従軍慰安婦を『従軍性奴隷』に改称しよう!

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81使徒
前スレの話題だが、文玉珠さんが持っていた軍事郵便貯金について補足。
彼女は終戦当時、日本が敗戦したのでもう貯金は無効になったものとしてあきらめた。
「アユタヤで母に送金したとき、貯金があるなら全部おろして国に送ったほうがいいよ、と勧めてくれたあの軍人は、日本が負けることを知っていたのでしょうね。言われたとおり送っておけばよかった」
と当時を振り返る。
(ところで、彼女の友達の日本名「ヒトミ」という女性は、終戦前に帰国し、下関で軍事郵便貯金を下ろし、生まれ故郷に帰っている。
タッチの差だな・・・・・終戦まで帰国しなかった文玉珠さんは「運が悪かった」と言えばそれまでだが)

文玉珠さんの貯金引き出し請求について日本政府は
「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国間の協定第二条の実施に伴う大韓民国の財産権に対する措置に関する法律」
(1965年法律第144号)
によって権利が消滅しているので支払わない、としている。

しかし韓国では、1975年7月から二年間に限り、
日韓条約に基づいて制定された「対日請求権申告法および補償法」という法律の施行によって、
貯金通帳など有価証券の支払いを受けることができたそうだ。
(その支払いの実情はどうだったのか?貨幣価値も変わっているし。不勉強なので知らん)
しかし文玉珠さんはこのことを知らなかった。
知っていても、そのときすでに通帳を無くしていたので支払いを受けることはどっちにしろ不可能だった。
支払われるチャンスを知らなかったのが悪い!無くすのが悪い!と言ってしまえばそれまでなのだが・・・
82使徒:2001/06/23(土) 00:49
つーか、報酬で豪勢(?)に暮らしていた慰安婦もいたことはアッシも重々承知。
(朝鮮人の)元慰安婦証言のなかには、「人力車で買い物や映画を見に行った、中国人の車夫は自分を日本人だと勘違いしてペコペコしていた」という部分もある。
しかしその豪勢な暮らし(?)の裏には、
別形態の、日本がもたらした悲劇が隠れていることに留意したい。
南京大虐殺だの、慰安婦だの、軍票だの、植民地支配の圧政だのと個々に論じることも大事だが、
それぞれの問題の関連性に注意し、
なぜ当時の日本政府・軍部はあのような事をしたのか、
なぜ国民は政府・軍部を止められなかったのか、止めようとしなかったのかを、
少しずつ考えていきたい。(つーか、俺みたいな知識不足のドキュソは手を広げすぎるとどっかでヘマするんだけどね)
その作業の過程で、
当時の日本の社会と現在の日本の社会の共通性や、
日本人が歴史の中で育ててきた民族の特性が見えてくるかもしれない。

とりあえず、ドキュソなアッシは各論を積み重ねるしかない。
日本軍慰安婦が報酬として受け取っていたとされる、軍票とはいかなるものであったか、復習↓
83使徒:2001/06/23(土) 00:50
日本軍の発行した「軍票」の本質については、アッシの脳でも簡単に説明可能なのでゲス。

「戦争するのは物資が必要、だけど日本列島には何もない。
物資を得るにはお金が必要、だけど日本は貧乏国。
そうだ!紙にお金のデザインを印刷して、占領地で強制的に紙幣として流通させちゃおう!
そしてなんでも必要な物を集めよう!つーか、脅して軍票で買い取ろう!
元手はパルプと印刷の手間賃だけだからこりゃオイシイわ!
日本円との換金?そんなことでいちいち悩んでらんねぇ、目先の問題を解決しなきゃ!」
つー感じで安易にばらまかれた印刷物だったのである。

そんな後先を考えないアホなことをやってると、このように↓困った事態がおこってくるのである。
軍票と日本軍慰安婦の係わりについて考えさせられるおはなし。
独立山砲兵第二連隊の平原一男第一大隊長(戦後に自衛隊陸将補)が湖北省洪橋付近にて軍慰安所を開設した際の模様
「慰安所の開設にあたって最大の問題は、軍票の価値が暴落し、兵たちが受け取る毎月の棒給の中から支払う軍票では、慰安婦たちの生活が成り立たないということであった。そこで大隊本部の経理室で慰安婦たちが稼いだ軍票に相当する生活物資を彼女たちに与えるという制度にした。経理室が彼女たちに与える生活物資の主力は、現地で徴発した食糧・衣類であったと記憶している。兵のなかには徴発に出かけた際、個人的に中国の金品や紙幣を略奪し、自分が遊んだ慰安婦に与える可能性もあると思われたので、経理室の供給する物資は思い切って潤沢にするよう指示した。」
(昔の慰安婦スレからセルフコピペ!)
84使徒:2001/06/23(土) 00:52
これは香港での軍票に関する逸話。激烈に日本に対する怒りがぶちまけられている。
金の恨みはコワイよ!
若くして天理外語で広東語を学び、その語学力を買われて日本軍政下の香港で占領軍報道部芸能班長を努めていた和久田幸助さんは、1980年代半ばの香港で、タクシーに乗ると運転手に次のように話かけられてきた。

タクシーの運転手がくるっと私の方を振り向くと、物でも投げつけるように「私の一家が、どんなに日本人から苦しめられたか、話してあげようか」そう言って堰を切ったように喋り続けた。
「日本軍が香港を占領したとき、私は17歳だったけど、もう親父の仕事を一人前に手伝ってたんだ。
日本軍は占領するとまもなく、香港ドルを二対一のレートで軍票に替えろと公示したけれど、
私たちは、迷っていて、なかなか替える気にならなかったんだ。
そのうちに、レートが四対一ということになったので、これ以上迷っているとどんなレートになるかわからないし、
仕方なく全財産を軍票に替えたんだ。
それから日本軍が香港を占領していた四年ちかく、親父も私も一生懸命働いて、軍票を3万円貯めたんだ。
ところが日本が戦争に負けると、今度は軍票を香港ドルに替えなければならないことになった。
そのレートが、なんと、軍票1万円に対してたったの7ドルだったんだ。親父は猛烈に怒ったね。そんあ道理があるもんか。
4年近くも汗水たらして貯めた全財産の3万円が、21ドルにしかならないんなら、そんなもの、替えない方がいい。
この軍票3万円は、私たちが日本人のためにどんなバカげた目に遭わされたかって証拠にとっておこう。
とっておいて孫子の代まで、この恨みを伝えてやろう。そういってとうとう香港ドルに替えなかったんだ。
今でも3万円の軍票は私の家にしまってある。」
85名無しさん@お腹いっぱい。:2001/06/23(土) 01:20
その「日本軍票→香港ドルのレート」を決めたのはイギリスなんだけど・・・。
などと突っ込んだら駄目なんだろうか。
それと、そのレートになったのは日本が占領中にインフレが起きたから。
もちろん、インフレの原因は日本にあるわけだけれども、それは軍票なしでも起こりえた話なので軍票の話と絡めるのはどうもなぁ。