41 :
選曲してください:
そして「多様性」という言葉に注目すると何か一つパズルのピースがはまるような気もするのです。
アンザッツ2(今これが「気管支〜肺腔」の共鳴を強めるのでは、と考えています)が男声らしい声を作る
というのは体感的にもありますし、両生類関係のスレでも議論されています。
それで実際に男声と女声の違いを倍音の分布で見ると男声の方が多種多様な気がするんですね。
まあ、これは私もあまり知識がないのでUTAUというフリーの歌声合成ソフトのために
色んな方が作られている歌声音源から歌声を合成して音階君で見たっていう、ぶっちゃけそれだけなんですが。
UTAU音源から和音マコさんとか波音リツさんとか女声音源を引っ張ってくると大抵
基音・2倍音・3倍音の強さが揃っていてそれ以外の倍音はあまり強くありません。
(重音テトさんは中の人の作り声なので純粋な女声からは除外したほうがいいかも。上の説明とちょっと違います。)
某ボイトレサイトにも女声の特徴としてそのような事が挙げられていました。
これに対して同じUTAU音源から男声音源の赤羽カラスさんを持ってくると2倍音がとんでもなく強い。
これ音源サンプル中の最高音はmid2Cなんですが、2倍音が常軌を逸して強いのでhiCに聞こえます。
とにかく強烈に通る声で誰の声と合わせても赤羽カラス声になってしまうので合唱が出来ません。
一方、同じUTAUの男声音源で戯歌ラカンさんをみると倍音の博物館で
あらゆる倍音が同じくらいの強さで揃っています。
残念ながら強烈に強い倍音がないので、立派な声なのに埋もれやすいんですよね。
で、何が言いたいかというと「気管支〜肺腔」の共鳴を使う(?)男声の方が共鳴のメカニズムの多様性に
したがって多様な倍音分布のバリエーションを得ているのではないかと。
ちょっと暴走気味の仮説です。スマソ。
42 :
選曲してください:2012/08/09(木) 05:47:38.18 ID:Y4E42K4a
>>470-475 サブさん、こんばんは。いつもいつも丁寧にレスをして頂いてありがとうございます。
>いやはや季節の変わり目は体調崩しやすい…やっぱり風邪ひいちゃいました^^;
そろそろ花粉の舞う時期になってきて憂鬱です。
私、後鼻漏という鼻水が喉に落ちて痰になる不愉快な病気が治らないのでこの時期が特に嫌です。
ボイトレできない。
>専門の方とはつゆ知らず… 出しゃばった真似をしてしまいました^^;
理論物理なんてヤクザなものに時間を浪費して食いっぱぐれた口です。
落ちこぼれなので専門家じゃありません。
学問なんて結構いい加減なもんだなあと実感できたことが最大の財産だと思ってます。
音や発声と直接には関係ないし、全然専門じゃありませんよ。
むしろ学生時代に音響工学をかじられたサブさんの方が専門に近いのでは…。
学生時代に私がかじったものなんていったら、うーん何だろ。弾性波動論とか少しは関係あるかな。
いや結局P波やらS波やら地震でおなじみのが出てきて終わるんですけどね。あと流体力学かな。
かじったと言えば古生物学なんかもかじりました。
古生物学はあの当時ノート提出だけで単位もらえたんですよ。牧歌的な時代だった。
>学生のときモデリング実験をしたことがありまして、
>その時に発生予測と結果との照合や想定外の結果でてんやわんやした記憶がありますw
そう、実験が扱うのは現実。現実はいつも複雑でしょっちゅう想定外。
シミュレーションではモデルに想定されてないことは起こらないんですよね。
逆にモデルやデータがまずいと全く非現実的な現象が発生したりもする。
だから世間の人がこれはコンピュータシミュレーションだから間違いないんだ、みたいな論調に
はめられていると全力で反論したくなるw
ちょっと話がそれました。
43 :
選曲してください:2012/08/09(木) 05:48:20.65 ID:Y4E42K4a
>>470-475 女声、男声、倍音とかのキーワードで検索していたときに面白い音源を見つけました。
博識なサブさんのことですから、すでにご存じかも知れませんが
http://www.youtube.com/watch?v=gdqjcW8u7Lw&feature=related The MAGIC Of Bulgarian Voices & Music - Malka Moma / Little girl - LIVE ブルガリアンボイス
サブさんがこのスレで以前に紹介されている姫神の「神々の詩」にも影響を与えているようですね。
伝統的なクラシックの女声合唱とは違って地声のように倍音が多い歌声とか、
不協和音に特徴があるみたいです。
個人的には平原綾香より好きな声ですが、この彼女が日本語を歌ったらやっぱり駄目なんでしょうか?
黒海を挟んだ対面のグルジアにも同様な多声音楽があってこちらは存続の危機にあるとか。
多種類の文化の交わる地域には興味深いものがありますね。
>>480 起こっていないかもしれない、という可能性も考えたからこそ論拠を探したのです。
体感的には多くの人が胸部が響く事を体験しているわけですし、
これ以上のことを議論するならそれこそTitze(1983)の論文あたり詳しく吟味するしかないのでは?
ちょっといいですか?
声が出る仕組みは肺から送られた空気が声帯に届き、
ベルヌーイ効果によって開閉されて声に変換されるわけですよね。
http://structure.nuae.nagoya-u.ac.jp/old/research/bio/bio_simu-j.htm だとしたら声帯から生まれた音波は喉から上の共鳴腔で共鳴されるのだと思うのですが。
また、胸や頭に感じる「振動」と、気体の伝播「共鳴」をごっちゃにされてはいませんか?
ふと思ったので書きこんでみました。
44 :
選曲してください:2012/08/09(木) 05:52:49.34 ID:Y4E42K4a
45 :
選曲してください:2012/08/09(木) 06:17:16.12 ID:Y4E42K4a
しばらく書き込みできなくなる見込みなので、ちょっと疑問点だけ投下しておきます。
前にも紹介した
http://archive.mag2.com/0000225345/20070319135000000.html ボイストレーニングの嘘真うそまこと の「イイ声はどんな声か4」
というタイトルの回で声の特徴と倍音分布との関係が示されています。
寡聞にして声質と倍音の関係についてはこれ以外にあまり知らないんですけど
これ以外にも声質と倍音について言及した資料はありますでしょうか?
ここに書いてあることが正しいとすると、どの辺の振動数を強めたいか、ということで
狙いたい声質に対応した共鳴腔さらにはその共鳴を強めるためのアンザッツなんていうのが
都合よくマッピングできそうな気もするんですが、それは甘いのかな?
それから別のどこかで非整数倍音というちょっと不思議な言葉を見かけてこれも気になってます。
本来の倍音は整数倍ですから、非整数倍音というのは一種のノイズですね。
ハスキーな声は非整数倍音と関係してる、というような記述があった気がするんですが、
おそらく非整数倍音というのは伝統的な西洋的発声法では全く無視されているんじゃないかと。
でもハスキーな声にあこがれる人は案外多いのでもっときちんと調べられてもいい気がします。
例によってあまりよく調べもしないで色々垂れ流して申し訳ないですけれど
サブさんはじめ、皆さんのご意見・ご考察は大変参考になり楽しませて頂いております。
私が不在の間に色々ご意見いただけると幸いです。
46 :
選曲してください:2012/08/09(木) 06:17:53.37 ID:Y4E42K4a
47 :
選曲してください:2012/08/09(木) 06:58:16.19 ID:Y4E42K4a
“歌唱技術における感覚論へのアンチテーゼ”として始まり、
感覚的表現が“万人共通かのごとく書かれることに否定的”なはずが結局は感覚論へ回帰してしまっているような・・・。
フースラーの『うたうこと』はあたかも歌唱理論の代表的な本のように一般には捉えられがちですが、
「声楽器官を運転させるための第1の最も重要な原動力は、心の中の表象(考え方)なのであって、
発声のやり方は結局のところ、常にこの表象の産物なのである。」
と書いてあるようにその本質は普遍的な感覚論の本です。
また、感覚論の代表として挙げられることもあるリリー・レーマンの知覚図
http://www.gutenberg.org/files/19116/19116-h/images/i018.jpg もいまだに価値が減っていないと思います。
生理学・解剖学・運動学・音声科学等の知識をいくら集めたとしても歌はうまくならないでしょうし、
歌唱はスポーツのようなもので歌がうまくなるために必要なのはスポーツ科学に類するものです。
『音声生成の科学』の著者である Ingo R. Titze はその知見と技能が両立している稀な例と言えそうです。
http://www.youtube.com/watch?v=UQw03TXZsHA たとえば速く走るためにより速いランナーのスタイルを模倣しようとするのは当然でしょうが、
そのスタイルを模倣すること自体が目的となってしまっては本末転倒です。
発声配置が批判されるのはこういう点についてではないかと思います。
歌唱という運動は直接的に目で見ることができませんし、自分の声を自分で即時的に客観的に聴くことはできませんから、
必然として感覚やイメージの比重が大きくなります。
この感覚やイメージを否定することは上達への道を自ら閉ざすに等しいことかと思います。
これまでも歌唱はおもに模倣によりその技術が受け継がれてきましたが、
これは教える者と教わる者との間に普遍的な感覚の共有があるからこそ可能だったのだと思います。
もちろん発達の度合いによって感覚やイメージは変化していきますのでこの点については考慮が必要です。
科学への期待を抱くのはよいとしても現時点では残念ながら歌唱は科学主義には向いていないと思います。
当然もうすでに気づいていることかとは思いますが・・・。