日本・韓国の心暖まるエピソード

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サッカーダイジェスト1998−12-2号

アジアユース後、金殷中は思いもしなかった事実を教えてくれた。
「実はね、この前、播戸が僕らの部屋に遊びにきたんだ。身振り手振りの会話だったけど、お互い通じ合えたとおもうよ」

日本の選手が韓国の選手の部屋を訪ねて、ひとときを過ごした。
金殷中からその話を聞いたとき、正直耳を疑った。
いくら同じホテルに滞在してるとはいえ、大会中にそのような交流があるとは信じられなかった。
何らかの企画で日韓サポーター同士の対談や、市民レベルでの交流会をセッティングした経験から感じる、「どうせ形だけの交流なのだろう」と疑ったりもした。
しかし、それは大きな間違いだった。日本と韓国の選手たちは、建前上の交流のためでもなければ、誰に強要されたわけでもなかった。
自ら韓国選手の部屋に出向いた播戸竜ニはこう振り返る。
「大会前にバンコクで日韓の選手がニアミスしたんです。僕の座席のすぐ後ろに韓国の選手がいた。第一印象は人相が悪い(笑)。
でも、実は結構良い奴らだった。ホテルのエレベーターで、部屋に遊びにこないか?、と誘われて、すぐに訪問しましたよ」

バンコクの空港で顔見知り(?)になった播戸と韓国の選手たちは、チェンマイのホテルでも挨拶を交わす仲となり、
気がつくと日韓両国の選手が、会釈程度の挨拶を交わすようになっていた。
グループリーグで対決した夜には、金建衡が小野伸二を呼び止め、
お互いの健闘を称え合ったあと、決勝でも日韓対決しようと誓い合ったという。
「小野とはUー16のときも試合をしたことがあったからお互いよく覚えてたし、背番号も同じでキャプテン同士だったから、親近感が沸いた。
プレイだけでなく人間的に素晴らしい奴だったしね!試合では激しくぶつかったけど、一言伝えたかったんだ。決勝でまたやろうって」

こうした交流を重ねながら、決勝戦を戦った日本と韓国。
あの激しい試合の陰で、日韓イレブンが急接近していた、思いも寄らないことだった。
しかし、さらに驚くべきことが決勝の後に起こった。
両国のコーチングスタッフも寝静まった深夜、
李東國と金殷中の部屋に日韓イレブンが集い、「朝まで討論会」ならぬ、「朝まで交流会」が開かれたのだ!
初めは李東國、金殷中、鄭湧勲、朴東赫、といった韓国選手と、播戸、小笠原の日本人選手の交流だった。
そこに入れ替わり立ち代わり韓国選手が出入りしているうちに
「日本選手をもっと招待しよう」と李東國が言い出した。

この提案に全員が賛成し、皆で日本選手を迎えに行くことになった。
午前12時過ぎの招待。
薛埼鉉や李允燮は「断られるのではないか」と心配したそうだが、日本選手は、それほど付き合いの悪い奴らではなかった。
小野、本山、金子聖司、稲本、高原、酒井といった面々は、盛り上げ役に徹する鄭湧勲と中田浩二に連れられて、交流会に加わった。
本山と金殷中は交換したユニホームに袖を通し、写真を撮った。2度戦ったことで、日韓の距離は縮まっていた。
後はお互いの質問攻めである。

「Jリーグで一番うまい選手は誰?」「韓国には兵役があるの?」
「オレは3回韓国行ったことがあるよ」「日本とは高校時代から交流戦やってるんだ」
など、両国の事情を話し合い、ときには笑い転げながら日韓サッカー比較談義に花を咲かせた。
「中田英寿と高宗秀はどちらがうまいか?」
「フランスW杯で日韓とも勝利できなかった要因は何か」

など、内容は多岐にわたり、2度の対戦を振り返りお互いの弱点について意見を交換。
いつしか話題は若者文化の流行や、韓国人の日本観と日本人の韓国観といった話まで及び、何人かの選手は電話番号を交換したという。
楽しければ楽しいほど、時間は早く過ぎていく・・。
時計は午前5時を回り、韓国選手がホテルを引き払う時間まで、あと1時間となり、「ひとりの選手が提案をした!」

表彰式の関係で決勝戦の後に交換できなかったユニホームを、今ここで交換しようと。
この提案を受けて、皆がユニホームを交換しエールを交わした。
「今度は負けない」「ワールドユースで会おう!」
「これからもよろしく」「話ができてよかった」
言葉はさまざまだが、どの顔も満足感でいっぱいだった。

90分間戦い、夜通しで語り明かしたのに、疲れた表情を見せるものは誰一人としていない。
ただ、ひとりだけ寂しそうな表情を浮かべてたのは韓国の徐冠秀である。
天才MFと言われ、サッカーを始めたころから韓国サッカー界のエリート街道を歩いてきた彼は、アジアユースで初めて挫折を味わった。
予備メンバーとして、大会にはエントリーされなかったのである。
腐ることなく、毎晩ランニングをしていたのだが、その徐冠秀だけはユニホームを交換できずにいたのだ。
韓国選手が10人以上いたのに対し、日本選手は8人しかいなかったからだ。
そんな彼の浮かない表情に気づいたのが、小野、小笠原、中田浩の3人だった。
彼らは徐冠秀を日本の選手が宿泊するフロアで待たせると、一枚のユニホームを手にして戻り、それを予備メンバーに手渡したのだ。
徐冠秀は言う
「おそらく、ボクはワールドユースを戦うメンバーには選ばれない。
だから、どうしても日本の選手とユニホームを交換したかったんだ。
日本とはU−16でも対戦したけど、ユニホームを交換できなかったし、
たとえ予備メンバーでもアジアユースに参加して日本の選手と交流を持てた証がほしかったんだ。
だから3人がボクのために走り回ってるのを見たとき、ホントにうれしかったよ!このユニホームを励みに2002年に向けてがんばりたい」
2002年・・・。それは別れ際に、日韓両国の選手が何度も口にした言葉だった。
思い出すのは李東國の一言である。
「日韓ともに今回のユース代表で2002年のW杯戦えたらいいな。その日がくるまで互いに切磋琢磨し、そして4年後にも今回のように夜通しで語り合いたい!」

くしくも李東國の言葉と似たようなことを、小野伸二も口にしていた。
「あの夜のことは絶対に忘れない。これからも、あんな交流があればいい。韓国とはこれまで何度も対戦したけど、お互いに頑張って、アジアから世界に飛び出したい」

使う言葉も、育った環境も異なる2人が語った共通の未来。
今までは宿命のライバルということだけに終始しがちだった日韓だが、
ライバルであると同時に、最高のパートナーになろう。そういっているようだった。
付け加えるなら旧世代の朴監督も、日韓は宿命のライバルであると同時に、同伴者になるべきだと語った。
その意思の表れが、2度の日韓戦の直後に取った行動だった。
試合終了のホイッスルが鳴った後、韓国の選手たちは自軍のベンチには戻らず、日本のベンチ前に整列し、清雲監督以下日本のスタッフに一礼した。それは、日本の実力を認め、対戦できたことを感謝するという意思の表れで、朴監督が試合前に指示していたものだった。
「負けても勝っても、選手たちには日本のベンチに挨拶するように指示した。日本は今後もライバルだけど、我々のパートナーでもあるからね」


2002年W杯が開催されるとき、今回の大会に参加した日韓両国の選手は23歳になっている。
彼らの今後にどんな未来が待ち受けているかはわからないが、これだけは、はっきりしている。
彼らは新しい時代の扉を切り開く可能性をもっている。
日韓サッカー新時代の夜明けは、もう目の前にきている。  
85忘れられない夜:02/03/11 21:43 ID:8D28djxW
忘れられない夜(1998.10)    李東國

僕たちが優勝した夜、僕と金殷中の部屋に「播戸」と「小笠原」がまた遊びに来てくれた。
僕らの部屋に日本人がいることを知って、チームメートが入れ替わり立ち代りやってきた。
僕たちは彼らと仲良くなりたかったのだ。
「せっかくだからさ、日本人もみんな呼んでこようよ」
僕の提案にみんな大賛成だった。
日本人がどう出るかが心配だったけど、ぞろぞろとやってきてくれた。
(総勢20人!) 部屋は一転して窮屈になった。
日本語と韓国語が話せるヒョンに来てもらって、言葉の壁は消えた。
やりたかったユニフォーム交換。韓国人なのに日の丸をつけるのは、
ちょっと不思議な感覚だった。(僕の両親はどう思うのだろう、とちょっとだけ思った)
金殷中は女の子みたいな本山と、僕はたれ目のキャプテンと交換した。
日本人が韓国のユニフォームを着ると、韓国人に見えた。
日本人は韓国のユニフォームを、 ぼくたち韓国人は日本のユニフォームを着た。
彼らがぼくたちの青い姿を見てはやしたので、 僕たちは彼らを負けずにはやした。
僕たちは話したいことがいっぱいあった。僕たちは聞きたいことがいっぱいあった。
近くて遠い国ー日本。話のすべてが新鮮だった。
僕らと似ているところと違うところがあった。彼らの質問の内容も面白かった。

夜中から始めた交流会だけど、ぜんぜん眠くなかった。
そして、僕たちがホテルを出るまであと一時間。
僕らはさよならをした。 2002年、今日と同じメンバーで戦いたい。
僕たちは優勝以上のお土産を持って韓国に戻った。
あれから半年、小野が重傷を負ったと聞いて、僕はショックを受けた。


以上しお韓住人より