イソザキ時計宝石店 Part 41 【石川県白山市】

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24ウサギさんのイソ修理体験記 1
さて、貰い受けたのは良いのですが、数十年にわたり放置されていたものをいきなり再使用するのは
無謀です。何処にどんな不具合があるか解ったものではありませんし、その状態で使えば機械の損傷
が致命的なレベルに拡大しかねません。機械に問題がなくとも、少なくとも潤滑油は間違いなく失わ
れています。

そこでオーバーホールの必要があるわけですが、今回はWebで有名な「マイスター公認高級時計師の
いるお店」に依頼してみました。高度な技術を謳い、19セイコーについても思い入れを持って「名機」と
激賞しておられるようなので、ひとつお願いしてみようと思ったわけです。メールにて依頼の上、実家に
いる間に急ぎ発送してしまいました。

先方に到着したところ、これだけの問題があるとのこと。


* ベゼル・裏ブタ・ケースに細かいスリ傷多々有り
* 文字盤シミ汚れ錆多数有り
* 針汚れ傷有り
* 風防二ヶ所ヒビ割れ
* ヒゲゼンマイ 素人が弄ったためか大きく変形
25ウサギさんのイソ修理体験記 2:2012/01/07(土) 11:09:25.83 ID:64lg70DC
外観の損傷はともかく、ヒゲの変形には気付いていませんでした。まあ、私はプロではありませんし、
実家にはキズ見も時計工具もないので仕方ありません。一ヶ月少々で修理完了の連絡があり、受け取
ったわけですが…実はここからが問題でした。

修理の明細には、オーバーホールと風防交換を行ったとありましたが、追記がありました。

「テンプ上穴石にヒビ有り、交換が必要でしたが入手出来ませんでした。ご了承下さいませ。」

テンプの穴石にヒビ!?それは只事ではありません。穴石にヒビがあると、次の問題が起きることが
想定されます。

* ヒビによって生じたバリや角がホゾを痛める
* ホゾの損傷が進んだ結果、ガタつきの原因になる
* 毛細管現象による潤滑油の保持ができなくなる

しかも、時計で最も高速で動き、精度が要求されるテンプ部分。とてもそのまま使う訳にはいきませ
んが、交換部品がないのではどうしようもありません。製造を終了して久しい懐中時計であることを
考えると、この辺が「町の時計屋さん」の限界かなぁ、と嘆息しつつ、行き付けの時計修理工房へ再
度修理を依頼することにしました。
26ウサギさんのイソ修理体験記 3:2012/01/07(土) 11:09:44.80 ID:64lg70DC
というわけで、工房に持ち込んで再度調べて貰ったわけですが、単に穴石を交換すれば良いという話
ではなく、重大な問題がいくつも発見されたのです。その内容と、実際の修理を次に挙げていきます。

テンプ穴石割れ:
報告通り、確かに割れています。これは交換して貰いました。

天真の歪み:
天真のホゾが歪んでおり、動いているところを実体顕微鏡で見せてもらうと、偏芯した軸のブレが見
て取れます。ただ、穴石が交換できなければ新しい天真を作ってもすぐ破損しかねないので、そのた
めに手を付けられなかった可能性もあります。

ともあれ、穴石交換と併せて、天真の製作を依頼することにしました。まず、天真に取り付けられた
テン輪やローラーを取り外します。これらはカシメ付けられているため、力任せに外そうとすると部
品が歪んだり破損したりします。そのため、旋盤を使い、カシメ部分を削り落とす事で無理なく部品
を取り外せるようにします。

次に、焼きの入った鉄材から、旋盤で天真を削り出していきます。実体顕微鏡を使いながら、寸法は
現物合わせで確認しつつの作業。切削、研磨、仕上げの各工程を経て天真が完成します。完成後は
テンプとして組み立て、振れや片重りを取っていきます。

私のような素人からすれば、素材から精密な部品を削り出すというのは驚嘆すべき技術ですが、「天
真は車で言えばタイヤのようなもので、磨耗や破損は当たり前。それを交換するのも時計職人にとっ
ては当たり前でのことで、特別ではありません」とのこと。
27ウサギさんのイソ修理体験記 4:2012/01/07(土) 11:10:01.77 ID:64lg70DC
二番車ホゾおよび受けの磨耗:
二番車は香箱から大きな力を受けるため、潤滑が不足すると磨耗し易い部分です。ホゾ、受けともに
磨耗が進むとガタを生じ、さらに進行すると歯車が斜めに傾いてしまい、最終的には時計が動かなく
なります。

香箱からの力によって、二番車のホゾと軸受けは赤い部分が磨耗しやすい。磨耗が進むと穴の拡がり
と軸の細りからガタが生じ、最終的には歯車が傾いて動かなくなったり破損したりする。今回はそれ
が進み、軸と軸受けの両方が磨耗していました。組み立てられた状態でも、ピンセットで軸を掴んで
揺らすだけではっきりと歯車がガタつくほどです。

この部分の処置は、ホゾの再研磨仕上げと受側の穴を詰める事で行います。まず、ホゾを研磨して軸
の形を整えます。ただ、研磨によってホゾが細くなるため、磨耗が限度を超えてしまっている場合に
はこの方法は使えません。その場合は、磨耗したホゾを取り除いて新たなホゾを継ぎ足す「入れホゾ」
を行う必要があります。今回の磨耗は重度ではありましたが、余裕のある懐中時計であったことが幸
いし、何とか研磨によって処置することができました。ホゾの修正は、磨耗に合わせてホゾ全体を研
磨し、真っ直ぐな軸に整形し直すことで行います。
(続く)
28ウサギさんのイソ修理体験記 5:2012/01/07(土) 11:10:18.89 ID:64lg70DC
二番車ホゾおよび受けの磨耗:
(続き)

次に受け側です。受側の穴も磨耗によって拡がっていますし、研磨後のホゾは元の太さよりも細くな
りますから、穴をより細く詰め直すことでその隙間を調整する必要があります。軽度なものならばタ
ガネで叩いて詰められるそうで、地板側はこれによって処置されました。受側は重症だったので、一
度旋盤で穴を大きく抉り、新たな軸受けとして筒状のニッケル材を埋め込みました。なお、17石以上
の時計であれば、この部分の受けは宝石なので殆ど磨耗しません。その代わり、ホゾの磨耗分を穴詰
めによって埋めることができないため、ホゾか穴石を交換して大きさを合わせなければならないそう
です。この辺は痛し痒しといったところでしょうか。
29ウサギさんのイソ修理体験記 6:2012/01/07(土) 11:11:35.44 ID:64lg70DC
テンプ受石留板ネジ折損:
分解しないと解らない文字盤の下、テンプの受け石を留めるプレート(シャトンのようなもの)の留
めネジが片方折れていました。一見問題ないように見えるのですが、実はネジが途中で折れていまし
た。この結果、折れたネジは頭の下、一〜二周程度のネジ山しか使えない極端に短いネジとなってお
り、しかも反対側のネジは非常に強く締め付けられていたため、石が傾いていました。一応ネジは留
まっているので、石が動いてホゾが抜けるようなことはさすがにありませんが、受石が傾いていては、
天真のホゾの動揺や抵抗の変化を招き、結果的に精度が落ちたり姿勢差が増大したりします。

元から折れていたのか前の修理中に折れたのかは不明ですが、どちらにしても折れたネジがそのまま、
というのは問題外です。折れたネジを取り出し、正常なネジを入れて貰いました。
30ウサギさんのイソ修理体験記 7:2012/01/07(土) 11:11:51.71 ID:64lg70DC
ヒゲゼンマイ変形:
元々ヒゲゼンマイは「素人が弄ったためか大きく変形」とあったのですが、修理された上でもなお歪
んでおり、偏芯して収縮していました。そもそも、ヒゲゼンマイに巻き上げヒゲ(オーバーコイル・
ヘアスプリング)を使う目的は、ゼンマイの重心移動を抑え、同心円状に収縮させることにあります。
収縮のたびにヒゲゼンマイが偏芯すると、天真には無用の側圧がかかり、それが摩擦抵抗の変化とな
って精度に少なからぬ影響を与えるからです。これが偏芯していては、折角の巻き上げヒゲの意味が
ありません。とはいえ、元々の状態を記録していないので、そもそも修正ができていないのか、元の
歪みが大きすぎてここまでの修正が精一杯だったのかは判断できません。

ただ、できる範囲で修正して貰った後でも完全な形にはならなかったようなので、元々の歪みが過大
だった可能性が高いとは言えると思います。完璧を期すならヒゲゼンマイ自体交換すべきかも知れま
せんが、実測した歩度が一応実用できる範囲にあると判断されたので、今回はここまでの修正で良し
としました。
31ウサギさんのイソ修理体験記 8:2012/01/07(土) 11:35:36.76 ID:64lg70DC
アンクル穴石交換ほか:
アンクル受けと取り外された穴石。アンクルの穴石がアンクル真の太さに合っておらず、大きなガタ
を生じていました。幸い、アンクル真に損傷は見当たらなかったため、穴石を交換して対処して貰い
ました。同時期の19セイコーのジャンクから取られた穴石と交換したところ寸法がぴたりと合ったと
のことなので、これは往時に祖父が依頼した整備・修理によって寸法の合わない穴石に交換されてい
たものと推定されます。なお、香箱内のゼンマイにはニバフレックスと思われる合金が用いられてお
り、数十年は経っている筈の現在もなお充分な弾力を保っていました。鉄ゼンマイに比べればいかに
画期的な素材だったかが伺えます。

組み立てられたムーブメント。 実測してみると、平姿勢では進み、縦姿勢では遅れの傾向があるもの
の、日中は提げ、休むときには置くという生活パターンを想定し、実用上の精度を重視して調整を行っ
て貰いました。

その結果、携帯精度は一週間でマイナス10秒程度。一週間にプラス2秒とかいう数字が出たりする
(さすがにこれは持ち歩くうちに誤差が誤差を打ち消した結果と思われるが、それでも一週間で誤差
10秒未満というのは珍しくない)
23石仕様のアメリカ鉄道時計と比べるとちと分が悪くはありますが、実用上充分な精度が出ている
と思います。ひとしきり堪能したことでもあり、この時計は祖母の手に戻そうと思っていたのですが、
これで自信を持って渡す事ができそうです。
32ウサギさんのイソ修理体験記 9:2012/01/07(土) 11:45:11.99 ID:64lg70DC
Conclusion ――まとめ
このように、今回の修理は結果的に完全な二度手間になってしまいました。特に、見込んで依頼をし
たつもりだった最初のオーバーホールがほとんど無駄であったというのは衝撃的でした。

最初のオーバーホールについて、問題は二点あります。

1) 機械の重大な問題をいくつも見落としていること。

二番車のホゾと受けの磨耗、文字盤下側のテンプ受石留板のネジ折損は、「オーバーホール」と呼ぶ
に値するだけの分解整備を行っていて「気付かなかった」では済まされるようなものではありません。
また、穴のサイズが合わない穴石によるアンクルのガタも、報告によれば「見て解るほど顕著だった」
そうです。

しかし、何の処置も報告もなく「修理完了」とされた以上、これらは見落としたと判断せざるを得ま
せん。

2) 使用に耐えない状態のものを「修理完了」としたこと。
部品がなければどうにもならないケースはあるでしょうから、割れた穴石が交換できないこと自体は
問題ではありません。しかし、穴石が割れた状態で「修理完了」とすることには問題があります。何
故なら、穴石が損傷した状態で使用すれば本来の性能が出ないばかりか、天真の損傷が進んでさらに
状態が悪化するからです。仮に他の部分が完璧であったとしても、この一点だけでも時計としての使
用に耐えるものではありません。

つまり、風防交換や洗浄以外の作業は全くの無駄ということになります。交換する部品がなく、完全
には修理できないと判った時点で修理は中止すべきですし、少なくとも時計の使用はしないよう警告
があって然るべきです。何も知らずに今回の報告を信用して使い続け、致命的に損傷したら取り返し
が付きません。
33ウサギさんのイソ修理体験記 10:2012/01/07(土) 11:45:33.14 ID:64lg70DC
……以上の点から考えると、正直言ってこの「修理」内容はとても評価できるようなものではありま
せんし、技術力、ひいては店の姿勢にまで疑問符を付けざるを得なくなります。決して悪意があると
は思っていませんし、この件だけがその店の全てというわけではない、ということは予めお断りして
おきますが、「私の時計への仕事」に対する評価としてはこう結論せざるを得ないのです (*1 )。

高度な資格と技術志向を謳い、様々な薀蓄や職人としての気概を熱心に説いておられる同店を
(かつての自分も含めて)無邪気に信じる人も多いであろうことを考えると、なんとも残念な結果
(*2) ではあります。

一方、私自身にも反省すべき点があります。

機械の状態を正確に把握せず、記録も取らずに店任せにしたことは大いに反省しなければなりません。
究極的には完全に分解しないと解らないこととはいえ、今にして思えば、できることは色々あった筈
です。

やはり何でも鵜呑み・丸投げにするのではなく、少しでも知識を身に付け、自分で考えながら判断し、
決断せねばならないと思いました。正直言って苦労は多いのですが、趣味を趣味として楽しむ上では
必要な責任だと思います。

その点では、信頼できる店があり、アドバイスを受けられるということは重要です。今回はそれで救
われましたし、かかった費用もまだ授業料として我慢できるレベルでした。こういう問題はこれが最
初ではないし、最後でもないでしょうが、前向きに楽しんでいきたいと思います。
34ウサギさんのイソ修理体験記 11:2012/01/07(土) 11:45:50.73 ID:64lg70DC
解せないのは、同店発行のメールマガジンでは、この受石留板ネジの折損や入れホゾといった、今回
見過ごされている問題に近い内容について言及がなされている事です(それも腕時計の話で)。
こういう話が出てくるのに、腕時計より大型でシンプルな筈の懐中時計の修理が何故このようになった
のか、未だによく解りません。とはいえ、「完了」と称して上がってきた仕事の内容は事実として目の前
に存在していたわけで、私としてはこれを評価するよりない訳なのですが。

(*2)
前にオークションで時計を落札した際、「CMWによるオーバーホール」というオプション(有料)を出品者
から提示されたので依頼してみたことがありますが、届いてみると二番車が油だらけになっていて仰天
しました。

「歯車には潤滑油」というのは機械の常識ですが、時計はその例外で、粘性による抵抗やゴミ・ホコリ
の呼び込みを避けるため、軸受け、ガンギ車とアンクル爪の衝撃面を除いて歯車には注油しないの
が常識とされているからです。それが油だらけというのだから常識外れの整備です(こういうのを
「テンプラ屋」と言うらしいですが…)。

これが個人の問題なのか、資格そのものの信頼性の問題なのかは判りませんが、「CMWって一体……?」
と思ったことがあります。

今回の件も含めて考えると、私にとってはCMWというものの威光が大幅に減じたことは間違いありません。
少なくとも、無条件で信頼することはできないでしょう。(終)