1 :
古代ななしさん:
ドイツで殉職したコエヌマ医師は正真正銘の神
韓国人で他の世界で感謝されている人物は誰もいない罠
2 :
@:02/05/18 21:25 ID:apCNRpIS
どういうことをした人だったんですか?無知ですいません。
3 :
古代ななしさん:02/05/18 21:30 ID:1cRbs9MI
韓国人が行くと逆にチフスを媒介する恐れがあるのでワないのかね、キミィ!
………隣村アルメデヴィッツのクラスケ夫妻の父親が発疹チフスにかかった。
1945年12月のことである。 雪そして雨が上がったばかりの寒さの厳しい冬の
日だった。
1993年10月15日夕方、陽が沈みかけた頃、クラスケ夫妻の自宅に伺った。家
の前方に、92年に新しく建てられたという白塗の小さな教会が夕闇の中に大地に
浮かんでいるように見えた。周囲の緑と調和して牧歌的風情をかもしだしており、
かつてここも戦場だったとはとても見えない静寂さが漂っていた。
クラスケ夫妻の自宅は、かなり年輪を刻んだ石づくりの家で、戦禍をまぬがれて
90年前のまゝだという。裏手のがっちりした20メートルほど縦長の赤レンガづくりの
穀物倉庫は140年前に建てられたまゝ今なお使われている。代々の農家である。
夫君のヘルムット・クラスケ氏は83才、夫人のマルサ・クラスケさんは6才年下の
77才。
20畳間程の応接間が正面入り口を入ってすぐのところにある。大きな暖炉があっ
て、おとぎの国の部屋のような可愛らしい人形や置物で飾られている。
手づくりのクッキーをつくって出迎えてくれた。丁度、毎週一度やってくるベルリン
に両親と住んでいる高校二年の孫のお嬢さんが訪ねていた。一緒に同席して、祖父
母の話しに聞き入っていた。
マルサ夫人は、口を開く前にじっと考えこんでいた。かなり長い時間が経った。遠い
記憶をたぐり寄せているように思えた。そして語りだした。
「当時、私の70才になる舅のヴィルヴァルトが発疹チフスにかかってしまった。1945
年夏に、主人が戦争から帰ってきていたが、体が弱まっていてすごく衰弱しておりまし
た。村にはシュモレーさんという頭の病気を治す医師がいただけです。そんな時、暮れ
に舅が発疹チフスにかかり大変困ってしまいました。
村人に相談したら、リーツェンに日本人医師がいて、その医師に治療して貰った人が
この村にいる、その医師はドイツ語をよく話すチフス専門医なので、是非治療して貰った
らと勧められました。 その話しを聞いて、父もその日本人の先生に診てもらおうと思い
ました。でも夫も衰弱しており、どうやってリーツェンまでいくか悩みました。鉄道は爆撃
でやられていて、隣の駅までしか動いていなかった。
家には馬を一頭飼っていましたが、非常に弱っていて、しかもこの馬は役所に内緒で飼
っていたのです。当時、馬は役所に徴発されていたのですが、農家ですので一頭だけ隠
していたのです。見つかると取り上げられてしまいます。でも馬でいく以外にないと引っぱり
出して、主人が病をおして肥沼先生を迎えに出かけて行きました。
弱い馬だったので途中で倒れてしまい、そのあとは歩いて、やっとのことで肥沼先生のと
ころまでたどり着いてお願いすることが出来ました。
肥沼先生は主人にすぐ行きますからといってくれました。」
7キロの道は雨や雪のやんだあとで泥んこ状態。そのうえに爆弾によっていたるところに
穴がでこぼこあいていたり、道の両脇が破損し、加えて、車道に沿って塹壕が掘られてい
たりの最悪の状態であった。リーツェンの伝染病医療センターに辿りつくまで3時間ほどか
かってしまった。それは雪の降る寒い日だった。
肥沼はヘルムットさんが通ったそんな悪道をアルメデヴィッツ村に一人で荷馬車を操って
やって来た。
「本当に肥沼先生は来てくれたのです。たった一人で寒い中を。おじいさんは、生まれ
て初めてお医者さんが家まで往診に来てくれたと大変喜びました。これまで家に来てくれ
るお医者さんはいなかった。先生は診察したあと持ってきた薬を全部置いていってくれまし
た。その後2回、治療にやってきてくれました。」
当時、この村には30軒の農家があって、どの家にも一人以上は発疹チフスに罹った人が
いた。肥沼はこの村に荷馬車で治療に幾度も通った。
「私の舅は比較的高齢にもかかわらず、治療を受けて治りました。その後、10年も生きら
れたということは、それだけでも奇跡ですね。肥沼先生のおかげです。」
「実は、肥沼先生のところに頼みに行く時、最初ためらいがあったのです。というのは、
この辺りにもソ連軍の兵隊がいて、日本人の医者と関わり合いをもったら、と心配したから
です。でもその心配は無用でした。」
マルサ夫人は、そう言ったあと、再び口をしばらく閉ざし、孫のほうを見ながら、
「肥沼先生は診察料のことを口にしませんでした。うちだけでなく、他の家ででもです。
人を慰め、握手を求め、薬を運んで救助を急いでくれて……。すべてが狂乱・興奮状態で
あった時代にですよ。本当にそういう先生がいたのかと、今の人には信じられないでしょう
けど、大変素晴しい尊敬できるんです。」
肥沼が治療した部屋が、まだそのまま残っていて、ベッドもそのままある。
応接間のドアを開けた二畳ほどの細長い部屋だった。肥沼はベッドに横たわる
ヴィルヴァルトさんを治療しながら、優しい励ましの声をかけた。
クラスケ夫妻の懐かしい部屋になっている。
クラスケ夫妻は、肥沼医師のことを、子々孫々伝えていくという。
「小学校、中学校でも先生が肥沼先生のことを話してくれます。」と、おさげ髪の、
目の澄んだ優しい表情に満ち満ちているお孫さんは話してくれた。
お孫さんを間に記念写真を撮らせてもらった。肥沼信次については今後も、この家では
代々語り継がれていくに違いないと確信し、陽がすっかり暮れてしまったアルメデヴィッツ
村を後にした。………
10 :
?:02/05/18 21:54 ID:pUs9wp2c
11 :
:02/05/18 21:59 ID:qEJ8dil4
良い話じゃねぇか!
12 :
ー:02/05/18 22:00 ID:F5vgkt67
ハン板で絶対立ってるよなと思いつつ見にきたが、ほんとに立ってた(w
なんつーのか「センポ・スギワラ」とか今回のコエヌマ医師のように
人種もすべて超えて人々を救うために自分の命や将来を投げ打って、何十年
たっても人々に感謝されるような人ってすばらしいよね。
・・・・朝鮮人でこんな人いる?
13 :
:02/05/18 22:02 ID:1aEXtDb6
東西分断で闇に葬られていた真実が日の目を見た訳ですな。思わずTVに手を合わせて
しまったよ。
我々の先人は本当に偉大だ。彼等に泥を塗るような行為は絶対に慎まねばな。
14 :
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>>12 杉原も肥沼も在日ニダ!
という奥の手があるぞ。