荒らし依頼はいかに処罰すべきか

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西學の東漸するや、初めその物を傳えてその心を傳えず。學は則ち格物窮理、術は則ち法技兵法、世を擧げて西人の機智の民たるを知りて、その徳義の民たるを知らず。況んやその風雅の民たるをや。ここに於いてや、世の西學を奉ずるものは、唯利をこれ圖り、財にあらでは喜ばず。天下の人士は殆ど將にかのプラトオが政策を學びて詩人を逐わんとするに至れり。今や此の方嚮は一轉して、西方の優美なる文學は、その深邃なる哲理と共に我が疆に入り來れり。而してその文學の種屬を問えば、叙事詩あり、又戯曲ありて、固より一體に局せずと雖も、輓今西歐諸州に盛んなる小説を以てこれが主となす。それ小説の盛んなること、固より喜ぶべしといえども、此の詩體は一定したる風格あるにあらずるを以て、無能の徒、亦能く顰に倣い、遂に瓦釜雷鳴の有樣となりたり。
それ批評は寔に止むべからず。然れども古人も文人相輕と云い、文士傾軋と云いしがごとく、今の所謂批評家というものは、徒に相訾謷し、その相殊なる趣味を以って、相殊なる文章を議し、人をして渭に迷い、酸鹹を錯らしむるもの、比比皆是なり。而れども余等の見る所を以てすれば、これ未だ嘗てその眼の高からざるに由らずんばあらず。余等平成生これを慨すること已に久し。故に逍遙子の小説~髓、半峯居士の美辭學の出づるや、我が邦操觚家の爲に此の文學上の標準を得たるを賀したり。奈何せん、器械既に備われども、能く運用の妙を悟るものなく、徒に人をして隴を得て蜀を望む想いあらしむることを。
 論者或いは曰く。今の小説を論ずるもの、多く標準を西歐諸國に取る。その論証逾博くしてその意見いよいよ狹し。寧ろこれを常識に徴することの確かなるに如かずと。余等は此般の言を聞く毎に、未だ曾て剖斗折衝の政に想い到らずんばあらず。もし論者の意を弘めてこれを言わば、啻に審美學と其の一部なる詩學とのみならず、道學を哲學も悉くこれを常識に徴して可なり。何を苦しみてか復専門特科を設くることをなさん。蓋し標準もこれを用いること、その法を得ざる時は、丞矯に力を見るに由なし。人ありて、詩學の法則を知らず、縱令これを知るも、これを運用すること能わざるときは、その弊や、浴余の水と倶に兒を溝壑に棄てんとす。余等は詩學に運用を妨ぐるものを求めて、偏聽の成心を得たり。