「韓国国史」を書いてみよう

このエントリーをはてなブックマークに追加
1歴史家志望のてーとく:02/05/14 12:42 ID:hwI8P69H
 韓国は、「親日派のための弁明」を有害図書指定するという、民主国家として恥ずべき言論弾圧思想統制行為をしておきながら、日本に対しては偉そうに「正しい歴史認識」を求め、さらには教科書に修正要求までしている。
 この修正要求は、つくる会だけに対して出されたわけではない。あの日教組御用達の日本書籍でさえも、一ヶ所要求されていたそうである。
 である以上、日本の側から言及しても文句を言われる筋合いはない。と言うより、言論弾圧国家の国民である韓国人に代わって、民主主義国家である日本の国民として、韓国の教科書を書いてあげましょう。
 注) 「完全に日本のために」書くのではない。ちゃんと韓国人の立場に立って書きましょう。特に無意味に侮辱的な記述は慎むように。
2 :02/05/14 12:49 ID:wzKHJ3QI
面白そうだが、めんどくさそうだ。
3名無しさん:02/05/14 12:49 ID:QBMp+WF5
>>1
それって俺らがやらんでも、朝鮮総督府が大部の歴史書をつくって
なかったか?
それとも『韓国国史』ってぐらいだから、ここでは1948年以降の歴史
のみを扱うのか? そのあたりを押さえておきたいのだが。

それはともかく2ダ。
4 :02/05/14 12:50 ID:dayTT2tZ
熊から生まれた。
5歴史家志望のてーとく:02/05/14 12:50 ID:hwI8P69H
いーや「古代」から「現在」までどれでも。
63の名無しさん:02/05/14 12:50 ID:QBMp+WF5
あらら、2じゃなかった。悔しいなぁ。
7朱雀 ◆OtUfBSUc :02/05/14 12:55 ID:/Dbg4MlH

李氏朝鮮は清に従属した

西暦1636年、明朝では崇禎9年、満州族太宗・ホンタイジは国号を「金」から「清」
に改め元号を崇徳とし、その年の4月天地に祭告し即位の式を挙げた。各地から朝賀の人
が集まり拝礼したが、このとき明を宗主国としている 朝鮮の使臣は 拝礼を拒んだ。

清の太宗は朝鮮国王を責める書を送り、子弟を人質に出すことを求めたが、朝鮮は対応に
よっては宗主国「明」との関係が悪くなるため、黙殺の態度を決め返事を送らなかった。
しかし、それは許されず、太宗は10万の軍を率いて朝鮮へ侵攻し、こうして清の第二次
朝鮮出兵が行われた。

朝鮮国王の仁宗は南漢山城に逃れ、明の援軍を待った。明は水軍を準備したが 天候が悪
く船をだせず、援軍の無い朝鮮軍は 各地でことごとく敗北、遂に国王と江華島に避難し
ていた国王の家族が満州軍の手におちた。太宗は漢江東岸の三田渡(サムジョンド)で国王を引
見し、降伏受理の儀式がおこなわれたが、朝鮮国王は太宗の足下の地に伏して罪を請い、
王子を人質に出すことを約束した、こうして朝鮮は清に従属した。

注:この出兵は太宗としては二度目、清になってからは初めて、太宗の第一次出兵から
  9年後、秀吉の第二次出兵から39年後のことである。
  朝鮮の正式な従属は1637年とされる かもしれない。

8朱雀 ◆OtUfBSUc :02/05/14 12:56 ID:/Dbg4MlH
三田渡の屈辱

韓国の歴史で恥ずべきこととしては「三田渡(サムジョンド)の屈辱」を除くことはできない。
これは、丙子胡乱(1636〜1637、朝鮮と清の戦争)で敗れた16代国王・仁祖(ジンジョ、1595
〜1649)が、1637年1月、 南漢山城(ナムハンサンソン)から出て、清の太宗に土下座して降参
した事件である。 仁祖が命乞いをして太宗が仁祖を殺さなかった「功徳」をたたえて立て
られたという「大清皇帝功徳碑」(三田渡碑)は今でもソウルの松坡区石村洞(ソンパグ・ソ
クチョンドン)に残っている。仁祖が太宗に三跪九叩頭(皇帝に会う時に強制されるひざまづ
きかた)をしている様子のレリーフが刻まれている。
9朱雀 ◆OtUfBSUc :02/05/14 12:57 ID:/Dbg4MlH
定林寺(チョンリムサ) 定林寺址は百済時代の寺名は定かではないが、高麗時代(1028)に再建さ
れて定林寺と呼ばれた。1942年、日本の藤沢一夫教授らによって発掘調査が行われ、中
門、塔、金堂、講堂が一直線に並ぶ日本の四天王寺の伽藍配置様式と同様であることが解
った。唐の高宗は新羅を助け、将軍蘇定方に命じて百済を滅ぼした記念に、塔の初層に「大
唐平済国碑銘」と刻ませた。塔の高さ基壇上7・7m、初層下部一辺2・4m、二層以上の
塔身が初層にくらべて低く堂々として調和のある層塔である。この大唐平済国碑銘はソウ
ルの三田渡にある清軍侵入の際の大清皇帝功徳碑と並んで、韓国の歴史上、大国恥の遺跡
碑と嘆かれている。
10朱雀 ◆OtUfBSUc :02/05/14 12:58 ID:/Dbg4MlH

朝鮮半島の国家の独立性

モンゴル人が建てた元朝は、高麗を支配下において、あれこれと干渉してきた。司令官を
駐屯させて、王家の世子を人質として、元に差し出させた。この世子がのちの忠烈王であ
る。忠烈王の帰国にあたって元の世祖フビライは娘と結婚させた。つまり、高麗王は、元
の大汗(皇帝)の婿となったわけである。以後、歴代の王は、元の支配のもとに、有名無
実となり、その後の王は、蒙古名を名乗ることとなった。忠宣王はイジリブカ、忠肅王は
アラトトシリ、忠惠王はプダシリというふうに、改名させられてしまった。また、モンゴ
ル風に、弁髪を強いられ、衣服も蒙古風にさせられたという。

こういう強制は、のちの清朝の時にも行なわれている。韓半島の歴代王朝が、臣属してい
る中国そのものが、異民族に蹂躙されてしまう。そうなると、これまで、中国の王朝の意
を迎えるため、すぺてに中国式に徹底してやってきたことが、無に帰してしまうのである。
韓民族は、パニックに陥ってしまう。胡服弁髪を強制されることになり、中国に義理立て
してきた価値観が、蒙古なり、満州なり、そして日本なりという、これまで、韓民族が蔑
視してきた民族のものに、切り換えられてしまう歴史である。創氏改名は、日本人の専売
特許ではなかった。歴史上、何度も、そういう目に遭ってきた民族なのである。

「韓国へ、怒りと悲しみ」 豊田有恒 1996 文藝春秋社

11朱雀 ◆OtUfBSUc :02/05/14 13:03 ID:/Dbg4MlH

>>1 こんなので、どうでしょう?


12 :02/05/19 18:46 ID:BFVWaULR
13名無し:02/05/20 00:24 ID:9iJjOmgk
大量の若い韓国女性が日本に不法入国し、日本人男性に股を開いた。
14 :02/05/20 00:35 ID:IZ2ZNFWv
改めて憐れな歴史だな。
15朱雀 ◆OtUfBSUc :02/05/21 00:23 ID:oDYO4XGq

高麗の国土は蒙古に蹂躙された 

高麗は、1232年に王都を江華島に移したため、江華島に移った貴族は直接戦闘に苦
しまず生活を続けられたが、本土に残っていた人達には悲惨な生活が待っていた。

本土は20年以上に渡り、 何度も蒙古の侵略を受けた。蒙古軍は、騎馬戦には強くても
海を渡って江華島を攻略できない悔しさもあってか、その惨状たるやものすごく、特に
1254年の侵攻時にはその被害が甚大で、それを記した『高麗史』は「この年 蒙古
兵に捕えられたもの20万6800、殺戮された者は その数を知らない。蒙古兵の
通った州都は悉く灰燼となった」と述べている。

元に支配されていた時、高麗王朝には、元が要求する女性を撰ぶ『推別都監』と言う役
職があった。朝鮮の最も古い歴史書『三国史記』はこの頃書かれた。

韓国・教科書「ものがたり・朝鮮の歴史」池 明観 著 (明石書店) より
朝鮮学者の歴史観:http://www.bekkoame.ne.jp/ro/gg8928/so/reki1301.htm

16朱雀 ◆OtUfBSUc :02/05/21 00:26 ID:oDYO4XGq

冊封国家の立場  

李朝は中国から王位と国号の承認を得て国を始め、毎年、冬至の日に定められた朝貢を
欠かす事が無く、新たな国王の即位や、立后、立太子が有るたびに、中国の承認を得たし、
外交上の問題が発生すれば、中国に意見を請うた。

中国の使節は朝鮮国王より上位の品階にあり、朝鮮国王は中国使節を迎える時には、ソウ
ル城外に出て、慎みを持って迎えなければならなかった。しかも朝鮮国王は使節が入場し
た門(迎恩門)を通る事を許されず、別の門を通り城内に入らなくてはならなかった。

また、朝鮮国王には中国皇帝が使用する色彩を使う事、中国皇帝の冠に類似したものをか
ぶる事などが禁じられていたし、公文書は勿論、民間の文書でも中国皇帝年号の日付で表
す事が義務づけられ、北京に事が有るたびに、朝鮮国王は、慰問使や慶弔使を派遣し、礼
を尽くした。

このようにように、徹底して中国に「礼」を持って仕える事で、はじめて国土の安泰が確
保されると言う考え方が李朝の対中国外交の基本を形作っていたが、この外交姿勢を李朝
では誇りを持ち『事大』と呼んだ。これは孟子の「小を以て大に事(つか)うる(以小事大)
者は其の国を保んず」の言葉に由来し、小国が大国に礼をもって仕える事を言う。

呉善花 「日帝」だけでは歴史は語れない−反日の源流を検証する 

17朱雀 ◆OtUfBSUc :02/05/21 00:32 ID:Zs8q9PGb

閔姫の子・坧(純宗)は清の承認で世嗣となった

大院君は閔妃に対して警戒心をまったくいだいていなかったために、油断していた。閔妃
は、そこに乗じた。閔妃は、大院君の反対勢力を糾合して、自分の勢力を構築するかたわ
ら、夫の高宗の愛を独占しようと、あらゆる努力を傾けた。

そして、1874年に男子を出産した。後の純宗となった王子・坧(せき=土+石)である。大院
君は、ようやく閔妃の姻戚・親族一派が策動しているのを見抜き、李氏の子である完和君
が長男であったことから、世子として冊封しようとした。閔妃と大院君との闘争が激化し
た。彼女は利発だった。閔妃は側近の李裕之を北京に派遣して、清朝から王子・坧を嫡子
として承認してもらうことに成功した。 

*) これを見ると、李氏朝鮮末期になっても清の影響力は、皇太子の指名&承認をするほ
  ど強かった事が理解できる。 純宗は韓国併合により昌徳宮李王・坧となった、弟の大
  韓帝国皇太子」英親王・垠は「王世子」となり、1926(T15)年の純宗の薨去により、李
  王家を継承して「昌徳宮李王垠」となり、皇室典範の増補を行って梨本宮方子女王と
  結婚、陸軍中将として軍務に就いた。 http://plaza2.mbn.or.jp/~duplex/giten/okozoku.htm
18朱雀 ◆OtUfBSUc :02/05/21 00:34 ID:Zs8q9PGb

>>17 の続き

閔妃は王子・坧を世子として冊封するために莫大な資金を費やした。そのうえ、閔妃は世
子の健康と王室の安寧を祈るために、「巫堂ノリ」を毎日行なわせた。「巫堂ノリ」は巫
女(シャーマン)たちが狂ったように踊り、祈る呪術である。そのかたわら、金剛山の
1万2000の峰ごとに、一峰あたり1000両の現金と、1石の米と1疋の織物を寄進した。
つまり、合計して1200万両の現金と、1万2000石の白米、織物1万2000疋を布施した。
当時の国家の財政状態は、150万両、米20万石、織布2000疋を備蓄していたにすぎなか
ったから、閔妃が金剛山に供養した額は、国庫の6倍以上に当たるもので、とうてい耐え
うるものでなかった。これは法外な浪費だった。宮廷の要路(重職)の顕官たちは、民衆
から搾取して、競って閔妃に賄賂を贈り、王妃に媚びて「巫堂ノリ」に積極的に参加し、
巫女たちとともに踊った。閔妃は、狂気の宮廷に君臨する女王だった。また、閔妃は音楽
を好んだので、毎夜、俳優や歌手を宮中に招いて演奏させ、歌わせた。そして自分も歌っ
た。俳優や歌手たちに惜しみなく金銭を撒いて、遊興した。

「韓国 堕落の2000年史」 崔基鎬 平成13年 詳伝社
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/6199/rekisi1.htm#binhi
19朱雀 ◆OtUfBSUc :02/05/21 00:36 ID:Zs8q9PGb

朝鮮の朝貢回数は周辺諸国に比べると異常に多い

1637年から1881年までの244年間に清から朝鮮への勅使派遣は161回に及
び、朝鮮から清への朝貢使は500回以上にも及んでいた。清の勅使を迎えるたびごとに、
朝鮮国王は、漢城郊外の迎恩門に至り、土下座して恭しく勅使を迎えた後、慕華館で勅使
の接待をすることを余儀なくされた。

毎年4回とされた朝貢は、1644年以降は年1回に減らされたが、それでもこれは他の
朝貢国に比べると並外れて多い。琉球は2年に1回、タイは3年に1回、ベトナムは4年
に1回、ビルマやラオスは10年に1回だった。

小学館文庫「中国・韓国『歴史教科書』を徹底批判する」 勝岡寛次  P80

朝鮮王国は中国の属国だった [107]
http://kaba.2ch.net/test/read.cgi?bbs=korea&key=997487862

20朱雀 ◆OtUfBSUc :02/05/21 00:37 ID:Zs8q9PGb

朝鮮はシナの属国の中では琉球(沖縄)よりも低い地位だった

そもそも、中国の属邦の中でも朝鮮の地位は最も低く、下国のなかの下国であった。天朝
の朝賀の席では、千官が赤色の礼服を着ていたのに対し、朝鮮の使臣だけは異色の丸首の
衣である。

また、琉球の使臣は籠に乗って宮廷に入るのに対し、朝鮮の使臣は籠に乗ることを禁じら
れていたことが「渓陰漫筆」に書かれている。そして、李朝時代の臣民は琉球以下の扱い
を受けたと嘆いている。

韓国は日本人が作った 黄文雄 徳間書店

これこそ正しい歴史認識  [521]
http://kaba.2ch.net/test/read.cgi/korea/1014110105/

21名無しさん:02/05/21 00:39 ID:qekDo4Gq
B.C.100年 エラがはる。
22_:02/05/21 00:41 ID:cuWFIPWI
閔妃のやった事は、金正日が今やってる事と違いがない。歴史は繰り返す。
23朱雀 ◆OtUfBSUc :02/05/21 00:52 ID:lCRIMmdp

貢女 (コンニイ)

朝鮮(コリア)では中華秩序−朝貢制度によって、宗主国・シナと属国・コリアと言う関係−
が成立して以来、歴代コリア王朝は、歴代シナ王朝に対して、「貢女」(コンニイ)と呼ばれ
る若い女性 、つまりは「宮廷慰安婦」を「献上」しており、コリアは「貢女」の名産地
として有名でした。また、李氏朝鮮時代には「妓生庁」と言う役所を設置し、国家管理下
に妓生(キーセン)を育成していました。

http://www2.justnet.ne.jp/~yoshiro/html/history/honbun/nikkan6.html

24朱雀 ◆OtUfBSUc :02/05/21 00:55 ID:lCRIMmdp

還郷女哀歌 朝鮮の歴史は侵略の歴史

朝鮮の歴史は女性の屈辱と受難の歴史でもある。 韓国語に”還郷女”という言葉がある。
文字どおり故郷に帰った女であるが「あばずれ」とか「淫奔な女」を意味する。ここに朝
鮮の歴史の哀しい影が秘められている。

隋、唐、遼、金、元、清、大陸の政権が変わるごとに 侵略を受け服属した。外勢侵略の
犠牲は、常にか弱い女性にしわ寄せされる。唐が高句麗を滅ぼした時、7万人の高句麗人
を奴隷として連れ去った。そのほとんどが女性だった。

元の侵略は凄まじく、元兵の通った洲都は、尽く灰燼となり、連れ去られた者は 20万人
を超え、 殺戮された者は数知れない。また元に支配されていた時、高麗王朝に『推別都
監』という 役職があった。これは 元が要求する女性を、撰んで推すポストだ。高麗王は
代々蒙古の王女を王妃に迎え、姻戚関係を結んでいた。

李成桂は明に臣従し、国号「朝鮮」も明皇帝に決めて貰い、明朝の年号を代々使用したか
ら、明の侵略はなかっただろうが、女性にとっては、明朝の時代も例外ではなかった。秀
吉の出兵の時、陶工、機織り女、など多数の男女が日本へ連れ去られたし、救援軍として
来た明兵の暴虐、略奪も、秀吉軍に劣らなかったという。

また、明では洪武帝(1398年没)から 天順帝(1464年没)の時代まで皇帝が死ぬと後宮の女
性達が、殉死させられていたから、後宮で散った女性は少なくなかったと思われる。

http://www.bekkoame.ne.jp/ro/gg8928/so/reki131.htm
25重複?:02/05/21 00:55 ID:S5z10jGV
これこそ「正しい歴史認識」!!
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/korea/1014110105/
26 :02/05/21 01:03 ID:VQEEgzXo
>>20
明代では琉球の朝貢回数がダントツでしたよね。
1609年に琉球が薩摩に征服されたとき
朝鮮は喜んだそうですね。そうゆう理由から。
27ダサ過ぎ:02/05/21 01:19 ID:S5z10jGV
しかし、中国人からみれば依然として朝鮮半島は“まごうことなき藩属国”なのです。
朝鮮という呼称も侮蔑的なものです。中国皇帝に対して朝貢し、朝鮮国王を授かったとき、
「貢ぎ物少なし」とつけられた、「朝(みつぎもの)鮮(すくなし)」なのです。
これをいまも信じて変えないのも面白いことです。

「阿片としての中華意識」高木桂蔵 静岡県立大学教授(「諸君!」2002年4月号)
28朱雀 ◆OtUfBSUc :02/05/21 01:44 ID:Rp4myzvj

>>26
朝鮮は「明」に「条約」で屈服した「朝貢国」ですね。
琉球は明と条約による従属国だったのでしょうか?

29名無し:02/05/21 02:03 ID:EejoFSYt
うーん、朱雀氏のカキコは勉強になるな!
30朱雀 ◆OtUfBSUc :02/05/21 02:27 ID:S7JuRmsX

貨幣 『朝鮮旅行記』ダデシュカリアニの部より

中国との条約により、朝鮮政府(国王)は自ら貨幣を鋳造する権利を持たない。ボグディハ
ン(清国皇帝)の家臣を自認する国王は、中国のお金だけを王国内に流通させる事、また国
内で採掘された金属は鋳造のため北京に送る事が義務づけられている。しかし、この義務
は書面に存在するだけに過ぎず、国王は朝鮮貨幣を独自に鋳造しているが、鋳造されたの
は今に至るまで銅貨に限られており、金貨や銀貨に対する知識を朝鮮人は欠いている。

訳者注:満州の侵略後の1637年、朝鮮王は自ら満州皇帝の従臣たる事を認めた条約を締
    結している。

31朱雀 ◆OtUfBSUc :02/05/21 02:28 ID:S7JuRmsX

1637年1月28日に清軍は龍骨大・馬夫太を送り次のような講和条約条項を提示した。

1.清国に対する君臣の礼を守ること、
2.明の年号を廃し、関係を断ち、明からもらった誥命・冊印を差し出すこと、
3.朝鮮王の長子・第二子及び大臣の子弟を瀋陽に人質として送ること、
4.聖節(中国皇帝の誕生日)・正朝・冬至・千秋(中国皇后・皇太子の誕生日)・慶弔な
  どの使節を明の例に従うこと、
5.明を討つ時、出兵を要求すれば断らないこと、
6.清軍が帰る時、兵船50隻を送ること、
7.内外諸臣と婚姻を結び和好を固くすること、
8.城を新築したり城壁を修築しないこと、
9.己卯年(1639)から一定の歳幣を送ることなどである。


1月30日仁祖は世子など扈行500名を引きつれ城門を出て、三田渡に設置された受降壇
で太宗に屈辱的な降礼をした後、漢江を渡り還都した。清は盟約に従い昭顕世子・嬪宮
鳳林大君らを人質にして、斥和の主謀者洪翼漢・尹集・呉達濟ら三学士を捕らえ、2月
15日撤退し始めた。ここに朝鮮は完全に明とは関係を断ち清に服属するようになった。
このような関係は1895年日清戦争で清が日本に敗れるまで続いた。

32朱雀 ◆OtUfBSUc :02/05/21 03:04 ID:GcTMnHJ9

訂正: >>28の「明」は「清」のマチガイでした。
33_:02/05/21 09:25 ID:vGcr45Rz
「半万年」前なら多分、洞窟の中で居住して、獣皮或いは麻等を
織ったものを着用し、木の実、草の根、魚類、動物を捕獲して
生活していた。位は理解できる。
34真実の半島史 :02/05/21 09:50 ID:19ypi4ui
大日本帝國の他に北方には南下を企てている帝政ロシアが在った。
日露戦争で日本が敗れていたので、いまは朝鮮半島はロシアの一部である。
露韓併合により、韓国の伝統文化や民族性が破壊された。
半島民の半数はシベリア北部に強制移住させられ、重労働に従事した。
残りの半数は満州に移住して開拓農民として暮らした。
朝鮮半島にはロシア系の住民が移り住んだ。

35朱雀 ◆OtUfBSUc :02/05/21 11:58 ID:xkCvcyZY

2000年間に1000回の侵略

朝鮮半島の3つの王朝、高句麗、新羅、百済は中国の冊封を受け、臣下の礼をとっていた。
新羅は朝鮮半島を統一すると援軍に来たまま駐留を続けようとする唐軍を追い出したが、
すぐに唐に謝罪し、冊封を受けて臣下になり、その関係は唐が新羅末期の907年に滅ぶま
で続いた。

高麗は993年から1019年まで、契丹の北方からの侵入を度々受けても、屈することなく
戦い続けて自立を守り続けたが、1231年から蒙古軍の侵入を受けるようになり、遂に1259
年には、蒙古軍に降伏して臣下となった。

蒙古(元)の支配は1359年まで、100年間続き、その後、高麗は、元を追いやり中国を統
一した明につくか、元に付くかで揺れ動いた。やがて元は衰亡から崩壊への道を辿り、新
王朝の李氏朝鮮は明の冊封を受けた。

李朝は500年間に大きな侵略を2回受けた。最初は、1592年と1597年の2度に渡る日本
軍(豊臣秀吉)の侵略であり、2回目は1636年の満州族が建国した「清」の侵略である。
李朝は日本軍の支配は明の援軍を受けて支配を免れたが、清には降服し、その臣下に入っ
た。清は1662年に明を滅ぼし、中国に統一王朝を築いたが、この関係は1895年に日清戦
争に敗れるまで続き、李朝に対する宗主国であり続けた。

日本は聖徳太子以来、中国に遣使を送りはしたが、冊封を受けて臣下になる事はなかった
し、外国の支配も受けなかった。しかし、朝鮮半島の諸国は常に侵略に脅かされ、古代か
らの2000年間に、北方諸民族や倭寇による小規模な侵入を含めれば、正史に記録された
だけでも約1000回の侵略を受けている。特に、高麗時代の蒙古、李朝時代の日本、清に
よる侵略により、それまで築き上げた産業や文化を壊滅に近い状態に陥れられたと言える。

呉善花『韓国併合への道』
36朱雀 ◆OtUfBSUc :02/05/21 12:02 ID:et4F/nM3

李氏朝鮮の官僚体制

朝鮮半島には日本やヨーロッパのように武人が支配した「封建国家」の歴史がない。中国
と同じように古代以来の文人官僚が政治を行う王朝国家が、延々と近代まで続いたのであ
り、併合した日本は近代国家だったが、併合された国家の実質は近代国家でも封建国家で
もない「王朝国家」だったのである。

李朝の政治システムは中国歴代の制度に由来するもので、頂点に絶対権力者としての王を
戴き、その下に文官と武官の両官僚群が合議で政治を行う、高麗朝の儒教的な官僚体制を
踏襲したものであり、文治主義と中央集権制が極度に徹底されていた点に大きな特徴がある。

李朝の官僚は正一品上から従九品下までの36階級からなり、3つの階層に区別されてい
た。上位12階級を堂上官、それ以下を堂下官と呼び、堂上官が高級官吏を形成した。ま
た上位24階級を参上官と呼び、上級官吏層にし、下位12階級を参下官と呼び、下級官吏
層として区別した。

堂上官と堂下官、参上官と参下官の間は厳然と区別され、出身身分、登用試験の成績、治
績の評価などにより昇進に限界があり、主要官庁の責任者は全て堂上官で占められ、彼ら
は関連官庁の責任者の地位も大部分を兼任したので、実質的な政治権力はわずかな高級官
吏に集中して握られていた。

官僚には文官(文班)と武官(武班)があり、両班(ヤンバン)と呼ばれたが、李朝は極端な文治
主義をとり、武官は文官よりはるかに劣位に置かれ、全軍の責任者は言うに及ばず、地域
方面軍の指揮将官にも高級文官が就任したし、その他の高位の武官職も悉く文官により兼
任されていた。

呉善花『韓国併合への道』
37 :02/05/28 00:49 ID:F0V1gP/z
age
38ななしさん:02/05/31 05:26 ID:NSL15MZJ
 壇上覚『永楽帝−中華「世界システム」への夢−』(講談社メチエ)

   彼は父朱元璋と同様,多くの女性を後宮に集めることに,並々ならぬ熱
  意を示した。特に朝鮮に対しては,永楽六年以来,たびたび美女の献上を
  命じており,朝鮮王朝はそのたびに屈辱的な思いを味わった。永楽六年な
  どは,わざわざ婚姻を禁止して選抜を行ったが・・・・彼女たちが中国に向か
  う日,二度と会えぬ子を思う両親や一族の哭き声が,いつまでも道にあふ
  れていたという。(p241)

   ・・・しかしそれほどまでにして集められた美女のなかで,永楽帝の寵愛
  を受けた者は,ほんの一握りにすぎない・・・・・・永楽帝の持病に基づく精力
  減退は,その傾向にいっそう拍車をかけたらしい・・・・・記録によれば,宮
  女と宦官の密通は,後宮内では決してめずらしいことではない・・・・・拷問
  に耐えかねて下女は罪を認めたまではよいが,あろうことか永楽帝暗殺計
  画まで白状してしまったのだ。これをきっかけに,宮女や宦官が次々と逮
  捕され,連座者はなんと二千八百人。彼らは一人残らず処刑された。
  (p214〜2)

   ・・・・先に記した事件の顛末は,隣国の『朝鮮王朝実録』の記載に基づく。
  朝鮮がこの事件に関心を持つのは,自国出身の宮女たちの多くが事件に連
  座して命を落としたからだ。大国中国に隣接する朝鮮は,たえず中国への
  「事大」を強いられてきた。属国ならではの悲哀と憤りは,記述の端々か
  らもうかがうことができる。(p243)
3938:02/05/31 05:27 ID:NSL15MZJ
>>38


   永楽帝が死去した時,生前彼に仕えた宮女三十人が殉死を命じられた。
  そのなかには,魚・呂の禍をかろうじて免れた朝鮮出身の韓氏も含まれて
  いた。いよいよ殉死の当日となり,型通りの酒宴を終えた彼女たちは,死
  出の旅路に向けて別殿に連れていかれた。そこにはすでに木の踏み台が並
  べられ,彼女たちの到来を待ち受けていた。同席した仁宗洪煕帝が別れの
  ことばを告げ,彼女たちはうながされて泣く泣く台の上に立つと,つるさ
  れた縄の輪に首を通した。
   合図の声が響きわたり,哭声がひときは高まったその瞬間,傍らの宦官
  が踏み台を押し倒して,彼女たちは次々と昇天した。韓氏は死に臨み,自
  分に仕えてきた乳母に向かって叫んだ。
  
   −母さん,私はまいります。母さん,私はまいります。

   その声が終わらないうちに彼女の体は宙を舞った。・・・・後に帰国した乳
  母の報告により朝鮮出身者の末路が明らかになった・・・・(p243〜4)
40朱雀 ◆OtUfBSUc :02/05/31 08:22 ID:Q4dS32L3
>>38-39
貴重な情報、ありがとう
41朱雀 ◆OtUfBSUc :02/05/31 10:13 ID:BFw9BY81

下関条約:第一条
清国ハ朝鮮国ノ完全無欠ナル独立自主ノ国タルコトヲ確認ス因テ右独立自主ヲ
損害スヘキ朝鮮国ヨリ清国ニ対スル貢献典礼等ハ将来全ク之ヲ廃止スヘシ

なぜ、下関条約、それも第一条にわざわざ「朝鮮国は完全無欠なる独立国である事を
確認する」と書く必要があったのか?疑問だった

それは、朝鮮が、>>31に書いたように「条約により清の属国となった国」だったから、
「条約によりその身分から解放された」事を明確にする必要があったのだ、と思い至った。

42朱雀 ◆OtUfBSUc :02/05/31 14:09 ID:Kfivp5+z

永楽帝―中華「世界システム」への夢 講談社選書メチエ
檀上 寛 (著) 

出版社/著者からの内容紹介
明朝第3代、永楽帝。甥、建文帝を倒した簒奪者。その負い目(トラウマ)は彼を史上屈
指の「天子」たるべく駆り立てる。鄭和に命じた南海大遠征、5度にわたるモンゴル親征、
北京遷都……。華夷秩序を建てなおし、中華の「世界システム」を構想した男の見果てぬ
夢を描きだす。


著者紹介
1950年生まれ。神戸市出身。京都大学文学部卒業。同大学院博士課程修了。現在、京都
女子大学教授。文学博士。専攻は中国近世史。著書に『明の太祖 朱元璋』(白帝社)、『明
朝専制支配の史的構造』(汲古書院)などがある。

>>38-39 検索しても出ない??
<壇→檀、覚→寛  でした。


431:02/05/31 15:15 ID:4Q3nIBSR
 閔妃は壬午軍乱時に、忠州の閔妃の屋敷にかくまわれていた。閔妃は閔氏政権の復活とともに王宮へ戻ったが、その際に一人の巫女を伴っていた。
 彼女は閔妃がかくまわれていた家の召使い身分の女だったが、「閔妃は無事王宮に戻る」と預言し、それが「適中」したことで、閔妃は彼女を大いに気に入り、王宮まで連れて帰ると宮中に祭壇を設け、自らの安泰のために祈祷をさせるようになった。
 閔妃はこの王妃安泰を祈祷する巫女を宮中の賓客として優遇したため、宮中では彼女をあたかも王妃の守護神であるかのように崇敬するようになっていった。
 やがて閔妃は、北廟(宮殿の北方にある)に王家直属の祭壇と祈祷所を設け、彼女を祭主として王家の福運を祈祷する祭祀を行わせるようになった。
 北廟の祭祀は朝方と夕方に行なわれ、王族、閔氏一族、高級官僚たちが列をなして礼拝に訪れた。
441:02/05/31 15:24 ID:4Q3nIBSR
 祭祀のために、北廟には毎日、山海の珍味や各地の名産品が山のように運び込まれ、祈祷所は常にそれらの品々であふれかえっていた。国家財政は窮乏の一途をたどっていたにもかかわらず、この祭祀のために、国費は惜しみなく費やされたのである。
 また彼女のもとには、各地から祈祷師、巫女、占い師、易者、僧尼ら続々と集まるようになり、北廟はほとんどシャーマニズム宗教センターと化してしまった。
 彼らは祭主の下で祭祀を執り行なう、いわば祈祷所の押しかけ祈祷者だったが、彼らを賄う費用も、祈祷所の費用から、つまり国庫から歳出された。
 こうして北廟の祭主は大霊君と号され、宦官や侍女をおさえて、宮廷内で最も重きをなすようになった。
 取り巻きの祈祷者たちもその威勢にあずかったので、上級の品階や大職を求める官僚たちは、宦官や侍女だけでなく、彼らにも金品を贈って機嫌をとらなくてはならなくなってしまった。
 (43,44 呉善花「韓国併合への道」)
 43の「閔妃の屋敷」は、「閔氏一族の屋敷」の間違い
45朱雀 ◆OtUfBSUc :02/05/31 20:28 ID:ILGoDK0f

皇帝と王の違い

日本側が、文書に「皇」と「勅」と言う文字を用いた事に関しては、侵略の意図を指摘し
ないまでも、傲慢な姿勢の現れと解釈する人は少なくない。

李朝側は、日本側が「皇上」と書いたのは、日本の国王が単なる王ではなく皇帝である事
を示すものであり、「奉勅」は皇帝の命を受けた事を意味すると理解し、傲慢と見なした。

李朝からすれば「皇帝」は華夷秩序に君臨する中国皇帝以外に存在するはずもなかったの
であるが、日本側にすれば「皇帝」とは臣従先を持たない独立した国王の称号として用い
られ、臣従先を持つ者は単に「王」と称するのが世界の通例だったから、それは傲慢など
と言われる筋合いのものではなかった。

李朝の国王は中国皇帝に臣従する朝鮮王であるのに対し、日本の天皇は誰にも臣従してい
ない皇帝であり、この皇帝(エンペラー)と王(キング)の区別は世界的に行われていたものであり、
それ故に、日本の国書に「皇上」と「奉勅」の文字がある事をもって、最初から受け取る
はずのない文面を意図的に作ったとか、傲慢だとか無礼だと言うのは見当はずれと言わざ
るを得ない。

46朱雀 ◆OtUfBSUc :02/05/31 20:29 ID:ILGoDK0f

この日本の国書に対する李朝の受け取り拒否という「事件」の実体は、謀略まがいなどと
言う次元にあるのではなく、日朝両国の伝統的な世界観が、正面から衝突した「歴史的事
件」である。李朝にとっては中華帝国を盟主とし、周辺諸国が臣従する朝貢体制こそが「世
界」に他ならず、この世界の外にあるものは、未だに順化を遂げない蔑視すべき夷族であ
った。

李朝が日本の国書を傲慢として受け取りを拒絶したのは、夷族である日本が盟主中国と並
ぶ皇帝の格を標榜したからであり、それはこの世界秩序を正当とする者には、許し難い事
だったし、更に日本は「仮洋夷」と化していたから、尚更の事であった。

しかし、日本は李朝が従う世界秩序の内部にいる訳ではなかったし、また攘夷を乗り越え
明治維新を成し遂げた日本からすれば、こうした李朝の態度は時代錯誤も甚だしいもので、
日本にとっても許し難いものだった。

*) 韓国では戦後も、天皇とは呼ばずに、李朝以来の伝統的な呼び方「日王」と読んで来
  たのであり、金大中政権になり、政府は天皇と呼ぶよう奨励しているが、一般には浸
  透していない。

呉善花『韓国併合への道』

47朱雀 ◆OtUfBSUc
日清戦争の後、独立門と独立館ができた

独立門 トンリンムン:定礎式(1896.11.21)?完成(1897.11)

独立門は1898年、徐載弼(ソ・チェピル)博士の独立協会の主導のもと、それ
まで 清王朝の使臣を迎えていた迎恩門を壊し、そこにフランス・パリの凱
旋門を模して建てたものです。 1979年城山大路造成により、本来の位置
から北西側に70m移転されました。

独立館 独立館の改修(1897.5.23)

隣の独立門とともに朝鮮時代末期に外国勢力の侵入に対抗し、民族の独
立を求める韓国民の精神的な象徴物となりました。本来この建物は慕華館
であり、 中国使臣を迎えたところでしたが、徐載弼(ソ・チェピル)博士の
独立協会が1894年甲午更張 (高宗王31年目の1894年開化派らが政治制度を
近代的に改革したこと)当時、改修して独立館と名づけたところです。

本来は韓国伝統の建築様式の1階建てであり、現在の位置から南西側に
約350qの地点にありました。 現在の建物は1995年12月から1999年12月
までソウル市から歴史的な考証に基づき、地下を追加して建てたものです。