朝鮮半島とベトナムの漢文学について

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30名無氏物語
戦前の日本の新聞の記事@
『鮮人内地密航/発見されて説諭』 大阪朝日 1921/7/15 鮮満 〔〕 釜山・朝鮮
【渡航】
『又も帆船で密航した不逞鮮人四名逮捕さる』 大阪朝日 1922/5/20 〔7/4〕 下関・
兵庫 【社会】
『北鮮から密航の怪鮮人/新羅丸の石炭庫に潜伏/労働者には不似合の所持品が不
審』 福岡日日 1922/5/21 〔1/2〕 下関・山口 【渡航】
『鮮人十名密航』 大阪朝日 1922/7/2 夕 〔2/1〕 下関・山口 【社会】
『鮮人十名の密航者/京畿丸に潜伏』 京城日報 1922/7/4 〔4/8〕 下関・山口 【渡
航】
『ブロ−カ−の手で密航する鮮人が多い/大部分は山口福岡両県に上陸/北九州一帯
では特に警戒を厳にして居る』 九州日報 1923/4/17 〔5〕 ・福岡・山口 【渡航】
『密航鮮人発見(遠賀郡芦屋町)』 門司新報 1923/11/7 〔1/5〕 遠賀郡・福岡
【渡航】
『内地密航と取締』 大阪朝日 1923/12/6 鮮満 〔〕 釜山・朝鮮 【渡航】
『鮮人の内地密航に警戒の眼が光る/釜山水上署の取締』 京城日報 1923/12/20
〔2/5〕 釜山・朝鮮 【渡航】
『発動船で密航/鮮人九名発見』 福岡日日 1924/2/21 〔1/2〕 下関・山口 【渡
航】
『潜入を企つ/立神丸に忍んで(舞鶴〜元山定期航路・立神丸で自称島根県人が密航
企図。「不逞鮮人」と連絡ある者と見込み取調中)』 大阪朝日 1924/4/20 京附
〔1/9〕 舞鶴・京都 【警備】
『丗名の鮮人欺されて密航/山口特牛港に』 福岡日日 1924/5/2 〔1/3〕 ・山口
【渡航】
『五十余名の密航団/難船して露見に及ぶ』 京城日報 1924/5/9 夕 〔2/4〕 釜山・
朝鮮 【渡航】
『鮮人渡来制限撤廃/密航は取締る』 福岡日日 1924/6/7 〔1/7〕 下関・福岡 【渡
航】
31名無氏物語:02/01/09 07:41
◆◆◆◆◆◆◆ 強制連行なんて無かった、ダマされた日本人 ◆◆◆◆◆◆◆

1974年の法務省編「在留外国人統計」によれば、在日韓国・朝鮮人の日本上陸
は日本政府が朝鮮人の来日を取締まっていた昭和10年までに渡来したものが
全体の53.7%と半分以上になる。

昭和11〜15年はまだ民間の自由募集の期間であり、次の16〜19年の中でも、国
民徴用令による徴集は19年の9月以降のわずか4ヵ月間であるから、単純に計算
しても、この期間に徴用されたものは16〜19年間の1万4514人の12分の1、つまり
1210人ほどにすぎない事になる。そこに次項「昭和20年9月1日以前」 の679名を
加えた概算1889人ほどが、真に徴用の名に値する在日朝鮮人だという事になる。
仮に「官あっせん」を徴用の概念の中に入れ、官あっせんが行われていた昭和17
年2月〜19年8月来日者の推計数を全部加えても約1万1300人ほどである。従って
終戦当時の昭和20年8月の在日朝鮮人の全体数が約210万人ほどであったから、
これは全体の僅か0.5%ほどにすぎない事になる。(2002年現在は約63万人)

当然これは正式な徴用としての徴集であるし、日本人も全く同じ条件であった訳で、
それが強制連行などではなかった事など説明するまでもない。この推定は、昭和
16〜19年間の月間来日数を均等として考えたものであるが、実際には、関釜連絡
船の運航は終戦が近くなるにつれ次第に困難になりつつあったから、19年後半か
らの来日徴用者は激減しているはずであり、どんなに徴用の概念を広く解釈しても、
終戦当時の在日全体数の1%を超える事など有り得ないし、その極々僅かな徴用
者達さえも実際は戦後まもなく帰国してしまった者がほとんどなのである。

更に、大正時代からの白丁などの被差別階級の大量の密航者や、朝鮮戦争時に
受入れた大量の難民や密航者もこれに加えると、今残っているほぼ全ての在日が
徴用とは全く関係の無い、単に自主来日した人達ばかりであるという事が分かる。