馬糞の匂いがした。
眠りから覚め、まだ意識が朦朧としている蛯名の脳裏に、あの日々の記憶が蘇る。
レース当日の朝、あの馬がいる馬房に向かった。
「今日は乗り鞍も少ないし、たまには様子を見てやろうと思って」
最初は、そう言うのが恥ずかしかった。
でも、その後で一緒に食べた干草の味が、それを忘れさせてくれた。
レース前の、ささいな、それでいて素敵な時間。
あの馬房には、いつも馬糞の香ばしい匂いが漂っていた。
……そう。俺はあの出張馬房に逃げ込んだんだ。
偶然鍵が開いていたここに飛び込んだ。
とにかく疲れていた。
いつもの洗い場で水を一口飲んで……そのまま眠ってしまった。
――俺、何時間眠っていたんだろう?
蛯名は時刻を確認しようと、腕時計を見ようとする。
しかし次の瞬間、蛯名は自分の腕を見て驚愕した。
何者かの手によって、両手が縛られている!
そして蛯名は、足にも違和感を感じた。
両足首までもが縛り付けられている。
(何が……どうなってるんだ!?どうして俺は縛られてる?)
蛯名は必死にもがくが、ロープは簡単にはほどけない。
「一体、誰がこんな事を……」
と蛯名が呟いた時、馬房の奥から物音がした。
地面にポリバケツを置き、そこに馬糞を捨てる音。
香ばしい香りが、辺り一面に広がってゆく。
「誰だ!?そこにいるのは……誰なんだ?」
蛯名の呼びかけに応じ、音の主が物陰から現れる。
「あ、目が覚めたんですね。蛯名さん」
淡々と受け応えをするその男の姿に、蛯名は驚いた。
「お前は……」
その男には、見覚えがあった。
何処かで見た若い男…そうだ、数年前のクラシックで活躍した馬の主戦ジョッキーだ。
男は蛯名の向かいの馬房を出ると、何事も無いかのように馬糞を食べ始めた。
「お前なのか?こんな事をしたのは……頼む、これを外してくれ」
蛯名は男に嘆願する。
だが、男は馬糞を一つ食べ終えると、笑顔を見せながらそれを拒否した。
「駄目だよ。一度目が失敗したんだから、二度目を逃がす事は出来ないね」
「……二度目?」
「そうだよ。これに見覚えは無い?」
男はそう言うと、ポケットからある物体を取り出した。
――手榴弾だ!
蛯名は思い出したくない記憶を思い出す。
荷物置き場を出発しようとした時に、ロッカーに仕掛けられていた手榴弾……
「まさか、お前が……」
「正解。こんなのがオマケに付いてたし、やるしかない、ってね」
男はそう言うと、文庫本サイズの小冊子を取り出した。
表紙には『初歩のトラップ作成法』と書いてある。
「どうして……どうして、そんな事をしたんだ?」
蛯名は唇を噛み締めながら、拳を震わせる。
「答えろ!お前がそんな事しなければ、ヨシトミさんは……渡辺は……」
その言葉に、男の顔から笑みが消えた。
「……アンタのせいだよ……」
男は呟いた。
「……え?」
「蛯名さん……アンタがいるから、僕はGIを勝てなかったんだ!」
激昂する男の目に、涙が浮かぶ。
蛯名は、男の発言の真意が分からない。
「俺の……せい?どういうことだ?」
蛯名の問いに、男は目を伏せながら答えた。
「僕は……GIレースを勝ちたかったんだ!」
あのデビューの日から……僕はずっと、あいつに騎乗していた。
中距離で勝てず、長距離でも勝てず…。
そして短距離に出走してようやく勝てると思ったら目の前にアンタがいたんだ!
あいつと共にいつかGIを獲ることが、いつしか僕の楽しみになっていた。
でも、ひとつだけ……ひとつだけ、気に入らなかった。
アンタは、いつもいい馬ばかり乗っていた。
僕なんて、何度もクビになった!
やっとあいつがGIに勝てた時……僕はもう乗っていなかったんだ!
男は席を立った。
そして馬房の出入口へと歩いて行く。
「待ってくれ!縄をほどいてくれ、お願いだ!」
蛯名が叫ぶ。しかし、男は全く意に介さない。
「駄目だよ。アンタには、ここで死んでもらうんだから……」
男は出入口に立つと、蛯名の方向へ向き直り、そして手榴弾のピンに指を掛けた。
「それじゃ、さよなら……蛯名さん」
蛯名は死を覚悟した……もう何度目だろう。
しかし流石に、もう逃げる手段は無い。
ヨシトミの所へ逝く……そう思った瞬間だった。
バスッ!バスッ!
ショットガンの発射音と共に、出入口のガラスが割れ、男の背中に弾が撃ち込まれて行く。
「誰……」
男は振り向こうとする。
しかし間髪を入れず、弾は次々に撃ち込まれる。
遂に手榴弾のピンを抜く事無く、振り向く事も無く、男はうつ伏せに倒れ込んだ。
蛯名は、突然の出来事にただ唖然とするばかりだった。
そして出入口から、誰かが入って来る。
ショットガンを携えたその人物は――横山典弘だった。
「もう大丈夫だぜ、蛯名」
【残り12人】
赤黒い血が地面を汚す中、横山典は蛯名に近付き、縄をほどいて行く。
「大変だったな。逆恨みにも程があるぜ」
そう話す横山の姿は、普段競馬で見る時とは全く違っていた。
いつもの高飛車な態度が感じられず、世話焼きのいい奴といった印象だ。
しかし、蛯名はそんな印象を感じる事すら無かった。
微動だにせず、空虚な心のまま、血に染まった男の死体を見つめている。
「……忘れろよ。あいつには悪いけど、こうしなければ、おまえが死んでいたんだ」
横山が語り掛ける。
「そう……とにかく、ここは危険だ。早く離れよう」
横山はそう言うと、近くの小屋へ行き、冷蔵庫から軽めの食料を取り出してバッグに詰めた。
蛯名も立ち上がり、改めてバッグを肩に掛ける。
だが、なかなか歩き出す事が出来ない。
血まみれで倒れている男の体から、どうしても目を離す事が出来ない。
「蛯名……」
その光景を見た横山は、一瞬、言葉に詰まった。
あの男を殺したのは、他でもない自分。
危機的な状況だったのは確かだが、本当に殺す必要があったのか……他に手は無かったのか?
様々な自問自答が、頭の中を駆け巡る。
(……今は考えては駄目だ。考え始めたら、行動に迷いが出る。生き残れなくなる……)
横山は、その後悔の念をすべて封印した。
都合の良い解釈と思われても構わない。
おまえの死は、決して無駄にはしない……そう自分に言い聞かせた。
横山は蛯名の肩を叩き、出発を促す。
蛯名も頷き、ようやく歩き出す。
ボロボロになったドアを開け、二人は出張馬房を出た。
晴れ渡った空と爽やかな風が、現実とのギャップを余計に感じさせ、切ない気分にさせる。
ロープの痕が残る腕……そこに巻かれた時計は、午後2時を指していた。
136 :
鬱だ氏のう:2001/08/23(木) 11:38 ID:c7qaQJgE
夕方が近付いていた。
競馬資料館の中で、安藤勝は一人、佇んでいる。
「風車ムチを打ちたい……」
彼はそう呟いた。
風車ムチは馬を追うには大き過ぎるアクションだ。
だから、中央での彼は、普段は豪腕で追って勝利を収める事が多かった。
でも、やっぱり風車ムチが打ちたい。
所詮腕の力だけではズブい馬を追いきれないし、それに、
風車ムチの腕を見込まれて、自分は中央競馬での騎乗依頼を受けている。
「俺にはこれしか無い。俺の未来は、風車ムチと共にあるんだ」
アンカツは、資料館に飾られている馬の模型を見つけた。
そしておもむろに模型に跨りムチを降りまわし始める。
小さい頃、兄から教えて貰ったスタイル。
体に染み付いた腕の動きは、リズミカルに馬の尻を捉えている。
そして、しばらく経ったその時――
パチパチパチ……
小さな拍手が聴こえた。
「誰だ!?」
アンカツは慌てて振り返る。
資料館の奥には、後藤が一人、佇んでいた。
「あ、ご、ごめんなさい……驚かせてしまったみたいで……」
アンカツは、後藤に殺意が無いのを感じ取ると、ホッと一息ついて、警戒を解いた。
「いや、気にするなよ。君は、確か……GIを……」
「ええ、中央ではまだ勝ってませんけど…」
「そう。君は……地方競馬、好き?」
意外な質問に、後藤は少し戸惑った。
「え?は、はい……アンカツさんは……好きじゃないんですか?」
アンカツは、表情を曇らせる。
「正直言ってね……辛い、って思う時のほうが多かった。
変に周りに期待されちゃって、それがプレッシャーになってたの。
『もっと伸び伸びと、自由にやりたい』って……いつも思ってた」
アンカツは赤く染まり始めた空を見ながら、溜め息をつく。
後藤は、ただ黙ってアンカツの話を聞いていた。
「地元でも、みんな、変に気を遣うし……
もっと、晴れ晴れとした気分で、競馬がしたいんだ。
気持ちの通じ合える仲間といっしょに……だから、君が羨ましい……」
それきり、アンカツは黙り込んでしまった。
重い時間が、二人の間を流れて行く。
「あの……良かったら、もう一度風車ムチ見せてもらせんか?」
突然、後藤が提案した。
「……え?」
「色々と辛いのは解りますし、今は殺し合いの最中ですから、
晴れ晴れとした気分という訳にはいかないと思いますけど……
でも、さっきの騎乗、素敵でした。
気休め程度にしかならないと思いますけど、一緒に、競馬させて貰えませんか?」
「でも……」
「ここは防音がしっかりしてますから、外には聴こえませんよ。
それに……思い詰めたままじゃ、何も出来ません。気分転換も必要ですよ。
……楽しい競馬、しませんか?」
141 :
疲れた:2001/08/23(木) 11:53 ID:c7qaQJgE
後藤はそう言うと、模型の横に座りこんだ。
「気分転換、か……そうだな。やるか」
アンカツも、再び模型に騎乗する。
「じゃあ、さっきのやつで良いのか?」
「はい。地方での乗り方ですよね。僕も好きなんです」
「わかった。それじゃ……始めるか」
ムチが空気を裂く音が、館内を包み込む。
とても、殺し合いが行われている場所の風景には思えなかった。
アンカツの心に、束の間の充実感が満ちて行く。
142 :
もうちょい:2001/08/23(木) 11:54 ID:c7qaQJgE
そして、騎乗が終わった。
外の景色を見ながら騎乗していたアンカツは、スッキリした表情で後藤に向き直る。
「ありがとう。ちょっとだけど、気持ちが楽になっ……」
その瞬間、アンカツの体に衝撃が走った。
木刀を装備した後藤が、何発も、何発も、アンカツの体を殴りつける。
「後藤くん、どうして……」
アンカツはそのまま、床に倒れ込んだ。
倒れ込んだ衝撃で、床は歪み、奇怪な音を発する。
後藤は木刀を構えたまま、アンカツに向けて呟いた。
「豊さんが言ってました。無闇に人を信じたら負けだ、って……
でも、騎乗振りは素晴らしかったです。それじゃ……さようなら」
そう言うと、後藤はアンカツの頭に渾身の力を混めて、止めの一撃を放った。
後藤は夜明け前の武豊と蛯名の銃撃戦の一部始終を、身を隠しながら、じっと見ていた。
そして、ずっと考えた末の後藤の決断だった。
赤い夕焼けが、赤い血で染まった木刀を照らしていた。
【残り11人】