1 :
8月15日:
蔡焜燦氏
(司馬遼太郎『台湾紀行』の中で「老台北」と呼ばれた人)の証言
心の切り替えができない私は、
誰から見ても敗戦で肩を落とした
日本人に見えたのだろう。
また日本兵の軍服で汽車に
乗り込んでいた私は、
8月15日をもっ て
急に威張りはじめた連中
(注:朝鮮人のこと)の嫌がらせを受けた。
座席の中に置いた新品の飯盒を
朝鮮人に盗まれ、それを奪い返そうとすると、
「なんだお前、朝鮮人をバカにするな!
降りて来い!」と、たちまち数人に取り
囲 まれてしまった。多勢に無勢、
勝ち目はない。こうなっては「すみません、
私の記憶違いでした」と謝り、難を逃れるしか
術はなかった。
それから佐世保に到着するまでの30時間、
連中は執拗に私を含め多くの日本人乗客をいびり続けた。
若い女性がトイレに行こうとすると通路を塞ぎ、
次の駅で窓から降りるよう指示するなど、この連中のあまりにも情けない行状を、私ははらわたが煮え繰り返
る
思いで眺めていた。ただ黙って見ているしかなかったのである。
《中略》
佐世保キャンプで私は面白い場面にも遭遇した。
あの引き揚げ列車の中で、
私を含め敗戦で意気消沈する日本人をいびり続け、
肩をいからせていた朝鮮人たちが、
「中華民国台湾青年隊」の腕章をつけた我々
に おべっかを使って擦り寄ってきたのである。
それは中華民国が連合軍の一員であったからに
他ならない。弱い者には威張りちらし、強い者には媚びへつらう、
そ んな彼らの極端な習性を目の当たりにした思いがした。
蔡焜燦『台湾人と日本精神』より抜粋
2 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/03/30(金) 14:56
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/6199/sangokuzin.htm 韓国のイメージ」鄭大均 1995年 中公新書
まずは、戦後日本人の韓国(朝鮮)や韓国(朝鮮)人に対するイメージのおおまかな変化を把握するために、世論調査の結果を概観してみることにする。
表1は、楠弘閣が1939年と1949年に行った「日本人学生」の「諸民族」に対する好悪調査の結果を、鈴木二郎が整理したものである。
同調査は、戦前から戦後にかけての朝鮮人イメージの変化をうかがうことのできる貴重な資料であるが、印象的なのは、
39年調査で、比較的好感度の高い集団として位置づけられていた朝鮮人が、49年調査では、最も好感度の低い集団に転落しているということである。
3 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/03/30(金) 14:57
なぜなのだろうか。多分、重要なのは、
日本人がかつて朝鮮人との間に共有
していた運命共同性の消失と戦後の
日本社会における在日朝鮮人の行為
という二つの要因であろう。「内鮮一体」
や「内鮮融和」のスローガンが示すように、
39年当時の日本人にとって、朝鮮は
「大日本帝国」の版図の一部であり、
32年満州国建国、37年日中戦争へと
時局が推移する過程で、その国策的要請は高まっていた。
敗戦後、こうした運命共同性が消失した時、
朝鮮人に対する眺めが変化したのは当然
のことであるが、好感度がかくも急激に
下落したのは、終戦直後の在日朝鮮人の
行為が日本人の心に植え付けた印象であろう。
4 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/03/30(金) 14:58
続発した不法行為
総人口わずか1%以下の在日朝鮮人の公務執行妨害は21%(1949年)、
騒擾のごときは83%(1948年)、そして密造酒は全密造酒の30%近く
(1953@`54年)、ことに覚醒剤の販売量では全量の60〜70%を占めるという有様であった。(1953@`54年)
5 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/03/30(金) 14:58
公安調査庁坪井豊吉氏は、終戦後間もない頃の在日朝鮮人の犯罪状況について『法務研究』に次のように書いてある。
本期における大きな傾向としては、個人的感情にもとづく報復的詐欺、脅迫、暴行などの一般犯罪のほか、いわゆる親日派民族反逆者への監禁、暴行、あるいは・・・・・帰国問題に起因する不穏行動、各地の保安隊、警備隊(朝連の自衛組織)などの警察類似行為、主食の集団要求や買出し、彼ら同士の派閥抗争などがみられた・・・・・またそれらの中の主な事件は、各地における集団強窃盗、官公署への横暴な態度と不当な要求、建築物の不法占拠、汽車、電車、バスなどの不法乗車、生産管理、人民裁判などであった・・・・・。彼らの不法行為は、敗戦による日本側当局の無気力と消極的な処置に乗じてやたらと増長され、戦後の混乱をいっそう助長するところとなった・・・・・敗戦の混乱におびえるに日本の一般社会人心は極度に不安な環境におちいり、一時は全く無警察状態が各方面に現出された。彼らの不法行為が、一般日本人はもちろん、在留外国人の間にまでも、彼らの性格が事大主義で、遵法精神が薄く、感情的で、極端な凶暴性をもっているとの深い印象を植え付けたことだけは、まぎれもない事実のようである
6 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/03/30(金) 14:58
この時代は、特にその初期は右翼と称される民団、建青などによっても数々の不法行為が敢行されていた・・・・・
騒擾(そうじょう=不平分子が集まり騒いで社会の秩序を乱すこと 『騒擾罪』 )
民団(在日朝鮮居留民団→大韓民国居留民団)、建青(朝鮮建設促進青年同盟)
7 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/03/30(金) 14:59
「秘伝少林寺拳法」 宗道臣 光文社 (「逆説のニッポン歴史観」 井沢元彦 2000 小学館より)
大きな駅に着いた時、大変なことが始まった。第三国の連盟の腕章を巻いた、あまり風体のよくない若者が、窓から無理やりに乗り込んできた。周囲の人たちを押し退け、突き飛ばして場所をとり、氷が溶けて水の流れ出る臭い魚の箱をたくさん積み込んだのである。総勢七人のその連中はまったく言語道断で、座っている者を追い立てて、全員が座り込んだ。
(中略)
それから少しして連中の一人が、「さあ、寝るとしようか」と言って立ち上がった。どうするのか見ていると、網棚の上の荷物を払い落とし始めた。棚の上に寝るつもりである。立っている人間の方を踏み台にして、棚に這い上がったその男は、まだ場所が十分でないのか、足元の荷物を蹴り落とした。ところがその荷物が運悪く、子どもを抱いていた婦人の上に落ち、子どもに当たったので、火のついたように泣きだしてしまった。それまで辛抱に辛抱を重ねていた私は、とうとう我慢できなくなり、つい無意識のうちに「無茶をするな」と大声で怒鳴ってしまった
8 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/03/30(金) 15:00
警察権力を無視した三国人
「白い手黄色い手」 1956 毎日新聞社 (「韓国のイメージ」鄭大均 より)
「もう日本人じゃない」日本降伏の直後、マッカーサー元帥が厚木に乗りこんでくると、まっ先にこう叫び出したのは在日六十万の朝鮮人だった。
彼らの多くは戦前出かせぎのため日本に渡ってきたか、あるいは戦時中軍部の徴用で連れてこられたもので、内地における生活がみじめだっただけにこの強気が一度に爆発した。彼らは敗戦国にのりこんできた戦勝の異国人と同じように、混乱につけこんでわが物顔に振舞いはじめた。
米でも衣料でも砂塘でもモノが不足していた時代に彼らは経済統制など素知らぬ顔でフルに"モノ"を動かした。当時絶対に手に入らなかった純綿のハダ着や雑貨、菓子類、ウィスキー、外国の医薬品など彼らのヤミ市では簡単に買うことができた。ヒロポンや密造酒が集散されたのも主としてそこだった。ゴミゴミしたマーケットから金持が続々と生れていった。
完全な無警察状態……。そのいい例が昭和二十四年春、東京深川でおこった枝川町事件である。朝鮮人四人組が月島の織物問屋から純綿八十二反を盗み出して巨利をせしめた。犯人の身もとがわかり、深川署の刑事ふたりが逮捕状をもって……出かけたところ、……逆に”不審尋問”され、袋だたきの目にあった。当時の朝鮮人の鼻息がどんなにすさまじかったか、容易に想像できる。”見まい、聞くまい、振りむくまい”深川署の刑事たちはそんな言葉で自分たちの無力を嘆じあったという。
9 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/03/30(金) 15:00
三国人の暴力から日本人を守ったのは警察官ではなくヤクザだった。
「田岡一雄自伝・電撃編」 1982 徳間文庫 (「韓国のイメージ」鄭大均 より)
終戦当時、国内には強制連行された人を含めて朝鮮人、中国人は200万以上いたが、とくに兵庫に多く、昭和18年に13万5000人、47都道府県の7パーセント強を占め、大阪、東京につぐ3位という勢力をもっていた。
(中略)/彼らは闇市を掌握して巨大な利益をあげ、徒党を組んでは瓦礫と焦土の神戸の街を闊歩していた。通りすがりの通行人の目つきが気に入らぬといっては難くせをつけ、無銭飲食をし、白昼の路上で婦女子にいたずらをする。善良な市民は恐怖のドン底に叩き込まれた。/こうした不良分子は旧日本軍の陸海軍の飛行服を好んで身につけていた。袖に腕章をつけ、半長靴をはき、純白の絹のマフラーを首にまきつけ、肩で風を切って街をのし歩いた。/腰には拳銃をさげ、白い包帯を巻きつけた鉄パイプの凶器をひっさげた彼らの略奪、暴行には目にあまるものがあった。/警官が駆けつけても手も足もでない。/「おれたちは戦勝国民だ。敗戦国の日本人がなにをいうか」。/警官は小突きまわされ、サーベルはへシ曲げられ、街は暴漢の跳梁に無警察状態だ。/さらにこれにくわえて一部の悪質な米兵の暴行も目にあまった。
(中略)/彼らの行為を見聞きするごとにわたしは怒りにふるえていた。/彼らを制止し、阻止する者は一人としていないのだ。/警察は無力化し、やくざは手をこまねいて目をそらす。/いったい、だれが街を自衛すればいいのだ。
1から9は全て同じ人物
暇だねえ
こいつは日本人の底辺にいる奴か在日
そいつがもっと下を叩いてる
11 :
ボボ・オマンコ(BOBO-OMANKO):2001/03/30(金) 15:31
>>10 君モ酷イ事ヲ言ウネ。
コレダケノ資料ヲ集メルノハ大変ダッタト思ウヨ。
>>2の引用サイトのコピペをしているだけ。
あのサイトは日本植民の伝染病予防のための半島
医療近代化でさえ美化しているところ。ましてや、
李朝時代の商業評価での根拠が薄い。在韓外国人
か右翼の渡部昇一氏の外見上の評価だけ。
このスレッドはハングル板か社会世評板に移動して
ほしい。
13 :
>1:2001/03/30(金) 17:54
これだけ悪さしている在日が知らないふりして日本に
に住んでいるのには強烈にむかつく!
14 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/03/30(金) 20:12
石原慎太郎都知事が、かつて衆議院議員であった若い頃に、
「北朝鮮は日本敵視をやめろ」と発言しただけで、
在日朝鮮人の連中が石原氏の自宅まで大勢で押しかけて来て、
「お前の息子を殺す」とあまりにも理不尽な脅迫をやりました。
これが朝鮮総連という組織の実態であり、浅ましさなのです。
朝鮮総連には税金はかかってません。
今日の社会主義国が崩壊しているのに、いまだに北朝鮮が崩壊せず
に残っているのは、他でもない、日本があるからです。
日本に在住している北朝鮮人たちが、日本という自由主義国で働けて、
私有財産を持てて、 報酬を得て、それを北朝鮮に送金しているからです。
在日北朝鮮人にそういう自由を与えている日本に対して、日本人を拉致したり、
工作船を日本海域に侵入させたり、スパイ活動を日本でしたり、
ミサイルを撃ったりするなど、やりたい放題です。
それだけの破格の待遇を与えてられているのに、日本への見返りが、
「テポドン」というミサイルでしたからね。
15 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/03/30(金) 20:19
ご苦労様>11
資料集めは大変だったろうけど、この手のスレを
たてる人をみると、アメリカ映画を思い出すんだよね。
気に入らないよそ者を腕力でねじ伏せる、が体だけは
いいアメリカ人をね。
1はひ弱な人なんだろうけど。
16 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/03/30(金) 20:29
総連&民団に破防法が適応されないのは何故?
17 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/03/30(金) 20:57
朝鮮人は日本から出て行け!糞チョンコ半島に帰れ!
チョンコと一緒にお前も日本から消えてくれたら最高だけどな
19 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/03/30(金) 22:54
20 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2001/03/30(金) 23:50
姦国人どもはいつもガムテープ持って歩いてるからな。
21 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/03/31(土) 00:16
22 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2001/03/31(土) 04:56
age
23 :
ん?:2001/03/31(土) 05:24
>>12 あのサイトは日本植民の伝染病予防のための半島
医療近代化でさえ美化しているところ。ましてや、
李朝時代の商業評価での根拠が薄い。
>
司馬遼太郎『台湾紀行』
韓国のイメージ」鄭大均 1995年 中公新書
らは誰がみてもまともにみえるけどー?
>
戦後渋谷で無法地帯になっていたよ。
原因は朝鮮人や中国人だよ。
だから安藤組がのしあがったり、
警察が任侠の力をかりて維持していたんですけど?
どこが根拠が薄いのでしょうか?
この人まともに「どう」薄いのかまともに答えていないよ。
24 :
名無しさん:
在日許せんな!
俺等のじーさんの代の罪(とされている行為)を糾弾され続けている現在、
今日本にいる在日を糾弾しても文句は無いよな!