トロイ戦争の発端は伝承によれば一個のリンゴだ。祝宴に一人だけ招かれなかった争いの女神エリスが、「一番美しい女神へ」と書いたリンゴを宴席に投げ入れ、神々の間に混乱と対立の幕が開いていく◆中国の唐外相が日本に投げ入れた、いや、ハノイでの会談で田中外相に手渡したリンゴには「靖国参拝はやめなさい」と書かれていた。このリンゴが閣内や与党内に混乱の波紋を広げている◆田中外相は、「考えはよく分かった。まだ時間があり、首相に伝える」と答えた。共感するところがあったようで帰国後、参拝取りやめを小泉首相に進言している◆中国の外交技術の巧みさには、つくづく感心する。首相が進言を入れれば〈命令形〉の要請に屈したことで首相が傷つく。拒めば取り次いだ田中外相の体面が傷つく。どちらに転んでも、内閣は無傷で済まない◆外相がどんな持論を主張するのも自由だ。が、外交の場に国を代表して臨む時には、首相の方針に理解が得られるよう情理を尽くすのが、閣僚の仕事である。会談で初めて中国からの風圧の強さを知ったというなら情報収集の怠慢でしかない◆最終的に首相がどんな判断を下すかは分からない。ただ、行くにせよ、中止するにせよ、〈命令形〉は後々まで尾を引くだろう。外相はリンゴを受け取るべきではなかった。
http://www.yomiuri.co.jp/08/20010731ig15.htm