>>686 >>684 >>682 >>679 タグチSN比は《尊師》がコンサル(=布教)活動の永続的発展のために考案して
長年にわたって使用し続けている概念で、正常・健康な世間では、しばしば「何でもかんでもSN比」とから
かわれている。本来は「分散」とか「残差の平方値」とかその「相対値」(すなわち「相対分散」など)とかに
過ぎないものを、もったいらしく「SN比」とか、その「デシベル値」とか、わけわかめに唱え続け、それこそ
際限もなく何でもかんでも「SN比」として表現し、荘重に説法マントラの中で繰り返して、信徒・大衆・衆生
を洗脳し続ける結果、
>>684 のような誤解は権威ある立派な大学教授の間にさえも普通に見られる。
したがって、
>>686 のような解釈も、一般に、常に成り立つとは言えない。歴史的には、それよりも、はるかに
広い、ほとんど無限に広い内容を《尊師》のその場その場の都合しだいで勝手に「SN比」と呼んでいることを
注意しておきたい。きわめて勝手気ままな用語法であるから、一部だけをとらえて批判すれば、導師・信徒からは、
逆に、もの知らずともの笑いにされる。まともに批判するには「SN比」の全体を的確にとらえる必要がある。
まったく異なる内容のものを《尊師》のその場その場の都合で「SN比」と呼び、さらに、それをひとまとめに
して「SN比」と呼べば、信徒・大衆・衆生は混乱するが、その混乱こそが永続的布教のつけ目、すなわち、
《尊師》のつけ目である。それは役に立つのだが、決して、信徒・大衆・衆生にとってではなく、単に《尊師》のみ、
すなわち永続的布教にとってのみ、大いに役に立つのである。その悲/喜劇的な真実を忘れてはならない。