カバラ流「汝の敵を愛せよ」(その1、序論)
おれは昔、修道僧に憧れていたんだが、何でキリスト教に入信しなかったのか?
今、思い起こすに第一の理由はマタイ伝の”山上の垂訓”にある、「右の頬を打たれ
れば左の頬を向けよ、一里を命じられれば二里を行け、上着を取られたる時は
下着も差し出せ」の言葉がネックになったんだろうな。おれには不可能だと思った。
「汝の敵を愛せよ」これもおれには不可能である。それと懺悔聴聞僧への適性だ。
おれは、信者の告白を聞けば、「そりゃ、あんたが悪いわ。地獄に落ちて当然。
救いなんてナッシング!」と言いそうなんだ。おれは、教会から必ず、追い出される。
仏教とキリスト教が似ているのは、敵愾心や憎悪、怒りと言った否定的感情を
強く戒め、そこからの超克を説いているところだろう。仏教とキリスト教は、酷似
している。シルクロードを通じ、ヘレニズム世界とインド亜大陸は繋がっている。
オリエントにインドの哲学が伝播したのは確実だと思われる。
カバラ流「汝の敵を愛せよ」(その2)
ところで、おれには今も不可能な「汝の敵を愛せよ」についてなんだが、最近、
気がついた。不可能であるのは当然だと言うのは今も同じだ。そりゃそうだろ。
例えば、諸君らに娘がいたとする。17歳だ。手足を縛られ、身動き出来ない
状況の諸君らの目前で諸君らの娘が集団レイプされたとしよう。レイプ犯たちが、
殴るけるして彼女の命乞いする声を尻目に嘲笑いながら、長時間、拷問を続け、
遂に死に至らしめたとする。
諸君らはこのレイプ犯人たちを愛せるかい?赦せるだろうか。和解できるか。
出来なくて当然だろう。そもそも何の資格があって殺された娘に代わって諸君らが
この犯人たちを赦せるんだ。それは偽善、自己欺瞞、空想的博愛、白痴的法悦と
呼ぶべきだ。
しかし、何で仏教やキリスト教の根幹にそんな無理難題が据えられているんだろう。
これには何か、よほどの理由があるのに相違ない。即ち、苦痛の極致、拷問的
苦難の状況、破滅的シチュエーション、困難極まりない運命での自己救済の方途だ。
カバラ流「汝の敵を愛せよ」(その3)
ここで困難な状況からの脱却法を考察しよう。例えば、真正面から「困難な状況
からの脱出」と言う命題を掲げた場合だ。しかし、それでは何を思念しても一向、
状況は好転しないはずだ。それはその思念そのものが”執着”だからだ。
「救済」や「解放」と言う執着だ。
しかし、「こらあかんわ」「もう、おれヲワタ〜」「酷い人生だったな、エンディングも
滅茶苦茶やなw」と心で実感しながら覚悟を決めた時、状況は激変する可能性が
あるんだ。それは、「救い」への執着を放擲(ほうてき)する心だ。
これと「汝の敵を愛せよ」の関係だが、そもそも、娘をレイプし、殺した敵を愛する
なんて無茶苦茶は、所詮、不可能だ。それをするぐらいなら死んだ方がましだろう。
そんな自分ならもう人生もヲワタだろ。いや、終わるべきだろう。自分に氏根と言い
たくなるはずだ。レイプ犯を赦す自分などに救いは無い。むしろ、在るべきではない。
「滅びろ、おれ」だろ?「汝の敵を愛する」とは「滅びろ、おれ」と同義語なんだ。
カバラ流「汝の敵を愛せよ」(その4、結論と結語)
すると、カバラの鏡像反転の法則が発動し、不可能と思っていた救済が生まれる
可能性があるんだ。例えば、夢落ちだった、とかね。何もかも悪夢で、事件その
ものが無かったとかね。だから、「敵」を性善説風に「犯人も実は、本来、いい椰子」
などと己を偽っていい子ぶりっ子丸出しで被害者の親族たちに無理難題を強要して
来た従来の全ての宗教者たちは、大ウソつきなんだ。
レイプ犯の心に何を見る?彼らは神の失敗作。そんな者と和解したり、そんな者どもを
教導し、矯正する必要などナッシング。ただ、被害者の状況を変える可能性の為、
放下し、諦観し、本気で死んだ振りするカバラ技術が、「敵を愛する」の真意であると
おれは解釈するんだよ。
この世は、”観念”であると己がジャッジする時、そのジャッジを嘲笑うかのように
実在性を発揮し、”実在”であると己がジャッジする時、その判断を虚仮にするべく、
観念性を遺憾なく顕現する。つまり、自分が、幻であると思えば現実は現実であるし、
自分が現実であると思えば現実は夢幻となり果てる。思うことの真逆に結果が推移
するのがこの世の法則なのだ。この真逆の法則は親鸞の「善人なおもて往生を遂ぐ」に
通じるだろ?
>ここで困難な状況からの脱却法を考察しよう。例えば、真正面から
>「困難な状況 からの脱出」と言う命題を掲げた場合だ。
>しかし、それでは何を思念しても一向、 状況は好転しないはずだ。
ああ〜!ああ〜!分かる、分かるわ、之。
何だか、レスを読んでて、ハーバート白熱教室を思い返した。似てる気がする。
386 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/29(金) 20:23:07 ID:t85JuZxK
選択をするしないという選択はすでに分離であり己の宿題なのではないか。
信念とは、ある個人がある命題ないしは前提が真であると信じること。なのだそうだ。
『真実は確定し得るものではありえない。はかり得るものは真実ではない。
命の無いものは計り得るし、その極みも知ることができる。』〜クリシュナムルティ
優しさを口にすれば人は皆傷ついてゆく
正しいものはなんなのか
http://www.youtube.com/watch?v=uqQ4vvTdvEk
387 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/29(金) 21:13:20 ID:t85JuZxK
きのう顔を変えて人生を変えるというつまらない深夜ドラマを垂れ流していたら、
運命に逆らえば運命に支配される。運命に従えば運命を支配する。
タルムードにあるユダヤ教の教えだ。というセリフがでてきた。
つまらないドラマも一瞬だけ面白いものだと思えた。
本当の自由とはすべてを否定することなのだそうだが、では、すべてを
受け入れることはというと、、、それはアガペーという愛なのかもと思った。
自由は解放、愛は救済、、、みたいな。
388 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/29(金) 23:19:36 ID:sTp0erzc
汝、、
右の乳を揉まれたら、
左の乳も差し出しなさい!
ザーメン。。
389 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/30(土) 22:28:07 ID:Z3NO9gtt
>>381-384 の解説 1
念の為、解説するね。長文の主旨は、おれ流の「汝の敵を愛せよ」の解釈なんだ。
従来、多くの宗教者たちは、不特定多数の人類の成員全員に”神の心”や”仏の
心”が宿ると説いて来た。例外は無いそうだwwwしかし、それは真っ赤な嘘だった。
あなたが被害者の親族ではなく、全く関係の無い、閼伽(あか)の他人的第三者で
あると仮定して、昔、足立区であった女子高校生コンクリート詰め殺人事件を思起
してほしい。(この事件を知らない若い人は是非、ググってお調べていただきたい)
あなたは全くの第三者、客観的立場の人間としてこの事件の犯人グループを愛せ
ますか?加害者の心に神性が宿ると思いますか?再び、問います。あたたは、この
足立区の「女子高校生コンクリート詰め殺人事件」の加害者を愛せますか?好きに
なれますか?犯人に人間として共感できますか?シンパシーを観じますか?
答えは待つまでもないだろう。全員がノーと答えるはずだ。それなのに、従来の宗教
関係者は、第三者の誰もが愛せないと答えるこの問いに対し、よりによって被害者に
「愛せよ」と要求して来たんだ。これは、イエスの真意を全然、理解していない白痴的
宗教センスのなせる業(わざ)。だから、おれはイエスの真意、(被害者救済こそ
イエスの本意である)を解説したかったんだ。
解説 2
イエスが足立区のコンクリート詰め事件の犯人の心配をなさるであろうか。あり得ない。
犯人の懺悔を御聞き容れになるだろうか。犯人の救済を御許しになるだろうか。あり得
ない。そんな事はミミズほどの脳みそがあれば分かるはずだ。
故に、神が居ますと仮定して、もし、この世に偽神でない、本当の神が居ますなら、
真実の神の御心は被害者に振り向けられるはずである。また、被害者に「愛せよ」
と無理難題を仰せになられたとしたら、我々はそのアイオーンの真意を知恵を絞って
考えるべきだろう。しかし、人間知をいくら絞っても無駄。そこのところが、
神学者たちにはどうしても理解できないんだ。
この場合の「愛」は当然、鏡像反転のカバラの知恵の「愛」のはずだ。つまり、被害者は
救い、苦悩からの脱出を求めるのが普通だが、それでも救われそうもない、非常な
災難に遭遇した時だ。(上記女子高校生の場合、40日間、監禁拷問された)
この場合、人間の耐え得る試練の限界を遥かに超えている。故に、かような拷問が現象
面として顕在化した以上、神の計画が存在するとの見地に立つ者たちは全員、神の計画
そのものの不備性、不完全性、不当性を議論の争点として俎上に上げざるを得ない。
解説 3
しかし、人間は、か弱い存在だ。神に向かって、「お前の計画は出鱈目だ。この大馬鹿
野郎!」と怒鳴ることは、出来ない。仮に逆らっても神に勝てる訳がない。しかし、拷問は
果てしなく続くのだ。上記の事件を詳しくお調べいただきたい。監禁期間は40日だ。女の
子に対してだ。宇宙的にこんな計画に何の意味がある?神はサドなのか?
かよわき女子高校生にこんな残酷な試練を与える愚神デーミウルゴスだ。神を罵って
神に計画の変更を求めても無駄。監禁はなおも続くに相違ない。しかし、神を罵るので
なく、己を潰すことで、この計画を無効に出来るはず。そこをイエスは御説きになったのだ。
「敵を愛する」とは、こんな残酷なイヴェント(監禁事)の発生したしたイヴェントの主要
登場人物である自分自身を(この自分自身とは、即ち、被害者の女子高校生の事だ)
自分自身に滅びよ、消えて無くなれ、と命ずるのと同義語なんだ。登場人物がいなければ
イヴェントも無効のはずだ。
愚神デーミウルゴスは、逆らった人間に罰を与える権限を持っているらしいが、逆らわない
遵法の徒なら手出しできない。また、また、執着心の無い、自己への「消えて無くなれ」の
願いは、デーミウルゴスの暴政と雖も干渉できない、神界のさらなる上部構造の認める、
ただ一つの救済手段なんだろう。イエスは、山上の垂訓でそれを御説きになったのだろう。
解説 4
故に「敵を愛する」とは、目の前の敵を心で称賛することではない。あなたは、自分の
妻や娘をレイプし、拷問し、嬲り殺した犯人を称賛できますか?感謝できますか?
和解できますか?故に、この場合の「敵を愛する」とは、神のプログラムの登場人物
である自分自身に退場命令を出すことなんだ。この場合、愚神デーミウルゴスを自分の
心の内で変に罵っちゃいけないよ。喧嘩を売ることになるからね。神に喧嘩を売るとは、
彼(ヤルダバオート)に「神罰」を下す口実を与える利敵行為だ。障らぬ神に祟り無し、
とはこの事なんだ。
「汝の敵を愛せよ」にはこのように深い意味があるとおれは思っている。イエスが
仮に、この板で言われているように存在しない、架空の人物であっても一向、おれには
差し支えないね。何故なら、イエスこそグノーシスの”真の神”そのものなのだから。
繰り返す。人類全員に神や仏の心が宿ると言うのは、全くの出鱈目だよ。たぶん、
偽神ヤルダバオートが人類を惑わせる目的で流した与太話だろう。