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寛永12年(1635年)松前藩は奥蝦夷の調査のため家臣を樺太に派遣した。
千島・カムチャッカを東蝦夷地という。松前藩は、すでに調査をおこない、
江戸幕府 3代将軍家光にその領土として樺太を報告している。
また、4代将軍家綱の時代(1679年)には、ついに
松前藩は大泊に陣屋を設置し、樺太の直接統治を始めていた。
元禄13年(1700年)、松前藩は千島アイヌの戸籍を作成し幕府に提出した。これを
松前島郷帳という。この郷帳には、カムチャッカまでが記されており、
江戸時代の学者は、カムチャッカまでが日本領と考えている。
1747年から51年にかけて、松前藩は漁場開拓のためにしばしば樺太を調査しており、
宝暦2年(1752年)には大泊ほかに漁場を開いた。
明和3年(1766年)、ついにロシア人は得無島に居住をすることに成功したのである。
アイヌへの虐待・生活用品の破壊を行ったため、アイヌは得無島から逃げ出さざるを得なくなった。
ロシア人は鯨の油取なども行っていたが、アイヌはラッコが生命線だった。なぜなら
ラッコは和人との交易の主要品目であり、貴重な生活用品を得る手段だったからだ。
そして明和8年(1771年)、択捉島のアイヌは
アイヌ世界で考えられる最高度の戦闘準備を行い、得撫島へ出撃した・・・
アイヌは、まず得撫島オカイワタラのロシア人と飲むふりをして酔わしたあと、
夜になって鉄砲などの武器を奪い、槍で刺し殺した。
さらにワウナウにおいて、金鳳花の毒矢などで急襲し、殺害。
同じ頃、磨勘留島にも渡り、やはり夜になってから武器を奪い、刺し殺した。
殺害したロシア人は合計21人といわれるが定かでない。
翌年、ハンガリーのベニヨフスキーは、 ロシア人の千島南下を警告、次第に
幕府や学者は北方に対する国防を唱えるようになる。