50 :
選曲してください:
51 :
選曲してください:2012/08/04(土) 16:46:11.71 ID:gvg5dcHa
そして決定的な証拠がZUNさんが
>>524で書いておられる差音として生じた1倍音の存在ですね。
きれいな正弦波の咽頭原音と2つの共鳴音の差音として生じた音は振動数は同じでも波形は違う筈です。
ただ客観的な手法にこだわってスペクトル分析にかけても波形の違いは読み取れないですよね。
音として聴き分けるのは主観性が入るので証拠としてはちょっと弱くなってしまうんだろうか。
少なくとも自分は聴き分ける自信がないorz
(ちなみに私は音楽的素養全くなしにいい大人になりましたので音感とか聴きとりとか駄目駄目です。
歌の単純なハモリパートひとつ聞き分けるのも必死、というかそれすら危うい感じでww
ZUNさんの耳がうらやましい)
それから、これも状況証拠になりますが、高次の倍音を含む色んな歌声を集めて
それらの歌声に高次倍音の差音として構成可能な低次の倍音が含まれている事を確かめる、
というのもありそうです。
それで、この2点目の状況証拠に関してですが、差音に注目すると疑問が一つ解けるのですよ。
以前私が取りあげた
http://archive.mag2.com/0000225345/20070319135000000.html ボイストレーニングの嘘真うそまこと「イイ声はどんな声か4」で
1.「透明感と艶のある声」のスペクトルが紹介されているんですが、
どうして強い倍音が「きっちり等間隔」に並ばなくてはならないのか疑問だったのです。
等間隔にどういう特別な意味があるのかと。
差音を考えるとこれが等間隔でなければならない理由が出てきます。
等間隔でなかったら強い倍音は様々な組み合わせで新たな差音を生じてエネルギーを分散してしまいます。
結果として強い倍音がいくつも並ぶという特異なスペクトルは維持できず、差音として生じた低次倍音が
強い倍音のエネルギーを奪って鋭いピークがない凡庸なスペクトルになってしまうのではないでしょうか。
逆に倍音が等間隔なら、どんな組み合わせで差音を作っても、もとからあったのと同じ音しかできません。
そういう場合にだけ、細く鋭く強烈に強い倍音のピークをいくつも持ったスペクトルが許されるのではないでしょうか。
そして、そういう細くて鋭い倍音のピークをいくつも持つ声が透明で艶があるように感じられると。
52 :
選曲してください:2012/08/04(土) 16:47:32.68 ID:gvg5dcHa
>>ZUN
とまぁ自分の妄想的類推を書いてみたものの、やっぱり
>>492や
>>525の方が論理的ですねw
まさかうなりの延長が差音だとまでは妄想しませんでしたがw
あと、
>>492で紹介されたサイトに出てきた“ミッシング・ファンディメンタルズ”は、
『音のイリュージョン - 知覚を生み出す脳の戦略』(柏野牧夫著、岩波書店)で語られていたのを覚えています。
参考にその本で紹介されているサイトを載せておきます。
⇒
ttp://www.brl.ntt.co.jp/IllusionForum/ (錯聴のところ参照)
ついでなんで
>>492のサイトを辿って拾ってきた1000Hz+1100Hzの、
音源のスペクトログラムとスペクトラムアナライザも…
⇒
ttp://www1.axfc.net/uploader/Sc/so/328671 (DL Pass:1111)
『音のイリュージョン〜』の記述を思い起こしてみると、
「ミッシング・ファンダメンタルズは観測者の知覚によって生じる」とのことでした。
ということは、それは体内で生成されるのではなく、音声として体の外に出てから生じるということです。
そしてPCで純音を合成しただけの状態でスペクトログラムをみると、上の画像みたいに観測されないことと相まって、
私の中では体外で起こる事象として無視していた感があります。差音も同様に思ってましたw
最初に書いたとおり、低次倍音や、あるいは基音の増幅にどれほど影響しているのかは不明ですが、
もしそれが体内ですでに生じているのなら、かなり面白いことになります!
53 :
選曲してください:2012/08/04(土) 16:48:34.84 ID:gvg5dcHa
レスが遅くなりすみません
また、もったいないお言葉の数々、ありがとうございます <(_ _)>
ところでアンザッツについてですが、自分は声楽についてそれほど造詣が深い訳ではありません
すべて自分の経験に基く妄想ですので、サブさんがそこから何らかのヒントを得てくだされば幸いですが、もし頓珍漢なレスでしたらごめんなさい
よくアンザッツは気のせいであり、幻想に過ぎないという人を見かけます
確かに、もしアンザッツが全く何らの身体的変化、物理的変化も起こさず、精神的な何かのみの影響によって
声質が変化すると主張するものであるならば、それはもはや超能力の世界であり、幻想であると言われても仕方がありません
またそういった人たちの主張の根源は、共鳴は気道で起こるものであって、頭や胸などでは起こらず、それらは振動するだけで
共鳴している訳ではない、というのが主流のようです
ですがここで自分が一言申し上げたいのは、アンザッツによって実際に物理的身体的変化は起こっている、だからこそアンザッツは有用なのだ、ということです
前回自分は、アンザッツによる倍音構成の変化の実例を身をもって示しましたが、その時に実感したのは、
「低い倍音ほど声を前に発した方が出し易く、声を当てる方向を上に持って行くにつれて倍音の音程も上がっていった」ということです
そしてここで最も重要なのは、声を当てる方向によって【自動的に】共鳴腔の形が微妙に変化しているのを実感したことです
つまり何が言いたいかというと、
「アンザッツとは、声を当てる方向を変化させることによって、出したい声にとって理想的な形に【共鳴腔を自動的に変形させる】こと」
なのではないかということです
54 :
選曲してください:2012/08/04(土) 16:49:35.91 ID:gvg5dcHa
“歌唱技術における感覚論へのアンチテーゼ”として始まり、
感覚的表現が“万人共通かのごとく書かれることに否定的”なはずが結局は感覚論へ回帰してしまっているような・・・。
フースラーの『うたうこと』はあたかも歌唱理論の代表的な本のように一般には捉えられがちですが、
「声楽器官を運転させるための第1の最も重要な原動力は、心の中の表象(考え方)なのであって、
発声のやり方は結局のところ、常にこの表象の産物なのである。」
と書いてあるようにその本質は普遍的な感覚論の本です。
また、感覚論の代表として挙げられることもあるリリー・レーマンの知覚図
http://www.gutenberg.org/files/19116/19116-h/images/i018.jpg もいまだに価値が減っていないと思います。
生理学・解剖学・運動学・音声科学等の知識をいくら集めたとしても歌はうまくならないでしょうし、
歌唱はスポーツのようなもので歌がうまくなるために必要なのはスポーツ科学に類するものです。
『音声生成の科学』の著者である Ingo R. Titze はその知見と技能が両立している稀な例と言えそうです。
http://www.youtube.com/watch?v=UQw03TXZsHA たとえば速く走るためにより速いランナーのスタイルを模倣しようとするのは当然でしょうが、
そのスタイルを模倣すること自体が目的となってしまっては本末転倒です。
発声配置が批判されるのはこういう点についてではないかと思います。
歌唱という運動は直接的に目で見ることができませんし、自分の声を自分で即時的に客観的に聴くことはできませんから、
必然として感覚やイメージの比重が大きくなります。
この感覚やイメージを否定することは上達への道を自ら閉ざすに等しいことかと思います。
これまでも歌唱はおもに模倣によりその技術が受け継がれてきましたが、
これは教える者と教わる者との間に普遍的な感覚の共有があるからこそ可能だったのだと思います。
もちろん発達の度合いによって感覚やイメージは変化していきますのでこの点については考慮が必要です。
科学への期待を抱くのはよいとしても現時点では残念ながら歌唱は科学主義には向いていないと思います。
当然もうすでに気づいていることかとは思いますが・・・。
55 :
選曲してください:2012/08/04(土) 17:20:01.96 ID:gvg5dcHa
“歌唱技術における感覚論へのアンチテーゼ”として始まり、
感覚的表現が“万人共通かのごとく書かれることに否定的”なはずが結局は感覚論へ回帰してしまっているような・・・。
フースラーの『うたうこと』はあたかも歌唱理論の代表的な本のように一般には捉えられがちですが、
「声楽器官を運転させるための第1の最も重要な原動力は、心の中の表象(考え方)なのであって、
発声のやり方は結局のところ、常にこの表象の産物なのである。」
と書いてあるようにその本質は普遍的な感覚論の本です。
また、感覚論の代表として挙げられることもあるリリー・レーマンの知覚図
http://www.gutenberg.org/files/19116/19116-h/images/i018.jpg もいまだに価値が減っていないと思います。
生理学・解剖学・運動学・音声科学等の知識をいくら集めたとしても歌はうまくならないでしょうし、
歌唱はスポーツのようなもので歌がうまくなるために必要なのはスポーツ科学に類するものです。
『音声生成の科学』の著者である Ingo R. Titze はその知見と技能が両立している稀な例と言えそうです。
http://www.youtube.com/watch?v=UQw03TXZsHA たとえば速く走るためにより速いランナーのスタイルを模倣しようとするのは当然でしょうが、
そのスタイルを模倣すること自体が目的となってしまっては本末転倒です。
発声配置が批判されるのはこういう点についてではないかと思います。
歌唱という運動は直接的に目で見ることができませんし、自分の声を自分で即時的に客観的に聴くことはできませんから、
必然として感覚やイメージの比重が大きくなります。
この感覚やイメージを否定することは上達への道を自ら閉ざすに等しいことかと思います。
これまでも歌唱はおもに模倣によりその技術が受け継がれてきましたが、
これは教える者と教わる者との間に普遍的な感覚の共有があるからこそ可能だったのだと思います。
もちろん発達の度合いによって感覚やイメージは変化していきますのでこの点については考慮が必要です。
科学への期待を抱くのはよいとしても現時点では残念ながら歌唱は科学主義には向いていないと思います。
当然もうすでに気づいていることかとは思いますが・・・。
56 :
選曲してください:2012/08/04(土) 18:11:22.45 ID:gvg5dcHa
差音についても考えたり調べたり。
なんて言うか簡単な物理の筈なのに、何でこんなに感覚論や都市伝説みたいになってるんだと。
で例によって面白いサイト見つけました。(ほんと紙の本読んでないな)
http://members2.jcom.home.ne.jp/alba2010/differnce%20tone.htm サイトの主はちゃんと物理の分かる人で和声について調べているようですね。
見て頂くと分かりますが、盛りだくさんで全部見るのはけっこう大変。
詳細はやっぱり読んで頂かないと仕方ないんですが、重要と思われるところを独断と偏見でピックアップ。
@「差音」が存在することは音楽やってる人にはわりとあたり前
A差音が「主観的な音」とする説は御大ヘルムホルツ先生が定着させた。
(科学は権威主義を打破して進むべきなんだけど御大の権威はそれほどまでに強大なんですね。)
B周波数の異なる二つの波を重ね合わせると、両者の平均周波数で振動する波が生じる。
で、その波の振幅は二つの振動数の差に当たる振動数で極大・極小を繰り返す、つまり振動する。
(三角関数の和を積に直す話を思い出しましょう。幸いにして?全部高校の数学と物理で収まってる。)
この振幅の振動(ややこしいな)が「うねり」であり、「差音」。両者は同じ物理現象。
で、このサイトの作者は振幅の振動は音ではあるが厳密には波といえないので
「音波」ではなく「音粒」という表現を使ってます。
ところで、私たちは共鳴体の存在するシステムでは差音も増幅されると考えました。
音粒は実際に「差音」の振動数を持って共鳴体を叩くわけですから、当然共鳴が起こります。
そして共鳴体が実際の共鳴を起こしてしまえば「差音」はもはや「音粒」ではなく
ちゃんとした音波になります。
私的にはかくして「差音」は感覚論とか都市伝説ではなく確たる理論的地位を築いたと考えるんですが
みなさんはいかがでしょうか?
57 :
選曲してください:2012/08/04(土) 18:17:28.57 ID:gvg5dcHa
“歌唱技術における感覚論へのアンチテーゼ”として始まり、
感覚的表現が“万人共通かのごとく書かれることに否定的”なはずが結局は感覚論へ回帰してしまっているような・・・。
フースラーの『うたうこと』はあたかも歌唱理論の代表的な本のように一般には捉えられがちですが、
「声楽器官を運転させるための第1の最も重要な原動力は、心の中の表象(考え方)なのであって、
発声のやり方は結局のところ、常にこの表象の産物なのである。」
と書いてあるようにその本質は普遍的な感覚論の本です。
また、感覚論の代表として挙げられることもあるリリー・レーマンの知覚図
http://www.gutenberg.org/files/19116/19116-h/images/i018.jpg もいまだに価値が減っていないと思います。
生理学・解剖学・運動学・音声科学等の知識をいくら集めたとしても歌はうまくならないでしょうし、
歌唱はスポーツのようなもので歌がうまくなるために必要なのはスポーツ科学に類するものです。
『音声生成の科学』の著者である Ingo R. Titze はその知見と技能が両立している稀な例と言えそうです。
http://www.youtube.com/watch?v=UQw03TXZsHA たとえば速く走るためにより速いランナーのスタイルを模倣しようとするのは当然でしょうが、
そのスタイルを模倣すること自体が目的となってしまっては本末転倒です。
発声配置が批判されるのはこういう点についてではないかと思います。
歌唱という運動は直接的に目で見ることができませんし、自分の声を自分で即時的に客観的に聴くことはできませんから、
必然として感覚やイメージの比重が大きくなります。
この感覚やイメージを否定することは上達への道を自ら閉ざすに等しいことかと思います。
これまでも歌唱はおもに模倣によりその技術が受け継がれてきましたが、
これは教える者と教わる者との間に普遍的な感覚の共有があるからこそ可能だったのだと思います。
もちろん発達の度合いによって感覚やイメージは変化していきますのでこの点については考慮が必要です。
科学への期待を抱くのはよいとしても現時点では残念ながら歌唱は科学主義には向いていないと思います。