】■■ 国際情勢板自治スレ−8 ■■

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199名無しさん@お腹いっぱい。
◆ 北朝鮮の国家的犯罪を斬る ◆<4>
  北送事業−1

■ 張明秀・元総連新潟副委員長に聞く ■
 「地上の楽園」という美辞麗句を信じ、あるいは祖国建設の担い手になろうとして、約9万3000人の在日同胞が北朝鮮に渡った。
 この「北送事業」が始まる前年の1958年から75年まで一貫して実務に携わったのが、
 かつて朝鮮総連(総連)新潟県本部の副委員長などを務めた張明秀さん(65)だ。
 北送同胞はスパイ容疑で強制収容所に送られたり、虐殺されたり、行方不明になるなど、人権が蹂躙されていった。 
 自身の責任の重さを痛感した張さんは、88年に総連の姿勢を批判して一切の役職から離れ、「共和国帰国者問題対策協議会」を結成。
 行方不明者問題を本格的に追及している。
 91年には講談社から『裏切られた楽土』を発行し、「北送事業の実態」にメスを入れた。

80年8月、祖国訪問団の副団長として一カ月間、初めて北に行った。
その時点では、帰国者の状態が普通ではないと薄々わかっていた。
平壌駅前での印象は、金日成、正日父子に虐げられた「奴隷制度の国」というものだった。

■ 母親からも恨み節

 3泊4日の家族訪問で咸鏡南道端川の兄の家に行った時のことだ。
そこには約20年ぶりの再会となる80歳の母も同居していた。
滞在中、監視役の案内人がつきまとうので、兄が何の仕事をしているのか、本当の生活の実態も全然わからなかった。
夕方、暑いので表で涼んでいると母がやって来て、「ミョンスや、なぜあの時船のタラップを上がる私の足をつかまなかったのか」と責めた。
帰国を後悔していることを端的に物語っていた。

 日本にいる時から山が好きだった母は、山菜採りをしては生計の足しにしていた。
ある日、松茸を採っていた時、北の子どもたちからキーポ(帰胞=帰国同胞の蔑称)とからかわれ、石を投げつけられた。
それをよけるために転んで腰を痛めたという。監視の中で孤立し、差別される帰国者の実態が見えてきた。
その母は張さんが日本に戻ってから一カ月後に亡くなったと知らされた。