ヨーロッパの親日を語るスレ

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http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog142.html

シベリアは長い間、祖国独立を夢見て反乱を企てては捕らえ
られたポーランド愛国者の流刑の地だった。1919年、ポーラン
ドがロシアからようやく独立した頃、ロシア国内は革命、反革
命勢力が争う内戦状態にあり、極東地域には政治犯の家族や、
混乱を逃れて東に逃避した難民を含めて、十数万人のポーラン
ド人がいたといわれる。

 その人々は飢餓と疫病の中で、苦しい生活を送っていた。と
くに親を失った子供たちは極めて悲惨な状態に置かれていた。
せめてこの子供達だけでも生かして祖国に送り届けたいとの願
いから、1919年9月ウラジオストク在住のポーランド人によっ
て、「ポーランド救済委員会」が組織された。

 しかし翌20年春にはポーランドとソビエト・ロシアとの間に
戦争が始まり、孤児たちをシベリア鉄道で送り返すことは不可
能となった。救済委員会は欧米諸国に援助を求めたが、ことご
とく拒否され、窮余の一策として日本政府に援助を要請すると
を決定した。
172/9:02/01/24 00:49 ID:???
 救済委員会会長のビエルキエヴィッチ女史は20年6月に来日
し、外務省を訪れてシベリア孤児の惨状を訴えて、援助を懇請
した。

 女史の嘆願は外務省を通じて日本赤十字社にもたらされ、わ
ずか17日後には、シベリア孤児救済が決定された。独立間も
ないポーランドとは、まだ外交官の交換もしていない事を考え
れば、驚くべき即断であった。

 日赤の救済活動は、シベリア出兵中の帝国陸軍の支援も得て、
決定のわずか2週間後には、56名の孤児第一陣がウラジオス
トクを発って、敦賀経由で東京に到着した。それから、翌21年
7月まで5回にわたり、孤児375名が来日。さらに22年夏に
は第2次救済事業として、3回にわけて、390名の児童が来
日した。

 合計765名に及ぶポーランド孤児たちは、日本で病気治療
や休養した後、第一次はアメリカ経由で、第2次は日本船によ
り直接祖国ポーランドに送り返された。習慣や言葉が違う孤児
たちを世話するには、ポーランド人の付添人をつけのがよいと
考え、日赤は孤児10名に1人の割合で合計65人のポーラン
ド人の大人を一緒に招くという手厚い配慮までしている。
183/9:02/01/24 00:50 ID:???
 日本に到着したポーランド孤児たちは、日赤の手厚い保護を
受けた。孤児たちの回想では、特に印象に残っていることとし
て以下を挙げている。

 ウラジオストックから敦賀に到着すると、衣服はすべて熱湯
消毒されたこと、支給された浴衣の袖に飴や菓子類をたっぷ入
れて貰って感激したこと、特別に痩せていた女の子は、日本人
の医者が心配して、毎日一錠飲むようにと特別に栄養剤をくれ
たが、大変おいしかったので一晩で仲間に全部食べられてしま
って悔しかったこと、、、

 到着したポーランド孤児たちは、日本国民の多大な関心と同
情を集めた。無料で歯科治療や理髪を申し出る人たち、学生音
楽会は慰問に訪れ、仏教婦人会や慈善協会は子供達を慰安会に
招待。慰問品を持ち寄る人々、寄贈金を申し出る人々は、後を
絶たなかった。

 腸チフスにかかっていた子供を必死に看病していた日本の若
い看護婦は、病の伝染から殉職している。

 1921(大正10)年4月6日には、赤十字活動を熱心に後援さ
れてきた貞明皇后(大正天皇のお后)も日赤本社病院で孤児た
ちを親しく接見され、その中で最も可憐な3歳の女の子、ギエ
ノヴェファ・ボグダノヴィッチをお傍に召されて、その頭を幾
度も撫でながら、健やかに育つように、と話された。
194/9:02/01/24 00:51 ID:???
 このような手厚い保護により、到着時には顔面蒼白で見るも
哀れに痩せこけていたシベリア孤児たちは、急速に元気を取り
戻した。

 日本出発前には各自に洋服が新調され、さらに航海中の寒さ
も考慮されて毛糸のチョッキが支給された。この時も多くの人
々が、衣類やおもちゃの贈り物をした。

 横浜港から、祖国へ向けて出発する際、幼い孤児たちは、親
身になって世話をした日本人の保母さんとの別れを悲しみ、乗
船することを泣いて嫌がった。埠頭の孤児たちは、「アリガト
ウ」を繰り返し、「君が代」を斉唱して、幼い感謝の気持ちを
表した。

 神戸港からの出発も同様で、児童一人ひとりにバナナと記念
の菓子が配られ、大勢の見送りの人たちは子供たちの幸せを祈
りながら、涙ながらに船が見えなくなるまで手を振っていた。

 子どもたちを故国に送り届けた日本船の船長は、毎晩、ベッ
ドを見て回り、1人ひとり毛布を首まで掛けては、子供たちの
頭を撫でて、熱が出ていないかどうかを確かめていたという。
その手の温かさを忘れない、と一人の孤児は回想している。
205/9:02/01/24 00:52 ID:???
 こうして祖国に戻った孤児たちの中に、イエジ・ストシャウ
コフスキ少年がいた。イエジが17歳の青年となった1928年、
シベリア孤児の組織「極東青年会」を組織し、自ら会長となっ
た。極東青年会は順調に拡大発展し、国内9都市に支部が設け
られ、30年代後半の最盛期には会員数640余名を数えたと
いう。

 極東青年会結成直後にイエジ会長が、日本公使館を表敬訪問
した時、思いがけない人に会った。イエジ少年がシベリアの荒
野で救い出され、ウラジオストックから敦賀港に送り出された
時、在ウラジオストック日本領事として大変世話になった渡辺
理恵氏であった。その渡辺氏が、ちょうどその時ポーランド駐
在代理公使となっていたのである。

 これが契機となって、日本公使館と、極東宣言会との親密な
交流が始まった。極東青年会の催しものには努めて大使以下全
館員が出席して応援し、また資金援助もした。
216/9:02/01/24 01:00 ID:???
 1939年、ナチス・ドイツのポーランド侵攻の報に接するや、
イエジ青年は、極東青年会幹部を緊急招集し、レジスタンス運
動参加を決定した。イエジ会長の名から、この部隊はイエジキ
部隊と愛称された。

 そして本来のシベリア孤児のほか、彼らが面倒を見てきた孤
児たち、さらには今回の戦禍で親を失った戦災孤児たちも参加
し、やがて1万数千名を数える大きな組織に膨れあがった。

 ワルシャワでの地下レジスタンス運動が激しくなるにつれ、
イエジキ部隊にもナチス当局の監視の目が光り始めた。イエジ
キ部隊が、隠れみのとして使っていた孤児院に、ある時、多数
のドイツ兵が押し入り強制捜査を始めた。

 急報を受けて駆けつけた日本大使館の書記官は、この孤児院
は日本帝国大使館が保護していることを強調し、孤児院院長を
兼ねていたイエジ部隊長に向かって、「君たちこのドイツ人た
ちに、日本の歌を聞かせてやってくれないか」と頼んだ。

 イエジたちが、日本語で「君が代」や「愛国行進曲」などを
大合唱すると、ドイツ兵たちは呆気にとられ、「大変失礼しま
した」といって直ちに引き上げた。

 当時日本とドイツは三国同盟下にあり、ナチスといえども日
本大使館には一目も二目も置かざるを得ない。日本大使館は、
この三国同盟を最大限に活用して、イエジキ部隊を幾度となく
庇護したのである。
227/9:02/01/24 01:01 ID:???
 95年10月、兵藤長雄ポーランド大使は、8名の孤児を公邸に
招待した。皆80歳以上の高齢で、一人のご婦人は体の衰弱が激
しく、お孫さんに付き添われてやっとのことで公邸にたどりつ
いた。

 私は生きている間にもう一度日本に行くことが生涯の夢
でした。そして日本の方々に直接お礼を言いたかった。し
かしもうそれは叶えられません。

 しかし、大使から公邸にお招きいただいたと聞いたとき、
這ってでも、伺いたいと思いました。何故って、ここは小
さな日本の領土だって聞きましたもの。今日、日本の方に
私の長年の感謝の気持ちをお伝えできれば、もう思い残す
ことはありません。

と、その老婦人は感涙に咽んだ。孤児たちは70年前以上の日
本での出来事をよく覚えていて、別の一人は、日本の絵はがき
を貼ったアルバムと、見知らぬ日本人から送られた扇を、今ま
で肌身離さずに持っていた、と大使に見せた。

 同様に離日時に送られた布地の帽子、聖母マリア像の描かれ
たお守り札など、それぞれが大切な宝物としているものを見せ
あった。
238/9:02/01/24 01:01 ID:???
 シベリア孤児救済の話は、ポーランド国内ではかなり広く紹
介され、政府や関係者からたくさんの感謝状が届けられている。
そのひとつ、極東委員会の当時の副会長ヤクブケヴィッチ氏は、
「ポーランド国民の感激、われらは日本の恩を忘れない」と題
した礼状の中で次のように述べている。

 日本人はわがポーランドとは全く縁故の遠い異人種であ
る。日本はわがポーランドとは全く異なる地球の反対側に
存在する国である。しかも、わが不運なるポーランドの児
童にかくも深く同情を寄せ、心より憐憫の情を表わしてく
れた以上、われわれポーランド人は肝に銘じてその恩を忘
れることはない。・・・

 われわれの児童たちをしばしば見舞いに来てくれた裕福
な日本人の子供が、孤児たちの服装の惨めなのを見て、自
分の着ていた最もきれいな衣服を脱いで与えようとしたり、
髪に結ったリボン、櫛、飾り帯、さては指輪までもとって
ポーランドの子供たちに与えようとした。こんなことは一
度や二度ではない。しばしばあった。・・・

 ポーランド国民もまた高尚な国民であるが故に、われわ
れは何時までも恩を忘れない国民であることを日本人に告
げたい。日本人がポーランドの児童のために尽くしてくれ
たことは、ポーランドはもとより米国でも広く知られてい
る。・・・

 ここに、ポーランド国民は日本に対し、最も深い尊敬、
最も深い感銘、最も深い感恩、最も温かき友情、愛情を持
っていることを伝えしたい。
249/9:02/01/24 01:01 ID:+9+Z3cxW
「何時までも恩を忘れない国民である」との言葉は、阪神大震
災の後に、実証された。96年夏に被災児30名がポーランドに
招かれ、3週間、各地で歓待を受けた。

 世話をした一人のポーランド夫人が語った所では、一人の男
の子が片時もリュックを背から離さないのを見て、理由を聞く
と、震災で一瞬のうちに親も兄弟も亡くし、家も丸焼けになっ
てしまったという。焼け跡から見つかった家族の遺品をリュッ
クにつめ、片時も手放さないのだと知った時には、この婦人は
不憫で涙が止まらなかった、という。

 震災孤児が帰国するお別れパーティには、4名のシベリア孤
児が出席した。歩行もままならない高齢者ばかりであるが、
「75年前の自分たちを思い出させる可哀想な日本の子どもた
ちがポーランドに来たからには、是非、彼らにシベリア孤児救
済の話を聞かせたい」と無理をおして、やってこられた。

 4名のシベリア孤児が涙ながらに薔薇の花を、震災孤児一人
一人に手渡した時には、会場は万雷の拍手に包まれた。75年
前の我々の父祖が「地球の反対側」から来たシベリア孤児たち
を慈しんだ大和心に、恩を決して忘れないポーランド魂がお返
しをしたのである。
     
(おしまい)