【国連】竹島不法占領非難決議可決 4【安保理】

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14竹島年表
1145        「三国史記」<十三年(512)夏六月、于山国帰服>干山国、・・・或いは名、鬱陵島≠現・竹島
1471        「成宗実録」<于山、武陵二島・・・>半島南端・江原道からの視線であり≠現・竹島
1438        韓国、鬱陵島に空島政策を始める。(以降450年)
1481        「東国輿地勝覧」<一云武陵 一云羽陵・・・>砂浜・樹木が見える、干山鬱陵本一島≠現・竹島
            ※「于山國」=「大きな山国」(“于”=“大きい”の意)、「鬱陵島」=「ぜいたくで大きい丘の島」
              (“鬱”=“ぜいたくであること”、“陵”=“大きい丘”の意)で、「于山國」=「鬱陵島」
1614        「芝峰類説」日本人が鮑・若布(ワカメ)採取目的で磯竹島(鬱陵島)の占拠を始める
1617        米子の回船問屋が鬱陵島を発見。
1618(元和4年)  大谷・村川両名に幕府から竹島(鬱陵島)へ渡海免許。(「竹島渡海由来記拔書」)
           以降80年日本が鬱陵島を実効支配。
1643        鬱陵島に続き、現・竹島も発見。以降、現・竹島を鬱陵島渡航への寄港地、漁労地として利用。
           遅くとも1661年には大谷、村川両家が幕府より現・竹島を拝領。
1656        『輿地志』に「一説に于山、鬱陵本一島」。現・竹島の記述なし。
1667        隠岐島巡察報告「日本の乾(北西)の地、此の州を以て限りと為す」鬱陵島北限で現・竹島日本領
1684~1767    朝鮮の木版印刷の古地図の「江原道図」が鬱陵島のすぐ南側に「子山」と記載。子山≠現竹島。
15名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/10(金) 02:26:05 ID:r613LTOK
1692(元禄5)   大谷、村川家らが、「竹島(鬱陵島)」に出漁してきた朝鮮人漁民と遭遇。
1693        日本船が朝鮮漁民2人を連行(安龍福事件)。安の「松島は即ち子山島」虚言がのちに韓国史実化。
           安の密漁を機に朝鮮では三年に一回、捜討使を欝陵島に派遣、捜討使が1771年『欝陵島図形』提出
1694       張漢相「蔚陵島事蹟」に「東望海中有一島杳在辰方而其大未滿蔚島三分之一不過三百餘里」
          <東南三百餘里以内に鬱陵島の三分の一程度の大きさの島がある>の記述。現・竹島を指してると
          思われるが、すぐのちには「登島山峰審望彼國之域則杳茫無眼杓之島 其遠近未知幾許」
          <島の山峰を登って彼の国(日本)の域を望んだら、遠近は幾何か知れない(程)遠い「杳茫(遥かに
          遠く)眼杓(目立つ・目標となる)島はない>(安龍福事件の翌年)事件で現・竹島の存在を聞き及んで
          か、島名も記さず言及しているが、再度見ることはできていない。
1696        幕府「竹島(鬱陵島)」渡航禁止(「竹島一件」1692~)。鬱陵島韓国領で決着、現竹島は論争外。
1697[2/14]    朝鮮政府が安龍福の日本侵犯を謝罪「至於漂風愚民 設有所作爲 亦非朝家所知」
          <(安龍福は)漂風の愚民に至りては、設ひ作為する所あるも、朝家(朝鮮政府)の知る所に非ず>
   [3]      朝鮮政府、「呈書のことについては誠に妄作の罪あり」と文書で日本に通告し、安龍福を流刑に。
1699       王朝記録「粛宗実録」を基に鬱陵島探査した官製地図「鬱陵島図形」(1699版)が、
          「竹嶼」の位置に「大于島」、「観音島」の位置に「小于島」と記載。
16名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/10(金) 02:27:27 ID:r613LTOK
1702       「鬱陵島図形」(1702版)、1699版に同じ。朝鮮王朝の認識では鬱陵島の属島は「竹嶼」と「観音島」
1711       鬱陵島検察使の朴錫昌らが鬱陵島に渡った際に作成した地図「鬱陵島圖形」(1711版)では、
          陵島の東側に『海長竹田所謂(いわゆる)于山島』と書かれた島が存在。『海長竹田』とは
          「海長竹の生えている場所」であり、この地図において、于山島=竹嶼(チクトウ)
          その後、『海東地図』、『廣輿図』『輿地図』『八道輿地図』『地乗』等も踏襲、
          『東国輿地勝覧』系譜の于山島像は修正され、それが朝鮮の近代にまで及ぶ地理認識に。

宝暦年間1751-1763 「竹島図説」に「隠岐国松島」から40里に「竹島」と記述。現・竹島は隠岐の国に属していた。

1769       「英祖実録」「承政院日記」に、英祖王が提調・元仁孫に鬱陵島絵図の提出を命じたが、
          現・竹島を「日本山」と記し、日本領とみなしている。視認不可能のため「日本山」の地図記載を見送る。
          「日本山望見者, 亦書標以入, 可也。」「仁孫曰, 鬱陵島地圖入之, 而日本山則無所望見, 故不爲畫矣。」
17名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/10(金) 02:28:17 ID:r613LTOK
1770        『旅菴全書』「彊界考」の<按ずるに、輿地志に云う、「一説に于山、鬱陵本一島。」而るに諸図志を
           考えるに、二島なり。一つは則ちその所謂松島にして、蓋し二島は倶に是れ于山国なり。>を底本
           に、『東国文献備考』「輿地考」が <輿地志に謂う、鬱陵、于山皆于山国の地。于山は即ち倭の
           所謂松島なり>安龍福事件(1693)で、<安龍福証言「松島即ち于山島」>の曲解証言(『粛宗実録』)
          で知った、「松島」名を古来の『輿地志』の于山に強引に結びつけたものと思われ。もともと松島
          (現・竹島)所在が未把握だから「松島」「竹島」名は鬱陵島付属小島(現竹嶼)に収斂され「松竹島」に。
           長久保赤水「日本輿地路程全図」。「隠州視聴合記」からも引用。長久保は鬱陵島を日本領と誤認。
1785       林子平「三国通覧輿地路程全図」。「竹嶋」を<朝鮮ノ持也>。当時の竹嶋は鬱陵島のこと。
1787        フランス船が鬱陵島を発見。ダジュレー島と命名。89年イギリス船も発見しアルゴノート島と命名。
           同じ島だが経緯度の違いで別の2島化。日本寄りにダジュレー、朝鮮寄りにアルゴノート島となり、
           ダジュレーが松島に、アルゴノートが竹島に。1854ロシア船の測定でアルゴノートが不正確と判明。
           1849フランス船[リアンクール]号竹島を発見。54年ロシア、55イギリス[ホーネット]。一時3島併存。
           1870年代アルゴノート消滅。1900年代ダジュレー(or松島)、リアンクール(orホーネット)で確定。
           シーボルトがダジュレーを松島、アルゴノートを竹島にしてたが、アルゴノート消滅で竹島も消える。
1801(享和元年) 「長生竹島記」にも、松島をもって「本朝西海のはて也」
18名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/10(金) 02:29:35 ID:r613LTOK
1807        朝鮮王朝の国政全般(1760-1910)を記した官撰の「日省録」に、鬱陵島周辺調査報告。
          「北有于山島周回為二三里許」(鬱陵島の北に于山島があり、周囲は二、三里(韓国里で800-1200m)
          よって、于山島=竹嶼(鬱陵島北東で南北700mの竹嶼) ※現竹島は南東92km
1820       高田屋嘉兵衛の北前船が竹島と松島の間を航路として使用しているとの記述
          (「石見外記」浜田藩儒・中川顕允が編纂)
1828(文政11年) 江石梁編述「竹島考」が現・竹島に関する、かつてより更なる詳細描写。
1836(天保7)   浜田藩御用商人・会津屋八右衛門による竹島での密輸事件(竹島事件)で、死罪申し渡し書に
          「松島への渡海の名目を以って竹島へ渡り・・・・・・」松島(現竹島)への渡海は依然可能。
          また浜田藩主松平周防守康任が「竹島は日の出の土地とは定め難いが松島なら良い」としている。
1849(嘉永2年) フランスの捕鯨船リアンクール号竹島を発見
1858        ロシア、愛琿条約で清国から黒龍江以北の地を奪う。
1860        ロシアが北京条約で沿海州獲得。
1861        ロシア軍艦が対馬を占領。英国の抗議で撤退。樺太・千島・北海道にも触手。
1867        勝海舟編纂の「大日本国沿海略図」は3島併存。
           アルゴノート(竹島=架空の島)、ダジュレー島(松島=鬱陵島)、リアンクール(現・竹島)。
※以上、誤解から混乱が生じたため、文献上の島名の取り扱いには注意が必要。
19名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/10(金) 02:31:01 ID:f5DIE0KR
1870(明治3年) 「朝鮮国交際始末内探書」に「竹島 松島 朝鮮附属ニ相成候始末」
          “松島は、竹島の隣島・・・。これまで掲載した書類もない” 松島≠現・竹島。2つの島とは、
          架空のArgonaut(竹島)とDagelet(松島=鬱陵島)であり、≠竹島(旧・松島、Liancourt Rock、Hornet)。
1875       江華島事件。朝鮮開国。開化派・独立党が日本に接近。
1876       日朝修好条規。閔氏一族は当初改革派であり日本と連携して諸改革に取り組む。
          7月、12月に邦人2名、鬱陵島対象に「松島開墾願」
1877       1月、邦人1名が鬱陵島対象に「竹島渡海之願」
          太政官指令「日本海内竹島外一島〜〜本邦関係無之義」*外一島=現・竹島との証拠なし。
※「松島の議」「松嶋巡視要否の儀」現・竹島は日本領と認識。ただ「現竹嶼→松島、現鬱陵島→竹島」解釈も存在。
1878       「県治要領」の記述。松島開墾願に対し「前に指示した通りわが国に関係ない」の趣旨→松島=鬱陵島
1879       朝鮮の修信使・朴泳孝による、鬱陵島での邦人活動に抗議を受け、内務省の各府県長官への訓令に
          「日本称松島一名竹島、朝鮮称鬱陵島」の文言→「竹島外一島之儀本邦関係無之」(太政官指令)は、
          「竹島とも松島とも呼ばれている島(鬱陵島)が日本に関係がない」の意味
1870~1899   ドイツの「シュティーラー地図」(それぞれ印刷時期の違う約10枚)が、現・竹島と朝鮮半島の間に境界線
1880       「軍艦天城松嶋調査」 軍艦天城が調査を実施。「松島=鬱陵島、竹島=一個の岩石」と認識。
          これまで政府が「松島」と判断してた島は鬱陵島であり、竹島と判断してた島が竹嶼だったと判明。
20名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/10(金) 02:31:48 ID:f5DIE0KR
1881       明治14年島根県令が松島開墾願への対応で、内務卿・農商務卿に「日本海内松島開墾之儀ニ付伺」。
          内務・外務省間で往復した文書に「朝鮮国蔚陵島即竹島松島之儀ニ付」→
          「鬱陵島すなわち竹島とも松島とも呼ばれている島」の意味
1882[5]      韓国・李奎遠が鬱陵島調査するもその属島の認識は竹嶼までで現・竹島は存在に気付かず。
          欝陵島最高峰聖人峰より「四望し、海中の先に一点の島嶼の見形無し」(『鬱陵島検察使日記』)。
          日記で付属島名(非・岩礁名)は竹島(竹嶼)と島項(観音島)の2島のみ。
          李の「鬱陵島外圖」は、観音島にあたる島を初めて地図に記載(以前までは岬にすぎないとの判断)
1882[7]      壬午政変。急進的な改革への守旧派の暴動勃発。政府や日本人を襲撃。大院君が復活。
          清国と日本が派兵。大院君を追放。日本勢力は駆逐され、閔氏らの事大党[大(=清)に
          仕える党の意]は清の支配下で政権維持を図る。日本は金玉均らの独立党(開化派)に。
1884       甲申政変。清仏戦争で清が敗北したのを機に、金玉均がクーデターで事大党政権を転覆
          させたが、清軍の介入で3日天下。金は日本に亡命。
1885       天津条約
1886       鬱陵島の日本古地図、竹嶼を描く一方、観音崎という名称の隣に「島項」(“島の首”の意)を記す。
1894[3/28]   朝鮮守旧派、金玉均衡を上海に誘い出し暗殺。
1894[7]      日清戦争
21名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/10(金) 02:32:36 ID:f5DIE0KR
1895[4/17]   下関条約で韓国が中国から独立。
    [4/23]   露・仏・独、三国干渉。干渉後にロシアが旅順租借、以降要塞化。ロシアの満州進出が進む。
    [7/06]   閔氏一族が露公使の指図でクーデター、親日派を一掃。日本公使は大院君と組み閔氏殺害。
1896[2]      露・水兵の後押しで反日クーデター。高宗王は以降1年間、避難先のロシア公使館で過ごす。
1899[9/23]    韓国「皇城新聞」の記述。「大韓地誌曰く鬱陵島は古ウサン国であり、地方は百里である」
           「その付属の小六島のうち、もっとも顕著なものは、于山島竹島である。」
           句得点なしで併記する記述法から<竹島[竹嶼]>(別名于山島)>の意味? 現・竹島の記載無し。
1900(明治33年)韓国・禹用鼎が鬱陵島周辺を調査/6月に報告書を提出。その範囲は東西60里(約24km)・
           南北40里(約16km)・計200餘里で現・竹島(鬱陵島より東南東に約92km)は入らず、記述もなし。
           禹用鼎「鬱島記」の原本(および附属海図?)は現在紛失とされている
           中国で義和団事件勃発。以降、ロシアが満州を占領。
   [10/25]   禹報告書を元に大韓勅令41号を発布。第2条に<区域は鬱陵全島と竹島石島を管轄すること>
           于山島は竹嶼の別称にすぎないと判明したためか消滅、島と判断された観音アは不使用に。
          原文には「竹島」と「石島」の間に句得点はなく、「竹島即石島」の意味か?
          「鬱陵島外圖」(李奎遠 1882)の“島項”、「鬱陵島全図」(韓国水産誌 1909)の“鼠項島”、
          禹用鼎報告(1900)から、石島=鼠項島=島項=観音島とも考えられる。(別称“石仏島”説も)
22名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/10(金) 02:33:27 ID:f5DIE0KR
1901       「大韓地誌」韓国領域を東経124度30分〜130度35分とし、現竹島を領域外
          (日本の朝鮮水路誌とも東経が一致) ※竹島は東経131度52分
          「韓海通漁指針」(01年脱稿03年刊)「韓人及び本邦漁人は、これをヤンコ島と呼んで」
1903       ロシアが韓国から龍岩浦を確保。日本に対面する鎮海湾進出も狙うが拒絶される。
1903        隠岐島民の中井養三郎らが現・竹島に漁舎を建ててアシカ漁。
1904[2/06]    日露戦争勃発〜05[9/5]
   [2/23]    日韓議定書
1904[7/05]    鬱陵島に望楼建設、同島と朝鮮・竹辺湾を軍用海底電信線で結ぶと決定。
           望楼は8/3着工、9/2稼動。電線は9/8〜9/25。
   [8]      第1次日韓協約(≠外交権剥奪。日本から財務・外務顧問派遣。)
   [9/25]    韓国で「独島」名の発生が確認される。軍艦・新高の日誌に「韓人これを独島と書き・・・」。
   [9/29]    中井養三郎、内務・外務・農商務省に「りゃんこ島(竹島)領土編入並に貸下願」を提出。
   [11]     日本軍艦対馬、現・竹島に望楼建設可能と確認。
           政府に「多数の鬱陵島の住民は、毎夏同島に上陸し、小屋をたて附近において
           漁業に従事する」むね報告。ここで“鬱陵民”=隠岐→鬱陵島→現・竹島。韓人は和布刈りonly。
1905        日本の「鬱陵島見取図」、観音島を島ではなく、観音ア(岬)と記載。
23名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/10(金) 02:34:15 ID:f5DIE0KR
1905[1]      閣議でこの無人島を竹島と命名して本邦所属、島根県隠岐島司の所管とする。
   [2]      島根県知事、島根県告示第40号で竹島の名称とともにその所属所管を明らかに。
           以降、井口龍太ら3人の漁民の合資会社による漁民宿舎建設が許可されるなど、
           を作って日本漁民らの漁業権要求と関連した文書(竹島貸下願)は100枚を超える。(島根竹島資料館)
           韓国皇帝、日露戦さなか、ロシア皇帝に密使を派遣。
   [4]      密使派遣の事実が露見しはじめ、激怒した日本、韓国への保護権確立を閣議決定。
   [5/17]    島根県、竹島を隠岐国四郡の官有地台帳に登録
   [5/27]    日本海海戦
   [6/1]     韓国「皇城新聞」、日露戦「日本海海戦」記事中にて、現竹島を「ジウンコルド巌」と表記している。
   [6/05]    島根県知事、中井らにアシカ漁を許可。
   [6/13]    軍艦橋立を竹島に派遣、望楼建設の詳細な調査。[7/25]望楼建設着工、[8/19]活動開始。
   [8]      島根県知事松永武吉、随員3名とともに海軍用船京都丸にて竹島視察
   [9/5]     日露の講和成立。
   [10]     海底電信線が鬱陵島→現・竹島→松江に敷設([10]着工、[11]完了)
          1905[8]第二次日英同盟第三条(10/5通達)に韓国外相が駐韓英公使と日本公使に抗議(10/17報道)
   [11]     第2次日韓協約(外交権剥奪)
24名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/10(金) 02:35:41 ID:xTIrJGJG
1906[2-4]    韓国が、蔚珍の元燈台用地売買に関して、日本側の統監府に抗議して承認させる。
   [3/28]   竹島(独島)視察 島根県第3部長神西由太郎外43名。日本の竹島編入を欝陵島郡守・沈興沢が
          <本郡所属独島は外洋百余里にあり・・・日本領地となった>と勅令に示されない島名を位置説明付き
         で欝陵島管轄の江原道府に確認を求める報告。参政大臣(総理)が[5/30]付け指令第3号で「来報は
         閲悉、獨島領地の説は全屬無根であるが、該島の形便と日本人の行動如何をさらに調査報告すること」
         これに応じた報告書は現在確認されず。この件で韓国側から抗議はなし。韓国文献初の「独島」記述。
   [5/1]    韓国「大韓毎日申報」、鬱島郡所在の独島領地化を理の無い話だと報道
   [5/9]    韓国「皇城新聞」、日本役人視察を報道<本郡所属の獨島は外洋百余里の外に在るが、・・・
           獨島が今日本の領地になった故、視察のついでに来到・・・>と記述。
   [7]     統監府から鬱島郡の所属島嶼及びその郡庁設置年の照会に対し韓国政府が<東西が六十里、
          南北が四十里、合せて二百余里>と回答。現竹島(独島)は対象外。「皇城新聞」[7/13]、政府会議
          経由の鬱島郡の配置顛末を報じ、<該郡所管島は竹島石島・・・>(原文島名間に句読点なし)
          独島騒動後も、韓国の鬱島政策に変化はなく、独島(現・竹島)は韓国領とみなされず。
         ※60里=24km、40里=16、100里=40。鬱陵島は東西南北とも約10km。現竹島は鬱陵島東南東約92km。
          これにより、独島06[5/9]≠石島06[7/23](現竹島 05[6/1]ジウンコルド巌)※皇城新聞表記
          ※勅令1900[10/25]竹島石島(竹島[竹嶼]石島)
25名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/10(金) 02:37:26 ID:xTIrJGJG
1907[7]      第3次日韓協約(内政権剥奪)
1909        韓国水産誌「鬱陵島全図」では観音島を「鼠項(ソコウ)島」と記載
1910[8]      韓国併合
1912        「舊韓國地方行政區域名稱一覽」(1912刊)に1900年時点の鬱島郡の地名として、石島が北面、南面
          のうち、北面所属と記載されてるとの情報(戦後の独島領有主張後の韓国は、鬱島郡南面に編入して
          いる。観音島は一貫して南面)by「鬱陵郡誌」(2007刊)※ただし編者が本当の資料を隠匿の可能性も
1913[6/22]    韓国「毎日申報」記事「無人島の探検中止」<鬱島(=鬱陵島)東北40-50里の位置にある
          于山島という無人島があるとして・・・鬱陵に移住する計画で・・・于山島はその実在の謎題あって、
          ○○10数年前に・・・発見できなかった><近年に航海路が頻繁になったのに、その現認したと
          いうことが無く、また、その島は海図に記されておらず、仮に存在したとしても発見は容易ではなく・・・>
          ※よって、石島≠独島(1906年記事)、于山島≠独島(1913年記事)
1921        日本の漁師が済州島の海女16人を雇い竹島であわびとさざえなどを採らせていた書類上の記録。
           (島根県「竹島関連資料」より)
           当時竹島には30人利用可能な井戸と労働者宿舎の幕舍2棟が設置されていた。
           (「竹島日誌」・八幡サイタロウ<久見漁業組合の運営者>より)
26名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/10(金) 02:38:22 ID:xTIrJGJG
1928[9]      韓国「東亜日報」鬱陵島特集(10数回)、9/8「石柱優恵(?)観音島」の記事に、
           <その中には石仏形状の岩が幾つかあるとのことで、この島を観音島という>
1935        併合以前から竹島でアシカ漁をしていた隠岐の「親方」に雇われた漁師が、済州島の海女らとの、
           漁師小屋での仕事ぶりを証言(隠岐郷土館展示写真など)
1936        日本陸軍参謀部陸地測量部・地図区域一覧図では、竹島は朝鮮区域内 ※単に軍事上の便宜目的。
           日本列島と大陸との間の中間線の半島側に竹島が入るため(当時は朝鮮全体が日本領土)
           この作成図は戦後SCAPIN第677号に活用され、その時の権益を死守しようとする李ラインに繋がった
1939[4]      島根県隠岐郡五箇村議会、竹島を五箇村の区域に編入することを議決
1940[8]      島根県、竹島の公用を廃し、海軍用地として舞鶴鎮守府に引き継ぐ。
1946[1]      連合国軍総司令部の訓令(SCAPIN第677号)で竹島は日本の施政権外に。
   [6]      マッカーサー・ライン(SCAPIN第1033号)により竹島が日本の制限水域外に。
1947        「朝鮮常識問答」韓国領域=東経124度11分〜130度56分23秒。※竹島は東経131度52分
1948        「朝鮮常識」国土の最極東=東経130度56分23秒 鬱陵島 竹島(Chukdo)
           米軍政下暫定政府の要請に基づく領土主張目的で行った、朝鮮山岳会による鬱陵島の
           学術調査1947[8]を同会長・宋錫夏がまとめる。報告書では、鬱陵島と于山島は同一視されている。
1949[9]      SCAPIN 2046でマッカーサー・ラインが改定され(SCAPIN-1033を廃止)、竹島が日本水域内に戻る
27名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/10(金) 02:39:25 ID:xTIrJGJG
1951[3]      サンフランシスコ講和条約最終草案をアメリカが韓国へ提示。
   [4/27]    韓国が対馬の「返還」を要求する文書を米国務省に送付、米側は韓国要求を一蹴
   [7]      日本放棄領土をもって建国領土となす韓国は、日本の放棄対象に竹島も列挙するよう要求。
   [8/10]   米国務次官補ラスクが「竹島は日本領」と韓国大使に最終回答、韓国の放棄要求却下(ラスク書簡)
   [11]     境高校水産科教諭ら6人が新聞社の依頼で竹島に渡航、韓国が領有化する危険性を日誌に指摘。
1952[1/12]    サンフランシスコ平和条約の発効3ヶ月前に韓国政府が突然李ラインを宣言、竹島をその中へ。
           韓国政府、「李承晩ライン」内に出漁した日本漁船の徹底拿捕を指示。
   [2/8]     日本政府、韓国に抗議。
   [4]      サンフランシスコ平和条約発効。
           条約発効後、米国は日本に対して射爆撃場として竹島の提供を求め、翌年3月まで使用。
1953[2/14]    第一大邦丸の日本人漁労長が韓国艦の銃撃で射殺される。(第一大邦丸事件)
           李ライン廃止(65年)までの抑留者数・拿捕された船の数および死傷者数 抑留者数:3929人
           拿捕された船の数:328隻 死傷者数:44人。抑留被害者は、日韓漁業協定が成立する
           1965年まで抑留され、韓国に人質として利用された。その年月、最大13年。
           抑留者解放のため日本はのちに在日朝鮮人犯罪者472人を仮釈放し、在留特別許可を与えた。
1953[4]      韓国「独島義勇兵」が竹島に上陸。
28名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/10(金) 02:40:20 ID:xTIrJGJG
1953[6]      島根県が県漁民に対し、竹島に関する漁業許可権を下す。
           島根県、海上保安庁共同で竹島を調査、韓国人6名に対し退去命令、領土標識(木柱)を建てる。
   [7]      海上保安庁の巡視船、竹島で韓国の官憲から発砲を受ける。韓国、竹島に領土標識を建設する。
1954[2]      日本外務省の覚書 1954年2月10日付亜2第15号。
           7月頃より、竹島の東島に韓国警備隊員(警察)が常駐、宿舎、燈台、監視所、アンテナ等を設置。
   [8/15]    アイゼンハワー大統領の特命特使バン・フリート(朝鮮戦争時、在韓米軍司令官)が、SF条約時に
           竹島=日本領、ICJ回附で解決が妥当、李ラインは国際法違反と結論(『バン・フリート特命報告書』)
   [9]      日本政府、竹島紛争を国際司法裁判所に付託するよう、韓国に提案。[10]韓国政府が拒否。
1965[2]      日韓基本条約の調印。竹島問題は紛争処理事項とされる。
1981        韓国が竹島の東島にヘリポートを建設。
1997[11]      韓国が竹島に船舶接岸施設を建設、日本政府が抗議。
1998[12]      韓国が竹島に有人灯台を設置、日本政府が抗議。
2005[3/16]    島根県議会、竹島日本帰属100周年記念に「竹島の日」制定条例案を可決。
2005[4/15]    2005年版外交青書において、竹島領有権主張を改めて明記。
2006[4/14]    日本が韓国に対抗したIHO海底地名登録のための竹島近海海洋探査計画が露見。
           韓国が物理的妨害を公言。
29名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/10(金) 02:41:44 ID:g3t8uoe2
2006[4/22]    韓国は名称提案せず、日本は調査中止〜EEZ交渉を5月中に再開で合意。
2006[4/26]    政府、韓国の竹島“実効支配”について、「不法占拠」との表現を徹底する方針を明確化。
2006[5/12]    政府、竹島を「遅くとも17世紀半ばには領有権を確立〜」と閣議決定。
2006[7]      韓国が竹島周辺での海洋調査を強行、浦項に哨戒機を配備、海軍艦艇も派遣。妨害を図る日本の
           海保巡視船に対し盧武鉉大統領が危険射撃命令を許可しているため、日本側は接舷阻止は断念。
2008[7/14]    日本政府、学習指導要領解説書で、竹島領有権問題の明記を決定。
2008[7/26]    米国立地理院(USGS)傘下の地名委員会(BGN)が、それまで韓国領<独島>と間違えて表記して
           いた竹島を、米政府方針に沿って、<リアンクール岩礁>「主権未確定地域」(Undesignated
           Sovereignty)に変更していたことが判明、韓国が抗議。ブッシュ大統領の訪韓[8/4]を控え、
           外交配慮からやむなく元の記載に戻す。ただし、「地名および関連データは、当該地域の主権に
           関する米政府の見解を反映していない場合がある。」との重要な補足説明を加えた[7/30]。
2008[7/30]    韓国が竹島周辺海域で大規模軍事演習を実施(3日間)
2010[3]      韓国が竹島ヘリポート大規模改修(2.5倍のヘリ利用可、夜間照明。9月完成予定)。北西1キロ地点
           における海洋科学基地建設(2013年竣工予定)の構想も表面化、衆院外務委員会で取り上げられる。