アメリカの最大の悪事と汚点

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564名無しさん@お腹いっぱい。
>>556 アメリカ-フィリピン

・『フィリピイン原住民とアメリカの戦い』

1900年、アメリカのフィリピン侵攻の際、フィリピン側はエミリオ・アギナルドをリーダー
とする独立勢力(1899年にスペイン軍を降伏させ、独立を宣言していた)が対米ゲリラ
戦を展開したが、これに手を焼いたアメリカのアーサー・マッカーサー将軍(ダグラス・
マッカーサー元帥の父親である)は以下のように公然と宣言している。
「正規軍の一部として常時作戦に参加するのでなしに、ときどき家庭や仕事にもどり
ながら敵対行為をつづける連中は、兵士とは認めない。捕虜になっても戦時の特典など
を考える必要はない」
この宣言が、前回投稿で紹介した「リーバー法」の82条「(組織化されず、軍服も着けず、
戦争に継続的に参加するものではなく、様々の方法で敵対行為を行う者またはその
分隊は)公の敵ではなく、それゆえ捕えられれば、捕虜の特殊な資格を有せず、
公道での盗賊または海賊として即決処分されねばならない」に基づいたものであること
は、容易に理解できるであろう。

そして、この宣言どうり、アメリカ軍のゲリラに対する措置は情け容赦のないもので
あった(軍事裁判どころの話ではない)。
「米軍部隊は無情で容赦なかった。男女を問わず、囚人・捕虜はもちろん、明らかな
反乱分子であれ容疑者であれ、一〇歳以上なら片端から殺しつくした」「手をあげて
おとなしく降伏してきた捕虜たちは、暴徒であることを示す一片の証拠もないまま、
一時間後には橋の上に立たされ、次々と銃殺されて川面を流されていった。弾丸で蜂
の巣にされた死体を、川下にいる連中への見せしめにするためだ」「これは文明人相手
の戦争ではない。相手は、力・暴虐・残忍しか通じない連中なのだ。われわれはだから、
通じるべき手段で実行しているのである」(『フィラデルフィア・レジャ』紙)
「ここの連中と個人的に接して、彼らのやり方を知れば、残虐な戦術を必要とせざるを
得んさ。もしフィリピン人がひどいめにあわされてることを諸君がきいても、そんなもの
に感傷は無用だ」(1901年7月、アドナ・シャフィー少将)
http://www.interq.or.jp/sheep/clarex/jusinbello/jusinbello15.html

565名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/10(木) 16:12:30 ID:7jfhHkJt
革命軍はジャングルを味方にゲリラ戦を展開したが、ついに1901年3月23日、
アギナルドは米軍に投降し、独立運動はあえなく消滅した。
このわずか2年間の戦闘で、アメリカ軍が投入した軍隊は12万人、戦死者4千人。
一方、アギナルドの革命軍の戦死者1万6千人。虐殺や飢餓などで死亡した一般住民は
60万人に及んだという。
欧米中心主義の歴史の教科書に、この史実が記載されることはない。
ただ、当時のアメリカの新聞には、フィリピンでの戦争状況を克明に伝える記事が掲載された。

「アメリカ軍部隊は無情で容赦なかった。男女を問わず、囚人・捕虜はもちろん、明らかな
反乱分子であれば容疑者であれ、10歳以上なら片端から殺しつくした」
「手をあげておとなしく降伏してきた捕虜たちは、暴徒であることを示す一片の証拠も
ないまま、一時間後には橋の上に立たされ、次々と銃殺されて川面を流されていった。
弾丸で蜂の巣にされた死体を、川下にいるであろう連中への見せしめにするためだ」
「これは文明人相手の戦争ではない。相手は、力・暴虐・残忍しか通じない連中なのだ。
われわれはだから、通じるべき手段で実行しているのである」

アメリカ人は、フィリピン人をインディアンと同じ黄色人種と見なしていた。そして、
インディアンを虐殺しても、文明人の良心的呵責を覚えなかったと同様に、フィリピン人
60万人を無差別に虐殺してもやはり良心の呵責をおぼえなかった。
どんなに自らの文明人ぶりを誇示しても、つまりは偏見に満ちた「優勝劣敗」、「弱肉強食」の
論理以外に何もないのである。
文明人の本性は残虐であり、その知恵は貧弱なのである。
20世紀初頭のアメリカ軍によるフィリピン独立運動鎮圧の酷たらしさは、「アジアでの最初の
ベトナム戦争」と批判する歴史学者もいるほどである。
http://homepage1.nifty.com/ckasa/mp/mypense80.html
566名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/10(木) 16:14:07 ID:7jfhHkJt
 1898年にフィリピンはアメリカの植民地となった。各地で抵抗が続いたが、中でも
サマールの人々は、最も果敢に、そして最後までアメリカへの抵抗を続けた。 
 1901年、サマールのバランギガで、約200名の男たちが女装して教会に集まり、
鐘を合図に米軍キャンプを襲撃した。75名のアメリカ兵のうち、生き残ったのはわずか
10名ほどだったという。この闘いは、フィリピンの歴史の中でも、外国勢力に対する
最大の勝利をおさめた歴史的な闘いだったと言われている。
 しかし、直ちにアメリカによる報復が始まった。スミス将軍は、「捕虜はいらない。
殺し尽くせ、焼き尽くせ。より多く殺し、焼き尽くすほどよいのだ。銃を持ち、刀とふるう
ことができる者は、10歳の少年でも全て殺せ」と命じ、手当たりしだいにサマールの
人々を殺し、村を焼いた。まさに「死と破壊の饗宴」(コンスタンティーノ)だったと言わ
れている。殺戮は9ケ月も続き、サマール全土を焼き尽くす火は、7年間に渡って燃え
続け、5万人もの人々が殺されたと言う。
 当時、サマールは、この大虐殺により、「死に絶えた荒野」と呼ばれた。
(『フィリピン・幸せの島サマール』P94)
 フィリピンの歴史を語るときに、バランギガは最も重要な地の一つと言われている。
http://kyoto-samar.hp.infoseek.co.jp/newpage26.htm
567名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/10(木) 16:15:41 ID:7jfhHkJt
 1898年12月、フィリピンはスペインからアメリカに2千万ドルで売却され、アメリカの
植民地となる。既に宗主国への独立運動が起きていたが、その戦いはスペインから
アメリカに変わっただけであった。
 翌年2月、サン・ジュアン橋を警護していたアメリカ兵がフィリピン人に発砲したことから
戦いは表面化する。アーサー・マッカーサー将軍(来日したのは彼の息子)は軍を率い、
マニラから北部に攻め入り、本国からも援軍が来る。アメリカ軍はゲリラを掃討するため、
各種の手段も用いたが、当然拷問もその1つだった。
 特に頻繁に行われたのは水責めだった。捕虜を仰向けに寝かせ、その上に椅子を置き、
口の中に棒や剣をねじ込んで口を開かせ、塩水や泥水を大量に流し込む。そして腫上
がった腹の上に椅子に飛び乗り揺する。すると食べた物ばかりか胃液までが水と一緒に
吐き出されるが、これを何度も繰り返したそうだ。処刑の場合は耳を削ぎ、目をくりぬき、
腕を切り落とした。捕虜が女である場合は乳房を切り落とし、銃剣をゆっくりと性器の奥に
突き刺した。
 1901年、サマール島のゲリラを鎮圧するためジェイク・スミス率いる部隊がバランギガ
の街に宿営した時、ゲリラの反撃に遭い多数のアメリカ兵が殺害された。この報告を受け
たセオドア・ルーズベルトはゲリラの鎮圧を命じる。これを受けたスミスはこう部下を
叱咤激励する。「焼き尽くし殺し尽くす。これが多ければ多いほどよい」。兵士たちは任務
に邁進した。一連の弾圧で20万ものフィリピン人が犠牲となったが、アメリカは本国での
インディアン掃討作戦を再現したに過ぎない。
 別に掃討されなくともチェロキー族のように強制移住で全体の3分の1もの人間が命を
落とした例もある。また、7回も居住地を変えられ人口が半減した部族もいたから、まさに
死の行進である。悪名高き古代アッシリアと進歩はないようだ。
 フィリピン人で過去の歴史でアメリカを憎む者は、まず少ないだろう。
 「人間というものは軽度の侮蔑には復讐の気持ちも起こるが、大きな危害を加えられる
と復讐の気さえ失ってしまうものだからだ」 −マキアヴェッリ

参考:『世界リンチ残酷史』柳内伸作 著
http://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/87251205a57837d94cf07a593fa62661