中野浩一☆★☆中野浩一☆★☆中野浩一

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「“世界”に挑め!」ミスター競輪・中野浩一氏が現役選手に強烈檄
※ ライジング出版『Bicycle21(バイシクル21)』に掲載?
http://72.14.235.104/search?q=cache:oIX4mWuSuzwJ:www.rising-publish.co.jp/interview/nakano.html+%E4%B8%AD%E9%87%8E%E6%B5%A9%E4%B8%80+%E3%83%8A%E3%82%AC%E3%82%B5%E3%83%AF+%E6%97%A5%E5%A4%A7&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=2

「不屈の闘志で達成した不滅の世界選スプリント10連覇」

世界選手権自転車競技大会プロスプリント10連覇──。
前人未踏の大記録である。
他のプロスポーツ競技を見渡しても、10年間にわたって世界トップの座に君臨しつづけた例はないはずだ。
ミスター競輪こと中野浩一氏により77年から86年にかけて達成されたV10の偉業は、
日本の自転車競技会が誇る不滅の金字塔だ。
「世界に挑み、世界で勝つこと。それが日本の自転車競技活性化の絶対条件だ」。
注目のアテネオリンピックをひかえ、中野氏は現役アスリートに熱い檄を飛ばす。 (聞き手・本誌高木)


●高校時代は陸上の短距離選手、インターハイで優勝


─中野さんは子供の頃からさぞや運動能力が高かったんでしょうね。

「走るのは速かったですね」

─やはり血筋でしょうか。お父さんが競輪選手だったし。
「親父もお袋も競輪選手です」

─お母さんもですか。昔は女子競輪ってありましたからね。

「お袋は僕が小さい時に死んでいるんですけど、競輪選手だったんですよ」

─ご両親が競輪選手。走ることは天性のものなんですね。

「でしょうね。幼稚園とか小学校で運動会っていうと大好きで、元気よく出て行きました」
105(2):2006/08/04(金) 13:42:01 ID:iYKzSl/l
─気性的にも小さい頃から激しかったんでしょうね。

「激しいっていうか、負けるのは嫌いでしたね。
走っているとどうやってでも勝ちたいって思うほうでした」

─子供心に勝負師の気性みたいなものを持っていたんですね。自転車は子供の頃から乗っていたんですか。

「姉の自転車に乗ってましたね」

─お父さんのレーサーとかは家にあるわけですから、競技用の自転車にも馴染んでいたんでしょうね。

「ローラー練習とかをじっと見てたり、たまに競輪場に連れていってもらったりとかはしてました」

─スポーツ的な自転車の乗り方を始めたのはいつ頃からですか。

「高校3年生になってからですよ。本格的には競輪選手になろうと思ってからです」

─高校は八女工業高校。インターハイの400mリレーで優勝してますよね。何年生の時ですか。

「高校2年生の時ですね。中学の時は野球部に入ったんですけどね、野球やりたくて。
僕らの年代って皆そうじゃないですか、プロ野球選手になりたいと。
で、けっきょく陸上にすぐ替わって。
高校に入る時、陸上でうちに来ないかって誘われたんで、その気になっちゃって」

─で、高校生活は陸上一色に。練習はかなり長時間やったのですか。

「授業を終えてからの練習ですからね。でも密度は濃かったですよ」

─リレーで全国優勝するってことは粒が揃っていたんでしょうね。

「短距離の100、200でもの凄く強いのが2人いたんですよ」
106(3):2006/08/04(金) 13:42:47 ID:iYKzSl/l
─オリンピック目指そうとか。

「いや、それは全然なかった。そんなレベルではなかったですから」

─でも、陸上でやっていこうと。

「大学行って体育の先生になりたいと、それぐらいのもんでした」

─でも、怪我をしちゃうんですね。

「そうです。通学中にトラックにはねられて。
ちょっと当てられただけなんですけど、自転車に乗っていたからポーンって跳んじゃって。
それが元だと思うんですけど、肉離れおこして3年のシーズンは全然運動出来なかった。
これからっていう一番いい時だったんですが」

─陸上の方はそれで断念しなければならなかったんですか。

「断念ってほどではないんですけど、進学にしても就職にしても
ちょうどオイルショックの時ですから厳しい状況でした。
それよりは運動好きだったし、それで身を立てられないかと。
プロゴルファーになろうかなと思った。
ジャンボ尾崎が活躍してた頃なんです。
で、親父に相談したら、金がかかりそうだってことになって。
僕ね、その時やってたらきっとプロゴルファーになってますよ。時間かかってもね。
それで、クラブ握る前に、自転車だったらそこにあるんで乗れと。
中学校の時にはちょっと乗ったことあるんですけどね、
その時はグランドをぐるっとまわっただけで。今度はバンクで。
こんなのよう乗れんわと。ブレーキ付いてないから止まれないし。でも、まあ、やってみようかと。
そしたら、乗り始めて2日目にはすげえ速いなと言われたんですよ。
久留米のバンクで一週間ぐらい走ったら、お前凄いなって。
高校3年生の秋、夏休み終わってからだから9月の半ば過ぎの頃でした」
107(4):2006/08/04(金) 13:43:28 ID:iYKzSl/l
●両親から受け継いだ天賦の才能、抜群だったペダリング感覚


─先天的に自転車が合っていたんでしょうね。

「ですね。当時、愛好会があって、訓練日にはそこでみんな集まって
現役の競輪選手が1000mタイムとか測ってくれるんですよ。
で、僕初めて測った時が1分21秒4でした。
当時の競輪学校の一次試験の合格タイムが1分23秒なんですよ。
初めてでそれでしょ。
それで1週間たった時に測ったら、もう17秒なんですよ」

─いきなり、競輪学校の合格タイムの23秒をクリアして。

「一次試験が23秒以上で、そのあと二次試験。
そこで17秒出せば学校は間違いなく受かりました。
しかも1週間でそのタイムだから凄いじゃないって言われて。
で、俺って凄いんだなって思っちゃったんですよ」

─陸上競技で鍛えた筋肉が役立ったんでしょうか。

「どうでしょうね。陸上速いから自転車速いとも言えない。
高校記録つくった人が実際、競輪選手として成功していないケースもあります」

─そうすると自転車向きの筋肉と走る能力とは、やはりちょっと別なんでしょうね。

「筋肉っていうのはいろんな形でつけられるわけですよね。
パワーをつける筋肉もそうですし。使い方が問題ですから。
あくまでも自転車のペダルに力を加えて、
それでうまくスピードに乗るっていうことじゃないといけないわけです。
それが僕は人より優れていたってことです」
108(5):2006/08/04(金) 13:44:06 ID:iYKzSl/l
─持って生まれたものですね。

「それは間違いないですね。
訓練してそうなったわけじゃないですから。
たった一週間で訓練の成果が出るわけないですから。
長い訓練の後にそうなることもありますけど、
基本的にペダリングが非常にいいとか効率がいいとかっていうのはあると思いますね。
ペダリングって円運動じゃないですか、
上死点、下死点で負の力がかかっちゃいけないわけですよね。
前に進む力がかかればいいわけだけど、後ろに力がかかっちゃいけないから
上と下で切り替えなければいけないわけです。
そのバランスです。
誰にも教えられていないけれども僕がペダルを踏むときれいに回っていた。
普通は踏み方としてこうしなきゃいけない、ああしなきゃいけないと練習して体得していくものなんですが。
だから例えば10の力持ってる人は
うまく回せば10の力をそのまま使えるけれども
マイナス1があれば8ぐらいしか使えない。
それだけロスがあるってことですよね、
どれだけロスを少なくしてペダルを回せるかってことなんです」

─競輪学校時代は抜群の成績だったんですか。

「僕の同期(34期)に松田さんという、オリンピック代表だった人がいたんですよ。
日大出身で。この人がもう完全に抜けてましたんで。
高校3年間、大学4年間、自転車をやってきた人でした。
僕は7ヵ月しかやってませんから」

─その人に次いで2番ですか。

「そう、卒業時は2番ですね。
他にもアマチュアでやってた人はたくさんいたんですけど」
109(6):2006/08/04(金) 13:44:44 ID:iYKzSl/l
●昭和50年、いきなり18連勝で注目集める


─プロデビューは75年ですね。

「昭和50年の5月。29年前。早いものですね」

─デビューは地元の久留米競輪場でしたね。大体地元で一番最初に走れるものなんですか。

「学校時代強かった選手は地元でデビューできるんです。弱いと地方に飛ばされるんです。
これはやっぱり地元のファンの皆さんにお披露目しようという意図ですね」

─いきなり18連勝ですよね。

「そうですね。デビュー戦で久留米で走って、それから熊本で走って、立川走って、小倉走って、すべて1着でした。
当時の制度として10回連続で1着とると特進なんですよ。
1場で3回ですから当然4場所目の初日にかかるわけですよね。
4場所目の小倉の初日に10連勝して、A級特進を決めました。
それで12連勝し、次は防府でA級戦でした。
そこでも3連勝して、次は高松に行って、そこで3連勝。
けっきょく6場所連続して走って18連勝したんです。次の大垣で負けたんですけど」

─今でもそれは記録なんですか。

「いや、ロス五輪のスプリントで銅メダルを獲った坂本勉が40連勝してますよ」

─18連勝となればマスコミには相当取り上げられたでしょうね。

「当時の記録は僕の前に阿部良二さんが出した15連勝でしたかね。そういうのもありますし。
その頃は勝っているっていってもレベル的にもまだ下の方でしたしね。
これからが大変だなっていう思いはありましたよ。
それとマスコミの評価っていうのは高すぎるんじゃないかなって思ってました、自分の中では。
だからその評価に早く追いつかなきゃいけないなと思ってました」
110(7):2006/08/04(金) 13:45:30 ID:iYKzSl/l
─新人王も一発で獲って、あっという間に最上位のA級1班に駆け上がっていきました。
 今の制度でいうとS級1班ですよね。

「そうです。今のS級1班っていったら何百人かいますけど、当時は120人ぐらいでした。
ちょうど丸1年でA級1班に上がりました。
当時のA級1班っていったらめちゃめちゃ強いっていうイメージありましたね。
今のS級1班っていったら下の方で走ってもポロポロ負けたりしますけど、
当時のA級1班っていうのは絶対負けないみたいなところがありましたよ」

─そうすると壁みたいなものがありましたか。

「壁っていうほどじゃないですね。僕は割とスッと上がったんで。
5月にA級1班に上がって、いきなり別府の記念レースで走って決勝戦に乗ってますから」

─特に大きな壁に突き当たることもなくトップレーサーの位置に駆け上がっちゃったって感じですね。

「そうですね。全くないことはないですけど」

─浩一ダッシュって、よく現役時代に言われたじゃないですか。あれは新人の頃からですか。

「A級1班に上がってからですね。
よく後ろ(後続の選手)がちぎれちゃったですよね。
思い切って行ってました(ダッシュした)から。
自分の中でまだ余裕がないから目一杯漕ぐしかないじゃないですか。後ろなんか気にしてないから。
しかし、やはり勝つためには(ラインを組んで)後ろを連れて行かなきゃいけないし、
段々と後ろの人を連れて行こうとするようなレースに変わっていきました。
道中は軽くいって、ゴール前で思いっきり踏むとかいったようになりましたね」
111(8):2006/08/04(金) 13:46:09 ID:iYKzSl/l
─後ろを守ってもらった方が勝ちやすいなとか、レースを覚えていったわけですね。

「そうするとね、(レース中の)位置がよくなってくるんですよね。
最初の頃はどうしても7、8番手ぐらいですよ。
それが力ついてくると4番手、5番手になり、
それでゆっくり構えて、最後のゴール前、肝心なところでビュッと行けばいいわけですから。
だからそんなに早くいく必要はない。
初日あたりはちょっと早めに行って(ラインの選手を)連れていっておいて、
2日目しっかり一着獲って、最終日には狙ったいい位置からスパートして優勝する。そんなパターンですね」

─レースの記憶はかなり確かみたいですね。

「300戦の前半くらいまではよく覚えています」

─普通、記憶って新しい方を覚えてるのかなと思うんですけど、若いときの方をより覚えてますか。

「若い時の方が覚えてますね。あとは節目節目のレースとかを資料引っ張り出して、あの時はどんなレースだったかとかね」

─選手にとっては脚力とか勝負勘とかの他に、そういった記憶力も大事なんでしょうか。

「やはり相手が過去にどういう戦い方したとかね。特に世界選手権のスプリントとかは大事ですね。
相手のことを知っていないと作戦が立てられない。自分との比較がいるじゃないですか。
相手が自分より強いのが分かっていたらまともに戦っても勝てないから奇襲戦法やろうとかね。
記憶が闘う材料になります」

─それは世界選でも日本の競輪でも同じですか

「同じようなものですね。一対一のスプリント競技は、特に」

─初めて特別競輪を獲ったのは。

「小倉競輪祭です。遅かったですね。23歳ですから。デビューして4年目です。
2年目で新人王。翌年は失敗して、53年の小倉競輪祭で優勝しました。その前年には世界選勝ってますけどね」
112(9):2006/08/04(金) 13:46:51 ID:iYKzSl/l
●昭和52年、南ベネズエラのサンクリストバル大会スプリントで初優勝


─世界選の優勝の方が先なんですか。プロスプリントですね。

「ええ。77年、昭和52年ですね」

─今は例えば神山雄一郎選手とか競輪と自転車競技を両立させて頑張っている人が多いですが、
 当時は世界選とかそういうことに人一倍熱心だったのは中野さんが先駆者だったと思うんですけど。

「僕がデビューしたの50年ですが、翌51年には世界選に行ってますから。
強化合宿やったんですけど、右も左もわからないまま海外へ連れてってもらって。
初めの51年はスプリントで4位でした。
51年っていうことは自転車に乗り始めて3年目ぐらいですよ。
デビューしてからは1年半たってないですから、素人に毛が生えたようなもんだったですよ」

─52年から世界戦プロスプリント10連覇がスタートするわけですが、
 スプリントと日本の競輪というのは違うものなんですか。

「パターンは違いますけど、必要なものは同じですよ。
ダッシュが必要だし、スピードが必要だし、持久力が必要です。
それらが揃ってればスプリントも勝てるし、競輪も勝てます」

─以前、ナガサワレーシングの長澤義明さんに中野さんの何が優れているのかって聞きましたら、
 彼はトップスピードに持っていくまでが他の選手より断然速いと言ってました。

「ダッシュ力ってことですかね。
僕はダッシュ力はあまりあると思ってなかったんですよ。
デビュー当時、ダッシュ力なくて先輩に色々と言われたんですよ。
練習で目一杯踏んでも、あまり流すな、練習なんだからもっと踏めとか言われてました」
113(10):2006/08/04(金) 13:47:34 ID:iYKzSl/l
─しかし、スプリントっていうのは一瞬の切れ味っていうか、
 ダッシュ力が必要なんじゃないですか。

「タイミングが大事ですね。
僕は自分に足りないところはゼロからのダッシュ力と思ってましたんで、
そういう練習を重点的にやってました。
でも、そうした力はスプリントをやっていく中で自然とついてくるんですよ。
必要なものだから。
足りない部分っていうのは当然練習もするし、
繰り返してやっているとレベルの高い所に上がっていける。
自然と力が付いてくるんですよ」

─それにしても、凄いですね。

「僕は動いてるといいんですよ。
要するにある程度のスピードからのダッシュはすごくいいんですよ。
ヨーイドンからは駄目なんです。
体重の関係もあるし、自転車って基本的に惰性ですから」

─とにかく世界選と競輪を両立させていったわけですね。
 これは大変なことだったと思いますが。

「僕の中では世界で勝つのも日本で勝つのも同じじゃなきゃいけないと思ってました。
今でも若い選手に言いますけど、
日本で勝ったからって世界では勝てないよ、でも世界で勝ったら日本で勝てるよと。
だから世界で勝てるための脚力をナショナルチームの連中は鍛えようとしてるわけですよ。
彼らにはいつも言ってます。
世界で戦えれば、本業の競輪でも勝てるじゃないかってね。
だから一生懸命、世界選で頑張れよと。
何が違うとか、環境がどうしたとか、スケジュールがどうだとか、そんなことぐずぐず言うなと。
後でなんぼでも自分に還ってくると言っているんですよ。
目先の金が欲しいとかばっかり考えていたんじゃ大きくなれないぞってね」
114(11):2006/08/04(金) 13:48:17 ID:iYKzSl/l
●「世界で戦えるなら本業の競輪でも勝てる」


─中野さんという典型的な好例があるわけですからね。

「俺を見ればわかるじゃないかとね。
中野さんはいいですね、自転車乗らないで好きなことしゃべって金儲けていいですねって言われるけど、
そうなりたいなら世界選でも頑張っておけと言うんです。
そのためには多少の苦労はしなきゃいかんと。
苦労する方向を間違えちゃいけないと。
いいチャンスを与えられているんだから、オリンピックで勝てるような力をつけなさいと」

─高いところに目標を置かないと。

「そうです。僕は世界選の最初の年が4位だったんで、日本に帰ってからの扱いも軽かった。
それでムッとしたとこありまして、52年は勝ってざまあみろと思ったら
世間的にはほとんど注目されなかったんですよね。
関係者の方はよくやったって言ってくれるんだけど、その辺の道歩いている人には関係ない話だし。
でもその辺をどうにかしてもらわないと
自分の職業としてやっている競輪そのもののステイタスが上がっていかない。
だから競輪とスプリントは一緒にならなきゃいけないって考えましたね。
今は競輪界、自転車競技を世の中の人に知ってもらいたいと思うけど、
僕は昔はね、自分だけ有名になりたいとか、金をたくさん儲けたいとかばかり思ってたんですよ。
そこまで広い視野ないから。
プロスポーツの表彰式なんか行って、長島茂雄さんとか青木功さんに会ったりとかするわけですよ。
でも僕なんか隣りにいても、あんた誰って顔されるわけですよ。
それがね、やっぱり悔しいっていうか、情けなかった」

─中野さんが世界選10連覇して日本に帰ってきた時に、
 V1の時は記者がほとんどいなかったけれどV10でこれだけの人が集まってくれるようになりましたと話してましたが。

「そういう気持ちはすごく持っていましたね。それが毎年、世界選に行く原動力にはなってました。
今と違って自転車競技に対するマスコミの関心が低かったので、
何とか名前を売らなきゃいけない、自転車競技を知ってもらわなきゃいけないと」
115(12):2006/08/04(金) 13:49:00 ID:iYKzSl/l
─やはり松井とかイチローがアメリカであれだけ活躍しているし、サッカーも中田らがイタリアで活躍しているから
 野球、サッカーの人気が高いわけで、自転車の人達も世界で勝たなきゃいけないですね。

「そうです。そういう準備はしているんですけれどもなかなか上手くいかない。
僕の一番の不満は選手本人がいろいろと言い訳することです。
選手は選手のやることがあるわけだし、そのチャンスを掴んだらなんとかそれをモノにしようとしなきゃいけない。
関係者は関係者でどうにかしなきゃいけないところ、たくさんありますけどね。
選手が不満を持つような土壌をつくっている。
フォローすべきところはフォローして、我慢させるところは我慢させなきゃいけない。
それについては僕は指導者が悪いと思う」

─現役時代の話にもどりますが、特別競輪の優勝回数は。

「年末の競輪グランプリを入れて12回ですね」

─一番嬉しかったレースは。

「81年の千葉ダービー優勝かな。その直前に叔父が亡くなったんですよ。その叔父がすごく競輪が好きだった。
叔父が勝たせてくれたのかなみたいな気持ちありました」

─中野さんの全盛時ですね。

「そうですね。あのときはダービーで特別三連覇でしたから」

─無敵。

「というか、一番気持ちよく走ってた時代でしたね。まわりもなんか勝ってくださいみたいな感じ。
中野が一緒じゃ仕様がないなみたいなことが多かったんじゃないですか」

─そう思わせることが大事なんでしょうね。

「勝負事ですからね、お客さんも一番安心して僕を買えた頃だと思いますよ」
116(13):2006/08/04(金) 13:49:44 ID:iYKzSl/l
●「競輪は弱肉強食。ハードな世界からスーパースターが生まれる」


─故阿佐田哲也さんの著書に競輪っていうのは強気を助け、弱きをくじく。
 それが競輪の面白さなんだって書いてあるのを読んだことがありますが。

「そうなんです。
そういう風に強いって皆に思ってもらわないといけないんです。
あいつには逆らっても無駄だって。
だったら弱いところに行った方がいいって。
だから強い順に並ぶんです。本来は。
でも今の競輪は変わってきているんです。
並びが強い順じゃないんです、弱くても前に行くんです。
だからおかしい。
だから阿佐田さんの言っていたことが変わってきてるんです。
やたら弱きを助けることも増えてきた。
本来の競輪の形っていうのは、
強いやつは(並びが)前でも仕方がないなっていうのがあったんですけど」

─弱肉強食みたいなね。

「そういうのが少ししか残ってなくて、弱くても平気な顔していい位置で回ってる。
誰もそれに対しておかしいと言わないし、
勝負にいかないところが
本来の競輪の形から随分離れてしまったんじゃないかな」

─一般社会では弱肉強食だけだとちょっとまずいですけど、
 スポーツの世界、勝負の世界っていうのはそれの方が見ていて面白いですよね。

「そうしないとスーパースターは出てこないんですよ」
117(14):2006/08/04(金) 13:50:29 ID:iYKzSl/l
─今は本当のスーパースター不在の時代ですよね。

「本当に強い選手がいて、何とかそいつをやっつけようというのはいいですよ。
強い選手を別の強い選手が冗談じゃないってビュンってやっちゃうところに面白さがある。
弱い者がのうのうと走っているのはおかしいですよね」

─やはり中野さんがいて滝沢正光選手がいて、どっちが勝つかみたいなのが見ていてワクワクして面白い。
 10連覇の方のお話を聞かせてください。
 一口に10連覇といってもこれは大変なことですよね。
 世界選っていつ頃なんですか。

「8月の終わりから9月の始めにかけてですね」

─世界選から帰ってすぐレース。疲労とかコンディションづくりとかのハンデは。

「全然関係ないです。
帰ってきてすぐオールスター競輪でしたけど、僕あれ好きでしたよ。
オールスターの成績いいですよ。
オールスターっていう響きが好きなんです。
ファン投票でしょう。
1位で選ばれるじゃないですか、やはり気持ちいいですよ。
ファンの期待に応えようと頑張ったものです。
僕らの前の年までは世界選行って終わると
10日間ぐらいちょっと遊んでこようとあちこちとまわってたんですよ。
でも僕らはオールスターもあるし、終わって3日ぐらいで帰ってくるようになりました。
次の日に帰ってきたこともあります。
その辺から選手の意識も変わってきているし、物見遊山で来ているわけではないと。
勝ち始めると余計そうなるんです」
118(15):2006/08/04(金) 13:51:08 ID:iYKzSl/l
●「精神的には世界記録破ったV7の方が苦しかった」


─4連覇、5連覇と続いていって、10連覇というのは一つの節目と考えてやっていたんですか。

「途中は4連覇とか6連覇とかの記録に追いつけ、追い越せとか。
6連覇したときに世界タイに並び、で当然新記録狙おうと。
その頃から日本のマスコミにも騒がれだしてきたんですよ。
自分の中では精神的には7回目ぐらいの方がしんどかったですよ。
世界記録というんで。自分で勝手にプレッシャーかけちゃって。
8連覇、9連覇はおまけみたいなもんですから」

─10連覇の時、直前に怪我をしたでしょう。どこを怪我したのですか。

「肋骨を7本ぐらい折っちゃったんです。練習中に。
宇都宮の記念レースで優勝して帰ってきた次の日だったんです。
目の前でどーんと落っこちた選手がいて、それにひっかかって落車し、肋骨が肺にささったんです」

─それはいつなんですか。

「5月の21日ですからね、それで世界選は8月の中旬ですから。
6月いっぱい入院してたんですよ。
で、7月の後半に全日本選抜があるんで練習やってたんです。
調子良かったんですよ。7月の後半にはバリバリ戻ってて。
ところが、全日本選抜の2日前ぐらいに、落車に巻き込まれ、また肋骨がはずれたんです。
無理してでも走るって言ったんですけど止められて。
それで休んだんですよ。
そのままリハビリして、トレーニングを始め、世界選会場のアメリカのコロラドスプリングスに行ったんです」

─でも、やはり調整不足?

「欲を言えば、あと1週間あればもっといいタイム出せたなという気はしますけど」
119(16):2006/08/04(金) 13:51:50 ID:iYKzSl/l
─あの時スポーツ新聞は相当騒ぎましたよね。
 中野大丈夫かと。

「そうですね。
一般紙にも入院した時、再起不能かって書かれましたけどね。
肋骨骨折っていうのはそれほど深刻な怪我じゃないですからね。
ただ気胸だったんで、あと1時間ほっといてれば死んでたみたいですね。
肺やられたんで、ほっといたらだんだん心臓の方に移動しちゃうらしいですよ。
空気入ってくるでしょ。押されて。
だから速く穴あけなきゃいけないと。
切られるとヒューッと空気が漏れる音がしましたよ」

─それで世界選ですか。

「まだ痛かったですけどね。
アメリカのコロラド・スプリングスって
高地でタイムが出やすい所なんで、皆記録狙うわけですよ。
僕もタイム狙いたかったんですけど、思い切って踏めない。
コーナーを回れないんで調子があとひとつ。
で、もういいや、もう痛いもはずれたもないだろうと。
思い切ってやるしかないだろうと開き直って走ったら痛くなかったんですよ。
あれ痛くないやと思ったら急に元気になっちゃって」

─で、まず1回戦勝って。

「スプリントっていうのは予選がタイムレースなんですよ。
200mのタイム計るんです。
で、そのタイムのいい順にシードされて組み合わせが決まっていくんですけど。
僕のタイムが世界記録だったんですよ、当時は。
僕が1位でしたから一番弱い選手と走るんです。
一番弱いのは11秒2とか3かかってるわけですよ。
で、もう弱いって分かってるからプレッシャーもないし」
120(17):2006/08/04(金) 13:52:36 ID:iYKzSl/l
─優勝するためには何回ぐらい勝たなきゃいけないんですか。

「予選勝ってしまえば、タイムとって1回戦走って。
プロはそんなに人数多くないんで、次がベスト8なんですよ。
それで3回戦ですから2回戦で2回、準決勝2回全部で8回ぐらいですね。
最低で8回。途中で負けたりすると敗者復活でもっと増えますけど」

─コロラド・スプリングスでは、タイム的にかなりいけるなという感じになったわけですね。
「予選でタイムとった時にこれなら大丈夫かなと。
それともう一つ時間が薬みたなもんで、
後半になればなるほど調子よくなっていきましたんで」

─関係者、ファンとかが大丈夫かなと騒いでいた時に本人はもういけるんじゃないかと。
 プレッシャーはあったでしょうけど。

「最後はそれほどでもなかったですよ。
ただ、どうしても勝たなきゃいけないというので。
怪我した時にいろんな人に世話になってますから。
世話になりっぱなしなんで、勝つことが一番の恩返しですから」

─10連覇を達成した時はさすがに嬉しかったでしょうね。

「そうですね。僕はそのアメリカ大会で最後と決めてましたから」
121(18):2006/08/04(金) 13:53:12 ID:iYKzSl/l
●「10年連続で世界のトップを続けた例はないですね」


─10連覇をしたことによって、10連覇の中野、中野の10連覇っていうことになるでしょうし。
 10年連続世界一っていうのは凄いですよね。

「今の方が評価上がってますね。
段々わかってくるじゃないですか。
やっている時っていうのは、それほどよくわからないみたいこともありましたけど。
今はなかなか世界で勝てないからよけい皆さんそう思われるのかも知れません」

─日本人のアスリートで世界を相手に10連覇したっていうのは中野さんだけでしょうね。
 他のいろんな競技を見渡しても。

「そうでしょうね」

─自転車競技が日本でもっとメジャーだったら、
 中野さんが自転車の世界だけじゃなくて日本人全体の中でもっとメジャーになっていてもおかしくない。
 そんな大変な記録ですよね。

「まあ、そうなんでしょうけど。
自分で言うのも変ですが。
でも、だから楽っていうのありますね。
ただ、自転車業界のために自分を役立てたいなとはいつも考えています。
どうやって役立てるかの問題はありますが」
122(19):2006/08/04(金) 13:54:04 ID:iYKzSl/l
─自転車競技の発展のために大いに貢献してほしいですね。
 そうじゃないと、もったいない気がします。
 自転車競技、自転車の世界がもっと拡がっていくためには何が足りないんでしょうか。

「競輪界で一番いけないのはファン不在の中でいろいろやることなんですよ。
まずファンがいて、それから選手がいるんですよ。
まず選手がいてっていう風に勘違いしている人もいる。
ファンがいなきゃ選手なんていたってどうしようもないわけです。
指導者の人達も次の世代の人達にいいものを残してあげようとか、
いい形にしてあげようという意識をもっと強く持つ必要がありますね」

─中野さんが指導者になるシステムとかってないんですかね。

「システムとしては難しいんです。
競輪の話にもどりますが、一番いけないのは商品の新陳代謝が少ないからだと思うんですよ」

─商品?

「要するに選手ですよ。
競輪界は年間75人しかとらないですから。
75人ということは20年たっても1500人ですよ。
20歳だった選手が40歳になって1500人入れ替わったとするでしょう。
今、選手が4000人弱いるわけですよ。
全員入れ替わるまでには30年以上かかることになります。
30年ていうことは20歳だった選手が50歳ですよ。
50歳になった選手がいつまでも走っていることがプロスポーツとしてはおかしいということです。
やはり、20代後半から30過ぎたら若い選手に後から押し出されて危ないよ
というぐらいの危機感持たせて回転しないといけない。
そうしないといいものは生まれてこないし、
スピード感溢れるいいレースが出来ない。
たまにね松本整とか滝沢正光とか、もう引退されましたけど高原永悟さんみたいな
凄い選手が頑張っているのはいいと思うんですよ。
でも、全員がそういうのはおかしいですね」
123(20):2006/08/04(金) 13:54:45 ID:iYKzSl/l
●「護送船団方式では発展性がない。もっと厳しさを!」


─護送船団はまずいと。

「そうです。
特異な才能があったり、特別な素質があったりして長年、頑張ってる人がいる。
そういう鉄人っていうのは評価すべきであって、残っていてもおかしくない。
でも全員が鉄人にはなれない。
どんどん新しい選手を入れないと。まだ多少青くたっていいですよ」

─世界のケイリンにするために新しい競技規則をつくりました。
 それで日本の競輪が変化してきましたね。
 昔の競輪の方が野生味があって面白かったという人がいますが。

「世界のケイリンっていうのははっきり言って勘違いですよね、レースの形態にしても。
今いろんなルールつくってますけど、
もっとトップクラスで走ったことのある人達の意見を聞くようにしないと。
時速60キロのスピードしか出せない人が
70キロのスピードのところのルールをどうのこうの言うのはどうなんでしょう。
机の上だけの計算では分からない面がありますから。
実際に70キロで走った人の意見とか、いろんなところからの声を聞いて、
それでもって机の上で決めるのはいいのですが」

─たとえば野球なんかでも長島、王とか超一級の人達の発言力っていうのは大きい。
 とにかく面白い野球をつくろうということでしょう。

「そうですよね。
プロ野球なんかでも確かに現役時代は凄くなくても指導者として立派な人もいますけど、
大半は現役時代にそれなりの名声を残した人達じゃないですか。
名選手必ずしも名監督にあらずと言いますけど、
まわりで上手くサポートする人達がいるとかなりいい組織になりますよね」
124(21):2006/08/04(金) 13:55:35 ID:iYKzSl/l
─もっと闘争心、バイオレンスなものが表に出せるようなレースが増えるとファンは喜ぶんでしょうね。
 弱肉強食のレースが本道でしょう。

「どの作戦が上手くいくのかなっていうチョイスだけになってます。
そうしないとお客さんが分からないという人もいるわけですよ。
でも、誰も作戦がなかったら取り敢えず何を基に予想するかというと
脚力だし、性格だとか、知能とかです。
それが予想になるじゃないですか。
僕はそれで充分だと思うんですけどね。
その方がお客さんも楽しんで買えるし、失敗しても文句いう人少ないですよ」

─野球でもピッチャーが次にカーブ投げるとかシュート投げるとかって教えませんからね。
 何を投げるのかわからないから面白い。

「そうですよ。
要はカーブ投げられないからストレートでいいよと
160キロで投げられたら打てないっていうようなもんですよ。
80キロで走るから作戦関係ねえやって言っちゃえばいいわけだから。
そして、、それを行けないように何とかブロックしてあいつらうめえな
という話になるわけですよ。
そういう競輪の原点に返らないと」

─闘争ですよね、もっとスリリングなレース。そして、もっと世界で勝てる選手が出現すれば。

「世界で勝つためにはなあなあで走ってたら勝てないですから。
今の日本の競走、今の競輪が昔より楽なんですよ。
ご覧になっててわかると思うんですけど、
今の競争って1周ぐらいしか踏まないじゃないですか。
昔は1周半から2周ぐらい目いっぱい踏んでたんですよ。
要するにタイムがもっと速かったんです。全体的に。速いスピードの中から動きだすんです。
今は1回落とすじゃないですか。
だから一生懸命踏んでる距離って短いんですよね」
125(22):2006/08/04(金) 13:56:16 ID:iYKzSl/l
─京都の徹底先行・村上義弘とか、ああいう選手が結構いたんですね。

「あんなの当たり前だったんですよ。
村上がジャンぐらいでガーンとふかして行くと、そんなに早く行っていいのかって形になりますけど、
以前はああいう選手いっぱいいたんです。
滝沢だってあのぐらいでどんどん行っていたんですよ。それで逃げ切っちゃう。
今の選手はなかなかそれができない。
そういうところが世界で通用しなくなった原因なんですよ。
だから僕は世界で勝てるんだったら日本でも勝てるよって言ってるわけです」

─アスリートだったら常に厳しさを追求し、ハードルを高い所においてやらなきゃいけないんでしょう。
 中野さんもそれをやってきたわけですよね。練習とか努力とか今の若い選手はどうなんでしょうか。

「僕らが口酸っぱくして言うのは、
基本的には自転車で競争するわけだから自転車に乗って練習するのは当たり前だよと。
今はウエイトトレーニングとか他のトレーニング方法とかたくさんありますから、
それも取り入れたいということで実際に自転車に乗ってる時間がどうしても昔に比べると少ない」

─もっと自転車に乗る時間を増やせということですね。

「人によるんですけどね。
でもこれからっていう選手はウエイトトレーニングとかで筋肉つけるよりも
自転車に乗って筋肉つけるように言いたい。
自転車に乗っていてつかない筋肉があるんだったら他のトレーニングでつけるとかね。
でもその筋肉を上手く自転車で応用できるように常時自転車には乗っていなければいけない。
筋肉だけで速く走れるのならばボディビルの選手は速いのかというとそんなことはない。
パワーを上手く自転車に使えるということが必要なわけで、
僕が乗り始めから速かったのはそこの技術があったっていうことですから」

─トラック競技に関わらず自転車競技全体を見渡してみて僕らが一番考えるのは、
 自転車に乗る人がもっと増えて、そういう中から頂点の人が出てくればいいということですね。

「裾野が広がれば広がるほど山は高くなりますからね」
126(23):2006/08/04(金) 13:56:59 ID:iYKzSl/l
●「競輪は優勝劣敗を鮮明にして賞金にもっと格差をつけろ」


─そのためには何が足りないんでしょうね。

「日本では山が多いので自転車競技はちょっと苦しいかなというのあるかと思いますけど、
高校でも自転車部が段々少なくなってきているそうです。
その辺が非常に将来的に不安ですね。
しかし、逆に頂点が引っ張っていくっていうのもあると思うんですよ。
野球やサッカーなんかをやりたい子供がたくさんいるっていうのは、
やはりイチローがいたり、松井が年俸10億だ何億だって出てるとああなりたいっていう子供が増えてくるし」

─やはり現役でやっている人がもっともっと頑張ってほしい。

「競輪は選手の数がプロスポーツの中では一番人数多いんですね。
だけど全体的にあまり差のない年収なんです。
これじゃ駄目なんで、トップは10億円いってもいいし、
勝てない選手は200万、300万でも仕方がないというほうがいい。
上の選手には賞金を厚くしたら頑張りがいもある。
それがプロスポーツです。
競輪をプロスポーツとして繁栄させるためには、もっと厳しさを出さないと」
127(24):2006/08/04(金) 13:57:39 ID:iYKzSl/l
─中野さんが引退を決意した時っていうのはどうなんですか。
 高松宮杯で2着というのが最後のレースでした。まだまだやれるんじゃないかと惜しまれながらの引退でしたが。

「年齢的に36だったんですけど、プロスポーツの世界で頑張るにはそろそろ限界かなと。
それと自分の力で100%勝つということが出来なくなってきたんです。
競輪ですから、他の選手の力っていうのを利用して勝っていたんですけど」

─要するに先行、自力でなかなかいけなくなったと。

「僕は元々あまり先行はしてませんでしたけど、
自力でなんとかするというのが段々前が駄目だったら一緒に駄目だということが多くなってきた。
そこでやはりファンに対して申し訳ないと思いましたね。
それから競輪だけが人生じゃないだろうと。
何かやるんだったら若いうち、いろんな意味で自由が利くうちにいろんな事をやってみたいと考えたわけです。
それからその頃からTV放送が頻繁になってきたんです。
プロ野球の世界は現役を辞めたら解説の仕事があったり、コーチや監督の仕事があったりとしますけど、
競輪は基本的に辞めたら何もない。
ですから解説とかそういう道筋も作りたいと。

─男の美学みたいなのもありましたか。頂点でやめるという。

「世界選手権の時もそうですし、まだ余力を残して辞めるという考えはありました」

─中野さん以前は競輪選手やってて一般のマスコミに出てくる人ってほとんどいませんでしたよね。

「出てくれっていわれても嫌がった人もたくさんいたみたいですけどね。
福岡県人はどっちかって言うとミーハーが多いって言いますけど。
自分も現役の時、取材とか報道のことって嫌いじゃなかった。
そのことによってたとえば練習が足りなくなり、大変だなと言われることが多かったんですけれども、
やることはやってきたという思いは自分の中にありました。
そういった意味でももういいかなと。
今までと違う形で競輪界をもり立てていこうと思いまして」
128(25):2006/08/04(金) 13:58:14 ID:iYKzSl/l
●「世界に通用する選手育成のお手伝いをしたい」


─引退して何年たちますか。

「もう12年になりますね、走っていた時期とかわらなくなりますね。走っていたのは17年ですから」

─今後、何かやりたいことってありますか。

「やりたい事というよりはやらなければいけないだろうというのはあります。
世界でメダルを獲れるような選手の育成でしょうか。
僕は育てたいとはいいませんけど、それをお手伝いしたい」

─今、中野さんの目から見て、いい選手いますか。

「いいものを持っている選手はいます。
あとはそれをどう生かすかということです。それをもっと磨く方法です。
知らないうちに力がつくっていうのが一番いいわけですよ。
そういう意味では日本では競輪年中やってますから、
競輪競争やっていて勝てるようになったら他の自転車競技種目でも力がついてきたというのが一番いいんですよ。
だから先ほども言ったように競輪競技をもっと厳しく、
勝つためには非常に脚力が必要な競技に変えていくというのが早道だと思います。
そうすれば海外に出ても大したことないやと思えるんじゃないでしょうか」

─競輪と他の自転車競技を別物の練習だと考えると大変ですよね。

「一番簡単なのは普通にやっていてなんか俺強くなっちゃったよみたいなことかな。
だからレベルの高いところで練習やってると、
もとのレベルの低い所に戻っても知らない間に自分だけ強くなってるんですよ。
レベルの高いところに合わせようとトレーニングしてるから。
だから日本の競輪全体をレベルの高いものにしていけばいいわけですよ。
それは規則次第でどうとでもなると思う」
129(26)FIN:2006/08/04(金) 13:59:28 ID:iYKzSl/l
─好きな言葉とか信条は。

「特にないんですけど、色紙に書くんだったら初心忘れるべからずですかね。
やはり選手になりたいと思った時の気持ちを思い出さないと練習も我慢できないとかね。
勝ちたいと思った気持ちが大切です。
やはり競輪学校で強くなりたいと思ったのが一番最初、原点だと思います。
どんな形にせよ、競輪選手になるって決めて入ったわけですから。
そこで強くなりたいと思って練習してたわけですから。
その後、選手になって、
いろんな人に出会って、そういう中から勉強して、どんな人と知り合うかというのは非常に大きな問題です。
僕の一番の財産は人脈かなって思います。
これも自転車をやっていたお陰です。
とにかく若い選手もどんどんチャレンジしてほしい。
競輪と世界の両方に目いっぱい頑張って実績を残し、世間の注目を集めてほしいですね」


■中野浩一(なかのこういち)
55年11月生まれ。48歳。
福岡県八女工業高校卒業。
75年、久留米競輪デビュー。
いきなり18連勝を飾る。
81年のダービーなど特別競輪優勝回数12回。
ミスター競輪と呼ばれる。
77年のサンクリストバル世界選手権自転車競技大会の
スプリント競技で優勝し、
その後、前人未踏の10連覇達成。
92年引退。
生涯優勝回数は666回。
現在、スポーツコメンテーターとして活躍中。