1 :
名無氏物語:
港未来は「港、未だ来たらず」と読む。
命名した方も低能馬鹿ww
2 :
冬のオイラ:04/09/26 02:18:24 ID:NNyRwiMz
被差別部落異民族起源説というのは昔から根強く存在していて、その世界ではある種タブーとさててきた。
なぜなら同じ日本人なのに・・という論理で部落差別解消に取り組んでいるのに、
その論理が破綻するからです。
それに部落の所在地は明らかに西日本に偏っていて、本来もっと多くないと
おかしい東日本、ことに関東には極めて少ないことを公の理論では説明できない。
徳川時代に制度化されたなら、江戸が最も多くないとおかしいですから。
一口に九州に部落があるといってもあるのは北部九州から、瀬戸内に抜ける方面であって、南部九州にはあまりない。
関東は徳川の地盤だからあまりない。
あくまで部落は北部九州から瀬戸内を通り、秀吉の地盤の大阪、京都にかけてに密集している。
数%なのは中世から存在してきた歴史的な部落だということなんだが、
だいたい中世の大昔から、餌取等がそのまま1000年以上も存在し
続けるはずがない。常識で考えて。
豊臣秀吉の文録・慶長の役と被差別部落との関係について言及したが、役によって日本
に連行された朝鮮人はどの程度に及んでいるのだろうか?別名、「陶器戦争」「ひと
さらい戦争」と呼ばれた戦争で、実数は諸説あるが、数万人以上、10万人弱というと
ころだろうか。
徳川幕府成立後、日朝間に通信士の往来があったことは知られているが、12回に及んだ
朝鮮通信士の訪日の内、最初の3回が、回答兼刷還使というものであって、それが連行
朝鮮人を取り戻す使命を負った使節であることはあまり知られていない。回答兼刷還使
というのは、朝鮮側がまず徳川にまず国書を送れと要求し(実際は将軍は送るはずもな
く、現地が捏造したものと考えられている)それに回答すると同時に、捕虜の回復を求
める使節という意味である。通信使の中には白丁も含まれていて、通信使の為に肉牛を
飼育し、肉料理を調理していたと広島藩の文書に記録されている。
このように朝鮮出兵が大量の朝鮮人を日本に連行したことは確実な歴史的事実であり、
回答兼刷還使の職務からみて徳川時代にあっても彼らが大量に日本に留まっていたこと
は明白である。そしてその職務は実際には成果を上げることができなかったと考えられて
いる。というのも既に日本で定着してしまっていたからである。
3 :
名無氏物語:04/09/26 17:37:38 ID:WWIF/1BA
____________
<○√
‖
くく
しまった!ここは糞スレだ!
オレが止めているうちに他スレへ逃げろ!
早く!早く!オレに構わず逃げろ!
4 :
冬のオイラ:04/09/26 19:58:50 ID:DY2reLKt
オイラ4様。
5 :
名無氏物語:
港未だ来ず
じゃないの?