「エビちゃん……起きろよ、エビちゃん」
聞き覚えのある声が、蛯名の耳に届いた。
「……ヨシトミさん」
自分はいつの間に眠っていたのだろう。
蛯名が検量室の床の上で目覚めた時、外の景色は夜に変わっていた。
そして蛯名の傍らには、同僚の柴田善が、今にも泣きそうな顔で蛯名を見つめていた。
ゆっくりと上体を起こし、周囲を見渡す。
秤と荷物が撤去された室内には、騎手十数名の姿があった。
皆、眠りから覚めたばかりらしく、蛯名と同様に周囲を見回している。
一体、何が起きたのだろう?何故俺達は、ここに居るのだろう?
誰もが困惑と不安を隠しきれずにいた。
「なあ、エビちゃん……何が、どうなってんだ?」
柴田は、目に涙を溜めて不安を訴えた。
蛯名は「大丈夫だ」と言いかがったが、出来なかった。
自分自身、現状が怖くてたまらなかった。
そう、嫌な予感がする。
何度も噂で聞いた、『あれ』の状況によく似ている……
突然、施錠されていた検量室の扉が、開いた。
そして、銃を携えた兵隊の様な連中が十数人、入って来る。
兵士達は確定順位を書くホワイトボードの前に整列すると、銃を騎手達に向け、構えた。
いつでも発砲できる体勢だ。
まさか……
コツ、コツ、と、兵士達とは違う、軽い足音が聞こえた。
教室に入って来たその足音の主は……尾形調教師だ。
尾形は台に上に立つと、いつもと変わらぬ嫌味な笑顔で、話し始めた。
「ようこそ諸君。まさかこれだけの人間が集るとは、このワシも予想出来なかったがな」
相変わらずの高慢ちきな口調だ。
しかし、今日は普段にも増して、自信に満ちているようだ……蛯名にはそう映った。
そして尾形は、室内をぐるりと見回すと、衝撃的な一言を言い放った。
「今日はこれより、諸君に殺し合いをしてもらう!」
室内の全ての空気が止まった。
「諸君は、『プログラム』に選ばれたのだよ」
蛯名の悪い予感が、的中した。
柴田は、ギュッと蛯名の腕を掴んで、震えていた。
誰かが、うっ、とうめいた。
【残り18人】
『プログラム』
それは、魔の計画。
近年、技術の進歩はクローンを生み出せるまでに至っていた。
クローン技術によって往年の名馬とまったく同じクローンホースを秘密裏に誕生させ、
(もちろんそれを一般に悟られないようにDNA鑑定などは偽装工作を行う)
育成しレースに出す、そして世界の競馬を日本競馬界が席巻する。
……そして一環として考案されたのが、この計画だった。
最強馬に見合う「全てにおける強さ」を持った騎手だけを選抜する。
数年前から、この計画は関係者の間で噂されていた。
しかし、実行される確立はゼロに等しいと言われていただけに、騎手達はすぐには信じられなかった。
お、ちょっと面白いかも。
続けてくれ。
「おい、冗談じゃねぇぞ」
張りのない、群馬訛りの声が響いた。
騎手界一の権力の持ち主、岡部幸雄だ。
「俺のために最強馬を用意するというならともかく、俺に戦えだと?正気なんか?」
岡部は嘲笑を込めて異議を唱えた。
そもそも、このプログラムの指揮権が尾形調教師にある事に、理解が出来なかった。
普通なら、政府や農林水産庁の担当者が赴いて、ここで説明するだろう。
ここに居る兵士達も、おそらくテレビ局の用意したエキストラの面々。
驚かせておいて、実は「ドッキリでした!」とでも言うのだろう……そう思っていた。
しかし、現実は残酷だった。
「そうか……岡部くん、君はまだ、信じられない様子だな。では、信じられる物を用意しよう」
尾形は表情を変えずにそう言うと、指をパチン、と鳴らした。
部屋の扉が開き、藤澤調教師と森調教師が『何か』を載せたベッドを運んできた。
ビニールシートの下の『何か』からは、少し生臭い匂いがした。
「見せてやれ」と尾形が言うと、藤澤がそのシートを外した。
一瞬の静寂。
そして次の瞬間、岡部と蛯名が絶叫した。
「ま、ま、マサトーーーー!!」
「……的場さあああんっ!!」
二人の叫びが、一瞬にして全員の悲鳴へと変わる。
そこに有ったのは、柴田人師、的場師の『なれの果て』だった。
まるで操り人形を投げ捨てたかの様に関節は捻じ曲がり、
頭蓋骨は陥没し、両目も潰されていた。
「マサトー!マサトー!!」
岡部は泣き叫びながら、戦友の亡骸に近付こうとする。
しかし次の瞬間、兵士達が一斉に岡部に向け、銃を構えた。
それに気付いた北村が、慌てて岡部を羽交い絞めにして、引き止める。
「岡部さん、駄目です!今行ったら、岡部も殺されちゃうよ!」
「でも、マサトが!まさ……と……が……」
岡部はその場にヘナヘナと座り込むと、声をあげて泣いた。
泣くことしか、出来なかった。
そしてその光景は、騎手達に現実を認識させるのに、充分だった。
騎手を育成するのになぜ柴田と的場を?
尾形が説明を続ける。
「このふたりは、私達同様調教師という立場だった。
本プログラムの推進のために、計画への協力をお願いしたんだが、断られてね。
その結果が、これだ。素直に協力すれば良いものを……」
死臭が室内を満たしてゆく。
それはまさしく、絶望の臭いでもあった。
尾形は胸元から政府印の押された封書を取り出すと、その中の文書を事務的に読み始めた。
いわゆる『宣誓文書』だ。
「……本プログラムは、日本国政府の完全管理下のもと、競馬界の運営者代行である
日本調教師組合、日本馬主組合によって執り行われるものとする旨を、ここに通達する……」
宣誓文書など、誰も聞いてはいなかった。
ただ、殺戮の海に放り込まれた事実を受け止める事しか、出来なかった。
自分達を庇ってくれた(であろう)1000勝ジョッキーでもあった二人の調教師が、
あっけなく殺された。
こんな理不尽な殺人さえ、許されるのだという。
いや、理不尽な殺人劇は、これから始まるのだ。自分達の手によって……
どうする?どうすればいい?ここから逃げ出す方法は無いのか?
誰もが、戦うことなく生き延びる方法を自問自答していた。
と、その時、尾形が宣誓文書を読むのをピタリと止めた。
「……どうやら、ワシの話を聞いてくれない者が、いるようだな」
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全員が、肩をビクッ、と震わせた。
今ここで彼に逆らうことは、死を意味している。
……まさか、聞いていないのを悟られたのでは?
騎手達は、恐る恐る尾形の視線の先を辿った。
尾形が見ていた先……そこには、四位と藤田の姿があった。
四位はまだ睡眠薬が効いているらしく、眠ったままだった。
それを藤田が必死になって起こそうとしている。
「……起きろ、起きろよ。寝てる場合じゃないんだってば……」
藤田は、尾形を刺激しないように、小声で呼び掛けながら四位の肩を揺すっていた。
その呼びかけに応じたのか、四位がようやく目を覚ます。
「そーだね……あら?みなさん。おはよう。どこ、ここ?」
まだ現状を把握していない彼の一言が、部屋中に響き渡った。
誰かの呟く声がした。
「……だめだっ!」
次の瞬間、尾形は小さなリモコンの様な物を取り出すと、四位に向けてそれを「ピッ」と鳴らした。
ピピピピ、ピピピピ……
何処からともなく、アラーム警告音が聴こえる。
「うるせーな、誰か、時計とめろよ? 今日は全休日だろ……」
まだ寝ぼけているのか、四位は緊迫した現状に気付いていなかった。
「なに言ってんのだ、四位!今はそれどころじゃ……四位?」
藤田は、異変に気付いた。
警告音の発信元が、異常に近いのだ。
しかもそれは、四位の体内――頭の中から聴こえている。
「まさか……尾形先生!四位に何をしたのだ!?」
藤田の追及に、尾形は落ち着いた調子で答える。
「四位くんに限った事ではない。君達には、眠っている間に、『装置』を埋め込ませてもらった。
なあに、最新技術を駆使したマイクロサイズの物だ。特許は竹園さんがもっている。
違和感は感じないだろう?
それから、これには位置特定の為の発信機と、自爆装置がセットされている。
指定の制限時間をオーバーしたり、プログラムの進行を著しく妨害した場合には……」
「場合、には……」
藤田は、唾をゴクリと呑んだ。まさか……まさか、そんなことって……
そして、一番聴きたくない言葉が、尾形の口から発せられた。
「爆発する」
ピピピピピピピピ……
警告音の間隔が短くなってゆく。
悪魔のカウントダウンに、静かだった教室が再びざわつき始めた。
しかし、当の四位本人は、まだこの危機的状況に気付いていなかった。
「みんな、起きてるじゃんかよ……早く時計は止めろよ!」
藤田はパニック寸前だった。
親友の命が、あと数秒で消えてしまうかもしれない。
しかし、自分にはそれを止める術が無い。
「四位……四位……」
藤田は、とっさに四位の両手を強く握った。
涙がこぼれ落ちて、止まらない。
その涙が、四位の頬へと落ちて行く。
「ずっと……ずっと、友達だぞ……」
まだ通常の判断力が戻っていない四位には、何故藤田が泣いているのか、解らなかった。
しかし、「友達だよ」という言葉だけは、はっきりと聞こえた。
「そーだね、もちろんだよ、俺と田原さんと藤田さんで世界を獲るんだ……」
四位は、いつものように微笑んだ。
その直後――
ぱんっ、という音とともに、四位の側頭部が弾けた。
藤田の顔が返り血を浴び、真っ赤に染まる。
瞬間、部屋中が再び悲鳴に包まれた。
人の命が奪われた瞬間を目撃した以上、それは二人の調教師の時とは比較にならない状況だった。
「オメーら!静かにしねーか!」
尾形の忠告も、もはや届かない。
ある者は泣き叫び、ある者は気を失い、ある者は何度も嘔吐を繰り返した。
そんな混沌とした中、藤田はゆかりの手を握ったまま、動かなかった。
いや、動けなかった。
呆然としたまま握っている四位の手には、まだ、温もりが残っていた。
「あったかいよ、四位……」
【残り17人】
「威嚇射撃!」
尾形の号令が飛んだ。
それに合わせて、兵士達が一斉に床へ向けてマシンガンを発射する。
ただならぬ轟音とともに、床面のコンクリートが削られ、破片が宙に舞う。
圧倒的な『実弾』の恐怖。
その威力の前に、泣き叫んでいた騎手達の動きが一瞬にして止まった。
そして、数秒間の掃射が終わる直前――
床に跳ね返された弾の一発が、横山典の左膝をかすめた。
「痛っ!」
横山は傷口を押さえ、その場にうずくまった。
「――ノリちゃん!!」
その様子を見た蛯名は、慌てて横山のもとへと駆け寄る。
「大丈夫か!?ノリちゃん!」
蛯名はそう言うと、ポケットからハンカチを取り出し、それを横山の膝へと巻き付けた。
「大丈夫。かすり傷だから……ありがとう」
横山典は苦痛に顔を歪めながらも、蛯名に礼を言った。
確かに、弾は膝をかすめただけだった。
あと数ミリずれていたら、確実に骨を砕き、歩く事さえ出来なかっただろう。
しかし、弾を受けた際の痺れと出血は、普段の『かすり傷』とは比較にならないものだった。
教室が『一応の』平静を取り戻した所で、再び尾形が話し始める。
「まったく、諸君らは……これ以上、ワシの手で参加者を減らしたくないのでね。
しかしまぁ、驚くのも無理はあるまい。 」
この時、蛯名は状況を整理し、理解するのに必死だった。
自分は『プログラム』に選ばれた。
間違いなく、『あの馬』をめぐる戦いだ。
ここにいる騎手達と、命を賭けて。
競馬界で見慣れた人や、競馬学校時代の友人……
今、隣で震えている柴田とも、戦うかもしれない。
そんな、そんなこと……わからない、どうすりゃいい……
冷静な判断をする為に、現状を整理するつもりだった。
しかし、考えれば考える程、気持ちは混乱してゆく。
誰か、助けて……
だが、そんな蛯名の願いを無視するように、尾形の宣誓が響き渡った。
「ではこれより、プログラムを開始する!
制限時間は三日間。東京競馬場全域が戦闘エリアとなる。
勿論、一般人の立ち入りは禁止している。
全ての馬主にも既に連絡済だ。後悔の無い様、思う存分やりたまえ!」
【午前1時 プログラム開始 残り17人】
出発は、最初のひとりがくじ引きで選出され、それ以降はランダムだった。
森が用意した箱の中に尾形が手を入れ、1枚の紙を引く。
「それでは、最初に出発する者の名前を発表する……安藤勝くん」
全員の視線が、彼に集中する。
参加者中唯一、中央以外からの参加者だ。
「は、はいッ!」
自前の勝負服に身を包んだアンカツは、上ずった声で返事をし、立ち上がった。
そして、顔を強張らせながら部屋の出口へと進む。
その彼の右手には、愛用の鞭がが握られていた。
尾形がその姿を横目で見ながら、参加者にプログラムの説明を行う。
「私物の持参は自由だが、くれぐれも『お荷物』にならないよう、注意したまえ。
それから、出口で支給するデイパックには、武器がランダムで入っている。
有効に活用し、円滑にプログラムを進めて貰いたい。以上だ」
アンカツは出口でデイパックを受け取ると、部屋内へ向き直り、深々と一礼をした。
そして、一目散に外へと駆けて行く。
次の生徒の騎手は2分後だ。
皆一様に怖がっていたが、中には「やる気」になっている子がいるかもしれない。
特にアンカツの場合、参加者は皆、よく知らない者ばかりだ。
心を許せる人間が居ないことが、彼の不安感を更に増大させていた。
早くここから離れなければ……
その言葉だけが、アンカツの心を支配していた。
教室では、2番目に出発する騎手の名が呼ばれた。
「それでは、……江田照くん」
江田は「はいっ」と返事をして立ち上がったものの、一歩が踏み出せない。
「江田くん、早くしたまえ」
尾形は冷徹に、出発を促す。
「はい……」
江田は覚悟を決めると、夜の闇へと走り去って行った。
出発の点呼は続く。
次いで、藤田の名が呼ばれた。
しかし、藤田は何の反応も示さない。
あの時からずっと、四位の手を握ったままだ。
「藤田くん、早くしたまえ。
このままだと、プログラムの進行を阻害するものとして、君を排除することになる」
尾形から最後通告が発せられた。
それに反応するように、ようやく藤田が動き出す。
藤田の手から、四位の手が離れた。
「四位……じゃあ、行って来る。待っててくれ……」
藤田は俯いたまま、返り血を拭う事もせず、ゆっくりと立ち上がる。
そして、教室の出口ではなく、尾形の居る教壇へと向かった。
数秒後――
パシッ、
藤田の鞭がが、尾形の頭を捉えた。
兵士達が一斉に藤田に向け銃を構えるが、尾形がそれを制止する。
尾形は叩かれた頭を押さえつつ、じっと藤田を見た。
藤田の瞳は、さっきまでの無気力さが消え、怒りに満ちていた。
「絶対に……絶対に、許さないからな!」
藤田はそう言い放つと、足早に出口へと向かう。
意外なことに、尾形は藤田を咎める事もせず、ただじっと藤田の様子を見ていた。
出口へ向かう途中、再びシートが被せられた二人の調教師の死体の前で、藤田は足を止める。
この二人は俺達、現役ジョッキーをかばってくれた、それでこんな目にあった。
田原さん、アンタは、アンタはかばってくれなかったのかよ・・・・。
「・・・畜生め」
藤田はそう呟くと、デイパック受け取って教室を去って行った。
その後の出発は順調だった。
順調といっても、”藤田に比べたら”というレベルではあったが。
目眩を起こして倒れていたミキオは、歩くことがやっとだった。
北村も、力無く教室を後にする。
その横山典も、左足を微妙に気にしながら、出発して行った。
一人、また一人と、教室から参加者が消えて行く。
そして、蛯名の番がやって来た。
勿論、行きたくなんかない。
しかし、この場で抵抗しても無駄なのは判っている。
(行くしか、ない……)
名前を呼ばれ、立ち上がろうとする蛯名。
と、その蛯名の右腕を、ヨシトミが掴んだ。
「エビちゃん……大丈夫だよな。みんな、人を殺したりなんか、しないよな……」
柴田善の顔は蒼ざめ、恐怖と不安に震えている。
「勿論……大丈夫だ」
蛯名は優しく語り掛けた。
怖がりで本番に弱い柴田善の心を、少しでも落ち着かせなければ……
「みんな大丈夫だ。そんな簡単に、人を殺すことなんて――」
蛯名がそう言い始めた瞬間だった。
パンッ、パンッ、パンッ、
乾いた銃声が、外から聞こえてきた。
残っていた全員が、ビクッ、と肩を震わせる。
誰もが信じられなかった。
(まさか、本当に「やる気」になっている奴がいる!?)
「嫌だ……こんなの、嫌だあああっ!!」
柴田善は耳を塞ぎ、激しく首を横に振る。
蛯名の言葉に、わずかでも希望を持とうとした矢先の銃声。
容赦ない現実が、ヨシトミの希望を一瞬にして打ち砕いていった。
「……入り口で待ってるから!」
蛯名はそう言い残すと、デイパックを受け取り、部屋を出た。
恐怖に震える柴田善を、このまま放っておくことなど出来ない。
だからといって、迂闊に外で待ち合わせるのは危険だ。
さっきの銃声は、地下馬道入り口の辺りから聞こえてきた。
標的にされる可能性が高すぎる。
次に出発するのは、柴田善。
あそこで待っていれば、安全かつ迅速に柴田善と合流出来る筈。
ヘルメットだけ取りに行って、裏口から出よう……
蛯名はそう考えた。
しかし、それが悲劇の始まりだとは、この時、蛯名は知る由も無かった。
入り口に、人の気配は感じられなかった。
地下馬道までの十数メートルの間にも、動くものは見当たらない。
蛯名は慎重に周囲を警戒しつつ、荷物置き場へ向かった。
まずヨシトミのヘルメットを回収し、次いで自分のを回収する為に。
だが、自分のヘルメットに手を伸ばした時、蛯名はふと思った。
そうだ。
何故わざわざ、ヘルメットを取りにここへ来たのだろう。
今は非常時だ。
悠長に勝負服を替え、騎乗装備を調えて殺し合いをする人なんて、居やしない。
一刻を争うというのに、どうして、こんなことを……
危機感の欠如
それは、参加者の誰もが同じだった。
火事や地震と違い、殺し合いという状況に備えている人間などいない。
しかも、今まで出発した参加者には、主催者である尾形たち以外への殺意は、感じられなかった。
誰も人を殺すなんて、出来やしない。
とりあえず外へ出れば、何とかなるだろう。そう思っていた。
だが、そんな淡い期待は、さっきの銃声によって打ち消された。
信じたくは無いが、既に殺し合いは始まっている。
とにかく、ここまで来てしまった以上、早くヘルメットを取って戻ろう――
防具になるかも知れない。
蛯名は心の中でそう呟くと、ロッカーから自分のヘルメットを取り出した。
その時だった。
カチッ、という金属音とともに、何かが引っ掛かる感触が伝わって来る。
このロッカーの構造上、引っ掛かる物があるとは思えない。
嫌な予感がした。
暗がりの中、蛯名はロッカーの中を覗き込む。
そこには、ガムテープで固定された丸い物体が、一つ。
そして靴には針金が巻かれ、その先には
ピンを思わせる金属部品が結び付けられていた。
――手榴弾だ!
しかも、ヘルメットを取り出したことにより、ピンは外れている。
仕掛けた人物を詮索する時間など無い。
蛯名は全速力で、その場から立ち去るべく走り出した。
だが、運命は脱出を簡単に許してはくれない。
走り出した彼の眼前に、突然、人影が現れた。
肩がぶつかった。
足がもつれ、蛯名は廊下へと倒れ込む。
バッグと靴が、勢い良く床を転がって行った。
……誰だ!?
蛯名はロッカーの方向へと振り返る。
そこには、虚ろな目をした若い男が、ぼんやりと立ち尽くしていた。
「渡辺・・・・・。」
沖調教師の秘蔵っ子として、またへタレとして栗東では有名な騎手だ。
しかし、今の渡辺には、普段の明るさは微塵も感じられない。
当然だ。
今は殺人ゲームの真っ只中なのだから。
……だが、それ以上に、今の渡辺は様子がおかしい。
渡辺は腹部を手で押さえている。
そしてその手は、赤黒い血液に濡れていた。
「えびなサン……撃たれちゃったヨ。どうしよう……」
渡辺は、声を絞り出すようにして、語り掛ける。
その声は震え、息も荒い。
どんな素人が見ても、致命傷を負っている事は明白だった。
(どうしよう、って……)
蛯名は答えられなかった。答えられる筈もなかった。
手榴弾を発見し、そして傷付いた渡辺と遭遇するまで、ほんの数秒間。
突然すぎる恐怖と衝撃の連続に、蛯名の思考回路はパニックに陥っていた。
「……逃げろっっ!!」
蛯名は咄嗟に叫んだ。
そう、手榴弾のピンを引いてしまっている。
もう時間が無いのだ。
一刻も早く、ここから離れなければ――
そう思い、蛯名は体を起こそうとした。
その瞬間だった。
34 :
名無しさん@お馬で人生アウト:2001/08/21(火) 01:35 ID:wrUC7ezQ
都合によりage
なぜ上げる?
36 :
名無しさん@お馬で人生アウト:2001/08/21(火) 01:36 ID:wrUC7ezQ
大音響とともに、渡辺の背後のロッカーが吹き飛んだ。
強力な爆風とともに、埃や破片が彼らに降り注ぐ。
そして、その中でもひときわ大きな金属片が、渡辺の後頭部に突き刺さった。
「ぐっ」と、渡辺は小さなうめき声をあげる。
それが、彼の最期の言葉だった。
倒れ込み、動かなくなった渡辺の体が、みるみる血だまりに沈んでゆく。
蛯名は震えながら、その血だまりが広がってゆくのをじっと見つめていた。
そうする事しか、出来なかった。
【残り16人】
37 :
名無しさん@お馬で人生アウト:2001/08/21(火) 01:36 ID:wrUC7ezQ
(俺の……せい?)
(俺が、不用意にヘルメットを取りに来たから?)
(俺が、手榴弾のピンを抜いてしまったから?)
(だから……渡辺は死んでしまったの?)
蛯名の心の中に、自責の念が渦を巻く。
あの爆発以前に、既に渡辺は致命傷を受けていた。
自分が何もしなくても、彼は助からなかっただろう。
しかし、直接の死因は、あの爆発にある。
防ぐ事が可能だった筈の、あの爆発。
人を殺した
人を殺した
人を殺した
同じ言葉が、何度も何度も蛯名の頭を駆け巡る。
「違う!あれは……あれは……」
蛯名は頭を抱えて、泣き叫んだ。
気が変になりそうだった。
38 :
名無しさん@お馬で人生アウト:2001/08/21(火) 01:37 ID:wrUC7ezQ
「エビちゃん、しっかりしろ!」
その時、ヨシトミの声がした。
ハッとして、顔を上げる蛯名。
いつしか、蛯名の傍らには柴田善が寄り添っていた。
「……」
「エビちゃん……落ち着こうよ。事故だったんだろ?
渡辺には悪いけど……運が、悪かったとしか……」
そう、確かに渡辺は運が悪かった。
本来なら、今回集められた騎手は腕のいいヤツばかりの筈。
腕でいえば渡辺が選ばれるハズがない。
明らかな名簿の作成ミスだ。
と、ここで蛯名は今の状況に気付いた。
自分は今、ヨシトミに慰めてもらっている。
検量室の時とは、全く逆の立場になっているのだ。 (そうか……俺、強がっていただけなんだ……)
必要以上に張りつめていたものが、段々と緩くなってゆくのを感じた。
緊迫した状況に変わりは無いが、蛯名は少しずつ、冷静さを取り戻してゆく。
「……ありがとう」
蛯名はヘルメットを柴田善に渡すと、自分もそれをつけ、バッグを拾い上げた。
あと30分弱で、ここは立入禁止エリアになってしまう。
早くここから立ち去らなければ……
しかし、ここでまた新たな訪問者がやって来た。
「いったい何の騒ぎだよ、これは……」
そこに現れたのは、武豊だった。
豊は何故か、ゴーグルとヘルメットをかぶり勝負服を着ていた。
「お前……どうしたんだ?その格好」
蛯名は目を丸くした。
確かに、私物の持参は自由というルールだ。
しかし、教室を出た時の豊は、バッグ以外の物は持っていなかった。
「ああ、これ?ちょっとへ取りに寄って、着てきたんだ」
豊は苦笑する。
「どうせなら、最後は正装で死にたいからな……」
最後は――
とてつもなく、重い言葉だった。
豊に戦う意思が無いのは明白だが、この言葉は、彼が生き残る事を放棄するとも取れるものだった。
「豊……お前はは、生き残りたくないのか?『あの馬』に乗りたいとは、思わないのか?」
蛯名が問いただす。
しかし、豊の回答は実にあっさりしていた。
「まぁ、これに参加してる以上、気持ちが無い訳じゃない。
でも、人殺しをしてまで、俺は馬に乗りたいとは思わない。後味悪いからな。それだけだ。
生き残れたらラッキー、ってところかな。」
「なあ、豊俺達と一緒に行動しよう」
蛯名は言った。
「それがいい」
柴田善も続けた。
「それもいいかもな」
豊はそう言うと、渡辺の亡骸に近付き、その体からバッグを引き剥がした。
そして豊は、ポケットから拳銃を出し、構えた。
「むやみに人を信じたら、負けだよ」
それは一瞬の出来事だった。
数発の銃弾が、柴田善の体を貫いてゆく。
柴田善は、痛みを感じるより早く、着弾の衝撃によって床へと倒れこんだ。
「――!!」
蛯名は信じられなかった。
少なくとも、話していた時の豊の雰囲気からは、この状況は予測出来なかった。
だが、これは現実だ。
現に柴田善は、豊の放った銃弾を受け、血にまみれている。
次いで豊は、蛯名にも銃口を向けた。
手を伸ばせば届く程の至近距離だ。
外すことは有り得ない。
蛯名は咄嗟に、自分のバッグを豊の手めがけて振り回した。
豊の手からグロックが弾かれ、床を転がってゆく。
その隙に、蛯名は倒れた柴田善の手を引いて、物陰へと隠れた。
「しっかり!しっかりしろ!」
蛯名は、苦痛に喘ぐ豊に呼び掛けながら、バッグの中の武器を探す。
豊は銃を拾い、再び攻撃して来る筈だ。
時間稼ぎで構わない。彼を足止め出来る武器を……蛯名は祈った。
豊は廊下の端まで転がった銃を拾い上げると、蛯名たちが隠れた物陰へと歩を進ませる。
そして銃撃が始まった。
スチール製のロッカーが、激しい金属音を打ち鳴らす。
蛯名は銃撃の恐怖に震えながら、手にした武器を天井へと掲げた。
パンッ!パンッ!パンッ!
自分の物とは違う銃声に、豊は素早く身を隠した。
4列ほどのロッカーを挟んで、双方が対峙する。
豊が蛯名の出方を警戒している一方、蛯名の心は更に不安を増していた。
どうにか豊を牽制する事は出来たが、それとて一時的なもの。
どうすれば……どうすればいい?
蛯名の手中にあるパーティー用のクラッカーは、ほんの少しだけ、熱かった。
「豊!どうして!?どうして撃った?
人を殺したくないって言ったじゃないか!」
蛯名は豊に呼び掛ける。
時間稼ぎをしたいという思惑もあった。
だが、豊の行動に、どうしても納得がいかなかった。
理由を聞きたかった。
「死にたくないから、やっただけだ。……ナベを殺したんだろ!?
あいつを殺したおまえらを、信用できるわけがないだろう!」
豊は強い調子で言い返した。
誤解している。
「違う!渡辺をを撃ったのは俺達じゃない!
それに、あの爆発も偶然……偶然だったのだ。信じてくれ!」
だが、豊は蛯名の弁明に耳を貸す事はしなかった。
「言い訳なんか聞きたくないね。理由はそれで充分……」
豊が動き出した。
一歩ずつ、足音が近付いて来る。
蛯名は、急いで柴田善のバッグを探り始めた。
もうクラッカーでは誤魔化せない。
今度こそ、武器らしい物が入っていますように……蛯名は祈った。
だが、祈りは届かなかった。
蛯名が手にした武器――それは透明プラスチックで成型された水鉄砲だった。
勝負にならない。
段々と豊の足音が近付くなか、蛯名は今度こそ死を覚悟した。
『あの馬』に跨る事も無く、ここで豊に殺される。
嫌だ。嫌だけど……
蛯名は生き残る事を諦めかけてゆく。
しかしその時、意外な声が玄関に響き渡った。
「おまえら!ここでの戦闘は速やかに停止しろ!」
いつしか、この場所は尾形と兵士達によって包囲されていた。
「まったく、困った奴らだ……ここには大会本部が設置されている。
これ以上戦闘を続けた場合、プログラムの進行を著しく妨害したものとして……」
そして尾形は、『あの』リモコンをポケットから取り出し、掲げる。
思わぬ水入りだった。
豊は悔しそうに唇を噛む。
そして蛯名は、ほっと胸を撫で下ろした。
とりあえず、差し迫っていた危機は回避出来た。
しかし、決してプログラムから解放されたわけではない。
撃たれた柴田善の状況も、予断を許さない。
――と、ここで蛯名は柴田善の異変に気付いた。
さっきまでの苦しそうな息遣いが聴こえない。
何事も無く、静かに眠っている様に見える。
いや、もう寝息さえ立てていなかった。
「……おい?」
嫌な予感がした。
蛯名は慌てて柴田善の手を掴み、脈を測ろうとする。
……もう、鼓動を感じることは出来なかった。
(うそ……嘘でだろ)
蛯名の胸に、悔しさと怒りがこみ上げてくる。
「こんな、こんなことって…………こんなのおかしい!理不尽だ!」
蛯名の嗚咽が玄関中に響き、やがて廊下や階段へと伝わって行く。
その音を聴きながら、豊は荷物を抱え、裏口へと歩き始めた。