6 :
竹島年表:
7 :
6:2006/05/15(月) 23:42:39 ID:kbbeo+Qr
8 :
6:2006/05/15(月) 23:43:22 ID:kbbeo+Qr
1787 フランス船が鬱陵島を発見。ダジュレー島と命名。89年イギリス船も発見しアルゴノート島と命名。
同じ島だが経緯度の違いで別の2島化。日本寄りにダジュレー、朝鮮寄りにアルゴノート島となり、
ダジュレーが松島に、アルゴノートが竹島に。1854ロシア船の測定でアルゴノートが不正確と判明。
1849フランス船[リアンクール]号竹島を発見。54年ロシア、55イギリス[ホーネット]。一時3島併存。
1870年代アルゴノート消滅。1900年代ダジュレー(or松島)、リアンクール(orホーネット)で確定。
シーボルトがダジュレーを松島、アルゴノートを竹島にしてたが、アルゴノート消滅で竹島も消える。
http://toron.pepper.jp/jp/take/hennyu/konran.html 1801(享和元年) 「長生竹島記」にも、松島をもって「本朝西海のはて也」
1828(文政11年) 江石梁編述「竹島考」が現・竹島に関する、かつてより更なる詳細描写。
1836(天保7) 「竹島」での密輸事件で、死罪申し渡し書に「松島への渡海の名目を以って竹島へ渡り・・・・・・」
1849(嘉永2年) フランスの捕鯨船リアンクール号竹島を発見
1858 ロシア、愛琿条約で清国から黒龍江以北の地を奪う。
1860 ロシアが北京条約で沿海州獲得。
1861 ロシア軍艦が対馬を占領。英国の抗議で撤退。樺太・千島・北海道にも触手。
9 :
6:2006/05/15(月) 23:44:15 ID:kbbeo+Qr
10 :
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11 :
6:2006/05/15(月) 23:47:24 ID:Z90Rr1Xq
12 :
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13 :
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14 :
6:2006/05/15(月) 23:49:13 ID:Z90Rr1Xq
15 :
6:2006/05/15(月) 23:49:47 ID:Z90Rr1Xq
1953[4] 韓国「独島義勇兵」が竹島に上陸。
1953[6] 島根県が県漁民に対し、竹島に関する漁業許可権を下す。
島根県、海上保安庁共同で竹島を調査、韓国人6名に対し退去命令、領土標識(木柱)を建てる。
[7] 海上保安庁の巡視船、竹島で韓国の官憲から発砲を受ける。韓国、竹島に領土標識を建設する。
1954[2] 日本外務省の覚書 1954年2月10日付亜2第15号。
7月頃より、竹島の東島に韓国警備隊員(警察)が常駐、宿舎、燈台、監視所、アンテナ等を設置。
[9] 日本政府、竹島紛争を国際司法裁判所に付託するよう、韓国に提案。[10]韓国政府が拒否。
1965[2] 日韓基本条約の調印。竹島問題は紛争処理事項とされる。
2005[3/16] 島根県議会、竹島日本帰属100周年記念に「竹島の日」制定条例案を可決。
2005[4/15] 2005年版外交青書において、竹島領有権主張を改めて明記。
2006[4/14] 日本が韓国に対抗したIHO海底地名登録のための竹島近海海洋探査計画が露見。
韓国が物理的妨害を公言。
2006[4/22] 韓国は名称提案せず、日本は調査中止〜EEZ交渉を5月中に再開で合意。
2006[4/26] 政府、韓国の竹島“実効支配”について、「不法占拠」との表現を徹底する方針を明確化。
2006[5/12] 政府、竹島を「遅くとも17世紀半ばには領有権を確立〜」と閣議決定。
ttp://blog4.fc2.com/gaikoanzenhosyo/blog-category-0.html (略
むしろ、竹島は韓国のものだと主張した李承晩大統領に対して、アメリカ合衆国・国務次官補ディーン・ラスクから
韓国大使へ書簡が送られ(1951年8月10日)、その中で「日本が「朝鮮並びに済州島、巨文島、鬱陵島、ドク島
およびパラン島を含む日本による朝鮮の併合前に朝鮮の一部であった島々に対するすべての権利、権原および
請求権を、一九四五年八月九日に放棄したことを確認する」と改訂するという韓国政府の要望に関しては、
合衆国政府は、遺憾ながら当該提案にかかる修正に賛同することができません。(略)独島、又は竹島ないし
リアンクール岩として知られる島に関しては、この通常無人島である岩島は、我々の情報によれば朝鮮の一部
として取り扱われたことが決してなく、1905年頃から日本の島根県隠岐支庁の管轄下にあります。」とあります。
少なくとも当時のアメリカは竹島を日本領と考えていたものとみられます。以下も参考にしてください。
電報
駐日政治顧間代理(シーボルド)から国務長官へ
東京一九四九年十一月十四日
秘密
四九五、バターワースへ。マッカーサー元帥と私は、貴殿の十一月四日け書簡とともに送付された十一月二日付
条約草案、安全保障条項が入る予定の第五章を含まないものに対し個別に注意深い検討を加えた。マッカーサー
元帥は次のような意見を提出した。(中略)以下は、我々が極めて重要であると考える条項に関する我々の予備的
コメントである。
第六条 リアンクール岩(竹島)の再考を勧告する。この島に対する日本の領土主張は古く、正当と思われる。
安全保障の考慮がこの地に気象およびレーダー局を想定するかもしれない。(後略)
北東アジア課ロバート・A・フィアリー氏による日付のない覚書
〔ワシントン〕
秘密
合衆国が準備した対日条約に関する原則の表明に対しオーストラリア政府が提出した質間に対する回答(中略)
瀬戸内海の島々、隠岐列島、佐渡、奥尻、礼文、利尻、対馬、竹島、五島群島、琉球諸島最北部および伊豆諸島、
いずれも古くから日本のものと認められていたものであるが、これらは日本によって保持されるであろうことが
考えられている。(後略)
ys:櫻井よしこwebサイト! 2005年04月09日
「 米国の力を借りて『竹島』を自国の領土としたい韓国の昔も今も変わらないその手法 」
『週刊ダイヤモンド』 2005年4月9日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 587
ttp://blog.yoshiko-sakurai.jp/archives/2005/04/post_331.html 韓国の駐米大使であった梁佑燦(ヤンユチャン)氏は、51年7月19日、ジョン・F・ダレス国務長官顧問を訪問し、
日本が放棄すべき領土に「独島」を加えてほしいと要請した。ダレス顧問は、「その島は日本が朝鮮を併合する
前から朝鮮のものであったか」と尋ねた。梁大使は「そうだ」と答え、ダレス顧問は、もしそうであるなら、
独島を加えるのには問題はないと述べた。
米国はその後調査を行ない、梁大使の説明が事実とは異なることを突き止めた。同年8月10日付の書簡で、
米国は韓国の要請に正式な回答を出した。「われわれの情報によれば(独島は)朝鮮の一部として扱われた
ことが一度もなく、1905年頃から日本の島根県隠岐支庁の管轄下にあります。この島は、かつて朝鮮に
よって領土主張がなされたとは思われません」というものだった。以上の内容は、国立国会図書館参事の
塚本孝氏が「中央公論」2004年10月号に報じた。
AERA 2005年4月4日増大号
・・・・・・
・・・元和4(1618)年に米子(島根県)の町人村川市兵衛、大谷甚吉に対し、徳川幕府は「竹島」への渡海免許を出して
いるが、当時の「竹島」は無人化していた鬱陵島[ウルルンド]を指し、日本漁民が鮑を採取していた。
江戸時代に今日の竹島は「松島」と呼ばれ、「竹島」への渡海の途中に船が立ち寄っていた。元禄5(1692)年に朝鮮
人漁民が「竹島」に出漁を始め、翌6年に日本船は朝鮮漁民2人を捕らえて連れ帰り、鳥取の藩庁に訴えたことから
日朝間の外交問題となった。幕府は元禄9年、「無用の小島の故をもって好みを隣国に失する。計の得たるに非ず」
として「竹島」への渡航を禁止した。だが、「松島」は宝暦年間(1751〜64年)の「竹島図説」に「隠岐国松島」から40里
に「竹島」がある、と書いているなど日本では隠岐の国に属すと認識されていた。天保7(1836)年に「竹島」での交易
が発覚した浜田藩(島根県)ぐるみの密輸事件(家老2人など多数が切腹)では浜田の廻船問屋、会津屋八右衛門の
大阪奉行所の死罪申し渡し書に、
「松島への渡海の名目を以って竹島へ渡り・・・・・・」
とし、「松島」へ行くなら鎖国令に触れないとの認識を示している。
明治になって「松島」が竹島となった原因は、長崎のオランダ商館付の医師シーボルトが1840年に刊行した日本
地図で鬱陵島を「松島」と誤記したためらしい。
23 :
22:2006/05/15(月) 23:59:34 ID:0bP4N7tH
一方、韓国側は15世紀以降の文献に出る「于山島[ウサンド]」「三峯島[サンボンド]」が竹島(独島)に当たる、とする。
たとえば「新増東国輿地勝覧」に「于山島 鬱陵島」の項目があり「二島は県の真東の海中にあり」とするから、これ
だけ読めば、于山島は今日の竹島に思える。だがその少し後に「一説に于山鬱陵本一島」との記述があり、地味が
豊かで竹もネズミも大きいなどと書く一方、不毛の岩だけの竹島に関する記述は全くなく、鬱陵島しか見ていない
ことが分かる。
太宗実録の1417年の部分にも、「按撫使金麟雨[あんぶしキムリンウ]が于山島より還り土産の大竹、水牛皮を
献じた。島の戸数15戸、男女86人」というから于山島は人の住めない竹島のことではないようだ。
三峯島についても「賦役を逃れ三峯島に潜む者が多い」など鬱陵島と考えられる記述が少なくない。竹島を独島
と呼び始めたのも20世紀になってからだ。
日本は1905年1月28日の閣議でこの無人島を竹島と命名して本邦所属とすることを決めた。その2年前から隠岐
島民の中井養三郎らが漁舎を建ててアシカ漁をしていたが、どの国からも抗議はなく、国際法上、無主の地を
占有したと認められたためで、同年2月22日、島根県は隠岐島司に竹島を所管するよう告示した。
24 :
22:2006/05/16(火) 00:00:04 ID:0bP4N7tH
今日の韓国は「日本に外交権を奪われており、抗議できなかった」
として「日本の侵略」とする声が高いが、中井らが漁舎を当てた1903年は日露戦争の前年でロシアの勢いが強く、
韓国皇帝は親露的で日本は影響力を失っていたから、島を韓国が支配していれば当然抗議したはずだ。
韓国が外交権を全く失ったのは日露戦争後の1905年11月の第2次日韓協約で、1904年8月の第1次日韓協約
では、韓国は日本人の財務顧問と外国人外交顧問(日本外務省に雇われていたアメリカ人)を受け入れ、外国
との条約締結など重要外交案件は日本政府と協議することが決まっていた。だが、もし韓国領の島を日本が
領土に組み込めば異議を唱えることはできたはずだが、記録はない。
帰属関係を決める最終的文書であるサンフランシスコ平和条約を見ても、日本に分があるように思われる。
1951年の同条約は「日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島[チェジュ]島、巨文島[コムンド]、鬱陵島を含む
朝鮮に対するすべての権利、権原および請求権を放棄する」と定めている。韓国は独島も入れるよう米国に
求めたが、拒否された。
25 :
22:2006/05/16(火) 00:01:07 ID:0bP4N7tH
終戦直後の46年1月29日の連合国軍総司令部の訓令で竹島は日本の行政権から外されたが、これは後に
日本に返還された奄美諸島、小笠原諸島、沖縄と同様で潜在主権は日本にあり、52年4月の対日平和条約
発効後、米国は日本に対して米国の射爆撃場として竹島の提供を求め、翌年3月まで使用した。
韓国は52年1月、周辺の公海上に「李承晩ライン」を設定して竹島をその中に入れ、65年6月の日韓基本条約
の調印までに日本漁船328隻が拿捕され、抑留された漁民3929人、死傷者44人が出た。韓国は54年8月、
竹島に灯台を設置し、警備隊を置いたため、日本は9月に竹島問題を国際司法裁判所(ICJ)に付託しようとした
が、これには双方の同意が必要で、韓国は提訴を拒絶した。
・・・・・・
竹島問題は時折噴火する火山のような危険をはらむ。双方が友好関係を保ちつつ、問題を解決する公明正大
な方法はICJに決めてもらうことだろう。訴訟に敗れた側も「裁定」に従って「潔い国」との名誉を得ることができる。
提訴に応じない側は法的に弱みがあることを内外に示す結果となる。
・・・・・・