他人の個性を大切に。 生活編

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1おさかなくわえた名無しさん
すべての人が同じ考えをしている社会は、暴走し始めても誰もブレーキを踏まず、暴走をくい止めることができません。
また、個性を持たずに生きる人は、主体性のない人であるということであり、 そういう人は権力に支配され易いのです。
つまり、国民の一人一人が個性を持っていないような国は
ファシズム (全体主義) を許してしまう可能性が強いということなのです。
本来、健康的な社会にはさまざまな個性が存在しているものであり、
すべての人が同じ状態であるのは危険な社会です。
したがって、支配されることを避けるためには、国民は常日頃から個性を持つことを心がけなければなりません。
また、子どもたちに、常日頃から個性を持たせる教育をしておかねばなりません。
「自由」 と 「楽しさ」 が一体のものであるのと同様に、「自由」 と 「個性」 も一体のものです。
すなわち、自由な社会は個性を尊重し、個性を尊重する社会はさらに自由になってゆくのです。
自由のあるところにはさまざまな個性が生まれ、その多様性が織りなす織物が 「文化」 となります。
また、強烈な個性の存在は自由社会を守りさらに発展させてゆくことに貢献します。
人生を楽しんでいる人、自分が本当に欲していることを実行しながら生きている人、
自分が自分であることを楽しんでいる人はとても魅カ的です。個性的魅カを有する人々の存在は社会を豊かにします。
さまざまな文化が融合して新しい文化が生まれるのと同様に、社会に存在するさまざまな個性が融合することによって
新しい何かが生まれ、それが社会の発展を促進するのです。
ところが日本では、「協調性」 ばかりが重視され、「個性」 ・ 「主体性」 は軽視されています。
協調性ばかりが重視される社会においては、個人の自由が尊重されず、
また、各個人が自分を見失ってしまって 「楽しく生きる」 ことができません。
そして、個人の自由が保障されていない社会は、最終的には破滅への道を歩むのです。
2:2010/05/29(土) 00:32:31 ID:SkVynGE3
確かに協調性、チーム・ワークといったものは必要ですが、
それらは強烈な個性と個性が集合し、
互いに火花を散らして激しくぶつかり合うような集団に初めて必要になってくる高度な理念です。
ところが、日本の教育では、子どもたちに個性を持たせるステップを省略して、協調性だけを教育するのです。
これでは 「協調性」 の教育もおかしなことになってしまいます。
個性を持たせずに行う 「協調性」 の教育は、「協調性」ではなく 「均一性」 の教育でしかありません。
日本には 「協調性」 を 「均一性」 のことだと勘違いしている人が多いのです。
均一性に重きを置く教育というのは、多種多様な考え方を認めない非民主的なものであるばかりか、
多数派がすべてを支配してしまう 「全体主義」 を許してしまう危険性をはらんでいるのです。
協調性というのはみんなが同じ考えをすることもなければ、集団の中で個人が犠牲になることでもありません。
各個人が尊重され、また多種多様な考え方が共存するというのが真の協調性です。
今日までの日本において 「みんなが同じであるのが望ましい」 という教育方針は、
教育をする側にとって大変都合のよいことでした。 画一的な教育をして、子どもたちを型にはめこみ、
均一化してしまいさえすればそれでよかったのですから。
つまり、今日までの日本の教育は教師本位のものであって、子ども本位のものではありませんでした。
3:2010/05/29(土) 00:33:51 ID:SkVynGE3
私たちは、みんなが同じであるという理由によって平等に扱われるべきなのではありません。
私たちは、一人一人が異質の個性を持っているからこそ、平等に扱われなければならないのです。
この意味で、日本の教育者の多くは 「平等」 を誤って解釈していると言わざるを得ません。
「和して同ぜず」 というのは 「論語」にでてくる言葉ですが、
まさにこれまで述べてきたように 「協調性は重要だが主体性 ・ 個性を失うな」 という意味の言葉です。
日本では儒教のこうした面はほとんど無視されているのです。
アメリカでもフランスでも、子どもの頃から個性を持つことを教育されます。
英語の “education”(教育) という語は、ラテン語の “educo” (引き出す) が語源です。
教育とは子どもたちに知識を詰め込むことではなく、その子が持っている個性を引き出してやることなのです。
「アメリカ人は個性を伸ばすためのどんな教育を受けるのですか」 と尋ねられた一人のアメリカ人は、次のように答えました。
「私たちは、( 教えられた知識を鵜呑 [うの] みにするのではなく ) あらゆることを疑ってみることを強調して教えられました。
また、自分の得意とするものを見つけ、その特技によって自分の身を支えるようにということも強調して教えられました。
“What  am I ?” ( 私って何?) と問うことは私にとってはごく自然なことであり、
今までに何度も問いかけてきました。」

日本国憲法 ・ 第13条
全て国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、
立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。