1881 明治14年島根県令が松島開墾願への対応で、内務卿・農商務卿に「日本海内松島開墾之儀ニ付伺」。
内務・外務省間で往復した文書に「朝鮮国蔚陵島即竹島松島之儀ニ付」→
「鬱陵島すなわち竹島とも松島とも呼ばれている島」の意味
1882[5] 韓国・李奎遠が鬱陵島調査するもその属島の認識は竹嶼までで現・竹島は存在に気付かず。
欝陵島最高峰聖人峰より「四望し、海中の先に一点の島嶼の見形無し」(『鬱陵島検察使日記』)。
日記で付属島名(非・岩礁名)は竹島(竹嶼)と島項(観音島)の2島のみ。
李の「鬱陵島外圖」は、観音島にあたる島を初めて地図に記載(以前までは岬にすぎないとの判断)
1882[7] 壬午政変。急進的な改革への守旧派の暴動勃発。政府や日本人を襲撃。大院君が復活。
清国と日本が派兵。大院君を追放。日本勢力は駆逐され、閔氏らの事大党[大(=清)に
仕える党の意]は清の支配下で政権維持を図る。日本は金玉均らの独立党(開化派)に。
1884 甲申政変。清仏戦争で清が敗北したのを機に、金玉均がクーデターで事大党政権を転覆
させたが、清軍の介入で3日天下。金は日本に亡命。
1885 天津条約
1886 鬱陵島の日本古地図、竹嶼を描く一方、観音崎という名称の隣に「島項」(“島の首”の意)を記す。
1894[3/28] 朝鮮守旧派、金玉均衡を上海に誘い出し暗殺。
1894[7] 日清戦争
1895[4/17] 下関条約で韓国が中国から独立。
[4/23] 露・仏・独、三国干渉。干渉後にロシアが旅順租借、以降要塞化。ロシアの満州進出が進む。
[7/06] 閔氏一族が露公使の指図でクーデター、親日派を一掃。日本公使は大院君と組み閔氏殺害。
1896[2] 露・水兵の後押しで反日クーデター。高宗王は以降1年間、避難先のロシア公使館で過ごす。
1899[9/23] 韓国「皇城新聞」の記述。「大韓地誌曰く鬱陵島は古ウサン国であり、地方は百里である」
「その付属の小六島のうち、もっとも顕著なものは、于山島竹島である。」
句得点なしで併記する記述法から<竹島[竹嶼]>(別名于山島)>の意味? 現・竹島の記載無し。
1900(明治33年)韓国・禹用鼎が鬱陵島周辺を調査/6月に報告書を提出。その範囲は東西60里(約24km)・
南北40里(約16km)・計200餘里で現・竹島(鬱陵島より東南東に約92km)は入らず、記述もなし。
禹用鼎「鬱島記」の原本(および附属海図?)は現在紛失とされている
中国で義和団事件勃発。以降、ロシアが満州を占領。
[10/25] 禹報告書を元に大韓勅令41号を発布。第2条に<区域は鬱陵全島と竹島石島を管轄すること>
于山島は竹嶼の別称にすぎないと判明したためか消滅、島と判断された観音アは不使用に。
原文には「竹島」と「石島」の間に句得点はなく、「竹島即石島」の意味か?
「鬱陵島外圖」(李奎遠 1882)の“島項”、「鬱陵島全図」(韓国水産誌 1909)の“鼠項島”、
禹用鼎報告(1900)から、石島=鼠項島=島項=観音島とも考えられる。(別称“石仏島”説も)
1901 「大韓地誌」韓国領域を東経124度30分〜130度35分とし、現竹島を領域外
(日本の朝鮮水路誌とも東経が一致) ※竹島は東経131度52分
「韓海通漁指針」(01年脱稿03年刊)「韓人及び本邦漁人は、これをヤンコ島と呼んで」
1903 ロシアが韓国から龍岩浦を確保。日本に対面する鎮海湾進出も狙うが拒絶される。
1903 隠岐島民の中井養三郎らが現・竹島に漁舎を建ててアシカ漁。
1904[2/06] 日露戦争勃発〜05[9/5]
[2/23] 日韓議定書
1904[7/05] 鬱陵島に望楼建設、同島と朝鮮・竹辺湾を軍用海底電信線で結ぶと決定。
望楼は8/3着工、9/2稼動。電線は9/8〜9/25。
[8] 第1次日韓協約(≠外交権剥奪。日本から財務・外務顧問派遣。)
[9/25] 韓国で「独島」名の発生が確認される。軍艦・新高の日誌に「韓人これを独島と書き・・・」。
[9/29] 中井養三郎、内務・外務・農商務省に「りゃんこ島(竹島)領土編入並に貸下願」を提出。
[11] 日本軍艦対馬、現・竹島に望楼建設可能と確認。
政府に「多数の鬱陵島の住民は、毎夏同島に上陸し、小屋をたて附近において
漁業に従事する」むね報告。ここで“鬱陵民”=隠岐→鬱陵島→現・竹島。韓人は和布刈りonly。
1905 日本の「鬱陵島見取図」、観音島を島ではなく、観音ア(岬)と記載。
1905[1] 閣議でこの無人島を竹島と命名して本邦所属、島根県隠岐島司の所管とする。
[2] 島根県知事、島根県告示第40号で竹島の名称とともにその所属所管を明らかに。
以降、井口龍太ら3人の漁民の合資会社による漁民宿舎建設が許可されるなど、
を作って日本漁民らの漁業権要求と関連した文書(竹島貸下願)は100枚を超える。(島根竹島資料館)
韓国皇帝、日露戦さなか、ロシア皇帝に密使を派遣。
[4] 密使派遣の事実が露見しはじめ、激怒した日本、韓国への保護権確立を閣議決定。
[5/17] 島根県、竹島を隠岐国四郡の官有地台帳に登録
[5/27] 日本海海戦
[6/1] 韓国「皇城新聞」、日露戦「日本海海戦」記事中にて、現竹島を「ジウンコルド巌」と表記している。
[6/05] 島根県知事、中井らにアシカ漁を許可。
[6/13] 軍艦橋立を竹島に派遣、望楼建設の詳細な調査。[7/25]望楼建設着工、[8/19]活動開始。
[8] 島根県知事松永武吉、随員3名とともに海軍用船京都丸にて竹島視察
[9/5] 日露の講和成立。
[10] 海底電信線が鬱陵島→現・竹島→松江に敷設([10]着工、[11]完了)
1905[8]第二次日英同盟第三条(10/5通達)に韓国外相が駐韓英公使と日本公使に抗議(10/17報道)
[11] 第2次日韓協約(外交権剥奪)
1906[2-4] 韓国が、蔚珍の元燈台用地売買に関して、日本側の統監府に抗議して承認させる。
[3/28] 竹島(独島)視察 島根県第3部長神西由太郎外43名。日本の竹島編入を欝陵島郡守・沈興沢が
<本郡所属独島は外洋百余里にあり・・・日本領地となった>と勅令に示されない島名を位置説明付き
で欝陵島管轄の江原道府に確認を求める報告。参政大臣(総理)が[5/30]付け指令第3号で「来報は
閲悉、獨島領地の説は全屬無根であるが、該島の形便と日本人の行動如何をさらに調査報告すること」
これに応じた報告書は現在確認されず。この件で韓国側から抗議はなし。韓国文献初の「独島」記述。
[5/1] 韓国「大韓毎日申報」、鬱島郡所在の独島領地化を理の無い話だと報道
[5/9] 韓国「皇城新聞」、日本役人視察を報道<本郡所属の獨島は外洋百余里の外に在るが、・・・
獨島が今日本の領地になった故、視察のついでに来到・・・>と記述。
[7] 統監府から鬱島郡の所属島嶼及びその郡庁設置年の照会に対し韓国政府が<東西が六十里、
南北が四十里、合せて二百余里>と回答。現竹島(独島)は対象外。「皇城新聞」[7/13]、政府会議
経由の鬱島郡の配置顛末を報じ、<該郡所管島は竹島石島・・・>(原文島名間に句読点なし)
独島騒動後も、韓国の鬱島政策に変化はなく、独島(現・竹島)は韓国領とみなされず。
※60里=24km、40里=16、100里=40。鬱陵島は東西南北とも約10km。現竹島は鬱陵島東南東約92km。
これにより、独島06[5/9]≠石島06[7/23](現竹島 05[6/1]ジウンコルド巌)※皇城新聞表記
※勅令1900[10/25]竹島石島(竹島[竹嶼]石島)
1907[7] 第3次日韓協約(内政権剥奪)
1909 韓国水産誌「鬱陵島全図」では観音島を「鼠項(ソコウ)島」と記載
1910[8] 韓国併合
1912 「舊韓國地方行政區域名稱一覽」(1912刊)に1900年時点の鬱島郡の地名として、石島が北面、南面
のうち、北面所属と記載されてるとの情報(戦後の独島領有主張後の韓国は、鬱島郡南面に編入して
いる。観音島は一貫して南面)by「鬱陵郡誌」(2007刊)※ただし編者が本当の資料を隠匿の可能性も
1913[6/22] 韓国「毎日申報」記事「無人島の探検中止」<鬱島(=鬱陵島)東北40-50里の位置にある
于山島という無人島があるとして・・・鬱陵に移住する計画で・・・于山島はその実在の謎題あって、
○○10数年前に・・・発見できなかった><近年に航海路が頻繁になったのに、その現認したと
いうことが無く、また、その島は海図に記されておらず、仮に存在したとしても発見は容易ではなく・・・>
※よって、石島≠独島(1906年記事)、于山島≠独島(1913年記事)
1921 日本の漁師が済州島の海女16人を雇い竹島であわびとさざえなどを採らせていた書類上の記録。
(島根県「竹島関連資料」より)
当時竹島には30人利用可能な井戸と労働者宿舎の幕舍2棟が設置されていた。
(「竹島日誌」・八幡サイタロウ<久見漁業組合の運営者>より)
1928[9] 韓国「東亜日報」鬱陵島特集(10数回)、9/8「石柱優恵(?)観音島」の記事に、
<その中には石仏形状の岩が幾つかあるとのことで、この島を観音島という>
1935 併合以前から竹島でアシカ漁をしていた隠岐の「親方」に雇われた漁師が、済州島の海女らとの、
漁師小屋での仕事ぶりを証言(隠岐郷土館展示写真など)
1936 日本陸軍参謀部陸地測量部・地図区域一覧図では、竹島は朝鮮区域内 ※単に軍事上の便宜目的。
日本列島と大陸との間の中間線の半島側に竹島が入るため(当時は朝鮮全体が日本領土)
この作成図は戦後SCAPIN第677号に活用され、その時の権益を死守しようとする李ラインに繋がった
1939[4] 島根県隠岐郡五箇村議会、竹島を五箇村の区域に編入することを議決
1940[8] 島根県、竹島の公用を廃し、海軍用地として舞鶴鎮守府に引き継ぐ。
1946[1] 連合国軍総司令部の訓令(SCAPIN第677号)で竹島は日本の施政権外に。
[6] マッカーサー・ライン(SCAPIN第1033号)により竹島が日本の制限水域外に。
1947 「朝鮮常識問答」韓国領域=東経124度11分〜130度56分23秒。※竹島は東経131度52分
1948 「朝鮮常識」国土の最極東=東経130度56分23秒 鬱陵島 竹島(Chukdo)
米軍政下暫定政府の要請に基づく領土主張目的で行った、朝鮮山岳会による鬱陵島の
学術調査1947[8]を同会長・宋錫夏がまとめる。報告書では、鬱陵島と于山島は同一視されている。
1949[9] SCAPIN 2046でマッカーサー・ラインが改定され(SCAPIN-1033を廃止)、竹島が日本水域内に戻る