戦国時代は、女性の地位が思ったより高いんだね。
一豊の死後、土佐を去ったのは、やっぱりあの土地に骨を埋められなかったんだろうね。
拾のそばで暮らしたかったというのもあるだろうけど。
一国一城の主になるのは夫の夢だったから、千代はそのために頑張ってきた。
夫が死んだら城にいる必要はない。
愛する拾のいるもとへ。
最期は拾と一緒でよかったね。
拾もえらいよ。同じ大きさの墓を建てた。
感動したよ。
戦国時代は、女性の地位が思ったより高いんだね。
>>935 日本に来日した宣教師のルイス・フロイスが書いてるよ。
一、ヨーロッパでは未婚の女性の最高の栄誉と尊さは貞操であり、またその純潔がおかされない貞潔さである。日本の女性は処女の純潔を少しも重んじない。それを欠いても名誉も失わなければ、結婚もできる。
二九、ヨーロッパでは夫が前、妻が後ろになって歩く。日本では夫が後ろ、妻が前を歩く。
三〇、ヨーロッパでは財産は夫婦の間で共有である。日本では各人が自分の分を所有している。時には妻が夫に高利で貸し付ける。
三一、ヨーロッパでは妻を離別することは最大の不名誉である。日本では意のままにいつでも離別する。妻はそのことによって、名誉も失わないし、又結婚もできる。
三二、ヨーロッパでは夫が妻を離別するのが普通である。日本ではしばしば妻が夫を離別する。
三四、ヨーロッパでは娘や処女を閉じこめておく事は極めて大事なことで厳格に行われる。日本では娘たちは両親に断りもしないで一日でも数日でも、一人で好きなところへ出かける。
三五、ヨーロッパでは妻は夫の許可がなくては、家から外へでない。日本の女性は夫に知らせず、好きなところに行く自由を持っている。
四三、ヨーロッパでは尼僧の隠棲および隔離は厳重であり、厳格である。日本では比丘尼(尼)の僧院はほとんど淫売婦の町になっている。
四四、ヨーロッパでは尼僧はその僧院から外に出ない。日本の比丘尼は何時でも遊びに出かけ、時々陣立(じんたち、軍陣の事、戦場か)に行く。
五一、ヨーロッパでは普通女性が食事を作る。日本では男性がそれを作る。そして貴人たちは料理を作る事を立派な事だと思っている。
五二、ヨーロッパでは男性が裁縫師になる。日本では女性がなる。
五三、ヨーロッパでは男性が高い食卓で女性が低い食卓で食事をする。日本では女性が高い食卓で、男性が低い食卓で食事をする。
五四、ヨーロッパでは女性が葡萄酒を飲む事は礼を失するものと考えられている。日本ではそれはごく普通の事で祭りの時にはしばしば酔っ払うまで飲む。
なんだ、
当時の日本は世界1の男女平等の先進社会だったんだ。
徳川幕府がぶちこわしたんだね
六平太・小りんは司馬氏のオリキャラ。ドラマ的にはどのように展開
するか分からないが、捨子なんて平成の時代にもあることじゃない。
まして戦国時代は未婚で子供を産むなんてザラだったのでは。
まだ間引きされなかっただけよかった。そして捨子を育てると
実子が出来るという迷信?は昭和の時代にもあった。
千代が一豊の死をきっかけに京に住まいを移したのは
まだ天下が安定していない時代だったので時勢を見るという
気持ちもあったという説もある。もちろん拾いが千代の最期を
看取ったということからも心底一豊夫妻を親として敬った。
そこには拾いに対する夫妻の愛情があったからではないでしょうか。
良妻賢母って誉め言葉のようだけど、あんまり嫁がしっかりモノだと
よそで息抜きしたくなるのが男心。
でも、一豊が側室を置かなかったところを見ると
千代は女としての可愛らしさも備えていたと考えていいのかな。
>>939 側室もたないほうが珍しいんだよなぁ…
織田家中だと、他には明智光秀が側室を持たなかったことで有名だな
秀忠も光秀も奥さんが子供たくさん産んだから
側室も持たなくても世継ぎの心配はしなくてよかったけどね。
一豊もやっとできた一人娘が亡くなってもなお側室を持たず、
養子に後を継がせようと思っていたとこ見ると、
自分の血筋を残す事よりも奥さんが大事だったのかな。
仮に、千代が悋気な性分だったとしても、嫡男を産めていない立場では
一豊に側室を持つなとはいえないだろうから
やっぱり、一豊が側室を持たなかったのは、一豊自身が側室を置きたくなかったと
考えるのが自然かなー。不思議な男だ。
戦国時代の「夫婦はパートナー」って考え、かなりうまくいってたのかな。
それに比べて、欧米や近年の日本の男女平等参画社会による男女平等は、上手くいってないね。
結婚しないし、離婚は多いし、子供は作らないし、DVは多いし。
何か違う点があるのだろうな。
戦国時代でも離婚は頻繁に行われてたんじゃなかったっけ?
日本社会で離婚しにくい風潮になったのは、たしか明治以降だったと思う。
江戸時代でも女性から離縁を言い渡すことも出来たし
出戻りだからといって、再婚の障りにはならなかったはず。
いつの時代でも、夫婦が添い遂げるのは難しいってことかな。
少し前まで日本はかなりの男尊女卑社会、って聞かされてたから
(女子はお茶くみ仕事ばかりとか、とか、女性は出世できないとか)
戦国時代の男女パートナー社会を知って驚いた。
でも離婚も多かったのか。
子供出来なかったのに、添い遂げた一豊千代は幸せなコンビだろうな。
戦国時代は、男性比率が逆に高くて、単に嫁不足だっただけですよ。
女の地位が高かったのも離婚が多かったのも要因は同じっすw
江戸時代初期は女性から離縁を言い渡すことは希で困難であったが
豊臣秀頼の娘の活動などにより改善されていった
それ以前に女性から離縁を申し出れたのは女性の家柄によるものが多い
「桶狭間から稲葉山城落城」という戦国時代で一番美味しいところを取ったドラマなんだよな
第21回 開運の馬
濃姫が街中を一人で歩いているなんて有り得ないw
次スレスレタイ候補
【千代】功名が辻 其の2【山内一豊】
大河ドラマ 功名が辻 其の2
なか(秀吉の母)の登場の仕方は水戸黄門みたいな登場
>>942 千代可愛いよね。ドラマでは
仲間に品があっていいなあ。着物姿もいい
三津五郎も筒井も品があって着物姿がとっても綺麗
戦国時代ものだからって田舎娘に田舎侍みたいなのばかりで
なんだか目の保養にならないんだよな今の大河は
そんなに女不足なのに側室(おそらく美女)を集めまくっとったのか戦国大名はw テラウラヤマシス
男女の出生率は同じだし、
男のほうが死亡率は、戦争のせいで高かったはずだし、
それなのに、男女比6:4だということは、
大名とか、上級武士が側室でおおぜい女を囲っていたから、
一般の男に回ってくる女が少なかったってことだろう。
長浜城主になって、まもなく長浜大地震がおこり
愛娘よねを亡くし城の建物も倒壊して、人生最大の不運だったよね。可哀相。
一豊が側室を置かなかった点だけど、「歴史が動いた」では
千代を愛する一豊は千代に配慮して側室を置かなかったと言っていたと思う。
山内一豊は7人兄弟の第4子。母は法秀尼。父・盛豊も妻一筋だったことも
影響している?
上川さんは、(一豊が側室を持たなかった理由としては、)父親を
早くに亡くし女手一つで育ててくれた母に対する並々ならぬ思いがあり、
一豊の女性に対する敬いの気持ちは圧倒的に強かった。千代にも
恋慕と畏敬の思いがあり、子供を作るだけの側室を受け入れられなかった
のでは?とガイドブックで解説しているね。
>>955 出生率は国全体で考えるんだぞ?武士の割合はかなり少なく、且つ上級となると極小数。
そんな奴がいくら囲っていたところで、そんな変わるわけ無いじゃんw
一般が何指しているか知らんけど、庶民は特定配偶者を持たない、乱籍状態だぞあの時代は。
13歳くらいから、村中の男と犯りまくるのが江戸以前の風習。小学高学年のフリーセックス状態ヽ(´□`*)ノだぁぁぁ
江戸時代、上級武士は側室なんてほとんど持たないよ。
妻が子供を産まなかったときやむをえず、1人側室がいたとかそんなもの。
武士は1人以上子供が出来ても、跡も継がせられず、結婚もできないから。
次男以下は、養子の先が見つからないと、一生結婚も出来ず、
長男の家に内職とかをやりつつ邪魔者扱いされて、一生過ごす。
その間に長男が死んだり、養子の先があれば万々歳。
農家も同様。子供が二人以上いても食い扶持がない。
側室もって子供が大勢居ても継がせられるものが拡大したので
妾が大勢居たのは、金持ちの商人の家だけ。
大名ですらこれは例外でなく、元禄繚乱で、浅野内匠頭の弟が
結婚ができず、子供の生まれない兄や兄嫁に
「自分なら作れるのに」とか嫌味をいいながら兄に寄生してたじゃん。
これは好き勝手が許されない一般大名の話で、徳川将軍家は
3000人の美女を大奥に囲って子作りをしてた。増えたら
家を増やせばいいだけだし。でも、乳幼児死亡率が
異様に高く、あまり増えなかった。
功名が辻は明るい作りが非常に良い
第25回「吉兵衛の恋」
千代「(長浜城は)そのうち旦那様(一豊)のものになりまする」
千代は予言者か
千代が一豊死後京都に行くのはやっぱり都会(当時は)が楽しいから?
運よく養子が京都にいたからラッキー♪って頼ったとか
京都で暮らしたら四国に戻る気にならなかったとか。
腹ぺこ千代が楽市に行くシーン。
古着屋の親父が「奥方には負けました!じゃ、250文!」
って言ったところで、千代が「・・・って、おい!」という声が
聞こえませんでしたか?私には聞こえました。
怪しげな夫婦袋を売ろうとしても、誰も酔ってこないシーン
で、1人だけ嬉しそうに見ている太った男の姿が見えません
でしたか?私には男がふる「てけてけ」となるオモチャの音
まで聞こえました。
腹ぺこの千代の前を団子を買った子供たちが駆けていく
ところで、子供の1人が団子を落として、それを千代が拾お
うとするのだな、と予想しませんでしたか?私はしました。
楽市シーンのあとで、とぼとぼと帰る千代が爺さん婆さんと
その孫の3人に指さされ、笑われるシーンを想像しませんで
したか?私は、当然想像しました。
965 :
名乗る程の者ではござらん:2014/02/19(水) 10:24:43.19 ID:fgKCHNKg
test
山内一豊は本能寺の頃は既に、信長の直参では無く秀吉の家臣だったと思う。
とすれば、千代たちが居たのは長浜。
長浜は城主(秀吉)の家族も逃げて無事だったぐらいだから、
一家臣の妻子もちょっと身を隠せばスルーされたはず。
だいたい明智勢が長浜に到達してから天王山で敗れるまで数日しかないし。
まあ、信忠の所にいて逃げた康豊はチキンだが、
結果として山内家存続には貢献した。
>>966 同じく信忠のところにいて、逃げた信長の弟の長益は
織田の源五(長益)は人ではないよ
お腹召せ召せ召させておいて
我は安土へ逃げるは源五
なる歌を今日の町人の子供たちに歌われてバカにされたという。
マイナーでよかったね、康豊。
男女比に極端な差があることからも分かるとおり、女の子の価値が低かったってのは
事実ですね。口減らしのため、女の子は簡単に間引かれていましたから。
地震で一人娘およねと死に別れ…。捨て子だった拾を我が子として育てたが断腸の思いで生き別れ…。湘南和尚となった拾に晩年の千代が送った手紙がのこってるのには感動した。「その時歴史が動いた」は良かった。
捨て、拾い
当時は乳幼児死亡率が極めて高かったので
魔除けのためにわざと酷い名前をつけた
中国からきた迷信らしい
実際、千代が土佐にいたのは、関ヶ原後全国的な混乱が収まった後から、
一豊の死後に忠義が後を継ぐまでの四・五年。
それ以前は伏見・大坂・京辺りにいたし、晩年は京に住んでいた事
を考えると、湘南とは生き別れと言うほどのことでは無かったはず。
預けた先は菩提寺なわけだし。
奥平信昌も側室持たなかったんだっけか?
あれは妻一筋ってよりも舅の家康に遠慮してだが。
妻一筋って感じがするのは一豊や官兵衛あたりかね
兼継もかな
あとは舅や妻の実家や血統に配慮して表立てなかった感じかな(秀忠等)
一豊はかなり怪しいな
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