50 :
サクラタイシオー ◆St1tdvLxeI :
石川頼朝は、ごく普通の馬好きのサラリーマンであった。
学生の頃から乗馬に親しみ、毎週暇があれば競馬場に通うほどの馬好きであったが、
卒業後は地元に帰り、小さな部品メーカーの営業部に就職した。
就職をしてからも、石川の馬好きは治まらず、毎週土日は乗馬クラブや競馬場に通い、さらには一口馬主として、
競走馬に出資したこともあった。最初に出資をした3頭はいずれも未勝利で、掲示板さえ乗ることができず引退を
してしまったが、これで最後と出資をしたタイキフォーチュンがNHKマイルカップ、毎日杯などを勝った。
3歳秋以降は活躍できなかったものの、石川は自分がG1馬のオーナーになれたことを心から喜んだ。
またこの頃、石川は大きな仕事の悩みを抱えており、懸命にゴールを目指すその愛馬の姿が、心の支えにもなっていた。
「お前の子供たちにも出資させてもらうよ、今までお疲れさま、ありがとう。」、愛馬の引退時に心の中でそうつぶやいた。
51 :
サクラタイシオー ◆St1tdvLxeI :2005/09/25(日) 01:31:19 ID:G7yv7J0L0
しかし、タイキフォーチュンの子はなかなか成績を出せなかった。もともと子供が少なかったこともあるが、
石川が出資した子供たちも勝ち鞍をあげられないままターフを去っていった。石川も徐々に競馬から離れ気味になり、
仕事に没頭するようになっていく。もともと取引先からの評判もよく、ずば抜けてではないが営業成績もよかった石川は、
上司からの信頼が厚かったこともあり、同期で最も早く課長になった。会社自体の景気も上向き、石川の年収も鰻登りに上がっていった。
ある休日、久しぶりに行った競馬場で、取引先の社長である三倉に偶然出くわした。聞けば、馬主として数頭のサラブレッドを所有しているという。
どの馬も名前も聞いたことの無い馬ばかりで、あまり儲かっているようには見えなかったが、自分の子供のように可愛いらしい。
石川も一口馬主をやっていたころの感情を思い出し、三倉と意気投合し、馬について語りあう。そしてそこで三倉の口から出た一言が
石川の運命を変えることになる。
「キミも馬主になってみないか?」
52 :
サクラタイシオー ◆St1tdvLxeI :2005/09/25(日) 01:31:43 ID:G7yv7J0L0
馬主になるには、年収2000万以上の収入がないとその資格が与えられない。さすがに小さなメーカーの中間管理職である石川にそんな稼ぎは無い。
しかしこれは中央競馬での話で、地方競馬なら年収500万の収入で何とか資格が与えられるのである。
「実は1頭、1歳の牡が牧場にいるのだが、手放さなくてはいけないのだ。これ以上馬を増やすなとカミサンがうるさくてね。大した血統の馬じゃないし道楽で
手に入れた馬だから、20万でいいぞ。」
石川にとって、馬代、毎月の管理費はギリギリ払えるかどうかのところで、オーナーになると生活レベルもかなり落とさなくてはいけない。
しかし、石川は悩むことなく二つ返事でオーナーになることを選ぶ。その2歳馬の父がタイキフォーチュンだったからだ。
セキライフォチュンと名づけられたこの馬は、三倉のツテで船橋競馬の九重厩舎に所属することになった。
ちなみにセキライというのは石川の石という文字と頼朝の頼という字をあわせ音読みにしたものである。
夏になり、2歳馬たちの調教のピッチもあがる。早いものはデビューも果たしている。セキライフォチュンも例に漏れず、秋のデビューを目指しグングン調子を
あげた。そして、「先生、この馬かなり走りますよ。」とスタッフの間でも評判馬として、認知されていった。
9月、セキライフォチュンは船橋競馬場でデビュー戦を迎えた。調教がよく、2番人気に支持される。レースはダートの1000m戦だったが、出遅れ最後方からの競馬を
強いられる。しかし、力が違いすぎた。4コーナーで中団まで進出すると直線で前をごぼう抜き、最後は2着馬に2馬身の差をつける圧勝であった。
「勝ち負けはできると思ったが、あれほど強い勝ち方をするとは…」九重もスタッフも石川も同じ感想を持っていた。これなら上を狙える、そう思った九重は
重賞である平和賞にセキライフォチュンを使うことにする。
2.4倍。ファンがセキライフォチュンに与えた評価である。実力馬たちを抑えて堂々の一番人気である。そして、その人気に答えセキライフォチュンはここも快勝する。
いいスタートを切り、3番手からの競馬。終始内を通って直線抜け出し、横綱相撲。5馬身差の圧勝劇である。
53 :
サクラタイシオー ◆St1tdvLxeI :2005/09/25(日) 01:32:04 ID:G7yv7J0L0
そして、暮れの全日本2歳優駿。あのシーチャリオットでさえかなわなかったJRA勢にどうセキライフォチュンが対抗するのか、セキライフォチュン対JRA勢という
構図で行われた。JRAからは2戦2勝のアグネススパート、芝で2連勝中のマッキージャパンが人気を集める。
しかし、締め切りまでセキライフォチュンが一番人気を死守した。
レースはやはり3頭の叩き合いとなった。4コーナーでほぼ同時にスパートをした3頭、アグネススパートが残り100で脱落し、セキライフォチュンとマッキージャパンが
鼻面をあわせたのがゴール板であった。ゴール後、マッキージャパンに騎乗した安藤勝己が小さくガッツポーズをしたが、写真判定の結果セキライフォチュンがハナ差
マッキージャパンを抑えて優勝。見事2歳馬ダートNo.1に輝いた。
54 :
サクラタイシオー ◆St1tdvLxeI :2005/09/25(日) 01:32:26 ID:G7yv7J0L0
九重にとっても、石川にとっても夢のような気分だった。翌年は3冠か、はたまたドバイか、そんな会話が幾度もなされ、またマスコミも同じような話題を持ち上げた。
しかし、これを面白くないと見る人間がいた。三倉である。確かに自分が見放した馬ではあるが、かつての自分の所有馬が2歳最強の名前を欲しいままにしているのである。
気持ちがいいはずが無い。年が明け、三倉は石川に買戻しのオファーを出した。中央入りさせクラシックを取るというのが狙いであった。
1億5000万円。これがセキライフォチュンにつけられた価格であった。しかし石川にとって価格が問題ではなかった。会社の最大の取引先である三倉コーポレーションの
社長のオファーを蹴るという選択肢はない。自分一人の判断で、同僚とその家族を路頭に迷わせることはできなかったのだ。石川は三倉にセキライフォチュンを返した。
セキライフォチュンは、そのまま三倉の名義で中央入りする。マスコミも一斉に三倉を叩いたが、資本主義社会の世の中、金に勝るものは無い。すぐにマスコミも静まった。
しかし中央入りしたセキライフォチュンは、これまでのセキライフォチュンとは別の馬のようになってしまう。中央入り緒戦となった、きさらぎ賞こそ、初芝のハンデに耐え2着
と好走したものの、つづくスプリングSは6着と惨敗。念願のクラシックも皐月賞12着、ダービー16着と大敗を喫した。三倉はそんなはずはないと夏場もセキライフォチュンを
走らせた。ラジオたんぱ賞、北九州記念、KBC杯と最後は得意と思われたダートも走らせたが、いずれも二桁着順に終わった。さらに左後脚に屈腱炎を発症し、ついに三倉は
セキライフォチュンを再び見放した。
55 :
サクラタイシオー ◆St1tdvLxeI :2005/09/25(日) 01:33:15 ID:G7yv7J0L0
登録抹消:セキライフォチュン 牡3 乗馬
菊花賞の週の競馬週刊誌がセキライフォチュンの登録抹消を伝えた。乗馬と書かれている馬の大半は乗用馬にはならない。そのまま屠殺されるものもある。
この記事をみた九重厩舎のスタッフたちも、最悪のことを思った。しかし、現実には三倉から再び石川がセキライフォチュンを買い取っていた。
乗馬もかなりの腕前を持っていた石川が乗馬として、余生を過ごさせることにしたのである。石川も1億5千万の大金を手にし、すでにハーフリタイヤの形をとっていたので、
毎日のようにセキライフォチュンに跨り調教をつけた。馬場馬術の基本から、キャバレッティ、さらに小さな障害と少しずつ少しずつ、石川とセキライフォチュンは階段を上っていった。
そして、日本一の2歳ダートホースとなった年から、ちょうど12年後のことであった
全日本障害飛越馬術大会で、並み居る乗用馬を相手に1頭のサラブレッドが頂点を極めた。
セキライフォチュンが最強馬として再び君臨した瞬間である。