボーイの制服をきた若者が総領事館
に保護を求めてきたのだ。若者はクオンデの従者の1人で「侯とともに船を脱出し、フランス官憲
の目を逃れるため3人ばらばらに行動した」と証言した。さらに別のルートで、クオンデが無事に
古河鉱業上海支所に逃げ込んだことが確認された。
松岡洋右は、外務省には「仏印住民の管掌は仏国の任務なれば保護は仏総領事館に求めるよ
う」指示したと11月6日付で報告している。しかし、これは表向きで、実際はクオンデの身柄保護
にかなり奔走したことを同16日付の手紙で知らせている。
それによると、松岡は伊豫丸の出港をまってフランス側に3人の偽名を教えて、日仏協調を演じ
る一方、日本人の複数のボーイがシュレテに捕まり、持ち物まで調べられた事実をフランス総領
事に詰問もしている。実はこの調べられたボーイの中に変装したクオンデも含まれていて、きわ
どい脱出劇だったことが後に判明している。
フランス側は、この松岡情報をもとにして、香港に入った伊豫丸に網を張るが、主のいない荷物
が残っただけでもちろん空振りに終わった。その2カ月後、香港総領事、船津辰一郎が「香港の
郵船支社に侯の従者が現れ、荷物を引き取っていった」旨の公電を打っている。
若き日の松岡がクオンデ脱出劇をなぜ懸命に支えたのか。公電からは読み取れないが、彼の
経歴にヒントらしいものがある。松岡は13歳のときに単身渡米し、苦学しながら1900年、オレ
ゴン大を卒業した。その後、ロースクール(法学部大学院)を目指して勉強中に、突然のように帰
国し、外交官になるが、彼はこの9年間で貴重な体験を重ねている。
まず、渡米した際の最初の寄港地ホノルルでは、アメリカの軍艦「ボストン」が王宮に砲口を向け、
リリオカラニ女王に退位を迫る、ハワイ王朝乗っ取り事件が進行中だった。東郷平八郎の巡洋艦
「浪速」が駆け付けたおりも、松岡少年の船はホノルル湾にあったはずだが、そのことは彼の記
述にはない。
ひとつの国が力ずくで滅ぼされるのを目撃した少年は西海岸のオークランドの貿易商宅に居候
するが、その親切なファミリーは黒人奴隷に代わる中国人苦力の売買が生業だった。そして帰
国する前後の西海岸は、日本人移民への差別や排斥運動がまさに燃え盛っていた時期にあた
るのである。松岡研究の第一人者、三輪公忠・上智大教授は松岡の行動にこうした「人種問題
の現実が投影した」可能性を指摘する。クオンデを助けたのもアジア人への連帯意識からでは
なかったろうか。
《帰国の機会》 クオンデはその後、欧州などに逃避の旅を続けるが、第一次大戦のさなかに
再び日本に戻り、当時、同じような境遇のインドの志士、ビハリ・ボースやロシアのエロシェンコ
が世話になっていた新宿中村屋の相馬愛蔵、黒光(こっこう)夫妻のもとに身を寄せるが、この
頃、同家の令嬢・千賀子に「恋いわずらいで寝込むほど」思いをつのらせる騒動も起こしている。
第二次大戦中に日本軍がフランス植民地軍を倒したとき、さらには、南ベトナム政府の成立時な
ど、クオンデには凱旋帰国の機会が幾度かあった。しかし、国際情勢は一度も彼にほほ笑まない
まま1951年、東京・日本医大病院で肝臓癌のため死去する事になる。
当時の新聞は「安南・阮王朝嘉隆帝の直系であり、現バオダイ帝の大叔父に当たる。革命運動
の中心人物として明治39年、日本に潜入以後、帰国が果たせないまま亡命生活は40年余に
及んだ。侯の祖国は戦後、ホーチミンの共産政権とバオダイ政権に分かれて争っているが、侯
の二人の息子はホー軍に属している」と書く。どうにもやりきれない死である。
*豆事典
*松岡洋右(1880〜1946年) 外交官・政治家。アメリカ留学から帰国後の1904年(明治37年)、外交
官試験に合格し、上海総領事館を振り出しにロシア、アメリカに在勤する。21年に外務省を辞めて
満鉄理事となり、29年に帰国、政友会代議士に転身した。33年の国際連盟総会に首席全権とし
て出席したが、日本の満州国建設批判決議に抗議して議場を憤然と退場、連盟脱退の英雄とし
て右翼に賛美された。40年(昭和15年)には近衛内閣の外相になり日独伊三国同盟を締結。戦後
A級戦犯に指名され、46年に結核で死亡した。
*ハワイ王朝乗っ取り事件 ハワイはアメリカの圧力で1893年にカメハメハ王朝が倒され、共和制
を経て1900年にアメリカに併合された。1891年に王位に就いたリリオカラニ女王は王権強化を目的
に新憲法を公布しようとしたが、財産接収を恐れたアメリカのサトウキビ業者らの要請で米軍が出
動、93年に無理やり退位させられた。
*ビハリ・ボース(1886〜1944年) インド民族運動の指導者。1908年(明治41年)ごろから民族運
動を指導し、12年、イギリスのインド総督ハーディングに爆弾を投げつけ負傷させる。15年に来日し
たが、イギリスの圧力で国外退去令が出され、孫文らの助けにより新宿中村屋の相馬愛蔵・黒光夫
妻のもとに隠れた。その後、夫妻の長女、俊子と結婚し、太平洋戦争ではインド独立連盟総裁と
して日本に協力した。
*エロシェンコ(1889〜1952年) ロシアの盲目の詩人、児童文学者。主に日本語とエスペラント
語で著作を残した。1914年(大正3年)に来日、相馬黒光、秋田雨情、大杉栄、竹久夢二らと親交
を結び、日本語による口述筆記で短編小説「提灯物語」など多数の詩、短編を発表した。21年、
スパイ嫌疑で国外追放処分を受けた。
*相馬黒光(1876〜1955年) 夫の相馬愛蔵とともに1901年(明治34年)、東京・本郷にパン屋中
村屋を開業、店を新宿に移してから事業が軌道に乗り、エロシェンコら多くの芸術家のパトロン
となった。自伝「黙移」がある。
20世紀特派員 植民地の日々−08
祖国ベトナム−抗仏の強硬行動と大量逮捕
司馬遼太郎は陳舜臣との対談で「日本は日露戦争のあと、おかしくなった」と語っている。19世
紀、阿片戦争に代表される欧米のアジア侵略を見て、日本は明治維新を成し遂げ、近代化に邁
進した。日露戦争の勝利はそうした明治の気骨の集大成でもあったが、そこに到達した途端に
どっちに行くか、道を失った。そして日韓併合、対支21カ条要求と続く。欧米植民地帝国主義者
と変わらない行動が始まる。
その変身の説明に福沢諭吉の「わが国は隣国の開明を待って共にアジアを興す猶予あるべか
らず。むしろ、その伍を脱して西洋の文明国と進退をともにし、支那朝鮮に接する法も特別の会
釈に及ばず。まさに西洋人がこれに接するの風に従って処分すべき…」と言う「脱亜論」がよく引
用される。
諭吉の名誉のためにいえば、これは時事新報の社説として1885年(明治18年)3月16日付で
書かれた。日露どころか日清戦争の10年も前の、日本がまだひよこの時代の話である。諭吉は
当時、朝鮮の開化派の留学生を私財を投じて慶応義塾に受け入れていた。その学生たちが結
構悪くて慶応義塾の金庫破りをしたり、持ち逃げしたり問題ばかり起こしていると「福翁自伝」な
どでぶつぶつ書いている。
脱亜論は、そういう体験を踏まえ、時間のかかる「隣国の開明」を待つより、ともかく日本がまず
しっかりしなくては、それこそファン・ボイチャウ(潘佩珠)のいう「欧鯨米虎の蹂躙」の境遇に日本
もなってしまうという意図で語られたものだった。
《欧米と共に》 しかし日露戦争を経て、日本は確かに欧米とかわらない植民地帝国主義的行
動をとるようになっていく。「西洋の文明国と進退をともにして」対支21カ条を突き付けたのはベ
トナムにあれほど同情した大隈重信であり、犬養毅もまた植民地帝国主義を鮮明にしていった
張本人である。
そういう時期、「いやアジア人同士が今こそ団結しなければ」と潘は日本の進路に疑問をぶつけ
る「聯亜趨言(れんあすうげん)」を書いている。潘はクオンデ侯より一足先に日本からシャム(タ
イ)に逃げていた。「聯亜趨言」ではアジア諸国の自立の要は「(正統派の)中国と、近代化した日
本」がリーダーシップをとることだと訴える。
このアイデアは19世紀前半、松前藩から釈放されたゴローブニンがロシア皇帝に報告した内容
にも符合する。ゴローブニンは松前藩に捕らわれていたさい、知識階級からは程遠い感じの、し
りっぱしょりした牢番にコペルニクスの話を聞かされ、小さい星の上で争う愚を諭された体験を
語り、「日本と中国が力を合わせれば50年、100年のうちにロシアの脅威となる」と警告した。
日中が手をにぎれば、の予測は「黄色人種中の小さな巨人日本が眠れる隣人(中国)を揺り起こ
してヘゲモニーを掌握する日がこないとだれが言い切れるか」(ムソリーニ)とか、日中戦争につ
いてのチャーチルの「日中間で全面的な名誉ある講和を急いで実現させることはない。我々の
利益にはならないからだ」といった発言、さらにもっと端的な上海イギリス総領事サー・ジョン・ブレ
ナンの「(日中がひとつになることは)我々の国際的地位に対して極めて重大な打撃となる」という
言葉が示すように、世界に君臨する白人国家にとってこの20世紀を通しての現実に見える脅威
であり続けた。
しかし、日本も中国もそれに気付かなかった。そして泥沼の日中15年戦争に入っていくことにな
るわけだが、そのはるか前に潘がこの「欧米の悪夢」を見透かし、提言していたことは、彼の国
際的視野の確かさを裏付けてもいる。
孫文の辛亥革命が成功すると、潘は「聯亜趨言」を引っ提げて孫文の故郷であり、根拠地でもあ
る広東に行った。ここには日本を追われたベトナム人留学生や、フランス植民地政府の弾圧で
閉鎖された東京義塾の学生らが国境を越えて集まっていた。
《テロや暗殺》 潘は彼らを糾合して「越南光復会」を発足させる。会の宗旨は「仏賊を駆逐し越
南を回復して共和国たる越南民国を成立させる」事をうたい、明らかに孫文の国民党にならった
ものだった。
潘はここを根拠地にベトナム本国でのフランス要人の暗殺などを次々に展開していく。ハノイ兵
営毒殺事件から沈黙の5年間が過ぎた1913年3月、サイゴン(ホーチミン)の植民地政府庁舎
爆破テロで口火が切られ、4月にはビン市で政府役人が暗殺された。その2週間後、今度はハノ
イのホテルに爆弾が投げ込まれてフランス人2人が殺されている。この事件では250余人が逮
捕され、9人に死刑判決が下され、7人がギロチンで首を落とされた。残る2人は亡命中の潘と
クオンデ侯で、逮捕されれば、ただちに死刑が執行されることがこれで決まった。
その後も仏総督アルベール・サロー、二代後のメルラン総督をねらった爆弾テロが続き、仏軍基
地や政治犯を収容した監獄の襲撃が越南光復会のメンバーの手で次々行われたが、潘指揮に
よる抗仏活動は1925年にピリオドが打たれる。潘はその年、上海でフランス秘密警察に逮捕さ
れ、ハノイに護送された。
彼はすでに2回の死刑判決を受けていたが、フランスは死刑の執行をためらった。もし刑が執行
されれば全国的な規模の反政府デモが展開されるのは目に見えていた。総督は判決を書き直
し、終身禁固としたうえで、フエの王城が望めるソンフォン(香川)のほとりの家に軟禁を命じた。
潘の政治生命はここで終わるが、その残り火は今しばらく燃え続けた。彼のもとに何人かの学
生がこっそりと通い、その中にはやがてホーチミンの右腕となるボー・グエンザップも交じってい
たのである。この夏、ホーチミン市で会見したおり、老将軍は「日本のことも話してくれた。ベトナ
ムがどうすればいいかも。話を聞いているとじっとしていられなくなった」と当時を回想して語って
くれた。
潘は1940年、日本軍の北部仏印進駐の報を聞きながらこの家で死去する。最期の言葉はベト
ナム人が語ることを法律で禁止されていた正式の国名「ベトナム」だったという。
*豆事典
*日韓併合 1910年(明治43年)の「日韓併合に関する条約」調印により、大韓帝国(当時の国
号)が朝鮮と改称され、日本領となった。これにより、1392年から続いた朝鮮・李朝は滅亡し、
1945年(昭和20年)まで日本の植民地支配が続いた。
*対支21カ条要求 1915年(大正4年)、大隈重信内閣が中国(中華民国)の袁世凱(えんせい
がい=1859〜1916年)政権に突き付けた日本の利益拡大要求。第1次大戦で、列強の関心が
ヨーロパに集中しているすきに乗じて中国への進出をはかり、山東省のドイツ権益の譲渡、南満
州鉄道権益期限の99カ年延長などを求め、一部修正して承認させた。
*ゴローブニン (1776〜1831年) ロシアの海軍士官。1811年、軍艦ディアナ号の艦長として南
千島海域を測量中、国後島で部下とともに捕らえられ、函館で2年間抑留された。この間、間宮林
蔵らにロシア語やロシアの国情を教えた、帰国後は抑留生活の詳細な記録と鋭い日本観察から
成る「日本幽囚記」を著した。この本は各国語に翻訳され、ヨーロッパの対日認識形成に影響を
与えた。
*辛亥(しんがい)革命 1911年(明治44年)に起き、清朝を打倒して中華民国を樹立した中国の
革命。11年10月の武昌蜂起に始まり、12年1月には孫文(1866〜1925年)を臨時大総統とする
南京臨時政府が成立した。しかし、革命勢力は軍事的に弱体だったため、清朝で首相に起用さ
れていた軍閥の袁世凱と談判、宣統帝(溥儀=ふぎ、1906〜67年)の退位を条件に孫文は、11年
3月、大総統位を袁に譲った。
*ボー・グエンザップ(1912年〜) ベトナムの元副首相、大将。1930年のインドシナ共産党(現
ベトナム共産党)結成とともに入党。共産党非合法化により中国に亡命し、帰国後、抗日ゲリラ
隊を組織した。北ベトナムで人民解放軍最高司令官を務め、統一後、国防相、副首相、党政治
局員などを歴任した。
*20世紀特派員 植民地の日々−09
若きホーチミン−欧米渡航で人種問題に目覚める
17歳でギロチンにかけられた少年ヒュイとその処刑前夜に“インタビュー”した模様をジャーナリ
ストのアンドレイ・ビオリスが「インドシナSOS」で紹介している。
ヒュイの罪状はフランス人刑事殺害だった。場所はサイゴン(ホーチミン)の街頭、雑踏の中で数
人の若者たちがビラを配り、植民地政府の過酷な税制を非難する演説を始めた。仏領インドシ
ナでは夜道をランプを持たずに歩くことは犯罪とされていた。3人以上の集会も禁じられ、政府を
批判、中傷することも重大な罪とされていた。
だから、この街頭の出来事は犯罪であり、目撃したルグラン刑事は若者の群れに入って片っ端
から殴り倒していった。若者たちともみ合いになったとき、銃声がし、ルグラン刑事が倒れた。弾
かれたように群衆が割れ、若者たちが逃げ散ったあとに気を失ったヒュイが倒れていた、という
のが1931年に起きた事件のあらましだ。
《人権がない》 犯人がヒュイかどうか目撃した者もいなかった。状況からむしろ彼は無関係と
思われたが、白人殺しは重大な犯罪だった。ヒュイは逮捕され、尋問という名の拷問を受けた。
ビオリスはその拷問について「逆エビ状態に手足を縛り、その足の裏をこん棒で殴る」「縛られた
後ろ手を頭の上まで水平になるまで引っ張る拷問ではほとんどの容疑者が失神した」「通電した
鞭で打つ近代的手法も有効だった」と記録する。しかし、ヒュイは「自分で舌をかみ切り、自白が
できないようにして拷問に耐えた」という。
植民地の人々には人権はなかったが、ただ、フランスは年齢について寛容だった。16歳で成人
の権利が与えられ、だから人頭税も課せられ、同時に死刑も適用された。「ヒュイはギロチン台
に寝かされたとき、不自由な口で『ベトナム』と叫んだ。しかし、すぐ50キロの鉄の刃が彼を沈黙
させた」
このヒュイについてビオリスは簡単に「広東のボロディン学校の学生」と触れている。ボロディン
学校とは、孫文が国共合作の象徴として1924年に広東に設立した「黄埔軍官学校」の事であ
り、校長に蒋介石、副校長には周恩来が就き、コミンテルンからミハエル・ボロディンが顧問の
形で派遣された。
ボロディンには通訳として東洋系のやせた男が随行していた。阮愛国、あるいはブォンと名乗る
男は軍官学校の中にベトナム青年を集め、独立抗争の活動拠点となる特別クラスを作った。
この通訳こそ、潘佩珠に代わってベトナムの独立抗争の後半部分を仕切ることになるホーチミン
その人であり、ボロディン学校は彼が欧州、ソ連を経て革命家としてアジアに戻ってきた最初の
舞台でもあった。潘はこのとき60歳、広東を根拠地に越南光復会を作り、独立活動を続けてい
たが、広東にきたホーチミンは34歳である。世代も手段も違った2人の革命家はこの地で対面
し、政治路線について話し合うが、実はこれが初対面ではなかった。
ホーの父と潘は同じ郷土、ゲアン県の出身の親友だったといわれており、潘が日本に遊学(東遊
運動)に出かける際、15歳だったホーを日本に誘っている。しかし、ホーは断った。この辺のとこ
ろをベトナム外文書院のホー伝記などは「虎をやっつけるために狼に噛まれにゆくのか」と、帝
国主義日本を見透かしたかのような台詞を伝えているが、日露戦争の決着もつかないうちにそ
こまで見通していたというのは少々、作り過ぎだろう。そしてホーはフランス汽船「ラトゥシュ・トレ
ビーユ」号の釜炊きになって欧州に向かう。
問題はその旅立ちの日付で、1906年から12年まで諸説ある。ホーチミンの1番弟子といわれ
るファン・バンドン元首相は「日本行きを拒否したホーはユエの王立クォクホク高校に学び、それ
からパリに行った」と12年説を示唆し、バーナード・フォールなどホー研究家も12年説を取る。
《挫折と転向》 ところが1983年、あのセザンヌが好んで描いたサントビクトール山のふもと、エク
サン・プロバンスで、とんでもない貴重な史料がみつかった。イギリスのICS(インド高等文官制度)を
見習ってフランスが創設したエコール・コロニアル(植民地官吏大学院)に阮愛国が提出した入学願
書で、日付は1911年9月15日となっていた。受験の理由として滑らかなフランス語で「フランスの
統治にベトナム人である私にできることが多いと信ずる」といったようなことが書かれている。
フランスにあこがれ、迎合する軽薄なイメージは今日語られるホー伝説にはどうにもなじまない
が、それはともかく、この発見で12年渡航説は消え、フランス語のできからもっと早い時期の渡
航が有力になっている。そして阮は試験に落ち、反仏反植民地主義に転向、やがて偉大な革命
家に生まれ変わるのだが、その時期については「第一次大戦中、フランスを離れて貨物船の水
夫や給仕をしながらアフリカ、アメリカ、そしてイギリスを渡り歩いている間」だったという説が強い。
実際、イギリスでは菓子職人をしながらアイルランドの独立運動に積極的に参加した記録があ
り、ニューヨークでは黒人差別の実態に触れて人種問題に目覚めていったことが1995年、カリ
フォルニア大学のJ・リプシッツ教授の研究で明らかにされている。これはFBI(米連邦捜査局)の
解禁史料から見つかったもので、ホーは当時、ブルックリンに住み、「黒人と日本人の連合が白人
種と戦う世界大戦」を予言する黒人民権運動家、マーカス・ガービーのもとに通っていた。
「彼らは黒人を森に連れ込み木に縛り付けてガソリンをかける。赤い炎の葬式が始まる前に黒
人の歯が一本ずつへし折られ、目がくりぬかれ、焼けただれた鉄棒で舌が焼かれた。これが彼
らの言う文明なのか」コミンテルンの「国際通信」にホーが寄稿した一文である。「阮愛国はこの
時期に目覚めた」というリプシッツ教授の言葉の方がホー伝説よりも信頼が置けそうだ。
ちなみに宗主国の植民地官僚試験に落ちて180度転向した例はいくつかある。1920年、最難
関のICSをほぼトップで合格しながら、最後の乗馬試験で落ちたチャンドラ・ボースもその1人だ
が、彼は第二次大戦末期、40万人の日本兵とインドに攻め入るインパール作戦を演出した。
《挫折と転向》 ところが1983年、あのセザンヌが好んで描いたサントビクトール山のふもと、エク
サン・プロバンスで、とんでもない貴重な史料がみつかった。イギリスのICS(インド高等文官制度)を
見習ってフランスが創設したエコール・コロニアル(植民地官吏大学院)に阮愛国が提出した入学願
書で、日付は1911年9月15日となっていた。受験の理由として滑らかなフランス語で「フランスの
統治にベトナム人である私にできることが多いと信ずる」といったようなことが書かれている。
フランスにあこがれ、迎合する軽薄なイメージは今日語られるホー伝説にはどうにもなじまない
が、それはともかく、この発見で12年渡航説は消え、フランス語のできからもっと早い時期の渡
航が有力になっている。そして阮は試験に落ち、反仏反植民地主義に転向、やがて偉大な革命
家に生まれ変わるのだが、その時期については「第一次大戦中、フランスを離れて貨物船の水
夫や給仕をしながらアフリカ、アメリカ、そしてイギリスを渡り歩いている間」だったという説が強い。
実際、イギリスでは菓子職人をしながらアイルランドの独立運動に積極的に参加した記録があ
り、ニューヨークでは黒人差別の実態に触れて人種問題に目覚めていったことが1995年、カリ
フォルニア大学のJ・リプシッツ教授の研究で明らかにされている。これはFBI(米連邦捜査局)の
解禁史料から見つかったもので、ホーは当時、ブルックリンに住み、「黒人と日本人の連合が白人
種と戦う世界大戦」を予言する黒人民権運動家、マーカス・ガービーのもとに通っていた。
「彼らは黒人を森に連れ込み木に縛り付けてガソリンをかける。赤い炎の葬式が始まる前に黒
人の歯が一本ずつへし折られ、目がくりぬかれ、焼けただれた鉄棒で舌が焼かれた。これが彼
らの言う文明なのか」コミンテルンの「国際通信」にホーが寄稿した一文である。「阮愛国はこの
時期に目覚めた」というリプシッツ教授の言葉の方がホー伝説よりも信頼が置けそうだ。
ちなみに宗主国の植民地官僚試験に落ちて180度転向した例はいくつかある。1920年、最難
関のICSをほぼトップで合格しながら、最後の乗馬試験で落ちたチャンドラ・ボースもその1人だ
が、彼は第二次大戦末期、40万人の日本兵とインドに攻め入るインパール作戦を演出した。
*豆事典
*コミンテルン 1919年(大正8年)、レーニンらの指導の下、モスクワに創設された国際共産主
義運動の指導組織。共産主義インターナショナルの略称で、第3インターナショナルとも呼ばれ
る。マルクス・レーニン主義を思想的基礎にした中央集権の組織原則をとり、各国共産党はその
支部となった。1943年(昭和18年)に解散。
*ミハエル・ボロディン(1884〜1951年) ソ連の政治家、コミンテルンの活動家。早くから地下活
動を続け、アメリカに亡命し、ロシア政治犯の救援活動にあたった。コミンテルン創設後、トルコ、
メキシコ、スペイン、イギリスを転々とした後、1923年(大正12年)に孫文に招かれ、広東省広州
で中国国民党の政治顧問となり、中国共産党との第一次国共合作(1924〜27年)に動いた。蒋介
石の反ソ政策により国共分裂後、ソ連に帰国したが、反ユダヤ政策の犠牲となり獄中で死亡した。
*マーカス・ガービー(1887〜1940年) ジャマイカ生まれの黒人運動指導者。1916年に渡米した。
ニューヨークのハーレムを中心に大規模な黒人大衆運動を展開して白人社会への同化を拒否し、
黒人の自立を呼びかけた。20年代に黒人のアフリカへの帰還運動を行ったが挫折、27年にアメ
リカを追放処分になり、ロンドンで客死した。
?チャンドラ・ボース(1897〜1945年) インド独立運動の指導者。イギリス・ケンブリッジ大学を卒業
し、帰国後、対英非協力運動に参加して4回投獄された。カルカッタ市長、ガンジーの国民会議派
議長などを務めたが、急進的主張のために1939年(昭和14年)、国民会議派を脱退した。41年に
ドイツ、43年に日本を訪れ、インド独立の立場から、対英戦を遂行する日独を支持した。終戦直後、
台湾で飛行機事故により死亡。
*インパール作戦 第2次大戦中の1944年(昭和19年)、日本軍がインド北東部のインパールへ
進攻し、イギリス・インド連合軍に敗退した作戦。ビルマ防衛線の前進が目的だったが、補給路と
制空権がなく惨敗、撤退途中でも数万人の犠牲者を出した。
20世紀特派員 植民地の日々−10
革命世代の交代−英雄は2人もいらない
仏文学者の小松清はパリ時代のホーチミン(阮愛国)と親交のあった恐らくただ1人の日本人だ
ろう。彼はその出会いを「ヴェトナムの血」に書いている。1921年10月、アメリカの法廷がイタ
リアの無政府主義者に死刑判決を下した、いわゆるサッコ、バンゼッティ事件を糾弾する集会が
パリ・テルヌ広場の近くで開かれ、小松はそこで「痩身長躯、蒼ぐろい顔、奥まった眼窩の底から
鋭い視線を放つ」東洋人に会う。「アンナミット(安南人)の阮愛国」と彼は名乗った。仏共産党機
関紙「リュマニテ」に論文を執筆中という彼は流ちょうなフランス語をこなし、目下語学研修中の
小松とは「もっぱら英語で話した」という。
小松はモンマルトルの奥、アンパス・コンポアン通り九番地の七階屋根裏にある阮のアパートも
訪ねている。「電灯もなく、アルコールランプが灯火と煮炊きを兼ねていた」。仏共産党員の友人
も「寒い冬には家主のおばさんに頼んでストーブに煉瓦を入れさせてもらい、夜、それを毛布に
くるんでアンカ代わりにしていた」とその貧しさを書く。阮はアパートの一階の写真屋に勤めてわ
ずかな生活費を得ていた。「写真の修正はグエンの店で。すてきな額縁付きで四十五フラン」と
いう新聞広告が残っている。
《立ち尽くす》 阮が先鋭的な共産党活動家だったことは、彼が主宰した「ル・パリア」誌の論文
でも明らかだが、それでもなお、ベトナム学の権威であるプリンストン大学のJ・マカリスター教授
が言うように「彼は共産主義者というよりは、愛国者、民族主義者だった」という評価が目につく
し、第二次大戦末期にホーチミンに協力したOSS(米戦略局)の報告にもそうした記述がある。
事実、1920年、ツールで開かれた社会党大会で、阮は「牢獄を増やし、拷問と毒殺(アヘンとア
ルコールを指す)で自国の利益だけ追求している」とフランスの植民地支配を糾弾し、「ベトナム
を救って欲しい」という哀願の言葉で演説を結んでいる。しかしフランス共産党は同じヨーロッパ
人のサッコには燃えても、非白人世界の問題には全く無関心でしかなかった。
その前年には、有名なベルサイユの立ちん坊騒動もあった。第一次大戦後の戦後体制について
の会議に臨んだ米大統領ウィルソンに対し、阮が直訴状を届けようとしてベルサイユ宮殿の前
で数日間、立ち尽くしたことをいう。
例の14カ条にいれた「民族自決」の言葉が祖国を奪われた阮には福音のように聞こえたからだ
が、ウィルソンもまた、非白人世界には冷淡だった。彼の提案した国際連盟が欧米の植民地支
配を公認し、日本の提案した「人種平等」案を葬り去ったことを阮は裏切りととらえ、小松にもそ
の怒りを語っている。
阮は小松との出会いから2年後、突然の別れを告げてモスクワに行くが、これも多くの共産主義
者の“メッカ巡礼”とは違い、レーニンの第三インター(コミンテルン)に最後の望みを託したから
である。
レーニンはこの中で初めて植民地解放と後進諸民族の自決をうたいあげ、これが仏共産党に挫
折し、ウィルソンに絶望した阮愛国にとって新しい福音となった。まずベトナムの独立があり、そ
れに力を貸してくれそうな勢力なら何でもすがっていこうという、それからの阮の行動パターンの
原型になるものだ。
彼が広東の黄埔軍官学校に現れ、ボロディンの通訳になるのは仏共産党のコミンテルン代表と
してモスクワに行き、そして東方勤労者共産大学(クートベ)で共産党戦略を学んだあとの1924
年暮れになる。
このころの阮愛国について、ホーチミン市(サイゴン)でこの夏、インタビューに応じたボー・グエン
ザップは「彼の出した『ル・パリア』誌や『ベトナム人の魂』はハノイ大学の学生の間で読み回さ
れた。フランスの秘密警察がどこでも目を光らせていたので、彼らに見つからないように大変な
苦労をした。教室の黒板の裏がよく隠し場所に選ばれた」「その先導者が国境のすぐ向こうの広
東に現れたという知らせはみんなを興奮させた」と語っている。
ボロディン学校には噂を聞き付けた学生たちがつめかけ、この中にはファン・バンドンや17歳で
ギロチンにかけられたヒュイ少年もいた。しかし、阮が全く共産党的でなかったかというと、そう
でもない。プリンストン大学のジョン・マカリスター教授は「ホーチミンが最初にした共産党員とし
ての任務はまず潘佩珠(ファン・ボイチャウ)をフランス官憲に売り渡すことだった」と「革命の原
点」の中で書いている。潘はこの時期、広東に作った越南光復会を擁して抵抗運動の指揮を続
け、フランスも十万ピアストルを超える賞金をその首にかけてこの抵抗の英雄を追っていた。
《架空の手紙》 1925年7月、杭州の潘の隠れ家に1通の手紙が届いた。ベトナムの革命を遂
行する国際連帯会議が上海で開かれる、という文面だった。潘は杭州の隠れ家から上海に向か
い、汽車が上海北駅に入ったところで突然、数人のフランス人密偵に取り囲まれた。「まるで動
物を扱うように引きずり出され、上海のフランス租界の警察署に運ばれ、留置された。私がもし
独立国の国民だったらこのようなひどい仕打ちは受けなかっただろう」(潘佩珠「獄中記」)
連帯会議などもちろん架空の話だった。手紙の発信人は阮愛国の側近の1人であり「ホーチミン
は潘の首にかかっていた15万ピアストルの賞金をえて」(マカリスター)、党の活動資金とした。
英雄は2人もいらない、ということだろうか。しかし、その阮愛国もやがて国民党とソ連の仲たが
いで居場所を失い、1931年6月6日、香港でイギリス官憲に逮捕、投獄される。それから間もなく
フランス共産党機関紙「リュマニテ」は阮が「香港の監獄で肺結核のため獄死した」と報じ、少し
遅れてソ連の「プラウダ」、イギリスの「デリー・ワーカー」もこの訃報(ふほう)を載せた。モスクワ
のクートベではささやかな葬儀も営まれた。
ベトナム政府のホー伝記では「イギリス人弁護士ロズビーが仮釈放させ、厦門(アモイ)に密出国
させた」とある。この死亡記事は後々、阮愛国・ホーチミン別人説の根拠のひとつになるが、それ
は後に触れる。
*豆事典
*サッコ、バンゼッティ事件 マサチューセッツ州の製靴会社で1920年に起きた強盗殺人事件
により、ニコラ・サッコ(1891〜1927年)とバルトロメオ・バンゼッティ(1888〜1927年)は逮捕された。
2人は無実を主張し、物証もなかったが、イタリア系移民であり、無政府主義者だったことなどか
ら陪審員の偏見の的となり、死刑判決を受け、27年に執行された。その後、真犯人が判明し、死
刑執行から50年後の1977年、マサチューセッツ州知事が2人の無実を公式に認めた。
*モンマルトル パリ北西部のセーヌ川右岸にあるモンマルトルの丘を中心とした繁華街。19世
紀後半から印象派、象徴派、立体派などの多くの画家が集まり、近代美術をはぐくんだ。
*OSS(米戦略局) 第2次大戦中、アメリカの戦時情報局内に置かれていた情報機関。
*ウッドロウ・ウィルソン(1856〜1924年) アメリカの第28代大統領(在任1913〜21年)。高関税
の引き下げや中小企業を救済するための連邦準備銀行の設立、トラストを制限する立法など革
新的政策を推進した。第1次大戦に参戦しないことを公約に、大統領に再選されたが、1917年、
ドイツの無制限潜水艦作戦に対抗することを理由に連合国側に参戦。講和のための14カ条の
原則を提唱し、国際連盟の設立に尽くした。
*中国国民党 1919年に発足した近代中国の主要政党。孫文を中心に、三民主義を指導理念
とし、中国青年党にはじまり、興中会、中国革命同盟会、国民党、中華革命党を経て中国国民
党へと改組・発展した。1925年の孫文死去後は蒋介石が台頭。第2次大戦後、中国共産党との
内戦に敗れ、台湾に逃れた。
*厦門(アモイ) 中国福建省南東部の台湾海峡に面する港湾商工業都市。南京条約(1842年)
によって開港された5港のひとつで、華僑の主な送り出し港だったことでも知られる。中国の改
革・開放政策により、1980年に経済特区に指定された。
20世紀特派員 植民地の日々−11
僧ウー・オッタマ−民族の求心力を奪う
ベトナムの壮士が日本を追われた時期、もうひとつのアジアの国から“奇跡の日本”を学びにき
た人物がいた。1910年(明治43年)、名古屋の豪商、伊藤次郎左衛門の屋敷で法要が営まれ
ていたおり、門前に「異形の托鉢僧が立った」と松坂屋の社史にある。「黄色い衣をまとい、身の
丈六尺の偉丈夫で、さいづち頭の下の眼光はあくまで鋭かった」これがビルマ(ミャンマー)独立
運動に大きな足跡を残すことになる僧ウー・オッタマの日本での最初の風景になる。黄色い僧衣
というのは東南アジア特産のナンカの木の樹液で染めたもので、タイ、カンボジアなど小乗仏教
寺院もこの色で染められたものが多い。聖なる色である。
《イギリスが紹介》 オッタマはこのとき29歳、いかつい印象は出身地アキャブに多いアラカン族
の血が入っているためとも言われ、その見かけ通りの硬骨漢だった。彼はイギリスに留学したあ
と、「ボーユー」(イギリスかぶれ)になるどころか、逆にイギリスの植民地支配を攻撃する過激な辻
説法を繰り返して何度か投獄されてもいる。
そのオッタマに日本を紹介したのは皮肉にも宗主国のイギリスだった。20世紀初め、ビルマに
映画館が登場し、そこで南アのボーア戦争や日露戦争の記録映画が上映された。「同盟国(日
英同盟)の勝利の記録と考えたイギリスの思惑とは別のところで、ビルマ人は自分たちと同じ肌
の色をした日本人がロシア軍の輸送列車を襲い、白人が逃げ惑い敗走する姿に拍手し歓声を
あげた」(ティン・アウン著「ビルマ史」)
オッタマもそれに刺激されたことを後に出版した本の中で「留学したイギリスでは日本人は体躯
矮小にして取るに足らぬ民族と習った。その日本が隆盛し、(白人国家に)勝利したのは明治天
皇のもと、青年が団結してことに当たったからだ」と書いている。日本人にできたことはビル人に
もできるはずだ、そのために何をすべきか、というのが訪日の動機だとオッタマは次郎左衛門に
語っている。
《大きな屈辱》 ビルマはベトナムとほぼ同時期の1883年、イギリスの植民地インドから派遣され
た1隻の砲艦の前に降伏し、そのインドの1州としてイギリスの植民地にされた。阿片戦争を「貿
易戦争」と書くイギリスの歴史書は、このビルマ王国乗っ取りも「第三次英緬戦争」と称する。
実際、マンダレーの王城に入った英印軍は正規の“戦争”の勝利者として振るまい、アユンパヤ
王朝最後の国王となるティボーと出産直前の王妃を「庶民の使う牛車に押し込めるという屈辱を
与えて王城から追放し、黄金製の玉座など王家の財産を没収した…」とティン・アウンは書いている。
ビルマ国王と王妃、それに4人の王女はインドの西部、ボンベイ(ムンバイ)近くの、ラトナギリに
流された。オッタマはこのとき5歳、ビルマのしきたりにならって僧院で修行をしていて、この悲劇
を聞かされた。「イギリスはインドの例のように、国を取るとまず王族を異国に流した。民族の求心
力を奪う最も効果的な方法だからだ」
「インドの例」とはムガール帝国の国王バハダールシャーをビルマに流した事を指す。ヤンゴン
の中心部にある、シュエダゴン・パゴダの近くのごみごみした一角にその名を冠したモスクが建
てられているが、バハダールシャーは1858年にこの地に流され、5年後に没した。遺体は故国
に埋葬することも許されず、同じ場所にモスクを兼ねて作られた霊廟に安置された。
今、バハダールシャー霊廟は、最後まで仕えた側近の末裔だというマウルビ・ナジール(37)が
守っている。案内された霊廟の入り口には「レッド・フォート」とサインされていた。17世紀、あの
シャージャハンが赤い砂岩で建てたムガール王朝の居城の名は、故国を思う国王の気持ちを表
すように血のような赤色の地に書かれていた。
ビルマ国王もまた、30年遅れで同じ道を歩んだ。いや、もっと悲惨だったかもしれない。イギリス
は王朝復活の望みを断つために、王位継承者第1位にあった第1王女、パヤを身分の低いイン
ド人軍属と結婚させる。しかも、この男には正妻がいることがやがて分かり、王女は最貧層の社
会に落とされて不遇の中で死ぬ。
悲劇が現代にも続いていることを95年9月16日付のインドの有力英字紙、ヒンドスタン・タイム
ズが伝えている。王女パヤの娘、つまりティボー国王の孫娘ツツが「教育も資産もないまま、貧
しいインド人の妻となり、今は6人の子供を抱え、ラトナギリの街角で造花を売りながら暮らして
いた。母の、そして祖父国王の話したビルマ語も忘れていたが、顔立ちには王族らしい気品を備
え、それが哀れだった」と。
《重なる投獄》 バハダールシャーを失ったインドは国家の求心力を失い、さらにイギリスによってヒ
ンズー、イスラムなどの宗教対立、民族対立をあおられ、やがて国家の体をなさないほどバラバ
ラにされていった。そして「国王を失ったビルマもまさにその同じ道を歩まされている」と次郎左
衛門に対し憂国の僧は言葉を結んだ。彼はこの出会いで、次郎左衛門の支援を受け、孫文やビ
ハリ・ボースとも親交を重ねた。知己の1人となった西本願寺派の大谷光瑞の世話で竜谷大でも
教鞭をとり、仏教語のパーリ語を日本に紹介している。
1918年、オッタマはラングーン(ヤンゴン)に戻ると、再び反英説法を始める。植民地政府はそ
の都度、投獄するという過酷な手段で応じ、このいたちごっこは1939年、彼が獄死するまで続
いた。この火の玉のような説法に加え、彼の著作がビルマ青年層の間に揺さぶりをかける事に
なり、1920年、「ビルマ総評議会(GCBA)」が発足する。GCBAは汽車に白人専用の客車を置
くなどの差別の撤廃を訴えたり、土足でパゴダに入っていたイギリス人を立ち入り禁止にしたり
する強硬案を次々に議決していった。
さらにオッタマの指導で始まったイギリス製品不買運動、いわゆるウンタヌーが全土に広がって
いった。GCBAの活動はやがて30年代のタキン党の結成、そしてアウンサンらの独立抗争に
結び付いて行った。そうした運動の、まぎれもない原点となったオッタマの著作の題名は「日本」
だった。
*豆事典
*アラカン族 ミャンマー西部のアラカン山脈周辺に住む民族。ビルマ語の方言を話す仏教徒。
*アユンパヤ王朝 ビルマ(現ミャンマー)最後の王朝(1752〜1885年)。ビルマ族による3度目の
国土統一を達成したアユンパヤ(1714〜60年)が開祖で、1767年にはタイのアユタヤ王朝を攻め
滅亡させるなど、領土を拡大させた。しかし隣国インドの植民地化を進めていたイギリスによる
1824年から85年の間の3次にわたるイギリス・ビルマ(英緬)戦争で滅亡した。
*ムガール帝国 イギリスがインドに侵入する前の最後の王朝となったイスラム帝国(1526〜18
58年)。初代皇帝バーブル(1483〜1530年)がモンゴル帝国の創始者ジンギス・カンの血統を引く
と自称したことからムガール(モンゴルの意味)帝国と呼ばれた。3代アクバル(1542〜1605年)の
時に帝国の基礎が確立され、インド・イスラム融合文化が繁栄。6代アウランゼーブ(1618〜1707
年)の死後、土侯が各地で割拠して帝国は事実上分裂。ヨーロッパ列強が次第に進出し、1858年、
イギリス東インド会社に滅ぼされた。
*大谷光瑞 (おおたに・こうずい=1876〜1948年) 宗教家、探検家、浄土真宗本願寺派第22世
法主。ヨーロッパ留学後の、1902年から第1次大谷探検隊を率いてインド・チベットなどの仏跡を
巡歴。1903年(明治36年)には父の21世光尊の死により法主を継いだ。大谷探検隊は第1次の
後、さらに2次にわたって派遣され、インド・中央アジアでの遺跡調査と文物収集を継続した。
*アウンサン(1915〜47年) ビルマの政治家、独立運動の指導者。ラングーン大学に在学中から
反英闘争を続け、1941年(昭和16年)、ビルマ独立軍を結成し日本軍とともにイギリス軍と戦った。
しかし、44年に抗日に転じ、第2次大戦後の47年、イギリスとの独立協定(アウンサン・アトリー協
定)に調印したが、その47年に暗殺された。現在、ミャンマーの民主化運動を指導している、アウン
サン・スー・チー女史(1945年〜)は長女。
『20世紀特派員』シリーズって単行本化される(てる)もんだけど
こんなことして大丈夫か?
55 :
朱雀 ◆OtUfBSUc :02/05/21 13:01 ID:/18CBS9Y
この話しは 『20世紀特派員−4』98-05 に出ています。
単行本が発売されても、4年間、sankei.co.jpで自由に読めました。
先月までは、netに掲載されていましたので、実害はあまり無い
と判断しました。
また、途中で、まとめや論評を入れれば、著作権の問題は回避可能
だと思います。
20世紀特派員 植民地の日々−12
分割統治−人種、宗教対立が移植された
ヤンゴンの北部、コンミンダーの丘に皇居を思わせる重々しい石垣が巡らされたミャンマー国軍
の施設がある。日立の「?この〜木なんの木、気になる木」というテレビコマーシャルで知られる
ココの木(英語ではモンキーポッドと言う)が生い茂り、18ホールのゴルフ場もある広大な施設は、
現在の国家平和発展評議会(SPDC)のメンバーぐらいしか入れない。その施設の奥の奥にある
国軍戦史博物館では今、イギリスのビルマ(ミャンマー)植民統治の分析が行われている。
陸軍大佐でもあるイエ・タット館長は「イギリスはインド統治のテクニックをすべて投入し、あのセ
ポイの反乱も徹底的に分析して、その教訓も生かしていた」と前置きしながら、イギリスが実施し
た4つのステップを説明した。
最初はすでに触れた国民の求心力を奪う王族の島流し。次に反抗の意欲を失わせる徹底した
弾圧、第三のステップがビルマ人の民族意識を物理的に希薄にさせる異民族の移植、そして最
後に少数民族を引き込んだ分割統治作業の順になるという。
《武器を狩る》 弾圧はイギリスがビルマで本格的な植民地統治を始めた1886年から4年間
に6万人の英印軍と軍事警察官を動員して行われ、小さな反抗でも、その地方の指導者、関係
者、時には家族まですべて処刑した。ローマ軍が行った「デシメーション」の現代版で、ローマ軍
は1人殺されれば、その村落の村人を並ばせ、10人に1人を選び出して処刑した。イギリスはし
かし10人のうち5人以上、ときには全員を殺したと伝えられる。アウンサンの父もこのとき処刑
された1人だった。
武器狩りも行われた。今、ヤンゴンの雑貨店をのぞくと、先端を切断した包丁、鎌、ダー(山刀)を
時々見かける。日常に使う刃物が武器に転用されないようにしたイギリスの当時の施策の名残
である。
この血みどろの弾圧が終わると、イギリスは主としてベンガル地方(バングラデシュを含む)から
毎年10万人単位で大量のインド人を入植させていった。アメリカの近代史家、J・S・ファーニバ
ルの「植民地政策と実態」によると、20世紀最初の年、イラワジ川下流の「ロワー・ビルマ」の人
口は約500万人だったが、このうちインド系が58万5千人、イギリス人、華僑などその他の外国
人が12万人だったという。
ロワー・ビルマ全体の約13%になるが、そのほとんどが都市部に集中していたので、ラングーン
の人口構成となると、インド系54%、中国系7%、イギリス人など4%で、ビルマ人は約3分の1の
36%に過ぎなかった。これを象徴するように現在のヤンゴンの中心地スーレー・パゴダの周辺に
はイスラムのモスク、広東、福建の仏寺、聖オーガスティン教会などが並び、その周囲にイスラム
居住区、華僑居住区などとともに、この国の主であるはずの「ビルマ人居住区」もある。
ビルマに入り込んだインド人、華僑は労働力としてもビルマ人をしのいだが、「商才もはるかに長
けていた」(ファーニバル)。インド人はやがて高利貸など金融業を独占し、一方、華僑もいち早く
機械精米を取り入れたり、流通業に進出したりして、資産や土地所有を増やした。
ファーニバルのデータによると1930年代には96万エーカーのうち49万エーカーが外国人の
所有で、その分、ビルマ人が小作人に落ちていったことを示している。インド人や華僑の大量投
入はビルマ族の希薄化と同時に経済的な弱体化の点でも成功したわけだ。
そしてイギリスは仕上げにモン、カレン、チンなど山岳部少数民族の住む地域をイギリス総督直
轄領とし、彼らにキリスト教を布教するとともに、教育の場を与え、軍人、警察官の職務につか
せた。ビルマ族とそれに次ぐ勢力をもっていたシャン族はこの枠から外した。
第一次大戦時にイギリスイギリスは自国権益のアングロ・ペルシャ油田を守るためなどに62万の
インド兵を送り出し、フランスもベトナムから9万人を徴発した。いずれも宗主国の兵士の盾に使わ
れ、メソポタミア戦線では1割強という記録的な戦死者を出しているが、この時ビルマからは1万
人しか動員していない。分母の小さい少数民族で軍を構成していたためである。
ビルマはインドのように人種、宗教が入り交じってはいなかった。平野部は敬虔な仏教徒ビルマ
族が占め、言語も文字も違うカレンなど25%の少数民族は山岳部にいるが、彼らとは歴史的に
も“棲み分け”ができていた。分割統治には最も不向きな状況だったが、この巧妙な植民地施策
の結果、例えば1937年にはインドと同じようにイスラム教徒と仏教徒の衝突があり、約3千人
が死亡する宗教紛争も起きている。
《重い後遺症》 当時の首相バー・モウはその責任をとらされて投獄されたが、「ビルマの中に
人種、宗教対立を持ち込み、見事なまでにインド化したのはイギリス」(タット大佐)だから、これ
はどうみてもぬれぎぬである。第二次大戦後、独立したビルマの最大の問題はイギリスが残し
ていった植民統治の“後遺症”だった。その例に「ネ・ウインの90チャット札」がある。
前述したように、インド人入植者は高利貸など小口金融を握り、イギリスが去ったあともビルマの経
済支配を続けていた。ネ・ウインはまず、銀行預金に限度額を設け、それを超える場合は国庫に
没収した。インド人高利貸を狙い撃ちにした経済政策である。
インド人はびっくりした。銀行預金をやめてタンス預金に切り替えたが、ネ・ウインは今度は新紙
幣を発行し、旧紙幣を無効とした。インド人はしようがないからタンス預金を切り替えにいくと、や
はり上限が設定されていて、それ以上は没収された。この新紙幣発行は何度も行われ、遂には
紙幣の額も変えられ、15チャット紙幣、90チャット紙幣など中途半端な金額の札が登場した。
結局、蓄財のうまみがなくなり、インド人入植者ばかりでなく華僑の多くが70年代から80年代
にかけてミャンマーを出国していった。しかし、もうひとつの植民統治の遺産、少数民族との対立
は半世紀たった今、やっと解決の糸口が見えてきた状態だ。
ちなみに、ベトナムでも状況は同じで、こちらは華僑が経済実権を握っていた。南北ベトナムが
統一されたあと、数10万のボートピープルが出たが、その大半は華僑たちだった。
注:ビルマの植民地化は1826年に下ビルマ( Lower Burma )の一部から始まった。1856年に下ビ
ルマ全体、1886年に上ビルマ(Upper Burma)が英国の直接統治下に入り、1897年にはインド帝国
の一州として正式に英領ビルマ( Province of Burma )となった。下ビルマはエーヤワディ(イラ
ワジ)川のデルタ地域であり、上ビルマはドライゾーンと呼ばれる乾燥地域である。上ビルマ、下ビ
ルマをあわせた地域は、 一般に Burma Proper と呼ばれる。
Burma Proper における行政区分は、管区( Division )−県( District )−郡( Township )−村落
区( Village ward )/ 町区( town ward )となっていた。Season and Crop Report をはじめとする
種々の統計データは、県を単位として集計されている場合が多い。県は、 耕地の拡大等の理由に
よって新設、名称変更が行われ、またその管区区分も年度によって変化した。
http://www.ier.hit-u.ac.jp/COE/Japanese/discussionpapers/DP97.17/okamoto2.htm
豆事典
*国家平和発展評議会(SPDC) 1988年(昭和63年)のミャンマー(ビルマ)の軍事クーデターで
全権を掌握した国軍が、ソウ・マウン国防相兼参謀総長(当時)を議長として発足させた最高意
思決定機関「国家法秩序回復評議会」(SLORC)の新しい名称。今97年11月に改称された。
軍人19人で構成され、立法権、内閣の任免権も持つ。
*セポイの反乱(1857〜59年) イギリス東インド会社のインド人傭兵が植民地支配に反発して
起こした反乱。ウルドゥー語で「兵士」を意味するシパーヒーが、英語ではセポイとなまったため、
セポイの反乱と呼ばれている。当初は、イギリス士官のインド兵に対するさまざまな差別への不
満が原因だったが、またたく間に反乱は農民層にも広がり、東インド会社の暴力的な植民地支
配廃止を目指す民族運動へと転化していった。反乱鎮圧後、イギリスは東インド会社を介さず、
インドの直接支配にのりだした。
*デシメーション 古代ローマで、主に反乱罪に対してとられた処罰法。くじ引きで、10人ごとに
1人を選んで処刑した。19世紀になってから語義が広がり、「大部分を処刑すること」という意味
でも使われるようになった。
*イラワジ川 ミャンマー国内を、北から南へ縦断してベンガル湾に注ぐ大河。全長2160キロ、
流域面積約43万平方キロ。河口付近では、上流から運ばれてきた微泥が沈殿たい積し、広大
なイラワジ・デルタを形成している。このデルタは19世紀前半までは未開のままだったが、イギ
リス植民地時代に開発されて世界的な米産地になった。
*ネ・ウィン(1911年〜) ミャンマーの軍人、政治家。元社会主義計画党議長。第2次大戦の初
期に日本で軍事訓練を受け、日本軍のビルマ侵攻とともにイギリス軍と戦ったが、後に抗日に転
じた。戦後、ビルマ国防軍の中心となり、1962年、クーデターで政権を掌握、独裁的手法により
独自の社会主義政策を推進した。74〜81年、大統領。その後も党議長として院政をしいたが、
88年の大規模な反政府運動で議長を辞任した。
61 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/05/22 00:54 ID:kKazwMY2
高山のこの手のコラムは、英訳してネットに公開すべきなんだよね。
フジテレビは、バカなロンドン番組なんて作って喜んでないで、
そういうことにカネを使うべきなんだが。
62 :
朱雀:02/05/22 02:57 ID:Oe+Izq2W
この文章を、著作権を気にしながらもUPしたのは、『20世紀特派員』のなかでも、最も
印象に残るエピローグだと言う事と、産経新聞が、なぜこの特集を企画をしたかと言う意図
が良く理解できると思ったからです。
韓国が「史上最悪の植民地政策」とか非難する朝鮮総督府の政策は、ヨーロッパ列強が支配
したアジアの植民地に比べて、どうだったのか?検討して頂くにも良い文章だと思いました。
*高山正之の文章UPには「takayama」で、意見は「朱雀」で書かせて頂きます。
63 :
名無しさん@お腹いっぱい。:02/05/22 18:08 ID:4UIh42I/
週刊新潮で「異見自在」の続編みたいなコラムやってる>高山
20世紀特派員 植民地の日々−13
栄光あるビルマ人−鞭も民族意識は変えられず
ジョージ・オーウェルの「ビルマの日々」は1920年代のビルマ(ミャンマー)中部の小さな地方都
市を舞台にしている。チーク材を扱うやや年のいった白人男がパリの香りのする若い女、エリザ
ベスに出会って恋に落ちるが、安定した将来を求める女にふられて自殺する。
男の現地妻もからんで、女のしたたかさが妙に印象強い物語だが、その背景に描かれるイギリ
スの植民地風景も強烈だ。神聖不可侵のタキン(ご主人様)の下で牛のようにおとなしく仕えるビ
ルマ人たち。彼らの最大の栄誉は白人の社交の場、「カントリークラブ」のメンバーになる、つま
りオナラブル・ホワイト(名誉白人)に取り立ててもらうことで、そのためには同じビルマ人をけしか
けて暴動を起こさせることも、人殺しもやってのける…。
「イギリスはミャンマーを支配下に入れると、英語を公用語として強制したばかりでなく、仏教をさ
げすみ、ビルマ的なもの、例えば民族衣装のロンジーを軽べつし、“靴を履いたビルマ人”を奨
励した」とヤンゴン大歴史学教授のミン・マウン・ニュントはいう。
《教育法解体》 「アジア人は劣等人種であり、アジアの言語、風習を捨てて白人を見習う事が
文化なのだという意識を植え付けようとした」その手段に用いたのが教育だった。ビルマには昔
ながらに幼い子弟を僧院に寄宿させ、仏教教育とともに読み書きを指導する“仏教学校”が存在
している。アメリカのアジア史家、J・S・ファーニバルはその著書「植民地政策とその実態」で「識
字率は当時の西欧より高かった」と驚嘆しているが、イギリスはまずこの僧院学校の元締めにイ
スラム教徒のインド人文官を任命し、当然のように起きたトラブルを口実に伝統的な教育法を解
体させた。
そのうえでイギリス流の初等、中等教育のための学校を作ったが、ファーニバルによると1920
年の時点での学校数はわずか九十校。高等教育の場はインドのカルカッタ大学の付属施設の
資格しかなかったラングーン大学(ヤンゴン大学)とミッション系のカレッジのみ。就学率は第2次
大戦直前でも4・9%にとどまっていた。多くのビルマ人が教育から遠ざけられたのである。
それでもファーニバルはビルマの就学率(1920年)を、他のアジア植民地と比較して「台湾、朝
鮮(日本領)の15%は別として、比較的良好な状態」とほめている。けなされた仏印の数字をみ
ると「初等教育の生徒数が16万4千人で就学率は1・7%、20年後の42年でも就学率は3%し
かない。高等教育はラオス、カンボジアを含めた仏印全体でリセ(高校)が4校、この年の在学生
徒数は827人」(マカリスター「革命の原点」)だった。
ちなみに(併合後の)朝鮮では、1925年の資料で小学校1712校と、日韓併合時(1910年)の
17倍に増え、児童数44万人、就学率15%。高等教育は大学13校を含め98校、43年の数字
では小学校の就学率は90・8%、学校数は小学校が約4千、大学は22に増える。
《ICS支配》 「ビルマの日々」には、この間口の狭いイギリス流の学校を出て法律家になった
男と医師になった男が登場する。彼らだけがイギリスに留学の機会を与えられ、特権的な地位
も保証される。劣等民族であるアジア人にはイギリスのよき下僕になることこそ最高の栄誉なの
だという刷り込みが行われる様が繰り返し出てくる。
こうした一連の作業は愚民化政策とも呼ばれるが、これを実行したのがロイド=ジョージが「鋼
鉄のフレームワーク」と呼んだインド高等文官(ICS)だった。東インド会社に代わってインドを支
配したICSの定員は約千二百人。それだけの人数で人口4億人のインドと属州ビルマを治めて
きた秘訣は、当時としては画期的な一般公開試験制度(1855年)を採用して広く人材を求め、さ
らに教授陣にはマルサスなど著名な学者を配して植民地統治の王道を徹底的にたたき込んだ
ことにあった。
ICSの俸給はロンドンの平均的サラリーマンの年収が60〜100ポンドの時代に2千ポンドにも
なり、イートン、ハロー、ラグビーなどの名門パブリックスクール出身者が競って応募した。厳し
い試験をパスしてICSになった中には、作家のW・M・サッカレーや経済学者ケインズの名前も
ある。
この傑出した才能集団はビルマのナショナリズムを払拭するために「民族意識の希薄化」「少数
民族を利用した分割統治」といったテーマをごく短時間の間に達成し、ミャンマーの“インド化”を
実現したことは前回述べた。
《家畜の扱い》 人間の尊厳を無視した冷酷なまでの植民地統治をなぜ彼らは痛痒(つうよう)も
感じずに実行し得たのか。第二次大戦のビルマ戦線で終戦を迎え、イギリス軍の捕虜となった
京大名誉教授、会田雄次が鬼籍に入る前、そのヒントを語っている。著書「アーロン収容所」の
中でも少し触れているが、会田が捕虜の雑役として英軍士官室を掃除中、その部屋の主の女性
士官が彼の目の前で裸になって着替えを始めた。「日本人を含むアジア人を犬か鶏か、家畜な
みに思い込んでいる。だから裸を見られても別に羞恥心も働かない」それが大変、興味深かった
という。
そういう目でイギリスの植民地施策をみると、なるほど、サーカス辺りの動物の調教に似ている
かも知れない。人間(白人)には絶対、勝てないことを鞭(弾圧)で十分、思い知らせて反抗を押さ
え込み、好ましい植民地人をつくるためには人種交配も平気で行う…。
偶然かどうかは知らないが、ICSを数多く輩出したパブリックスクールの名門、ハローを卒業し
たウインストン・チャーチルは第二次大戦直前にビルマ独立の嘆願にロンドンを訪れたウー・ソ
ウ首相との会見のあと、ビルマ総督だったドーマン・スミスに「彼らに必要なのは鞭だ」と語ったと
いう。 (クリストファー・ソーン「英米にとっての太平洋戦争」)
しかし「近隣諸国に征服者として恐れられた栄光あるビルマ人」(1930年代のタキン党の歌)は
意識まで調教されてはいなかった。1930年、彼らは立ち上がった。
*豆事典
*ロンジー ミャンマーの民族衣装で、腰巻きスカートのこと。筒状に縫った布を、腰でたくしこ
んで留めて着る。
*デビッド・ロイド=ジョージ(1863−1945年) イギリスの政治家。弁護士を経て1890年に自由党
下院議員。1908年、蔵相になり、富裕者への増税、国民保険法制定などにより社会保障制度の
基礎を築いた。第1次大戦後のパリ講和会議ではイギリスの首相としてウィルソン(米)、クレマン
ソー(仏)とともに主導的役割を果たした。
*パブリックスクール イギリスの特権的な私立中・高一貫校のこと。大部分が全寮制で、主に
上流階級の子弟を対象に、文武両道の人格養成重視の教育を行う。大英帝国を築いた人材は
パブリックスクールで育てられたといわれる一方で、現代では、教育機会の均衡に反するとして
一部で批判されている。
*ウイリアム・サッカレー(1811−1863年) 19世紀の英文学を代表する小説家。東インド会社高
官の一人息子としてカルカッタで生まれ、4歳で父を失ってイギリス本国の叔母の家で育てられ
た。1847年から48年にかけて発行した「虚栄の市」によって作家としての地位を確保した。
*ジョン・ケインズ(1883−1946年) 20世紀前半を代表するイギリスの経済学者。自由放任経済
の下で市場機構により完全雇用が自動的に達成されるという従来の理論を批判し、政府投資の
役割を強調して自由放任経済の終焉を説いた。主著「雇用、利子および貨幣の一般理論」によ
りケインズ革命と呼ばれる大変革を経済学の世界に巻き起こした。晩年、国際通貨基金(IMF)と
国際復興開発銀行(世界銀行)の初代総裁を務めた。
*タキン党 イギリス植民地時代のビルマの政治結社「われらビルマ人連盟」の別称。反英独
立を掲げ、ビルマ人こそ、この国の主人であるとの趣旨から、党員はビルマ語で主人を意味する
「タキン」を冠して名前を呼び合った。1940年(昭和15年)から41年にかけて、30人の党員が日本
に渡り、独立闘争のための軍事訓練を受けた。
20世紀特派員−植民地の日々−14
火を噴くアジア−抵抗したら殺せばいい
1930年は、アジア史ではかなり特異な年になる。この年、宗主国も民族も違うアジアの植民地
で、申し合わせたようにさまざまな抵抗運動が起きた。ビルマ(ミャンマー)では、サヤ・サンの反
乱がそれに当たる。この年、歴代のイギリス人州知事に替わって初めてのビルマ人州知事、マ
ウン・ジーが就任し、悪評高い人頭税の導入を決めた。フランスがベトナムで行っている徴税方
法である。
しかし、肝心の換金作物であるコメは前年のウォールストリート大暴落に端を発した大恐慌に直
撃されて暴落する。耕地所有者に納まっていたインド人は作っても売れないならと、作付けもや
めてしまい、ビルマ人小作人は仕事口も失った。農民はマウン・ジーに免税を訴えたが、「イギリ
スに忠実な」(歴史家マウン・マウン)知事はにべもなく拒否し、強制取り立てまで始めた。
《全土で反乱》 追い詰められた農民の前に、このとき占星術師、サヤ・サンが登場する。彼は
外敵を倒す伝説の鳥「ガロンの王」を名乗り、農民の先頭に立って決起した。農民たちは弾が当
たっても粉となって散ると信じられていたガロンの入れ墨を体に施して、政府の施設や軍の基地
を襲った。
サヤ・サンの法廷記録を読むと、夜襲に備えたカレン人警官隊の前で農民たちはむき出しの尻
に白い丸を描き、「その尻を突き出して後ろ向きに進んできた。やみの中に白い丸が幾百とくね
るさまに警官隊は極度の恐怖にかられた」とある。お尻の白い丸もガロンの入れ墨と同様、不死
身になると信じられていた。
反乱はあっと言う間にビルマ全土に広がり、イギリスは遂にインド軍最強のシーク教徒部隊、パ
ンジャブ・ライフルに出動を命じた。彼らは1年の間、農民を殺しまくり、死者1万人、投獄された
者は9千人に上った。死刑に処された者は128人、そしてサヤ・サンもシャン高原に落ちのびた
ところで捕まり、翌31年11月に処刑された。
インドでは専売化された塩税に反発し、マハトマ・ガンジーが30年3月、約400キロの抗議行進
を歩き出した。最初は8人だったデモは1カ月余の間に数十キロも続く大行進に膨れ上がり、驚
いたイギリス人総督はガンジーを投獄して国民会議派を非合法化した。
ベトナムも揺れた。30年2月、潘佩珠(ファン・ボイチャウ)の越南光復会を母体に生まれたベト
ナム国民党のグエン・タイホクがフランス軍の配下に入っていたベトナム兵士ら600人を糾合し
てハノイの北150キロにあるイエンバイ基地を襲い、フランス軍士官6人を殺害した。フランス側
は狙撃兵として世界一といわれるセネガルの黒人部隊を投入し、さらにこの種の騒乱の鎮圧の
ためには初めて爆撃機を出動させてグエンの立てこもる村を爆撃した。
勝負は2日間でつき、敗残したグエン以下の首謀者13人はイエンバイまで運び込まれたギロチ
ンで公開処刑された。
このほとぼりがまだ冷めない5月、今度は阮愛国(ホーチミン)系のファン・バンドンらが指導した
農民デモがゲアン県ビン市周辺の農村地帯で起きた。本国フランスが世界不況を乗り切るため
そのしわ寄せとして新たな課税を強いてきたことが発端だった。過酷な税に反発する農民デモ
は各地に広がったが、フランス政府はイエンバイの経験を生かし、「ためらいなく爆撃機と黒人
部隊を出動させた」(アンドレイ・ビオリス「インドシナSOS」)。
「(ビン市では)5千人の農民に爆撃機が出動して157人が殺された。夕方、死体やまだ生きてい
る人々を収容するために村人が集まると、また飛行機が飛来して15人を殺した。タンギアでは
事前に農民たちが集会を開くという情報があり、機関銃部隊が待ち伏せしていた。700人ほど
集まったところで銃撃が開始され、130人が殺された」ゲアン県の農民は1年頑張り通して投降
し、ファン・バンドンらはプーロコンドール監獄に送られた。
ベトナム共産党史が「ゲティン・ソビエト」と呼ぶこの一連の騒乱では約1万人が殺され、30余人
がギロチンで処刑された。
《駆逐艦強奪》 揺れは少し遅れて、蘭(オランダ)領東インド(インドネシア)にも波及する。1932年
4月、スラバヤのタンジョン・ペラ(銀岬)に停泊していた3千トン級のオランダ海軍駆逐艦「セーブ
ン・プロフェンシン」が士官連中の全舷上陸中、忽然と消えてしまうという事件が起きた。世界中
の新聞がこの未曽有の事件を報じ、オランダは国家の名誉にかけて捜索に乗り出した。そして
数日後ティモール島沖で「セーブン・プロフェンシン」を発見、威嚇爆撃の末にやっと取り返した。
乗っ取ったのはセレベス王族の血を引くムハマド・ナディールという下士官らで、「ビルマでのイ
ギリスの統治より過酷」(ファーニバル)というオランダ支配に抗議のために騒動を起こしたという
事が分かった。蘭領東インドではこの時期、唯一の反逆行為になる。
1930年代の頭に起きたそれぞれの事件はいずれもあっさり宗主国におしつぶされたが、例え
ばベトナムの場合、「独立を旗印にした二つの流れがほぼ同時蜂起しながら、ふたつとも実らな
かった。それが当時のベトナム人の力の限界だった」とベトナム国立歴史学会教授、ブイ・ディン
タンは素直に認める。爆撃機まで投入する宗主国に「独力では勝てなかった」と。
ビルマもまた同じ。「全土に広がったサヤ・サンの抵抗を目の当たりにしながら、ビルマ人政治家
は蜂起した農民に対する寛大な恩赦を総督に懇請するだけだった」とマウンマウンは「ビルマの
国政」に書く。日露戦争で、黄色人種も白人に勝てるとの希望を抱いた植民地の人々は、人材
をはぐくみ、ナショナリズムを鼓舞し、抵抗を続けた。
しかし、「1930年」は改めて彼らの無力ぶりを思い知らせた。彼らに独立の可能性があるとす
れば、それは「植民地から一滴の石油も、一粒のコメもとれなくなったとき」(ルイス・アレン「戦争
の終わった日」)か、宗主国が裸足で逃げ出すような大事件が起きた時だけに限られてしまった。
71 :
:02/05/24 08:46 ID:J3j9DI0p
*豆事典
*ウォール街の株大暴落 1929年10月24日、ウォール街(ニューヨーク証券・金融市場)で、取引
開始の1時間後に株価が急落。投資家たちは株の「売り逃げ」に走り、優良株にも売り注文が殺
到するなど収拾がつかない状態となった(「暗黒の木曜日」)。この日のうちに主要銀行の頭取が
緊急対策会議を開いたことから株価はいったん安定したが、翌週の29日、取引開始と同時に再
び総崩れの様相を呈した。主力50銘柄の平均株価は一挙に40ドルも下がり、この日だけで100
億ドルが紙切れ同然となった(「悲劇の火曜日」)。この暴落が世界的な大恐慌の始まりとなった。
*マウン・マウン(1925年− ) ミャンマーの政治家・法学者。ビルマ士官学校を卒業し、ラング
ーン大学で英語を教えた後、オランダのユトレヒト大学やアメリカのエール大学に留学し、法律学で
博士号を取った。60−70年代にネ・ウィン将軍の法律顧問や人民議会代議士、国民評議会のメ
ンバーなどを歴任。88年8月、社会主義計画党議長兼大統領に選出されたが、1カ月後にクー
デターのため解任された。
*シーク教 16世紀初頭、イスラム教とヒンズー教を批判的に統合して生まれた宗教。「シーク」
は「弟子」または「初心者」の意味で、一神教を唱え、偶像崇拝やカースト制度を否定した。ムガ
ール帝国から迫害を受け、17世紀以降、軍事的色彩を強めた。インドのパンジャブ地方に王国
を建設したが、19世紀中ごろイギリスに滅ぼされた。
*シャン ミャンマー東部の州。中国やラオス、タイに接する標高1000−1300メートルの波状高
原地帯。12−16世紀は独立国だったが、後にビルマ、イギリスに併合された。
*マハトマ・ガンジー(1869−1948年) 「インドの父」と称される独立運動の指導者。小藩国の大
臣の家庭に生まれ、ロンドン大学卒業後、弁護士に。南アフリカで人種差別廃止運動を指導した
後、帰国して、第1次大戦中から「非暴力、不服従」をスローガンにイギリスからの独立運動を指
導した。第2次大戦後は不可触賤民の解放やヒンズー教徒とイスラム教徒との融和に努めた
が、ヒンズー教徒に暗殺された。
20世紀特派員−植民地の日々−15
アジアの空−飛行機は特別な意味をもっていた
文化庁のフィルムセンターが五年前、東宝の倉庫のほこりの中から戦前の日本とビルマ(ミャン
マー)が合作したトーキー作品を見つけた。題名は「にっぽんむすめ」、製作は井深大などが参
加してトーキーのシステムを開発した「PCL」となっているが、日本では1992年(平成4年)の東
南アジア映画祭で上映されるまで公開記録もなく、東宝にもどの映画会社にもこの作品につい
ての記載はなかった。
ただ、映画とは全く無関係の「日本民間航空史話」の中で、戦前の民間飛行学校「亜細亜航空
学校」の校長だった飯沼金太郎が数行、触れていた。「昭和10年(1935年)、亜細亜航空学校
にビルマ派遣留学生が入校。これを機に日緬親善映画『日本の娘』を同学校飛行場において製
作す。女優、高尾光子」もう少し説明を加えると、主演、監督は当時、ビルマ(ミャンマー)の人気
俳優だったウー・ニプーで、ビルマでも大々的に報じられたビルマ人学生の亜細亜航空学校入
学をヒントに映画製作を思い立って来日し、飯沼らの協力を得て、パイロットを目指すビルマ青
年の奮闘と日本人女性との恋をからめて描いたものだ。
《力の象徴》 この映画が公開されたころ、10歳だったビルマ史の泰斗、タン・タット・ヤンゴン
大教授は「街中が興奮したことを覚えている」と語る。また、それから7〜8年後、ビルマ進駐部
隊といっしょに入った台湾拓殖会社の内川大海も「擦り切れて雨が降る画面だったが、まだ上映
していた」というから超ロングランを続けていたことは確かだ。
なぜ受けたか。タン・タットは「日本人には理解できないだろうが、飛行機は特別な意味をもって
いた。白人の力の象徴だった。それを同じビルマ人が操縦する事は、ほとんど衝撃的だった。そ
れに、映画の中だけでなく、日本人が喜んでその技術を指導してくれたことも(日本人への)驚き
だった」と語る。
イギリスの統治は愚民化政策が大きな柱だった、特に理工系の分野では徹底して技術移転を
拒んだ。よく引用される例だが、1930年代にイギリスの植民地だったパキスタンのラホールで、
車両工場の工員11人が処刑された。イギリス人技師から「お前たちに機関車は作れない」とい
われたことに反発し、構造を研究して小型の機関車を作ってみせたのが「技術を盗んだ」ことに
なったという。
タン・タットの話はこうした背景を踏まえていないと理解しにくい。日本は亜細亜航空学校に続き、
1938年(昭和13年)に大阪・八尾に開設された逓信省の操縦学生養成機関にもアジアから
の留学生を受け入れた。日本人操縦士としては最長の25000時間の飛行時間をもつ元全日
空機長、森和人はこの逓信省操縦学生出身だが、「我々の期にはタイ、モンゴルからの訓練生
がいた。タイ留学生は後にタイ国軍の将軍になった」という。
ビルマの市民はそれから間もなく、本物の日本の飛行機を見る。1939年(昭和14年)5月、イラ
ンの皇太子モハマド・パーレビと最初の妃となるエジプトの王女フォージェの婚儀を祝ってテヘラ
ンまで飛んだ「そよかぜ号」がその帰途、ラングーン(ヤンゴン)に着陸した。
「にっぽんむすめ」に登場したのは複葉単発のフランス製ニューポール練習機だったが、この「そ
よかぜ号」は太平洋戦争でも大活躍する96式陸攻をベースにした双発全金属製機、2年後に
国王となるパーレビは、イギリスとロシアに国土を侵食されていたこともあってか、アジアの国か
らきた日本機に大きな感銘を受け、ドイツのハインケル、イタリアのカプロニなどの「欧州機に勝
る最もスマートで優秀な爆撃機」だと称賛した話が記録されている。
「そよかぜ号」に続いて、同年末には日伊親善飛行に飛んだ三菱式輸送機「大和号」がハノイか
らバンコク経由でラングーンに飛来、さらにアキャブにも着陸した。アキャブは日本を初めて訪問
したウー・オッタマの出身地で、「人々は日の丸を振って歓迎した」という記述が残っている。
日本はこの年、タイとの間に航空協定を結び、すでに開設されていた東京−台北−広東の国際
ルートを仏印ハノイ経由でバンコクにまで延ばす計画だった。この当時、バンコクにはイギリスイ
ンペリアル航空、フランス航空、オランダKLM、オーストラリア・クルニム(カンタスの前身)、ドイ
ツ・ルフトハンザが乗り入れており、日本もやっと国際航空クラブに仲間入りするはずだった。
《郵便物のみ》 しかし、フランスが仏印上空飛行の許可を出さず、日タイ間の定期便運航は広
東までは旅客を乗せられたが、その先は郵便物のみの変則航空路となった。大日本航空の社
史では海南島で給油したあと、「インドシナ半島をぐるり迂回する13時間の海上ルートを取って
バンコクに入った」という。
これとほぼ同時期に日本政府は大日本航空のもうひとつの路線、横浜−サイパン−パラオ線を
蘭領東インド(インドネシア)に延ばす交渉も行ったが、これもオランダ政府に拒絶された。欧州で
はその頃、ドイツがポーランドに侵攻、これを巡っていわゆるフォーニー・ウォー(偽りの戦争)状
態が続いていたが、そのドイツと日本が枢軸同盟を結ぶのは1年後の1940年9月になる。
この時期にフランス、オランダが相次いで日本との航空協定や上空通過権を拒否した理由のひ
とつは「欧州諸国が日本のアジア・プレゼンスの強化に否定的だった」(タン・タット教授)ことが挙
げられそうだ。
ちなみに、日本−タイ飛行は40年6月のパリ陥落、そしてビシー政権の誕生によって大きく事情
が変わり、仏印上空通過が認められることになるが、その1番機となった「まつかぜ号」は往路
ハノイ・ジアラム空港を離陸後、給油装置に故障がでて、ビエンチャン空港に緊急着陸し、さらに
復路、同じジアラム空港を離陸後、エンジンが停止してハノイ近郊の水田地帯に不時着する。
操縦していたのは後に初代羽田空港長になる中尾純利で、日本側で調べた結果、何者かが燃
料タンクに水を入れたのが原因と判明したものの、ジアラム空港を預かるフランス当局は一切の
捜査を行わなかった。往路のトラブルもフランス関係者によるサボタージュとみられたが、これも
原因不明で処理された。
*豆事典
*高尾光子(1915−80年) 戦前に活躍した映画女優。6歳でデビューし、「悲劇の子役」として
松竹蒲田映画を代表するスターとなった。10代後半は一時不振だったが、整形手術で二重瞼
にしてから時代劇の娘役で活躍、高田浩吉や榎本健一(エノケン)など当時の大スターと共演した。
*森和人(1919年−) 通算2万5408時間47分という飛行時間の日本記録保持者。1938年(昭和
13年)、弱冠18歳で「赤とんぼ」と呼ばれた単発複葉の練習機で大空にデビュー。戦中は軽爆撃
機や輸送機を操縦。戦後は一時期ベトナムの米軍輸送隊員として働いていたが、その後、民間
機の操縦かんを握った。1979年、41年間にわたるパイロット人生に終止符を打った。
*モハマド・パーレビ(1919−80年) イランのパーレビ朝の最後の国王(在位1941−79年)。第2
次大戦中から戦後にかけて、アメリカとの関係を緊密にすることで権力を強化。民主化要求が強ま
った50年代に一時国外への脱出を余儀なくされ、軍のクーデターにより復帰したが、79年にはホ
メイニ師を支持するイスラム教シーア派を中心としたイラン革命が起こり、亡命。エジプトで病死
した。
*フォーニー・ウォー 1939年9月のドイツによるポーランド侵攻で第2次大戦が始まった後、比
較的、大きな会戦がなかった数カ月間を指す。
*ビシー政権 1940年、フランスはナチス・ドイツに降伏。パリを含む北部と大西洋岸はドイツが
直接統治し、中南部は「自由地区」として、その後約4年間にわたってビシーに首都を置いた親
ドイツの政権(ビシー政権)が誕生した。国家元首となったペタン仏元帥はドイツへの譲歩を最小
限に抑えたと主張したが、戦後、国家反逆罪で死刑判決を受け、終身刑に減刑されて服役中に
死去した。
77 :
サルベージ:02/05/30 02:59 ID:FVf7vTps
週刊新潮発売日あげ
20世紀特派員−植民地の日々−16
北部仏印進駐−白人支配に亀裂が走った
ビルマ国王の財産だったエナンジャン油田やモッゴクのルビー、サファイア鉱山、ベトナムのホ
ンゲイ炭鉱、マレー半島のスズ鉱脈…。そうしたアジアの豊かな地下資源を欧州宗主国は「政
治的禁治産者の地域住民を啓蒙し福利厚生を図る」(国際連盟憲章)との口実で手にいれた。
掘り出すのは思い切った低賃金で働く植民地住民で、その賃金もアヘンを買わせて回収できた
し、彼らが反抗すれば、爆撃機を飛ばして殺しても問題にはならなかった。「その宝の山」とイギ
リスの近代史家、クリストファー・ソーンも表現する東南アジアの植民地を奪い取られるのではな
いか。宗主国であるイギリスやフランスが、そうした危惧を抱いたのは、1939年2月、日本軍が
援蒋ルート封鎖を目的に海南島に上陸したときだといわれる。日本は同時に南沙諸島も取って
台湾総督府の管轄に含めた。今、中国、台湾、そしてベトナムなどが領有問題でもめているスプ
ラトリー諸島である。
《海南島上陸》 海南島はそのまま仏印のわき腹に位置する。フランスはその島がどこかの“敵
対国”の手に渡らないよう清朝との間に不割譲条約を結んでいた。イギリスにとっても2つの植
民地、シンガポールと香港を結ぶ生命線が脅かされる。米領フィリピンも、そこに日本の基地が
できれば戦略強度は半減する。
イギリス、アメリカ、フランスはすぐさま日本に仕返しを始めた。まず、フランスは仏印と日本の間
に結ばれた日仏関税協定を破棄し、一切の輸出入を取りやめた。アメリカはボランティアの形を
とって、シェンノート大佐らによる航空義勇軍「フライング・タイガー」を大量に中国奥地に送り込
んだ。イギリスも重慶政府に1千万ポンドを支援し、更に中国人操縦士の養成とシェンノートのた
めの航空機整備基地をビルマ(ミャンマー)国内に設けるなど後方支援態勢を提供した。
蒋介石の息子、蒋緯国は「日中十五年戦争」の中で、「日本は徐州などで決戦を挑んだが、蒋
介石はそれをかわし、広い中国に引き込んで長期持久戦に持ち込んだ。これを可能にしたのが
英米の支援だった」と書いている。
英米がこぞって中国支援に回った理由は、すでに触れたように日中が手を握って欧米白人国家
の脅威になるのを望んでいなかったことにある。その日本はこの時期、不幸なことに小児病的な
軍部が政権を握り、正しい判断ができなかったこともあるが、日中ともに役者が一枚上の欧米諸
国に好きなように操られていたという印象は免れない。
しかし、この対日圧迫も、思わぬ展開で底が崩れてしまった。日本の海南島攻略から1年後、パ
リが陥落し、ペタンの率いるビシー政権が樹立されたため、仏印は一転、日本にとってはドイツ
を介し、友好関係にある国の植民地になったのである。日本政府はアンリー駐日フランス大使に
「援蒋ルート遮断の目的」で仏印への進駐を伝えた。それから3カ月後の1940年9月に実施さ
れた北部仏印進駐である。
例により日本は気付かなかったのだが、これは「15世紀末のバスコ・ダ・ガマの到来で始まった
ヨーロッパ人によるアジア支配に初めて亀裂を入れる」(クリストファー・ソーン)というほどの大事
件だった。
仏印総督ドクー、それにビシー政権はイギリスにあったドゴールの亡命政府を通じて、何として
でも“宝の山”に日本が侵入するのを食い止めるべきだとイギリスとアメリカに働きかけた。実際
に、アメリカから大統領フランクリン・ルーズベルトの特使ウィリアム・リーがビシー政権のダルラ
ン提督のもとに派遣され、この問題を話し合った。それでもらちがあかないとダルランはついに
休戦委員会を通じてドイツに日本の仏印進駐を抑えるよう交渉もしている。
《白人の権威》 目下、ヨーロッパで戦争を行っているその当事者が、こういう会談を重ねている
こと自体、随分ふざけた話である。もちろん、共通のテーマは「極東での白色人種の権威を確保
する」(イーデン英外相)と言うその一点だった。しかし、この亀裂を敏感に感じ取っていた者がア
ジアにもいた。蒋介石の黄埔軍官学校で学んだ越南国民党系のチャン・チュンラップ(陳中立)で
ある。
ベトナムを追われ、広東にいたチャンは南寧作戦で進出してきた日本軍がベトナムに軍を進め
ると聞いて、仲間を語らって日本軍のガイド役を務めていた。もしかすると武力進駐になるかもし
れないという予測に淡い独立の夢を見たひとりである。
北部仏印進駐は、一般には平和進駐とされているが、実際には中越国境のドンダン付近で中国
側から入ろうとした日本の部隊とフランス側守備隊の間でかなりの戦闘があり、日本側戦死15
人、仏側は40人の戦死を記録している。そしてチャンはその現場に居合わせることになる。
彼の目の前で展開された戦闘はすさまじいものだった。同じ肌の色をした日本兵がその2倍以
上の兵力をもつフランス側を相手に砲撃と突撃を繰り返して追い立てていく。ベトナム人をあれ
ほど無造作に殺してきたフランス兵が、抜刀して切り込んでいく日本兵の前にただ逃げ惑った。
要害堅固で知られるドンダン要塞さえたちまち抜かれ、ルーペ司令官以下が日本刀で切り殺さ
れていった。もうひとつのランソン基地では、たった数人の日本軍騎馬兵が、殴り込みをかける
と、外人部隊を含む6千人の守備兵はたちまち手を上げてしまった。チャンはフランス軍につい
ていたベトナム人兵士を説得した。目の前でフランス兵のぶざまな負け方を目撃した彼らも喜ん
でチャンに従い、ここに2千人の独立義勇軍が生まれた。
しかし、この間に日本とフランスの間で平和進駐が再確認される事になり、フランス支配が復活
していた。日本軍はチャンに事情を説明し、フランス相手の戦いに協力できないことを伝えたが
それでもチャンはドンダンの幻影が離れなかった。
その年の暮れ、日本軍が要塞から押収した武器を譲ってもらったチャンとその手兵はランソンか
ら意気揚々とハノイに向けて発進した。しかし、彼らはハノイ平野を望む前にフランス軍の待ち
伏せにあって全滅した。チャンは捕らえられて、処刑された。この悲劇を地元はいまだに「日本
軍が見捨てたため」と信じ、語り継いでいる。
*豆事典
*重慶政府 日中戦争中の1938年(昭和13年)から45年まで、中国南西部の四川省重慶を臨時
首都とした中国国民党政府のこと。中国国民党政府は抗日統一戦線結成のための第2次国共合
作(1937−45年、中国共産党との政治提携)を成立させたが、日本軍にほとんどの重要都市を占領
され、37年12月には首都・南京も陥落して奥地の重慶に遷都した。
*蒋緯国(1916−97年) 台湾の軍人。蒋介石(1887−1975年)の二男(養子)。上海に生まれ、東呉
大学を卒業後、ドイツ、アメリカに留学して軍事技術を学んだ。政治に携わった兄、蒋経国(1910−88
年) とは異なり、一貫して軍人の道を歩み、台湾国家安全会議秘書長などを歴任した。
*アンリ・フィリップ・ペタン(1856−1951年) フランスの軍人・政治家。第1次大戦(1914−18年)の
転機となったベルダン攻防戦でドイツ軍を破り、元帥となった。第2次大戦の緒戦でフランスがドイ
ツに敗北し、40年にパリが陥落すると、往年の英雄への期待感から首相にかつがれたが、抗戦
不可能とみて降伏。ビシー政府の国家元首となった。戦後、国家反逆罪で死刑判決を受けたが、
減刑され、95歳で死去。
*ドゴールの亡命政府 第2次大戦緒戦でのフランス降伏後、対独徹底抗戦を掲げ、シャルル・ド
ゴール(1890−1970年)を首班としてロンドンで組織された「自由フランス委員会」のこと。ドゴール
はかつてペタン元帥の補佐官だった軍人で、パリ解放後、フランスに戻り、首相、大統領を歴任
した。
*ロバート・アンソニー・イーデン(1897−1977年) イギリスの保守党政治家。オックスフォード大学
卒業後、下院議員となり、チェンバレン内閣で外相を務めたが、対ドイツ宥和政策に抗議して38年
に辞職。第2次大戦中にチャーチル首相の下で再び外相となり、戦時・戦後の外交を指導した。
55年には首相となったが、翌年のスエズ出兵事件のため、57年に引責辞職。
20世紀特派員−植民地の日々−17
独立国−暴風になれるのは日本だけ
タイという国がある。地図でみれば分かるように東側がカンボジア、ラオスに接し、その向こうに
ベトナムがある。旧仏領インドシナだ。西側がミャンマー、南はマレー半島のクラ地溝帯付近で
マレーシアに接する。この二つの国も昔はイギリス領だった。つまりタイの周辺はすべて欧州の植
民地支配を受けていた国々である。
19世紀から20世紀前半にかけての激動の時代に、タイは東南アジアでは唯一、独立を保って
いた。それが可能だったのは、例えば現在はカンボジア国内になるバタンバンやシエムレアプ、
そしてラオスのルアンブラパンを含むメコン川の東側地区をフランスに献上し、ビルマ領シャン高
原の一部とマレー半島のケダー、トレガヌー州などをイギリスに寄贈する“朝貢”外交の結果という
だけではなかった。
ミュージカル「王様と私」のモデルにされたモンクット国王以下、国のリーダーたちが必死に国際
情勢を読み、イギリスやアメリカから突き付けられる治外法権や「アヘンの輸入」など不平等条
約を「この愚かな国王は喜んで」(アメリカ特使タウンゼント・ハリス)受け入れてきたこともある。
《タイの読み》 その慎重なタイが、日本の北部仏印進駐という事態に、動いた。しかし、同じ動
きでもベトナムの独立の志士、チャン・チュンラップ(陳中立)とは違った。今、振り返ってみてもよ
り深い読みがあったように思える。あるいは数世紀にわたる白人のアジア支配の崩壊を本能的
にかぎ取り、その崩壊をより確実にしようとしていたようにも思える行動だった。
タイは日本軍が仏印に入って2カ月後の1940年11月下旬、フランスのビシー政権に対して仏
印に組み込まれたかつてのタイ領土の返還を要求した。拒否すれば軍事行動に訴える、と言う
のである。アジアの小国としては異例の決断だった。
交渉は当然のように決裂し、軍事衝突はまずタイ・カンボジア国境に近いアランヤプラテート辺り
から始まった。フランス植民地軍は当時、フランス兵とセネガル狙撃兵など黒人部隊併せて2万
人、それにベトナム兵など現地徴集兵7万人の布陣だったが、カンボジアには現地兵を中心とし
た1個師団規模が置かれているだけで、まがりなりにも陸海軍をもっていたタイ正規軍に押さ
れ、翌41年1月には旧タイ領だったバタンバンの線まで後退した。
フランス側は唯一優勢な航空機作戦にでて、タイ領土を爆撃したり、タイが日本から受領した軍
艦トンブリを撃沈する戦果はあったものの、本国からの応援部隊も期待できず、大勢はフランス
側に圧倒的に不利だった。
タイはこの間に日本に接近し、日タイ友好条約を批准、日本から当時としては最新の97式重爆
撃機9機と戦車70両の援助を得て軍備を増強するとともに日本にフランスとの間の調停を依頼
した。
講和会議は四一年二月、東京で開かれ、フランス側アンリー駐日仏大使、タイ側ワン・ワイタヤ
コン殿下が出席。松岡洋右外相の調停でタイはアンコールワットを含むトンレサップ湖の北まで
の線を要求したが、結局バタンバンまでの失地回復で合意した。
余談になるが、フランスがアンコールワットを植民地下に入れていたころ、フランス人が大挙、押
し寄せ貴重な仏像や壁画をはがして持ち出した。その中に後のドゴール政権の閣僚になる“フラ
ンスの知性”アンドレ・マルローもいて、仏像窃盗容疑で捕まっている。
フランス側は植民地領土を取られたうえ、調停の労を取った日本にその“謝礼”としてカムラン湾
の使用と南部仏印に航空基地を置くことを承認させられるという屈辱を味わう。アジアの主人で
あったはずの白人が有色人種の指図のまま、屈辱的な譲歩をさせられた、まさに主客転倒の東
京講和会議は欧米に大きな衝撃を与え、日本封じ込め政策がここから激しさを増してくるが、そ
れは次回以降に譲るとして、このタイについて話を続ける。
イギリスの近代史家、クリストファー・ソーンが引用した言葉だが「善悪は別にして白人が築いた
アジア支配を根底から覆す暴風になり得るのは、日本だけだった」と、タイはそれを期待してい
た節がある。
例えば日本が国際連盟に出した人種平等案には終始賛成票を投じている。また日本の連盟脱
退の契機となったリットン調査団の報告書案採択の際には、反対票を投じた日本を除けば、タイ
は唯一、賛成票を投じず、棄権にまわった。
さらに第二次大戦ではピブン首相以下が日本に協力の姿勢を見せて英米に宣戦布告をし、日
本軍に無害通行権を与えた。結果的に日本軍の行動は遠くビルマ、さらにインドにも及んだわけ
だが、クリストファー・ソーンの言葉に直せば、タイは日本という暴風が吹き荒れやすい状態を提
供したことになる。
《したたかさ》 しかし、タイはその一方で、保険をかけることも忘れなかった。真珠湾攻撃と並
行して展開されたマレー作戦で、日本は事前にタイ領に上陸する事をピブンに通告しようとした
が、ピブンは行方を眩まし、日本軍は無許可でスンゲイ・パタニーに上陸することになった。
しかも、国境守備隊には情報を伝えず、守備隊は上陸する日本軍に向けて格好だけの抵抗を
示す。これはのちに「タイは当然、中立を望んだが、圧倒的な日本の兵力に直面して葦のように
屈服した」(フィフィールド「東南アジアの外交」)ことのよき証拠とされた。
更にタイは宣戦布告後、駐米公使のセーニー・プラモートが亡命政権「自由タイ」をアメリカにつ
くり、戦局がどっちに傾いても良いように準備している。そうかと思うと、日本に対して戦時中に
戦争遂行のための資金として提供した20億バーツ(約10億ドル)を戦後、40分の1の2500万
ドルにまで引き下げ、日本の復興の一助とする恩情もみせる。日本はやがて国際社会に復帰し
て国際連合に加盟することになるが、この加盟にも最も尽力したのが、ときの国連総会議長、ワ
ン・ワイタヤコンである。アジア諸国が次々と欧米の植民地に落ちていく中で最後まで独立を維
持したタイの真骨頂がここにも見られる。
*豆事典
*モンクット(1804−68年) タイの現王朝であるラタナコーシン朝の第4代王(在位1851−68年)。
成人後、王位につくまで27年の僧院生活を送り、その間フランス神父との交遊を通じてキリスト
教文明に触れ、積極的に西洋の文化を学ぼうとした。僧としては当時のタイ仏教を批判し、復古
的な改革運動を起こした。兄王の死後、王位につき、西洋諸国に対する伝統的な閉鎖政策を改
め、開放策を推し進めた。
*タウンゼント・ハリス(1804−78年) 米初代駐日総領事、公使。アジア貿易に従事していた
が、1854年に中国の寧波総領事に任命され、外交官に転じた。56年、駐日総領事として下田に
着任、翌年、13代将軍、徳川家定に謁見し、通商の必要性を説いて58年に日米修好通商条約
締結に成功した。
*ワン・ワイタヤコン(1891−1976年) タイの外交官、政治家。王族出身で、英仏に留学後、
1917年から外交官生活に入った。外務次官、駐英大使、国際連盟タイ代表などを務め、第2次
大戦後は、駐米大使、国連首席代表、外相を歴任。タイ外交の第一人者として活躍した。56年
(昭和31年)には国連総会議長に選出され、スエズ紛争、ハンガリー動乱、日本の国連加盟に対
処した。たびたび日本を訪れ、「ワンワイ殿下」の名で親しまれた。
*アンドレ・マルロー(1901−76年) フランスの小説家、政治家。パリに生まれ、東洋語学校に
学んだ。23年、仏領インドシナでクメール王朝の遺跡を探検して盗掘容疑を受け、禁固刑の判決
を受けた。その後、中国とスペインの内乱に参加。第2次大戦後は、ド・ゴール将軍の盟友とし
て情報相、文化相を歴任。代表作に「征服者」「王道」「人間の条件」など。
*リットン調査団 1932年(昭和7年)、イギリスのリットン卿(1876−1947年)を団長に、満州事変の原
因などを調査した国際連盟の調査団。満州事変を日本の侵略行為と断じ、日本のかいらい国家
「満州国」を認めないとする報告書を作成した。33年、国際連盟臨時総会で報告書が採択され、
日本は連盟を脱退した。
20世紀特派員−植民地の日々−16
南部仏印進駐−アメリカが制裁に乗り出した
クリスマスに飾られるポインセチアはメキシコ原産である。1820年代、アメリカの公使として赴
任したジョエル・ポインセットがタスコの街で見つけてもち帰り、彼にちなんだ名がついた。ただ
花の名前の由来となる人物にしてはポインセットはいかにもアメリカ的な策士だった。彼は任地
で盛んに反政府勢力を育てようとした。国が割れれば、そこに介入して植民地にするというアメ
リカ伝統の領土拡大策である。
メキシコ政府は怒って彼を追放するが、今度はメキシコ領テキサスの独立をたくらむ。独立を叫
ぶ入植アメリカ人がメキシコ政府軍と戦い、あの“アラモ砦の悲劇”を経て独立すると、国土をそ
のままアメリカに寄贈し、テキサス州として併合される。そして1848年、アメリカは「尊厳を傷つ
けられた」という名目でメキシコに攻め入り、現在のカリフォルニア州など、当時のメキシコの国
土の52%を賠償金代わりに取り上げてしまう。
ポインセチアはそういう忌まわしい記憶がからむから、メキシコ系の人は今でもその名を口にせ
ず、昔ながらの「ノーチェ・ブエナの花」という。イブの花という意味である。
《お説教好き》 ただ、アメリカの面白いところは、そういう結構えげつないことをやってもすっか
り忘れてしまう。「アジア問題でも利己的な欧州諸国と違ってアメリカは高潔な動機で接している
と思い込んでいて、植民地支配の非難など理想主義に満ちたお説教を垂れ、欧州諸国をいらだ
たせる」と、イギリス人歴史家のクリストファー・ソーンは「格好だけの連合軍」で指摘している。
「アジアでアメリカはイギリスと同じに治外法権を享受し、アヘンや苦力貿易にも手を染めてきた
ことは忘れているのだ」ソーンはさらにフランクリン・ルーズベルト大統領とスターン・イギリス外
相の終戦処理でのやり取りを引用する。イギリスが香港の継続統治を当然のように言ったのに
対し、ルーズベルト大統領が皮肉を込めて「イギリスは最初、香港を正当に買ったわけではない
と思うが」と尋ねる。スターン外相は「ええ、あれはアメリカがメキシコ領土を半分手に入れたころ
の話でしたか」と切り返した。
その説教好きのアメリカが、意外なことに日本の北部仏印進駐のときは、あまり積極的に動か
ず、仏印のドクー総督を嘆かせた。というのもこの少し前、欧州戦線ではドイツがノルウェー、デ
ンマークを占領していた。デンマークは北大西洋にかなり大きな島をもっていて、ここをドイツが
実効支配すれば英米を結ぶ海上ルートは危機的状況になる。
アメリカはそこでお家芸を出す。島の住民にドイツ占領下の本国に対して革命を起こさせ、独立
させたうえで、ドイツの手に落ちる前に軍を派遣して占領した。ハワイやテキサスと違うところは
アメリカが併合しなかったことだけで、あとは全く同じパターンだった。この独立国が今のアイス
ランド共和国である。
さて、この経緯をじっと見ると、アメリカが日本非難の目玉にしていた満州国の成立になんとなく
似ている。あるいは日本の仏印進駐にも似てなくはない。それが日本の北部仏印進駐騒動とほ
ぼ同時期に進行中だったから、さすがのアメリカも説教のトーンが湿りがちだったというわけだ。
しかし、年が変わって1941年になると、アイスランドの件はもう忘れてしまう。日本はこのころ
欧米から高関税などの措置を受け、とくに近隣の植民地地域の市場からは事実上、締め出され
ていた。
当時の事情をいえば、中東の石油はイギリスがほぼ手中に収め、アジアの、例えばインドネシア
サラワク、ミャンマー(ビルマ)の石油もオランダ、イギリスが握り、その他の鉱物資源も併せて日
本への輸出には極めて冷淡だった。その結果、日本はアメリカに石油の76%、銅の90%を頼
る状況だったが、そのアメリカの大統領ルーズベルトは徹底した日本嫌いで知られた。
直線的な思考しかできない軍部は、「座して枯渇を待つより」と自らの力で資源を獲得できるよ
う、南部仏印進駐がにわかに具体化する。そしてこれを“準同盟国”のビシー政権(フランス)に通
告すると、驚いたことに早速クレーギー駐日イギリス大使から抗議がきた。ビシーが英米と“でき
て”いることはすでに触れたが、このころの日本の公電はアメリカの対日暗号解読システム、い
わゆる「マジック」がもうとっくに実用化され、ほとんど筒抜けの状態だった。
《天地の差》 果たせるかな、アメリカは北部仏印進駐のときとは天地の差のある制裁を科して
きた。石油の全面輸出禁止である。さらに、コーデル・ハル国務長官のいわゆるハルノートが追
い打ちをかけた。「日本は中国との戦争状態をやめ、ただちに撤兵せよ」に始まり、「満州国を放
棄し、国際連盟委託統治の南洋諸島も返還し、元の四つの島に戻れ」という。事実上の宣戦布
告通知だった。
南部仏印進駐が、それほどにも国際秩序を乱すものなのか?、それとも、別に意図があったの
か、その参考となりそうなのが当時の駐アメリカ・イギリス公使、サー・ロナルド・キャンベルの手
紙(イギリス首相府ファイル所蔵)である。それによるとルーズベルトはスミソニアン博物館の自
然人類学担当の博士、アレシュ・ヘリチカと親交があり、博士から二つのことを学んだ。ひとつは
インド人が白人と同種だということ。そしてもう一つが「日本人が極東で悪行を重ねるのは頭が
い骨が未発達で、白人に比べ2千年も遅れている」との説だった。
このヘリチカ説を踏まえて、アジアに文明の火を灯すにはアジア人を(優秀な白人種と)人種交配
させ、「ユーラシア系とヨーロッパ・アジア系とインド・アジア系を作り出し、それによって立派な文
明とアジア社会を生み出していく。ただし、日本人は除外してもとの島々に隔離して次第に衰え
させるというのが(ルーズベルト)大統領の考えである」とキャンベルは書いている。
この手紙の日付は1942年8月、ハイドパークのキャンベル首相の私邸を訪ねたルーズベルト
がキャンベルに語った内容をイギリス外相に報告したものだが、その前年に日本に発信された
ハル・ノートの内容と随所で共通した主張がみられるところがいかにもおもしろい。
理想主義に燃えるアメリカは日本にペリーが開国を迫った当時の島に戻るよう勧告し、それを強
制すべく糧道を断った。これに対し、日本は欧米が支配するアジアの人々の国に進出を続ける。
*豆事典
*アラモ砦の悲劇 テキサス独立戦争(1835−36年)の際、テキサス人の小部隊はサンアントニ
オ(テキサス州南部の都市)にあった僧院を“砦”に約3000のメキシコ軍と戦った。36年2月23日
から僧院に立てこもった指揮官ウィリアム・トラビス、開拓史の伝説的英雄デビー・クロケットら
の部隊は年3月6日までに非戦闘員を除く187人全員が戦死して陥落した。「アラモを忘れるな」
は以後、テキサス軍の合言葉となった。
*サラワク 現在のマレーシアを構成するカリマンタン(ボルネオ)島北西岸の州、陸続きでイン
ドネシア、ブルネイと隣接する。元はブルネイのスルタン(君主)領だったが、19世紀前半にイギリ
スがスルタンから領土を譲り受け、「サラワク王国」を建設した。1888年にはイギリス保護国とな
り、1963年にマレーシアに編入された。石油、天然ゴムをはじめ、豊富な資源に恵まれている。
*ロバート・クレーギー(1883−1959年) 英外交官。1937年(昭和12年)、チェンバレン首相により
駐日大使に起用され、対日宥和政策を進言して日英衝突の回避を図った。太平洋戦争開戦直
前まで和解に努めたが実らず、42年に帰国。
*ハルノート 太平洋戦争前の日米交渉で、アメリカ側が示した最終段階での提案。1946年(昭
和16年)11月26日にアメリカ務長官のコーデル・ハルが提示したことから、ハルノートといわれる。
中国とインドシナからの日本軍の全面撤退、日独伊3国同盟の破棄などを求めており、日本は
これを事実上の対日最後通告とみなして、12月1日の御前会議で対米開戦を決定した。
*スミソニアン博物館 アメリカの国立学術研究機関「スミソニアン協会」によってワシントンに
設立された自然史、科学技術、航空宇宙の3つの博物館。同協会はイギリスの化学者、ジェー
ムズ・スミッソン(1754−1829年)が寄贈した遺産を基金に、1846年に創立され、博物館のほかに
各種研究所、美術館をワシントンを中心に設立している。研究機関の組織体としては世界最大
級を誇る。
20世紀特派員−植民地の日々−19
真珠湾の日−チャーチルは「これで勝った」と喜んだ
元全日空機長、森和人は開戦の日の1941年12月8日、サイゴン(ホーチミン)のタンソニュット
空港にいた。身分は南方派遣軍特設輸送隊操縦士。南部仏印進駐のあと、中華航空から徴用
され、この地に移っていた。軍属だから満足な宿舎もなく、滑走路わきの格納庫の中で寝泊まり
していた。
しかし、その日は「未明からエンジンの轟々(ごうごう)という音とプロペラの風切り音が飛行場を
包み」とても寝ていられる状態ではなかった。外に出てみるとまだ明けやらぬ空に無数の飛行機
が編隊を組んで旋回し、滑走路からも次々、陸攻や戦闘機が飛び立っていた。
ずんぐりした二式戦「鍾馗」が滑走路を外れ、「帽振れ」の列に接触したように見えた。「紙切れ
のように何人かが宙に舞って、鍾馗はそれでもふらふらと上昇し、木立の向こうに沈んだ。しば
らくして爆発音と真っ黒な煙が噴き上がった。大惨事だった。しかし、後続の機がそれを無視し
て次々離陸していく。演習じゃない。戦争だと分かった」
英米との開戦の知らせはまもなく届いた。「アメリカ相手に勝てるのだろうか」とふと思った。森が
飛ばしていたロッキード−14は、すでに今のジェット旅客機がつけているのと同じファウラー・フ
ラップ(補助翼)を装備していた。DC3の高出力エンジンも精密な油圧装置も、どれも日本の技術
を超えているのを森は知っていた。
《低い評価》 日本の戦力を疑う声はとくにアメリカに強く、軍事評論家、フレッチャー・プラットも
その一人だった。彼は海軍力についてずばり「日本は鉄鋼の不足のため小型の艦に過度の装
備を施したり、リベットに代えて溶接に頼った。その結果、初めから構造欠陥をもつ重心の高い
軍艦ができあがった」と低く評価していた。
航空戦力もしかりで「日本人には性能のよい飛行機は作ることも、それを巧みに操縦することも
できない」と断じて、幾つかの理由を挙げていた。まず、日本人は近眼のうえ、人種的に内耳管
に欠陥があり、バランス感覚に難がある。これらはともに「パイロットにとってほとんど致命的」だ
といえる。さらに短気で粘りがない。きりもみ降下した場合、欧米人はパラシュートで脱出する
が、「日本人は胸元で腕組みして大日本帝国のため喜々として死んでいく傾向がある」。
日本人はドイツ人以上に徒党を組みたがる国民で、「一人だと真に愚かだが、2人になると驚く
ほど抜け目なくなる。しかし、飛行機の操縦は孤独な作業で、お粗末な個人主義者である日本
人はお粗末な操縦士である」…。
《正確な攻撃》 ジョン・ダワーの「慈悲なき戦争」には、プラットの論証の根拠となった研究報告
が幾つか紹介されている。その一つは人類学者の証言で「日本人の大脳は欧米人の灰白色よ
り白い。原始的なままで、思考力は劣る」と断じている。内耳の欠陥は「乳幼児期に背中におぶ
われ、頭をぐらぐらさせていることと無関係ではない」という見解が確定していた。
イギリス海軍駐日武官のリポートでは「日本人が格別鈍い頭脳をもっているのは真の教育が始
まらないうちに約6千の漢字を覚えさせられ、その結果、こどもの頭脳に重圧がかかるのが原
因」としている。そしてプラットは「日本は戦力に勝るアメリカとの戦争する力も意志もない」と結
論付けていた。この見方はアメリカ軍の指導部だけでなく、欧米各国の首脳にもかなり広く浸透
していた。
ダワーは、真珠湾攻撃のわずか3日前にワシントンで開かれた昼食会でのフランク・ノックス海
軍長官の発言を引用している。「日米戦争が仮にあっても、それほど手間取らないでしょう。ま
あ、6カ月ぐらいですか」
真珠湾攻撃の第一報が届いたとき、イギリス首相、ウインストン・チャーチルもまた、同じ考え方
で「これで勝った」と喜んだ。参戦を渋ったアメリカ市民も議会も喜んで銃を取って戦場に出てく
る。「ヒトラーはたたかれ、ムソリーニも終わりだ。そして日本は粉みじんにつぶされるだろう」
しかし、チャーチルもノックスも間もなく予想外の続報を受け取る。真珠湾では日本軍パイロット
は実に正確に目標を攻撃した。香港ではあの谷が深く切れ込んだ地勢をものともせず、日本軍
機は「驚いたことに超低空飛行で侵入し、効果的な攻撃を展開した」(イギリス軍報告書)。
そしてマッカーサーが守るフィリピンでは、はるか台湾を飛び立った96式陸上攻撃機が思う存
分、クラーク基地をたたき、東洋随一のB17爆撃機は一瞬にして鉄くずとなった。「日本人は劣
等民族」とかたくなに信じていたマッカーサーはこの前代未聞の渡洋爆撃を食って「日本の飛行
機にはドイツ人が搭乗していたと思われる」という報告書を出している。香港の英軍もまた「ドイ
ツ人パイロット説」をとった。
アメリカCBS放送のセシル・ブラウンは、イギリスの誇る戦艦レパルスに招待され、プリンス・オ
ブ・ウエールズとともに運命の12月10日、マレー半島沖を航行していた。最期のリポートは「士
官たちは意気軒昂だった」と伝えている。ある士官は「あいつらは飛べないんだ」といった。「夜
は見えないし、訓練もされていない」。別の士官は「彼らは軍艦をもっているが、近眼で砲撃がで
きないんだ」という。不幸な思い込みで2艦がともに沈んでしまったのはその5時間後だった。
《究極の目的》 興味深いことに、この根拠のない白人優越主義的解釈は第二次大戦中、訂正
されることはなかった。1945年の沖縄攻略戦で、「日本軍の重砲が正確にアメリカ軍上陸部隊
を捕らえていくと、日本軍には優秀なドイツ人砲術家がついているという噂が広まった」とジョン・ダ
ワーは報告している。
イギリスの「戦争閣僚会議メモ(40年7月)」は日本について「究極の目的は東南アジアから西欧
勢力を駆逐することにある」と規定している。欧州諸国の「宝の山」である植民地を奪おうとして
いる、という意味だ。
しかし、日本は予想を超えた強さをもっていた。イーデン外相のいう「アジアでの白色人種の権
威」が地に落ちたとき、彼らは初めて必死になった。クリストファー・ソーンは「太平洋戦争は人
種戦争に変わっていった」と書いている。
*豆事典
*ジョン・ダワー(1938年− ) アメリカの日本研究者、マサチューセッツ工科大教授、ハーバ
ード大学で博士号(日本史・日本語研究)を取得。1972−73年に日本の大蔵省で戦後財政史を研
究し、その後、京大、東大で客員教授を務めた。「吉田茂とその時代」「人種偏見」「日本・戦争と
平和」など多数の日本関連の著書があり、「慈悲なき戦争」では、メディアを通じていかに日米の
国民が互いへの憎悪をかきたてられたかを分析した。
*真珠湾攻撃 1941年(昭和16年)12月8日未明(現地時間7日朝)、日本海軍機動部隊が、ハワ
イ・真珠湾に集結していたアメリカ太平洋艦隊を奇襲攻撃した作戦。これにより太平洋戦争が始
まり、アメリカが第2次大戦に参戦した。
*クラーク基地 フィリピンのルソン島中部、マニラから北西約110キロにあった極東最大規模
(約3760ヘクタール)の米空軍基地。アメリカ植民地時代の1901年に設置され、第2次大戦で日本
軍が占領した一時期を除き、90年にわたって米軍が使用したが、91年にフィリピン政府に返還さ
れた。
*プリンス・オブ・ウエールズ イギリス東洋艦隊の主力戦艦(3万5000トン)。ぶ厚い装甲と毎分
6万発以上の対空砲火を持つ英海軍自慢の「不沈艦」だった。1941年12月10日、日本軍のマレ
ー半島上陸を阻止するため、半島東岸沖を航行中、サイゴン基地から出撃した日本海軍航空部
隊の猛攻撃を受け沈没した。戦史上、航行中の戦艦が航空攻撃のみで撃沈された最初のケー
スで、時のチャーチル英首相は後に「戦争の全期間を通じて、これ以上のショックはなかった」と
回想している。
95 :
:02/06/07 00:15 ID:MWyyFAps
続編希望アゲ
20世紀特派員−植民地の日々−20
訪問者−ビルマを満州国にしてほしい
開戦の日の1941年12月8日、東南アジアにあるイギリスの各植民地は落ち着き払っていた。
ジョン・ダワーは「慈悲なき戦争」にそう書いている。シンガポールでは払暁、日本軍のコタバル
上陸の報を受け、パーシバルが総督に「小さい連中(日本軍)を速やかに追い払う」と約束した。
夜が明けるとイギリスはシンガポールとマレー半島にいた在留民間邦人約2500人を拘束して
収容所送りにした。アメリカ西海岸3州の強制収容と同じことをここでもやったが、イギリスはそ
の収容先にクアラルンプールの外港、ポートスウェトナムを選んだ。ここには黒人奴隷の選別を
行ったセネガルのゴレ島と同じようなインド、中国からの苦力の“選別施設”があり、高い塀と監
視所も備えられ、危険な日本人を収容するのに適していると思ったからだ。
しかし、マレー半島中部にマジノ線を模して構築したジットラ・ラインが「3カ月はもつ」という予測
を裏切って1日で落ちてしまい、抑留すべき在留邦人がほぼポートスウェトナムに集められたこ
ろには日本軍はもうすぐそこに迫っていた。抑留者は今度は遠くインドの砂漠の収容所に送られ
るが、その消息は敗戦の日まで忘れ去られてしまう。
《逃げる人々》 ビルマ(ミャンマー)でのイギリス人の様子を当時、ラングーン(ヤンゴン)大学生
だったタン・タット(ラングーン大学歴史学教授)が覚えていた。「イギリス人たちは表向きは強がって
いたが、すぐさま家族を安全なインドに送り出し、反政府運動の発火点になる大学は10日には
閉鎖され、学生は故郷に追い返された」
1909年にオープンしたビルマで最も古いゴルフ場ラングーンCC(カントリー・クラブ)には日本軍が入
る直前の1942年2月にクラブ杯コンペが行われ、「R・E・ハミルトンが優勝、スコア75/84」の
記録が残っている。しかし、やせ我慢もこの日までで、翌日にはクラブは閉鎖され、このころには
「イギリス人を何世紀も信頼し切ってきたインド人が、マスターの顔色に敏感に反応して、まるで
沈没する船のネズミのように何万と群れをなしてベンガルに陸路逃げ出していった。揺るぎない
と思われたイギリスの植民地支配が本当に音を立てて崩れていくのを感じた。痛快だった」とタ
ン・タットはいう。
もっと劇的な体験をしたビルマ人がいた。当時の首相ウー・ソウである。彼は41年10月、ロンド
ンにイギリスの首相、チャーチルを訪ねた。前にも触れたように植民地ビルマでは大多数を占め
るビルマ人を軍隊から遠ざけ、少数民族のカレンを軍の主体としていた。その結果、第一次大戦
ではビルマからの派遣軍はインド軍60万に対して1万に過ぎなかった。
ウー・ソウはこれを交渉材料に、チャーチルに「将来、独立を約束してくれるならビルマ人を戦場
に出す」と申し出た。チャーチルは彼をさんざん待たせたあげく、「国家体制の問題は戦争が終
わるまで待つように」と言った。ビルマの独立などまったく考えていないということである。
それでも、ウー・ソウはあきらめずに大西洋を渡ってアメリカ大統領、フランクリン・ルーズベルトに
会いにいった。会見を待つ間に彼はタイム誌に寄稿している。「ビルマが知りたいのは、われわ
れは今世界の自由のために戦っているが、それはビルマ自身の自由のためでもあるのか、とい
うことだ。完全な自治はビルマ国民の一致した要求であり、それは大西洋憲章が制定される前
からの願いだ」
しかし、民族自決、国民の望む政府など理想に満ちた大西洋憲章を書いた当のルーズベルトに
盟友、イギリスの植民地を解放させるような意図はなく、ここでもウー・ソウは失望させられた。
《イギリスを見限る》 失意のままラングーンへ帰る途中、ウー・ソウは乗り継ぎのハワイで日本
軍による真珠湾攻撃に出くわすことになった。彼は帰国ルートを変え、再びアメリカ本土を経由
して12月末にリスボンに入った。ここからの彼の行動は、東京・飯倉の外務省外交史料館に残
っている。
「12月31日午前、ビルマ首相ウー・ソウが密かに大使を来訪せり。ハワイより引き返し大西洋
を経て当地着。帰国のため飛行機待ち合わせの間を利用して苦心来訪せる趣なり。その申し出
は左の如し」、「今やシンガポールの命運旦夕に迫りビルマ独立のための挙兵には絶好の機会
と認められる。日本がビルマの独立尊重を確約せらるるにおいてはビルマは満州国のごとく日
本の指導下に立つ国として日本とともにイギリス勢の駆逐に当たり、また、日本の必要とする資源
は悉く提供するの用意あり」
42年1月1日付「東郷外務大臣宛、発信人千葉公使」の公電は植民地ビルマの首相がイギリス
を見限って日本陣営に加わるという、信じられない申し入れをしたことを伝えている。ウー・ソウ
が白人社会のリーダー2人から受けた失望の直後、同じアジア人が見せた真珠湾での驚くべき
戦果を見せつけられたその衝撃の大きさが彼の提言からもうかがえる。
《必死の思い》 しかし、すでに触れたように日本の外交文書は連合軍の暗号解読システム「マ
ジック」のおかげで細大漏らさずアメリカとイギリスの知るところとなっていた。ウー・ソウはこの
翌日、ジブラルタルから飛行機に乗るが、ナイロビに着いたところでイギリス側に逮捕され、日本
の敗戦の日まで同地の刑務所に監禁されてしまう。
この事件を知ったルーズベルトはチャーチルに手紙を送っている。「私はビルマ人が好きではあ
りません。あなた方もこの50年間、彼らにはずいぶん手を焼かれたでしょう。幸い、(日本と手を
結ぼうとした)ウー・ソウとかいう彼らの首相は今やあなた方の厳重な監視下にあります。どうか
一味をひとり残らず捕らえて処刑台に送り、自らのまいた種を自ら刈り取らせてやるよう、願って
います」(ダワー「慈悲なき戦争」)
ウー・ソウは戦後、アウンサン暗殺の糸を引いた黒幕として死刑になるが、それをおいて、彼が
日本大使館に駆け込んだ姿には、植民地支配の闇から抜け出そうとする必死の思いがうかが
える。しかし、ルーズベルトの言葉にはそうした独立への希求に対する理解はこれっぽっちも感
じられない。
*豆事典
*コタバル上陸 1941年(昭和16年)12月8日未明、ハワイでの真珠湾攻撃開始より約1時間前
に、日本軍はタイとの国境に近い英領マレーシアの海岸の町、コタバルへの上陸作戦を遂行し
た。激しい戦闘が続いたが、日没までに第1陣の上陸が完了し、シンガポール攻略を目指したマ
レー作戦が始まった。
*アーサー・アーネスト・パーシバル(1887−1966年) 太平洋戦争開戦時のマレー方面英軍司
令官(中将)。1942年(昭和17年)2月、シンガポール攻防戦で日本軍に敗れ、降伏文書に署名し
たが、その際、山下奉文将軍に「イエスかノーか」と詰め寄られた。降伏後、終戦の45年まで、シ
ンガポール、台湾、満州で捕虜生活を送った。
*マジノ線 第1次大戦後、フランスがドイツ軍の攻撃を阻止するために国境に構築した要さい
線。発案者であるアンドレ・マジノ陸相の名を取って名付けられた。1927年に着工され、36年に
完成、総延長約750キロ。当時は難攻不落といわれたが、第2次大戦の欧州西部戦線で戦闘が
始まった40年5月、北部ベルギー方面から電撃進入したドイツ軍に4日で突破された。
*大西洋憲章 1941年8月、イギリスのウインストン・チャーチル首相とアメリカのフランクリン・
ルーズベルト大統領が大西洋上の英戦艦プリンス・オブ・ウェールズ(同年12月、マレー沖で日本
軍に撃沈される)で会談して発表した共同宣言。米英両国の第2次大戦と戦後の基本方針を示し、
領土不拡大、民族自決など8カ条の原則をうたって、国連憲章の基礎となった。当時、アメリカは
まだ第2次大戦に参戦していなかったが、米英の「同盟関係」が明確にされた。
20世紀特派員−植民地の日々−21
1941年12月、真珠湾の奇襲で戦端を開いた日本は、それからの半年の間に香港、マレー半
島、シンガポール、蘭領東インド(インドネシア)、ビルマ(ミャンマー)、そして南方はビスマルク諸
島、北はアリューシャン列島に至るまでの広範な区域を占領した。投入されたのは海軍のほぼ
すべてと、陸軍51個師団のうちのほぼ5分の1にあたる11個師団、約20万人であった。
オランダの歴史家、J・ブルビーアは、欧米植民地軍の惨めな敗北を「旧式の装備だったため」と
「東南アジア史」で弁解しているが、どうだろうか。日本の空軍力を過小評価する誤りはあった。
しかし、その他の地上部隊装備、兵員数などでは日本よりはるかに勝っていたことは数字が示
している。例えばマレー・シンガポールでは13万の英印軍が堅固な要さいを作って待ち構えて
いたが、その3分の1にも満たない日本軍の進攻を止められなかった。
インドネシアもしかりで、5万人の英蘭豪連合軍が立てこもったバンドン要さいはわずか750人
の日本軍が突入するとあっけなく白旗を振った。降伏組の中には後に映画「戦場のメリークリス
マス」の原作を書くバン・デル・ポスト、「戦場にかける橋」のピエール・ブールらがいて、その作
品に体験を生かしている。
《住民の歓迎》 日本軍の電撃的な制圧が可能だったのは、その強さもあったが、例えばインド
ネシアで「地元の住民は歓声をあげて上陸する日本兵に手を貸し、オランダ軍の築いたバリケ
ードを取り除いて、日本軍の前進を助けてくれた」(今村均回顧録)ように各地で“植民地支配か
らの解放者”として迎えられたことも大きかった。この点はクリストファー・ソーンら日本には批判
的な欧米戦史家も認めている。
さらに「イギリスの官民がそろって逃げ出したことは人々に衝撃を与えた。それは白人全体の名
誉と権威が大きく汚れた瞬間だった」(シンガポールのインド人協会長S・ゴーホ)ことも植民地の
人々に自信を取り戻させる効果があった。
インドネシアでは、日本が敗れたあと、英蘭軍が10万人の正規兵と戦車や戦闘機、爆撃機を送
り込んできた。砲撃と無差別爆撃による死者は80万人を超えたが、独立を主張するインドネシ
ア人は屈服しなかった。「従順だった彼らは日本軍との3年の間に変態した」というオランダ人の
言葉をソーンは「戦争の問題点」に引用している。
話は前後するが、1943年秋には植民地支配を受けていた国々の代表が東京に集まって大東
亜会議が開かれている。参加したのはビルマ(バー・モウ)、フィリピン(ホセ・ラウレル)、それにタ
イ(ワン・ワイタヤコン)、南京政府(汪兆銘)、インド自由政府(チャンドラ・ボース)、に満州国(張景
恵)と日本、の計7カ国で、アジア人のためのアジア、いわゆる大東亜共栄の理念が語られた。
その宣言文には「大東亜をアメリカとイギリスの桎梏より解放してその自存自衛を全うし世界の
平和に寄与」することがうたわれた。
《自存自衛》 作家、深田裕介は「黎明の世紀」でこの宣言の意味を説明している。海外領土の
放棄を要求するハルノートを突き付けられた日本にとって開戦には「自存自衛、生き残りをかけ
る」という動機はあった。しかし、戦争遂行の目的、大義名分は不明確だった。そのため、戦争
にもっともらしい名分を冠したのがこの宣言だったという。
会議の参加者は全員一致でこの宣言を採択した。ただ、参加者の中に一人だけ他国代表と状
況を異にする者がいた。インド自由政府のチャンドラー・ボースである。彼の国だけは依然、イギ
リスの手にあった。ボースは盟主を自任する日本にインド解放を強く訴えた。この時期、日本は
海軍力を半減し、米軍の反攻はすでにフィリピンに迫り、やがて日本を焦土化する超大型爆撃
機B29がデビューするころだった。
盟主、日本は敗色濃い中でインパール作戦を発動した。それまでの作戦は文字どおり日本の自
存自衛のためだったが、陸軍でいえば開戦時の兵員を上回る30万将兵を投入したこの作戦
は、インド解放という大東亜会議の精神に沿った“聖戦”として行われた。作戦にはマレー攻略
戦で捕虜となった5万人のインド兵などで構成されたインド国民軍(INA)も加わったが、雨期に
ぶつかり、さらに補給も途絶えて日本軍は大敗を喫することになる。
この作戦の支援のためにビルマに送られたという第18師団元兵長、森松日出丸(75)は「日本
からは35隻の輸送船団で出発したが、途中、アメリカの潜水艦にいいように沈められ、なんとか
たどり着いたのは12隻だけだった。マンダレーに入ったときはインパールに向かった九個師団が
全滅したあとだった」と語る。彼はそこで銃も持たずぼろぼろになって戻ってくる日本兵を何人か
目撃した。「友軍を見てほっとして座り込んだ兵士がいた。大変だったでしょうと話しかけると、う
なずいて首を静かに落とした。眠ったのかと思ったら死んでいた」
《村に残る歌》 INAからは脱走者が相次いでいたことは知られていた。ビルマ人はインド人に
ひどい目に遭ったからと、ボースの自由インド政府をラングーン(ヤンゴン)に置くことを拒否した。
そのことも知られていた。そういうアジア人たちの行動を見ながら、森松は輸送船や戦地で死ん
でいった仲間の無念をふと思ったという。
しかし森松はインパールの北にあるマパオ村のことは知らなかった。ここでは毎年、インド独立
のために散った日本人兵士を慰霊する祭りが行われ、「日本兵士を讃える歌」が歌われる。
バングラデシュ第二の都市、チッタゴンの有力紙「アザディ」の主幹モハマド・ハレド(77)は「日
本軍が来るのをみんなが待っていた。しかし、来たのは捕らわれた日本人傷病兵だった。死ん
だ彼らを墓地の一番いいところに埋葬した」という。戦後、「エノラ・ゲイの機長がこの国にきたと
き、市民が彼を追い出したことを知ってほしい」。6万に上る日本兵戦死者は決して犬死にでは
なかったとハレドはいった。
*豆事典
*今村均(1886−1968年) 陸軍大将。1931年(昭和6年)、参謀本部作戦課長になり、満州事変
初期の作戦指導にあたった。41年、第16軍司令官として太平洋戦争初頭のジャワ進攻作戦を指
揮、42年にはラバウル作戦を指揮し、ガダルカナル撤退にあたった。43年、大将に昇進。戦後、
戦犯として禁固10年の判決を受け、パプアニューギニアのマヌス島で服役、54年に釈放された。
*バー・モウ(1893−1977年) ビルマ(現ミャンマー)の政治家。インドとイギリスに留学し、弁護士資
格をイギリスで取得。帰国後、農民一揆(1930−32年)の首謀者、サヤ・サンの弁護を引き受け、英
国の植民地支配を糾弾して名を上げた。33年に貧民党を結成して政界に進出、蔵相、首相など
を歴任したが、イギリスのビルマ政策に抗議して40年に議員辞職、逮捕・投獄された。42年(昭和
17年)日本軍に救出され、国家元首となったが、日本の敗戦でビルマを脱出。新潟県の寺に潜ん
だが、その後、GHQ(連合国軍総司令部)に出頭、戦犯容疑で巣鴨刑務所に一時抑留された。
*ホセ・ラウレル(1891−1959年) 日本占領下のフィリピン大統領。アメリカ留学から帰国後、32歳
で内相となったが、アメリカ統治に抗議して辞職。民族主義者として名を上げ、43年、大統領に任命
された。戦後、特赦で対日協力の罪を免ぜられ、上院議員を務めた。
*汪兆銘(1883−1944年) 中国の政治家。日本の法政大学に留学中、中国革命同盟会に入
り、孫文(1866−1925年)の直系として、中国国民党に改組後、幹部となった。孫文死後、連ソ容
共を旨とした国民党左派の中心となって蒋介石と対立。日中戦争が始まると親日反共を主張し
て、1940年(昭和15年)、日本のかいらいである南京政府を樹立し主席に就任した。44年、名古屋
で病死。
*エノラ・ゲイ 広島への原爆投下機(B29)の愛称で、ポール・チベッツ機長(陸軍大佐)の母親
の名前からとった。機体は現在もアメリカで保存されており、95年に計画されていたスミソニアン博
物館での「原爆展」(中止)への展示の是非が論議を呼んだ。
20世紀特派員−植民地の日々−22
帰って来たホーチミン−より強い組織を頼って生きる
1945年7月、米OSS(アメリカ戦略局)のトーマス少佐は抗日ベトナム人組織のリーダーと会う
べくハノイ南方の密林に潜入した。竹を編んだ粗末な小屋に寝ていた「黄色くからからに乾いた
老人」は赤痢とマラリアで危篤状態だった。すぐに、キニーネとスルフォン剤が空輸され、老人は
やがて回復して、少佐らを「タケノコ料理で歓待した」とOSSの史料は書き留めている。ちなみ
にベトナムのタケノコ(マング)料理は天下の逸品として知られる。
「老人」は10年前に香港の監獄で肺結核のため死亡したはずの阮愛国本人だといい、今は胡
志明(ホーチミン)を名乗っていた。この辺をベトナム外文書院のホー伝記は「香港の監獄からイ
ギリス人弁護士の手引きで脱出し、モスクワに戻り、38年まで過ご」したという。その後、中国に
いき、42年8月に中国官憲に捕まり、43年9月、釈放されてベトナム独立同盟会、いわゆるベト
ミンの活動を始めることになる。監獄暮らしの間に華麗な韻を踏んだ漢詩など113編をちりばめ
た「獄中日記」を編んでいる。
《阮は別人?》 しかし、ホーチミン研究家はこの説明に疑問符をつける。阮愛国とホーは別人
ではないかと。とくにパリで阮と過ごしたフランス文学者、小松清は戦後ホーチミンに会い、別人
の感触を受けた、と「ヴェトナムの血」に書いている。ホーは彼(小松)を覚えていなかったし、流
暢だったフランス語をしゃべろうともしない。そして、「10代半ばで国外に出て、30年以上を過
ごした男が難しいチュノムや漢字を操って見事な詩を書けるだろうか」と小松は疑問を持つ。
別の研究家は、ホーチミンが香港で捕まるまで、モスクワ生活を含めて、ほとんど週単位で阮愛
国の行動が解明されているのに、香港脱出後は「モスクワの大学で学び…」で5年間が説明さ
れるように、実にアバウトな記録になる。しかもその期間はスターリンのすさまじい粛清のあらし
の時代だ。スターリンにとって自分の権威を損ねかねない存在であるレーニン信奉者のホーが
なぜ生き残れたのか。
戦術の分析では潘佩珠(ファン・ボイチャウ)が徹底してフランス人を標的にして暗殺や襲撃を繰
り返したのに対して、阮の率いるインドシナ共産党はフランス人には手を出さないという違いが
あった。1930年代初頭の反乱の季節にベトナムを訪れたジャーナリストのアンドレイ・ビオリス
は「殺気だった農民のデモ隊のわきをフランス居留民が自転車や車で通り抜けていく」ことに驚
いている。
「彼ら(農民)はフランスの手先となったベトナム人官吏や華僑に、その怒りを振り向けていた」(ビ
オリス「インドシナSOS」)しかし、トーマス少佐の会ったホーチミンはキニーネの効果がでて意
識を回復すると、まず少佐に同行したフランスの情報将校モンフォールに「フランス人は出てい
け」と声をあらげて、本当に国外に追い出してしまった。トーマス少佐は「彼らはアメリカを頼りに
している」と、このことをうれしそうに報告している。
日本が降伏するのは、このタケノコ料理からほぼ1カ月後の事になるが、ハノイにベトミンが集
結すると、“帰ってきた阮愛国”はさらに徹底したフランス人居留民の粛清に乗り出す。南洋学院
の学生だった亀山哲三は、白昼、ハノイの大通りでベトミンの集団が「自転車に乗って通り掛か
った太ったフランス人男性」を引き倒し、やりや山刀でなぶり殺しにしていくのを目撃したと、著
書に書いている。
《ハノイ入城》 「阮」と「ホー」の間にはかなりの距離が感じられるが、よく似た面もある。最初は
フランス共産党、そしてコミンテルンと、独立を獲得するために、より強い国なり組織を頼る生き
方だ。
ホーチミンが戻ってきた当時のベトナムは、周辺のアジア諸国とは少し事情が異なっていた。
フィリピンもビルマ(ミャンマー)も独立を宣言し、日本の都合で独立のお預けを食っていたインド
ネシアも公用語のオランダ語を廃して250もあった言語のひとつバハサ・インドネシアを共通語
にした。学校教育を拡充し、教員や技術者などを育て「小役人までオランダ人で占められた」(モ
ハマド・ハッタ)といわれていた行政官をあらかたインドネシア人が引き継いでいた。
「言語の統一や知識の普及は国民の一体感を植え付け、独立への基礎固めができた」(スハル
ト大統領特別顧問、チョクロプラノロ)だけでなく、ビルマ防衛軍に匹敵する軍隊「ぺタ」も発足し
て、いつでも独立戦争ができる状態だった。
しかし、ベトナムだけは違った。日本は、フランスがそう思っていないのに律義にもビシー政権に
対し、友好国として主権を認めていた。ビシー政権が消滅すると、あわてて占領(明号作戦)する
が、それまではベトナムを仏植民地のまま残していたのだ。
昔と変わらぬ祖国をみて、ホーは“強いアメリカ”にすがった。OSSとの連携である。これは阮愛
国の生き方そのものに見える。かくてホーチミンのベトミンは終戦間際、アメリカ、そして今は連
合軍に属す宗主国フランスの後押しを受け、抗日の旗を掲げながら、という異常な形でハノイに
入城する。しかし、「植民地はフランスを再生させ、偉大な地位を回復するための貴重な手段を
提供する」(ドゴール)と信ずるフランスはベトナムを放棄しなかった。
1946年3月、フランス軍は大挙して北ベトナムのハイフォンに向かい、圧倒的な火力でホーチ
ミンに圧力をかけ、両国の地位を決める協定でもフランス側代表サントニーは「ドクラップ(独立)」
の文言をホーには与えなかった。
《長い戦いへ》 1946年12月19日午後8時、ハノイの電源が切られ、暗黒の中で、まずサン
トニーの乗った車が爆破された。54年のディエンビエンフーの戦いに至る独立戦争が始まり、そ
れは更にベトナム戦争として20年間、続くことになる。その間、ホーチミンはもっと強い国、ソ連
に頼った。ホーと阮愛国が別人かどうかはともかく、ホーが阮の戦法で、ともかくも独立を獲得し
たことは間違いない。
ドイツがデンマークを占領したとき、アメリカはいちはやくその領土だったアイスランドを占領、独
立させた。もし、日本がその例に倣っていれば、ベトナムの運命ももう少し変わったものになって
いたかもしれない。ベトナムが4半世紀も戦争を継続することになった遠因はそういう国際問題
に徹底してナイーブだった日本の責任でもある。
*豆事典
*ベトミン ベトナム独立同盟会の略称。1941年、インドシナ共産党(現、ベトナム共産党)の第8
回中央委員会決議に基づき、ホーチミンを中心とした亡命ベトナム民族主義者によって中国の
柳州(ベトナムに近い華南地区西部の都市)で結成された。民族独立、人民民主主義革命を目指
した統一戦線組織で、第2次大戦直後の1945年、ベトナム民主共和国の樹立を宣言した。51年
に救国諸団体の統合組織であるベトナム国民連合会(リエンベト)に参加して解散した。
*南洋学院 第2次大戦中の1942年から45年にかけてサイゴン(現ホーチミン)にあった日本の
外地校。「東洋民族の共存・共栄、邦人発展のため、その第一線に立つ指導的な人材を養成す
ること」が建学の趣旨だった。ベトナム語、フランス語、地政学、熱帯衛生などが教科で、3期1
12人の卒業生を出した。
*モハマド・ハッタ(1902−80年) インドネシアの政治家、経済学者。オランダ留学中に、インド
ネシア留学生協会幹部として独立運動を開始。1932年に帰国し、インドネシア国民党左派として
活動したが、34年に逮捕され、イリアンジャヤなどの流刑地を転々とした。42年に日本軍に救出
され、45年の独立宣言にはスカルノ(1901−70年、初代大統領)とともに署名、副大統領に就任し
た。56年にスカルノを批判して辞任した後は、バンドンのバジャジャラン大学教授を務めるなど
経済学者として活動した。
20世紀特派員−植民地の日々−23
踏み絵−これほど誤解された国もなかった
「郵船商船、物産商事…」というのは戦前の日本の海外進出のパターンを指す言葉だ。最初に
船会社、次いで買い付けの商社が進出し、最後に領事がやってくる。しかし、郵船の前に「娘子
軍」、いわゆるからゆきさんを入れるべきだと岸田国士が何かに書いていた。岸田はからゆきさ
んだった女性を主人公にハイフォンを舞台にした「牛山ホテル」を発表している。
実際、「天草海外発展史」などによると世紀の変わり目前からサイゴン(ホーチミン)、ラングーン
(ヤンゴン)などに多くのからゆきさんが進出した記録が残る。サマセット・モームがラングーンの
ストランドホテルで書いたといわれる短編「ネイル・マカダム」にはシンガポールの日本人娼館が
登場し、「小鳥のさえずりに似た声で」明るく戯れるからゆきさんの姿が描かれる。
ベトナムでは1920年代のパスキュエ総督夫人をはじめ、フランスの高級将校や実業家の夫人
におさまった例も多い。ハノイではよく知られた雑貨商だが「マゾワイエ」のフランス人経営者の
夫人もその一人で、終戦間際、大水害で何万もの市民が飢えに苦しんでいたとき、その夫人が
毎日のように炊き出しをして人々に配った。同盟通信の記者として駐在していた小山房二の話
だが、そのおかげで戦後、ベトミンがフランス人商店を軒並み襲っていったさいにマゾワイエだけ
は被害に遭わなかったという。
《飢餓の原因》 この飢餓はすさまじかった。「飢え死にした人たちを満載した荷車が市内をがら
ごろ行く。文字どおりの飢餓地獄だった」(小山房二)、ベトナム居残り組の1人、元陸軍伍長の落
合茂(77)は「ジアラム空港近くの高射砲陣地にいたが、周辺の辻に日本軍が大釜を置いておか
ゆの炊き出しをして配った」と語る。
ハノイの革命博物館にもその当時の惨状を伝える記録写真が残る。ただ、キャプションが小山
の話とは少し違う。「ファシスト日本は水田から稲を抜き、わずかなコメも取り上げて機関車の燃
料にし、200万人が餓死した」
ハノイ人民委員会の幹部はこう語る。「実際はこの時期の大洪水による不作が原因だった。それ
にアメリカ軍の爆撃で南部からのコメの輸送が途絶えたことが飢餓に拍車をかけた」機関車のこ
とは「これは南部の話」という。南部の米、北部のホンゲイ炭というように北部では燃料にこと欠
かなかったが、南部には石炭が届かず、「余ったモミを燃やして機関車を走らせたことはある」と
いうのだ。
それがなぜ、日本の所業となるのか。「ベトナムは大戦の終わった年にはまだフランスと戦える
力はなかった。独立戦争でも国際関係に目を配らなければフランスと対抗できる武器や弾薬の
補給を得られなかった。ただ、日本を悪くいう分には彼らは喜んでくれた」という。政治的プロパ
ガンダである。
ホーチミンの右腕だったボー・グエンザップは「抗日を旗印にしていたが、ホーは、日本が降伏す
ると『日本人と戦うな、彼らを保護せよ』といった。日本人はその後もクアンガイの士官学校で軍
事指導もしてくれた」と証言する。
ベトナムに上陸したマウントバッテンの報告書がこの老将軍の言葉を裏付けている。「イギリス
軍、フランス居留民に対するベトミンの執拗な攻撃を防ぐため、降伏した日本軍兵士を再武装さ
せ歩哨に立てた。ベトミンはしばらく攻撃を手控えたが、やがて日本人歩哨の間をすり抜けて居
留地を襲い、数10人を殺害する事件が起きた。その間、日本人たちは所在無げに星空を見上
げていた」(ルイス・アレン「戦争の終わった日」)
《愛国行進曲》 元日本兵の教えはディエンビエンフーの戦いでも生かされた。アメリカもフラン
ス軍支援にまわったこの戦闘で、ベトナム人民軍の攻城戦は日本の戦国時代の「水攻め」そっく
りだったという。
ビルマ(ミャンマー)は日本の進攻で独立の機会を得て、まがりなりにも独立できた。今回の取材
でヤンゴンを訪れたおり、全日空の斎藤幹雄支店長が「テレビに旧日本軍の軍旗が出てきて驚
いた」と話してくれた。「どうせまた日本軍が悪者だろうと見ていたらビルマ兵士と一緒にイギリス
軍部隊と戦う、そして勝利を収めると愛国行進曲をバックに盆踊りをするんです」
ミャンマーはいまだに日本軍が善玉で通用する国である。しかし、そのミャンマーでさえ例年、ア
ウンサンが日本軍に反旗を翻した抗日運動を記念して反ファシスト決起の日を祝う。「日本につ
いていけばビルマは再びイギリスの植民地になる」反乱を決めた日に日本軍将校に語ったアウ
ンサンの言葉だ。彼はすでにその2年前の「43年、イギリスの密使とラングーンで密会し、独立
を条件に反日に動くことを約束していた」とクリストファー・ソーンは「英米にとっての太平洋戦
争」で暴露している。
日本を悪役にすることがなぜ求められたのか。第二次大戦当時のアメリカ務長官、コーデル・ハ
ルのフランクリン・ルーズベルトへの書簡(44年10月5日付)が如実に示している。
「日本は彼らの撤退にともない(アジアの植民地に)政治的な焦土作戦を取ろうとしている。西欧
帝国主義諸国に妨害されて敗れ去った解放の戦士に自らを擬することで、アジアにおける日本
の影響力の復活の基礎を据えるためである」
そうさせないためにも日本を踏み絵にし、それぞれの植民地国家に踏ませる必要があったという
ことだろう。日本は悪でしかなく、戦後の世界は善である欧米が指導すると。
最後まで日本と行動をともにしたバー・モウはのちに書いている。「歴史的に見てアジアを白人
の支配から解放するのにこれほど尽くした国はかつてなかった。同時にこれほど誤解された国
もまたかつてなかった。それでも日本が無数の植民地の人々の解放に果たした役割はいかなる
ことをもってしても、消し去ることはできない」
《祝福の言葉》 ベトナムはその後、長い戦乱の日々を経て統一と独立を果たし、ビルマはほぼ
同じ期間、鎖国をしてイギリスの残した分割統治を消し去った。インドネシアは独立戦争で80万人
が死に、さらにオランダに60億ドルを支払う条件で独立した。
1991年10月、東南アジア最後の紛争地だったカンボジアに、和平をもたらすパリ会議が開か
れた。フランスのデュマ外相は「日本が侵略して以来、半世紀にわたって混乱と戦火にまみれた
インドシナに今日、やっと平和が訪れた」と祝福の言葉を送った。彼らには植民地支配の日々な
どなかったかのように。
=糸冬=
*豆事典
*からゆきさん 明治から昭和初期にかけて、九州北西部(特に天草諸島、島原半島)から、売
春業者の手を経て海外に売春婦として出た女性の総称。「唐行き」さんの字があてられる。渡航
先は、日本の大陸進出に伴い、朝鮮半島や中国、東南アジア、さらにアメリカへと広がっていっ
た。大正初期には約30万人いた海外在留日本人の約7.5%が唐行きさんだったといわれる。
*岸田国士(きしだ・くにお=1890−1954年) 劇作家。陸軍士官学校を出て少尉に任官したが、
病気を口実に退官、東大仏文科で学んだ。1920年(大正9年)から3年間、フランスに留学し、演
劇研究に没頭。帰国後、「古い玩具」「チロルの秋」「牛山ホテル」などの戯曲を発表し、日本の
現代戯曲と演劇理論の基礎を確立した。小説には「由利旗江」「暖流」など。
*サマセット・モーム(1874−1965年) 英作家。医学校に入学したが、作家を志し、卒業と同時
に文筆活動に専念、読者を楽しませることを主眼に、物語性に富む巧みな作品を次々と発表し
た。代表作に小説「人間の絆」「月と6ペンス」など。
*ルイス・マウントバッテン(1900−79年) イギリスの海軍軍人、元帥。ビクトリア女王(1819−
1901年)のひ孫で、エリザベス女王の夫フィリップ殿下の伯父。第2次大戦で東南アジア方面連
合軍最高司令官として対日作戦を指揮し、ビルマ奪還などに功績を残した。戦後、インド総督、
イギリス防幕僚会議議長などを歴任して65年、退官。79年、テロ組織IRA(アイルランド共和軍)が仕
掛けた時限爆弾で爆死した。
*パリ会議 1991年10月、パリで開かれたカンボジア和平のための会議。国連安保理の常任理
事国や日本など関係18カ国とカンボジア最高国民評議会(SNC)が「カンボジア紛争の包括的政
治解決に関する協定」(パリ和平協定)に調印した。カンボジアでは協定に基づいて、国連の平和
維持活動(PKO)である国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)による停戦、選挙監視が実施さ
れ、日本も国連平和協力法に基づいて自衛官ら延べ約2000人をUNTACに派遣した。
113 :
? ◆ZQuestDo :02/06/11 22:56 ID:KWOKXU+Q
良スレなので保全上げします。
114 :
:02/06/12 00:12 ID:HI07dw7Z
応援あげ
115 :
:
こういうのを英訳したいが...引用元の原著から原文を提示しないと
説得力半減だろうな...