1 :
おさかなくわえた名無しさん:
依頼があったので立てました
2 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/07/14(火) 16:25:13 ID:btFbrCgr
期待age
3 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/07/14(火) 16:29:30 ID:0CFazXf7
武勇伝マダー
ボールでB-29を15機堕としたの俺な。
5 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/07/14(火) 16:35:26 ID:XZWIEq8Y
6 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/07/14(火) 16:38:11 ID:Fk11gr5K
最初に黒船みつけて通報したの俺な
俺のじいちゃんは零戦乗りだった
昭和8年生まれのうちの父親は
特攻隊員になるのが夢で14歳になるのを指折り数えてたが
14歳になる前に戦争が終わってしまって泣いたと言ってたな。
夢が打ち砕かれて数年間やさぐれてたらしい。
一方昭和9年生まれの母は、川で泳いでる最中に近所の子が
「戦争が終わったってー!今ラジオで言ってたー」と走って知らせまわって
バンザーイって両手を上げて叫んだって言ってた。
男女の違いが面白い。
>>1うわーい!
建ててくれたんだ!
こんなの初めてだ!心から
>>1乙!!!!(^^)
>>8 うちの父も8年生まれで全く同じです。
ゼロ戦乗りになるのが夢だったって。
空襲がひどく、知人のおじさんが空襲でやられて死んだ姿を呆然と見ていたという話など
よく酔っ払うと話して聞かされたっけ・・・
セピア板とか昔板とか60代以上板がちゃんとあるんですけど。
つらい思いなどたくさんあると思うが
語り続けなくてはならない事実
非常に有意義なスレ
>>1乙
教養スレとしてひとつぐらいあってもいいんじゃないかなと。
原付のスレや小鳥のスレや食べ物のスレがあるように。
有意義だとは思うが、本人による書き込みはかなり少なそうだな
じいちゃんばあちゃんから聞いた話も有りにせんと。
あってもいいとは思うというかどっちでもいいけど、
本当に話聞きたい人はここじゃないほうが人いるよってことで。
>>15 親から子へ子から孫へ
なんかのCMみたいだけど聞き伝えでいいかと
>>16 ムダスレに終わるかもしれないが
そのときはそのときで、終戦記念日も近いし
案外盛り上がるかも?またーり見守って。
じゃあまたーり見守るついでにうちのおじいちゃんの話でも。
父方の祖父は大正の始めの方の生まれだから戦争時はもう立派な青年なので
本当は行く年だったんだけど目が悪いだの大地主の入り婿だのという理由でなんだかんだ行かずにすんだとのこと。
で、都内よりの千葉だったんだが空襲もなく、農家だから食べ物にこまることもなく終戦。
終戦後はかたっぱしから鉄くず拾いをし闇市へ。米も闇市で売りまくりとにかく現金をつくったとのこと。
で、もともとあった自分とこの土地やどさくさにまぎれて誰のかわからなくなった土地と、食べ物や現金と交換した土地とで
かなりの土地をまとまって管理できるようになってから、整備して区画作って川整えてって感じで街を作っていったと。
ずっと不満だった田舎の汚い土地感覚や野外に暮らす人達を戦争のおかげで綺麗にできたのが満足だったとのことだ。
母方の祖父は大正15年生まれ。3人兄弟の末っ子で上二人は骨もなく、戦争で死んだという通知だけきたとのこと。
兄嫁さんなんかは、死んだとしばらくは信じなくて待っていたらしい。
戦争末期、祖父にも赤札がきて、もともと船乗りだったことで魚雷か船にのるはずで訓練もして、
いよいよ明日行く!というか明日死ぬ!っていう前日に戦争が終わって喜んだそう。
表に出したら非国民だのでつるし上げられちゃうけどみんな内心そうだったのかもね。
父親は戦争へ行ったよ、内地だけど。
母親は軍需工場で働いていた。玉音放送を工場内で聴き入って・・・
放送終わった後作業に戻ったら上役の人に、もう戦争終わったから
作業しなくていいんだよ、って言われてみんなハッと我に帰ったって。
うわー凄い
今の今まで戦争だからって兵器作ってて、ラジオ聴いた直後に
あ、もういいよって、凄いよな!
まさに激動の昭和!!
同じ大正生まれでも進んで軍隊に入る人と、なるべく遅れるように
わざと学校に入り直して学徒動員で引っ張られるのを1年でもずらした人がいるらしい。
こないだ亡くなったシャンソン歌手の高英男なども武蔵野音楽学校から日大芸術学部へ進んで
第二期の学徒動員で行ったって話していた。もう戦争も末期のころだけどね。
大っぴらには反戦を唱えないけど抵抗はしていた。
たぶん高英男は大正7年生まれぐらいだからホントなら戦死の可能性大の世代だ。
昭和28年12月で50銭はもう使うのやめようということになった。
翌29年1月正式に50銭廃止。
米穀通帳もない。
ただ砂糖は配給だった。
明治生まれの祖母は大正末期上野の西洋料理店「東洋軒」でレジのバイトをしていた。
髪型から神功皇后(じんぐうこうごう)とあだ名されていた。
同じころ上野の映画館で券売所の仕事をしていたのちの女優飯田蝶子は「テケツの女」と
評判だった。忙しい時はモギリもやっていたらしい。
祖母と飯田蝶子は1歳ちがいで容貌も似ていた。
テケツの女と神功皇后では雲泥の差で祖母の勝ちである。
>>22 50銭ってそんな最近(?)まであったのか。
500円札100円札はお婆ちゃんからもらったけどおばあちゃんは古銭yとか記念コインが趣味だったから
どっから趣味でどっから実用なのかわからなかったwww
25 :
22:2009/07/16(木) 00:21:48 ID:El9dF1bO
>>24 そう、俺も意外だったけどね。
たぶん実質上はもっと前に使われなくなったと思うけど、
タイミングかもしれない。
大正13年生まれの特攻隊でゼロ戦に乗っていた人に聞いたのだが、
ゼロ戦はホントは零(れい)戦、零(れい)式戦闘機という。少なくとも戦時中はそう呼んでいた。
大正12年生まれの大学中退学徒動員で士官だった人も同じことを言っていた。
ただ軍ヲタの一部は戦時中からゼロ戦と呼んだと言う人もいる。
所栓軍ヲタは戦後の生まれだし当時の資料をいろいろ引っ張ってくるが、
マスコミの一部がゼロ戦と呼んでいたのを戦後一般化したとする説が有力。
敵国の言葉を使うの禁止だから当たり前では、
野球のストライクが『よし』といってたぐらいだから。
うん、海軍兵学校や陸軍士官学校はエリートぞろいで
戦争中でも英語を習っていたらしい。
もちろん敵を知らなきゃいけないという意味だろうけど。
ゼロ戦ってよぶかレイ戦って呼ぶかは
祖父母に聞いた人なのか、向こうの軍オタやTVの影響なのか、によりそうだね。
うちの祖母は戦闘機の名前とかまったくわからなくてみんな一緒に思えたとか。
でも横須賀が比較的近かったので戦後に人づたいだか井戸端会議だかで知って覚えたって言ってた。
そのせいかゼロ戦って呼んでた。
そんなことはないだろうが、太平洋戦争当時のレイテ沖戦と間違いやすいとか、
戦後の東西冷戦と混同するからとか、GHQ指導の英語教育によるものとか
言葉ひとつとっても戦前戦後とわかれるのはとても興味深い。
>>28 碑という本を読むと、広島市の旧制中学では昭和20年に英語の授業があったと書いてあったぞ。
田辺聖子さんの通っていた女学校は廃止されたというから、学校長の裁量や教育方針で英語教育の有無が
決められてたんじゃないの?
>>31 昭和20年は終戦の年だけど、戦争中でも旧制中学とかあと一部の高等女学校
なんかでも秘密で教えていたかもね。
机の下に教科書を置いて授業やってたという話を思い出したよ。
有り得ることなのか分からないけれど憲兵隊が来たら隠すつもりだったのかもしれない。
母に聞いた話。
戦前から喜劇王として名を馳せた榎本健一、通称エノケン。
町の公民館に「エノケン来たる!」と書かれた垂れ幕が掛かった。
出かけて行ったら「エノケソ」だった。
戦争体験じゃないけど、母から聞いた話。
昭和24-5年頃、中学を卒業して集団就職で千葉の紡績工場に就職したそうだ。
すごく待遇がよくて、全寮制で食費も寮費もほとんどかからなかったとの事。
医療費もタダ同然だったので歯の治療とかやりまくったらしい。
その代わり給料は激安。
綿を扱う工場で綿ぼこリが凄くて環境は劣悪、大半が胸をやられて結核になって
退職していく人や亡くなる人も多かったとか。
工場の雰囲気は映画の「ああ野麦峠」と似てたと言ってた。
母はとにかく体が丈夫で、虫歯の治療以外医者の世話になった事はなかったらしいけど
寮で同室の仲の良かった子が結核にかかって家に強制的に帰されたのが悲しかったと言ってた。
「結核になると肌が蝋みたいに半透明になって綺麗なのよ〜。
でも病気の綺麗さだから怖かった」と話してくれて、それが未だに頭から離れない。
ちなみに母くらい丈夫で病気にならない子も珍しかったらしいw
今はもう鬼籍に入っちゃったけどね。
>>34 祖母がその少し前に集団就職で秋田から東京へ、織物系だったか洋裁だったかな。
そして集団見合い(?)で結婚が決まってから祖父と初めて会ったそうな。
恋愛結婚だと思うくらい年取ってもラブラブだったけどなぁ。
昔というか高度成長期は集団就職って当たり前だったんだね。
戦争をしらない子供達な自分には不思議な世界。
そういえば母が幼いころ(昭和30年代〜40年代前半かなぁ)に祖母が乳がんかもしれないってことで
検査に行ったそうだ。
本当は入院しなきゃいけなかったそうなんだが、下の子が幼いからって無理言って日帰りで帰ってきたらしいんだが
胸乳首の脇が3センチ位の立方体で繰りぬかれて包帯していても服まで血まみれの姿で帰ってきたんだと。
結局幸いなことに癌ではなかったのだけど、検査でそんなにくりぬくってこわい。
現代に生まれてよかった。
>>32 残された日記帳にも、「英語の授業があった、英語の試験があった」という記述があるし、
時間割にも英語の表記。
ついでに、遺品のノートにまで英語のものが。
男の子は陸軍や海軍の士官を目指す子も多かったろうから、英語の授業がなけりゃあ困る
だろうね。
>>28 海軍用語には英語のものがいっぱい…もうこれで慣れちゃってるから今さら日本語に直して
覚えなおしてる暇がない、そうだ。
>>34 親戚の伯母さんで大正10年生まれの人が戦争中肺結核にかかった。
幸い裕福な家だったのでストレプトマイシンを処方したり庭で飼っていた山羊のお乳を
飲ませたりして命を永らえたが、とうとう昭和29年に33歳(女の厄年)で亡くなった。
12、3年患ったわけで家族の経済的負担は大きかった。
死の床でそばにいた彼女の妹に結核が移ったが、妹はすぐ治って
現在でも86歳で生きてる。
昭和9年に渋谷の東横デパートが創業されたころ祖母は道玄坂の近くに
住んでいて、忠犬ハチ公は老犬だがまだ生きていたので時々見かけた、と言う。
身体が汚れでブチになっていたそうだ。
翌10年の3月には死んでしまった。
一説には飼い主を待っていたのではなく、駅前に餌をくれる人がいて
それ目当てで来ていたという話がある。
>>38 忠犬ハチ公の事、聞いた事あるなぁ。
ちょっとガッカリもしたけど、その方が救われる気もするな。
もう帰ってこない主人を待つより『あそこのご飯が食べたい』と
通ってる方がずっといい。
シベリヤに抑留された人の話聞くと冷たい湖に2週間以上浸かって
目の前でバタバタと戦友が死んでいった、と。
捕虜になったら要領よく片言のロシア語で軍看護婦と仲良くなれば
食料など余分にくれたりしたそうだ。
そういう人は生きて帰って来れた。
内地だけど兵隊さんは毎日ビンタばかりでやりきれない。
夜ベッドで寝るときはくたくたであっという間に朝がくる。
だけど男同士で一つの布団に寝てた人もいたそうで、慰め合っていたのかもしれない。
実話です。
うちの親はS9の南洋(サイパン)生まれ。
ちょっと関係ないけど、戸籍見ると本当に「南洋にて生まれた」みたいに書いてあって
南洋っていうのは通称だと思ってたんでビックリした事がある。正式名称だったんだな。
祖父が南洋に渡って事業をやって成功して、かなり大きい家にたくさんの現地の使用人がいたらしい。
母の記憶では家に大きいほら貝があったとか、おやつはバナナばかりだったとか言ってた。
で、戦争になったので、もしくは戦争が激しくなったので日本に戻ってきたそうだが
現地で祖父は病死。家建物財産は全て国に没収されて、
手元にはカバン一つ分の現金がかろうじて残ったそうだ。
でも小さい子供も多くて、祖母の実家の福島で農業をやって生活して、子供が小さいうちに
そんなカバン一個の現金なんてあっという間になくなってしまって超貧乏になったとか。
祖母から話を聞いたのは自分が小学校低学年くらいだし、母の記憶は4、5歳で止まってるので
かなりあやふや、今こうやって書いてても矛盾だらけな気がするんだが
なんかまあ色々大変だったらしい。
私は47歳だけど、小さい時に父(8年生まれ)からよく戦争の話なんかを聞いていた。
子供心に飽き飽きとしてうわの空で聞いていたんだけど、
この歳になって今更なんだけど、祖父母や父母のそういう体験の話を
もっとたくさん聞いておけば良かったと思う。
麻布の質屋の息子さんだが大正生まれの人、麻布中学から慶応に進んで
そのまま戦争へ。
もう戦争末期のころか南洋の島でさまよい、ヘビなど食べて生き延びていたが
戦友たちは力尽きて死んでいく。
死に物狂いで戦友の肉を食った、という話。
>>43 自分も44歳で戦争時の話は好んで聞いていたけど
何しろ田舎だったので空腹だったって話ばかりと
母も終戦の頃でも11歳だったし、これから先戦争体験を
リアルに知ってる世代はどんどん減ってくし、その親から直接話しを聞いた
自分達の世代も中年まっしぐらだし、どんどんリアルさがなくなっていくんだろうね。
自分ももっとたくさん聞いておけば良かったと思うよ。
南方の島で特攻隊に所属してた人に、両親が昭和20年3月10日東京大空襲で
絶望的と報せが入った。すぐには戻れず5月に休暇をもらいいったん東京へ戻って
みたが付近一帯焼け野原で誰に訊いても行方を知っている人はいなかった。
両親の遺骨も見つけられず墓にも埋葬できず、天涯孤独になってしまった。
という話。
朝鮮半島からの引き上げ夫婦と子供たち。
なぜか妻が、朝鮮でしか使えない現金を大量におむつ入れの下に隠し持っていた。
あとは着の身着のままでの日本上陸。
夫(歯科医)は、妻に「お前あほか!!」と言ったが、妻は、「捨てようと思えば捨てられる!!」
と。
…ところが、朝鮮へ帰る人たちが逆に「そのお金と交換してくれ!!」と大量の日本円を持って
やってきた。
そのお金で、歯科医を開業するための医療器具を一式購入できて歯科医はでめたく再開。
夫は今度はあべこべに、「お前、すっげえ偉い!!」と大喜びでしたとさ。
どっとはらい。
48 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/07/27(月) 23:48:59 ID:Eir+3Lgr
38
映画ハチのCM流れているけど辛い。
本物のハチ公は野犬狩りに保健所に連れていかれそうになったけどそこの駅員さんに助けられたて聞いた。
>>39死んだハチの胃から串が見つかった事から餌をやったのは焼き鳥屋で、
死因もそれなんじゃないかとの説があると何かで読んだ事がある。
>>44人の死肉を食う程の空腹ってのがわからないんだよなぁ…
休みの日とかたまにめんどくさくて空腹を我慢して一日過ごす事が
あるけど、峠を過ぎると平気になるからさ
その先にホントの空腹地獄が待ってるのかな?
>>49 自分の意思で面倒くさくて1、2日飯抜きで空腹をちょこっと我慢を我慢するのと
普段からロクな食べ物もなくて栄養状態が悪い上での死のギリギリまで空腹で
しかもその気になっても食べ物が一切ない逃げ場のない極限状態を一緒に語るのかね…
お前さんはまず水だけでニ週間くらい過ごしてから同じレスをする事をお奨めする。
>>49 若いころは、人が手に持って差し出した焼鳥串をぱくっと銜えて、挿してあるものだけを抜きとって食す名手だったそうです。
(串は人の手に残る)
それができなくなるほど衰えていたのではとも言われてます。
4日水以外口にしなかったことがあるけど手足が痺れてくるし立っていられなくなる。
空腹感じる1〜2日の峠を越すと空腹は感じないんだけどね。
だから空腹感よりも本能で何か食べられるものを求めるんだと思う。
人間は1〜2日ぐらい食わなくてもなんの問題もないんだよね。所詮「空腹」のレベル。
もっと先の極限状況では人間の身体は自分自身の脂肪や筋肉を食いまくって命を繋ぐ。
腹が減るなんてレベルじゃなく身体が減る。
どうしておなかがへるのっかな〜
おなかと背中がくっつくぞ♪
祖母は戦争そのものの話より、誰々が公職追放されたという話をよくしていた。
(そっちのほうがインパクトあったらしい)
56 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/07/31(金) 16:41:03 ID:6tlR4dib
祖母は大政翼賛会に所属してました。
愛国婦人会はどうか分からない。
祖母は右翼でも何でもない。
給食の脱脂粉乳は昭和20年に永田町小で始まった。
翌21年からは通称シチュー、中味はミルクににんじんなどの野菜をきざんで
混ぜただけのもの、を導入。どちらも不味い。
パン食は大いに受け入れられたが、脱脂粉乳のせいで生徒たちは下痢が多くなった。
脱脂粉乳はGHQの御達しであるので相談したが却下された。
10数年後の昭和35年には60年安保が起きて、昭和38年にはまた脱脂粉乳論争に火がついた。
是か非か。是は安全で優れている(下痢しやすいのに?)。非は家畜の飼料だと。
脱脂粉乳が牛乳に変わったのは昭和40年代になってからだった。
アメリカは日本の児童にパン食を推進させ、小麦の輸入拡大を狙った。
脱脂粉乳が本当に身体に良かったのか分からない。
>永田町小保健のF先生から聞いた話
戦後間もなく、うちの街の大祭が復活した時のお話。
神社に入ろうとする神輿と、それを阻止する鬼の攻防戦(鬼は、神輿が通る道に人が入らないように威嚇したりもする)
があるんだけど、鬼は口をきいてはいけないし、お面も取ってはいけない。
…その時いた進駐軍の兵士やその周りを、鬼達がしばくしばくwww
ぼこられた兵士もいるとかいないとか。
市民全員、鬼の狼藉見て大爆笑。
当然、誰がやったかなんて全く判りませんでしたとさ。
渋谷の道玄坂の途中に恋文横丁という路地があるんだが、
昭和20年代まだ水洗でなく汲み取り式だった。
道が狭くバキュームカーが入れないので天秤棒を担いで汲み取った
桶をぶらさげてる人が歩いていた。
飛んだ恋文横丁だ。
ドウジュンカイにまつわる話ねーかい
>>62 祖母が戦災で被災者居住権というものを持っていて日本橋に住んでいたころ、
終戦後まもなく同潤会アパートに住まないか、と誘いがあったらしい。
表参道ではなく代官山の方だったと思う。
同時に候補に挙がったのは六本木の今はハリウッド化粧品のビルがあるところ、
の土地を買わないか?って来たらしい。
でも結局どちらも買わず赤坂に土地を買った。
64 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/08/05(水) 12:02:55 ID:f8CmB/ZX
すげー
65 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/08/05(水) 12:23:06 ID:iED3wjAT
うちの祖父に、
本当にアメリカに勝てると当時の人は思ってたの?と聞いたことある。
そしたら、みんな勝てると思ってたと言ってたなあ。
はだしのゲンの父ちゃんみたいな人は周りにはおらんかったって。
学校の先生と言ってる事と全然違ってたから、
小学生だった私にはどっちを信じていいか分からなかった。
今思えばバリバリの日教組の教師だったよ
66 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/08/05(水) 13:54:47 ID:uOM+ps4k
祖母は戦争のことになると
「だって新聞は勝ってる勝ってる言ってたじゃないか」とよく言ってた。
大正元年生まれの母方の祖父は、徴兵されたことが一度もない。その理由を祖母・おじ・おば・母に聞いても誰も分からない。別に大金持ちとか学者だったりだとか、そういう人ではない。
祖父が生きているうちに謎を究明しておきたい…
>>67 結核の陽性反応でも出たの?
喘息だったの?
体が大きすぎて合う軍服がなかったの?
逆に小さすぎたの?
女の子みたいな名前だったの?
地域にもよるよね。
あと意外と住民表だかなんだかがなかったり。
70 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/08/05(水) 16:02:55 ID:a7LQkuMn
うちの祖父も終戦直前まで招集されなかったらしい
戦争末期に徴兵されて鹿児島だかに赴任した直後に終戦になって
何もしないで帰ってきた
>>70 うちの祖父とまったく同じだ。
徴兵されたけど即終戦で帰ってきた。
良いお年頃だったんだけど、末期まで徴兵されなかったのは今思えばラッキーだよね。
当時はそれはそれで思うところあったんだろうけど。
終戦当時14歳だった母の記憶
戦後進駐軍が入ってきてはじめて米兵を見た感想は
「なんて足が長くてお尻が小さくて格好いいんだろう」だったそうです
うちのじーちゃんは戦中に食料を担当する班にいたらしい。
更に上官がとてもいい人だったらしく、食に困るという事がほとんどなかったそうな。
お陰で徴兵前より太って帰ってきたってばーちゃんがキレてた。
伯父に聞いた話。
高校の体育大会は所属する軍の部隊ごとにわかれて競技を行っていた。
伯父は足が速く、リレーで一番になり筆箱とノートが景品だった。
シンガポールで食べたバナナは上手かったが、
フィリピンで食べたチャーハンは油がベトベトでまずかったらしい。
戦後はコロッケの唄が流行っていた。
歌手は忘れたと言われた。
昭和最高!!
今日もコロッケ明日もコロッケ〜♪
昭和30年代前半はコロッケは10円だったと思う。メンチが20円で。
薄いカツレツは30円、50円、70円と大きさによって値段がちがった。
おそらく昭和20年代はコロッケは5円ぐらいだったかもね。
昭和30年代のあんぱん、クリームパン、チョココロネが10円で食パンが30円。
昭和30年代の映画(成瀬巳喜男など)なんかを見たら、うろ覚えだが
ラーメンが40円、やきそば40円、タンメン(もやしそば)50円、チャーハン60円、餃子30円
ぐらいだった。
77 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/08/08(土) 18:11:13 ID:51EUVcW6
うちの父は満州帰り。
戦後、祖父、祖母、父(10歳)、叔母(8歳)で引き上げたそうな。
引き上げのときに、満州から港までは徒歩。
途中でお亡くなりになる人も少なくなかったらしい。
お亡くなりになった方は、衣類等、剥ぎ取られてしまったらしくて
「朝、歩いてたら、裸のオンナノヒトが氷漬けになってた。
なんでか、とってもキレイに見えて、今でも覚えてる」
だそう。
日本に帰る船に乗るとき、叔母が乗り込む前にゲートが閉められてたそうだが、
ゲートの外の人が、叔母をゲート越しに放り込んでくれたそうだ。
叔母、残留孤児になるところだったんだな。
じーちゃんのおじは戦艦大和の船員で海に沈んだらしい
遺影は今でも飾ってある
ばーちゃんは小中学生?の頃炭鉱に疎開してたそう
空襲で爆弾がひゅーひゅー落ちてくる音覚えてるって
炭鉱は物資が優先されて送られてたらしく
食べ物はさほど困らなかったって
祖父は満州鉄道で設計の仕事をしていました。再婚した妻と暮らしていた。
その後韓国に移り、京城(ソウル)の日本人街にいると知り、私の父(祖父の前妻の子)が
訪ねていった。
父は祖父を写真でしか知らない、父が赤ん坊のころ祖父母は離婚したので初対面だった。
3人で引き揚げてきた、といっても戦時中なので単なる帰国と言うのかもしれない。
父は帰るやいなや戦争へ行った。
祖父は朝鮮戦争のころ病死しました。
80 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/08/09(日) 07:46:30 ID:w5438HRK
母に言わせると、海岸で弾を拾って屑鉄屋に持っていくとお小遣いになったと言ってた
それが幼児のやることなのかと思うが、終戦当時は日本中が感覚ぶっ飛んでたんで
それもありだったのかもしれない。
>>80 おふろの焚きつけに、焼夷弾を使ったとかいう話も聞いた。
不発弾拾いで小金を稼いでた人の中には、当然爆発で大けがを負った人が何人も。
82 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/08/09(日) 08:32:50 ID:9EwLFUZJ
じいちゃんは海兵さんだったとばあちゃんに聞いた。しかも赤紙が来る前に志願して行ったんだって。
というのも、先に同じ村から徴兵されて海軍に行ってた人が、何かの用事で一度帰って来た時に着ていた軍服がカッコ良すぎてシビれたかららしい。
また海軍のメシは美味いから、というのもあったとかで、戦う理由が「お国のために」じゃなく「カッコいい軍服が着られて美味いメシ食えるから」だったじいちゃんwww
ちなみに戦後も自ら進んで自衛隊に入隊。ちゃっかり色んな免許を取りまくったとのこと。
83 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/08/09(日) 17:32:47 ID:LHwoELqv
>>79さん
77ですが、うちの祖父も満鉄なんですよ〜!
うれしいなぁ〜!
家に満鉄の記念品のネクタイピンとか、なんでか銅鏡の形の文鎮とかあります!
79さんのおじい様は朝鮮戦争でお亡くなりになったんですが・・・。
うちの祖父は、日本に戻って国鉄に勤め
私が生まれる何年か前になくなりました。
じーちゃんに会ってみたかったなぁ。
84 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/08/09(日) 17:37:20 ID:LHwoELqv
77ですが、私信みたいなの書いてしまったお詫びに
母方のじーさまのお話を。
母方の祖父(母の父ね)は、看護師で赤十字船に乗ってたそうな。
第二次世界大戦中も、赤十字船はどこの国籍でも攻撃しちゃだめ、って決まりがあったんだって。
だから、祖父は無事に帰ってきて、
戦後混乱期、医学的知識と多少の医療品を持ってるってことで
近所の人に重宝されたそうな。
母とその妹弟は、祖父が持って帰ってきたコンドーさんを風船と思って
膨らませて遊んでて、祖母にゴラぁ!!って怒られたそうな。
子供の父は祖母に背負われ、空襲の町を逃げた。
空を見上げると、米軍の飛行機がキラッと光っていたと…。
焼けた町も家も何もかもその目に焼き付けて、小さな父は何を他に感じたんだろうな。
うちの母は空襲で焼け出されて逃げ惑ったが、
うちの父はそれを山ひとつ隔てた隣町で見ていて、
きれい・・・と思ったそうだ。
空が真っ赤できれいだったらしい。
>>83 >>79ですが、祖父は腎臓病で亡くなったのです。
時期がたまたま昭和26年だったので朝鮮戦争のころではないか?と思い
書きましたが違っていたらすみません。
父が祖父危篤を聞いて駆けつけました。間に合ったかどうか分かりません。
死に水を取ったそうです。
前後しますが、ソウルに会いに行って再婚した女性と面と向かった父は
年令も8歳しか違わずあまりの美貌に赤くなったそうです。
これは私の推測ですが父は召集が来る前に生みの父親に会っておこう、
と思ったんではないか。戦争へ行ったら死ぬのは当たり前ですから。
幸い生きて帰ってきたので、私がいますw
じいちゃんにお尻の弾痕を見せてもらった
もしお尻じゃなく男根にヒットしてたら俺はいないんだな
>>84 はだしのゲン乙
とある町の薬屋さん、大阪の薬問屋から大量の薬を購入した。
もう、そんなに買って支払いどうすんの!?というくらいの勢いで。
…そして、大阪は大空襲にあって、請求書は一通も来ず、要するに、ただで大量の薬をゲットした格好に。
その後すぐ、その街も空襲にあった。
空襲の炎は、薬屋さんのすぐ真下まで迫ってきたが、薬屋さん無事。
大量の怪我人のための薬は、ほぼその薬屋さんの独占販売状態。
ついでに、原爆まで落ちたので、薬屋さんはまるで盆と正月とクリスマスがまとめて来たような大繁盛。
今でもその時の蓄えを元手に、病院とも提携を結んで栄えまくっておりますと。
>>89補完
市街中心部の薬屋は当然全滅。
ほかの数多ある薬屋はすべて「いつ空襲が来て焼けちゃうかもしれないから」と言う訳で
少量しか仕入れていなかったので、すぐ在庫が無くなってしまったそうです。
母は北関東の商業地の街中の生まれ。戦前の話。
散歩はいつも在(ざい)の田んぼや畑へ遠征していた。
3つ上の姉といっしょに森や林にも出かけたそうだ。
そうすると決まってうんちがしたくなる。
姉を田舎道に待たせておいて林の中で野糞したそうだ。
戦前の北関東はのどかな里山や農村地帯が残っていたんだと思う。
中野ブロードウェイの最上階は住居で高級物件だったって聴いたけど
今もそうなのかな?
渋谷の名曲喫茶ライオンは昭和元年創業。
でも戦災で焼けたので昭和25年に改築した。
この間のりPと夫が職質受けたのはライオンの前の路地。
時代は変わってしまった。
昭和20年の3月10日東京大空襲があって下町は焼け野原になったのは有名だけど、
実は横浜や大阪でも空襲はあった、ということを最近知った。
>>94 日本中の都市がみんな空襲されましたがな。
んで、大阪や東京から疎開してきた人が、広島の学校に我が子を転校させて、大量に原爆で死んでいる。
>>96 神戸が空襲されるようになったので、一家を挙げて瀬戸内の島嶼部にある故郷へと疎開した家がある。
そこのお嬢さんは、大変おつむりの程度のよろしい方だったので、内務省(特高警察を管轄していた
ところです)の事務員という、男の方でもなるのが難しいお仕事に就かれることとなりました。
…ところで、当時の内務省は、産業奨励館の館内にオフィスを構えておりました。
お嬢さんは、現在においてもなお消息不明です。
遺骨も遺品も発見されておりません。
その日は、勤労動員で市内中心部の建物疎開に向かっていた模様です。
「全身やけどで横たわっていた」という、不確かな目撃情報があるだけです。
明治大正生まれの女性って女子大しか行けなかったんでしょう。
神戸女学院とか有名だよね。
田中園子ってピアニストはヴァイオリンの諏訪根自子の伴奏したりした人
だけど神戸第一高女卒、これは神戸女学院とは別か。
あと森光子も京都府立第一高女卒かなんか。
>>97 そういえば思い出したけど、昭和8年ごろの生まれの女性が
広島原爆の時に疎開?で広島にいて何キロも先のピカッと光った方向へ
歩いていった、という話を聞いたことがある。
その人その後ちょっと頭がおかしくなったらしい。元は聡明だったとか。
元々は和歌山出身で大阪に住んでたとか。
当時にまつわる不思議なお話して
不思議な話ではないが一発。
とある中学校に、原爆で天涯孤独の身の上となった少年が通っていたそうな。
孤児院からかと思えばさにあらず。
…同棲しているキャバレーのホステスのおねいさんのアパートから。
当然、学校にかかる経費も、全ておねいさん持ち。
要するに、中学生にしてヒモ。
>>98を見て思い出したけど、そういえば伯母は学制改革の年
高女から男子中学(翌年より共学高校)へ、編入試験受けて編入したと言ってた。
>>101ええのお!
て事は当時は大人のペットになる子供がたくさんいたのかもね
コワス…
>>101>>103 おまえ達の心がヨゴレきってるだけ。
助けあって生き抜いたんだろう
おねーさん役に米倉決定。
>>105 自分もそう思ったな。
弟を戦争で亡くしたおねーさんが、弟を引き取ったつもりで
姉弟ごっこをしてたのかもしれない。
まあ本当にヒモだったのかもしれないけど、中学生とやりたいって女性はあまりいないと思う。
ちなみに、中沢啓治氏の同級生だったそうだけど、当時はこういう血縁関係のない家族が結構いたそうです。
泣ける、
はだしのゲンも死んだ弟そっくりな奴を拾って連れてたよね
はだしのゲンを買おうと思って本屋行ったら文庫のほうが高かった。
今はそうなんだね。
数年前ちばてつやの「紫電改のタカ」を買うときも文庫のほうが高かった。
文庫版は不適切な言葉が書き直してあるから止めれ。
戦前の「綴方教室」という映画は豊田正子という葛飾小学校の生徒の書いた
ものが原作だが今じゃ伏字にしなきゃいけないような箇所があると思う、
が、文庫本を立ち読みしたら案外ふつうに印刷してあった。
戦前日本生命日本橋支社(東京)は日本橋高島屋の建物の中にあった。
祖母が働いていて高島屋の屋上で撮った写真がある。和服姿w
戦後まもなく祖母は営業であちこち廻っていたがアメリカ大使館に行った時
大型の犬に吠えられて追っかけられ死ぬと思ったが大使館員に助けられた。
帰りにお詫びのつもりかマッカーサーが使っていた紅茶セットの陶器を
プレゼントしてくれた。
マジかよ
つーか勝ち組臭がプンプンするお家柄に嫉妬
かなり小さい頃祖母に聞いたんで記憶が少しあやふやだけど
ラジオで終戦と聞いて、すぐに家に走って飾ってあって天皇陛下の写真を外して
床に叩きつけたとか言ってたな。
何でそんな事したの?と聞いたら「さあねぇ〜。腹が立ったんじゃないの?」と
他人事のように言ってた。
実際は複雑な思いが色々あったんだろうと思うが、その話を聞いた時は
『いくら戦争が終わったからといって、直後だったら不敬罪とかにならなかったんだろうか』
と子供心に心配になったが、近所の人は見てたけど何も言わなかったらしい。
脱走兵を告発すると2階級特進した。
脱走少年兵が二人ばかり、憲兵につかまってリンチで殺害された。
ちなみに、かくまったふりをした村人の密告。
とある島でのお話。
見ている方が辛くなるほど凄惨なリンチだったという。
徴兵制復活を唱える奴はおめでたいと思った。
血の気が多い人は志願で戦争に行ったけど、内心戦争なんてと思ってた人は
旧制高校、大学と進んで遅らせることもけっこうあったようだ。
ただ戦争末期は焦り気味だったので学徒動員で立派な大学の学生も
駆り出された。
自分は、ラッパ吹きをやりたくないので、何度も「他のとこに変えてください」と言いました。
そしたら、「変えてあげる」と南方に行かされました。
人間、可愛げのない奴はすべからくこうなります。
水木しげる
昭和8年、今の天皇が生まれた時に歌ができた。
「皇太子さまお生まれに・・・」
昭和15年(1940年)紀元2600年を記念して歌ができた。
「紀元は2600年・・・」
そのままじゃん。
昭和8年生まれで麻布中学に通っていた人の話。
放課後元麻布から今でいう地中海通りに降りてチンチン(路面)電車に乗り、
恵比寿方面もしくは千駄ヶ谷方面に銘々帰る際、
東京女学館の女子生徒と車内で一緒になるのが楽しみだった、という。
麻布中高は男子校なので女子に飢えていた。
女学館の生徒で一番可愛い子を麻布の子は内々でミス館(やかた)と呼んでいたそうだ。
大正時代の身の上相談
当時の読売誌上での投稿を集めたもの。
面白いからおすすめ
ただし作者と言うか編集した奴(今のね)のコメントがなんかキモいと言うか
イライラする。
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
>>123スレタイを百万回読み直して下さい
戦前生まれの人を見ると、色々話を聞くことにしています。
その時、「ひょっとして、戦前は、昭和40年代初頭の水準に達してたんじゃないですか?」
と訊いてみたら、「そうだね。都市部の生活水準は、昭和16年の時点で昭和40年代初頭に
達してたよ。」とのことでした。
戦争がなかったら、アメリカより先にテレビ放送がスタートしてたはずなんだよなあ。
>>125 NHKでカラー映像で観る昭和みたいな番組やってたけど、戦前の東京の発展振りにびっくりした。
昭和30年代の映像とあまり変わりかったよ。
つべで「戦前 東京」でサーチをかけると、確かにすごいですよね。
DVDもあるみたいだけど、レンタルできたらいいのに。
米穀通帳のことを団塊の人は知っているみたい。
砂糖の配給も昭和29年ごろまであった。
その配給の貴重な砂糖を、昭和9年生まれのうちの母は子供の時
隠してあったのを探し出して日本酒に溶け切れないほどぶちこんで
日本酒に塗れたジャリジャリの砂糖を舐めるのが好きだったと言ってた。
もちろん酔っ払ってグデングデンになって、祖母に見つかってしこたま怒られて
それ以来砂糖も酒も見つけられない所に隠されたと言ってたなぁ。
そんな母は大人になってからはほとんど酒を飲まない人だった。
131 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/09/06(日) 16:29:10 ID:lncE3dw+
あげますよ
132 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/09/06(日) 17:10:58 ID:62hnM3tr
父方の祖母(大正生まれ)や母方の祖母(先に同じ)の女学校の卒業アルバムに卒業生の住所録が付いていたが、台湾や朝鮮半島の住所の人もいた。
話を聞いてみたら、貿易商や役人の娘さん達で、親の仕事の関係で卒業後の住所がそこになっていたらしい。
今なら、個人情報保護の観点で、卒アルであっても住所は晒さないよな。
わりと最近まで住所載ってたけどね
東北の秋田あたりは戦前、
「娘身賣りの際は當相談所におい出下さい」って看板が掛かってた。
お父っつあんは炭鉱に壱拾圓札3枚で売られて奴隷のように働かされる。
脱走が見つかると体罰を受けて死に至らしめる。
おかげで、昔の農村の女は売り物にならないブスばかりだった。
それが今でも尾を引いて田舎はブsry
とにかく、今街中に可愛い子が歩いてるのは売春禁止法のおかげです。
大正生まれの人で戦争から帰ってきて軽井沢の「万平ホテル」でボーイの
アルバイトをしていた人は東京の霞会館でも働いて
とにかく外人ばかり。
男1人に女トラック1台分と言われ選び放題だったそうです。
駐留米軍基地やキャンプで働いていた人を別々に知っているが、
共通して言ったこと。
waterじゃ通じない、「ワラ」と発音する。
うちの祖母は戦中戦後、闇の外国タバコを売って歩いたらしい。
エアーシップ、ゴールデンバット、キャメルなど。
ゴールデンバットは国産じゃね?
今買える煙草で一番古いのはやっぱゴールデンバットかな?
戦争中、闇米を持って線路伝いに歩いていると向こうから憲兵がやってきて
仕方なく線路の枕木に米をザラザラ捨てて逃げた。
戦争中か米のご飯が食べられないからじゃがいもを混ぜて、
むしろじゃがいもが多いので辟易して昭和10年前後の生まれの人は
一生分じゃがいもを食べたので大人になってからじゃがいもは一切
口にしない人が多い。
>>142 同じ理由でかぼちゃとさつまいもも。
うちのママンがちびの頃、お米を研ぐために(当時の子供はおさんどんのお手伝いをしたのだ)
「麦が3合、米が4合…」とはかっていたところ、同級生の女の子に、「ミキちゃん、間違って
ない?お米と麦の量が逆だよ」と言われたそうな。
ママンの家では田んぼがあったのでお米の方が麦より多かったんだよね。
知り合いの元零戦特攻隊の人が亡くなった。
8月17日に飛び立つ予定だったが15日に終戦になり助かった人。
病気が元で最近82歳で亡くなったよ。
昭和9年生まれのうちの母もご飯の代わりにサツマイモやカボチャを食べまくった
具の全くない薄いスイトンばかりだった、白いご飯なんて食べられず麦飯だの
水みたいなおじやばかりだった。具は芋のツルだった。
小麦粉を薄く水で溶いて醤油垂らして焼くのがごちそうだったとよく言っていた。
ただ、祖母も母もそれらの食事は結構好きで(うちが貧乏だったせいもあるかもしれないが)
ジャガイモやサツマイモ、カボチャをふかして塩振っただけとか、
ほうれん草程度の具しか知れてないスイトンとか小麦粉に醤油入れてごま油で焼いたのとか
しょっちゅう作って「昔のは不味かったけど今のは美味しいよね〜」と楽しそうに食べてた。
ただおじやだのお粥は戦争中を思い出して好きになれないと言ってたな。
おじやはダメでスイトンはいいのかよ!と子供心にこっそりと突っ込んでたw
146 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/09/27(日) 23:16:07 ID:JfUheQhX
スイトンて見た事無いけどすげー不味そうだよな
一時間でいいからタイムスリッピンギングしてみたいなー
って アゲ↑
>>146 いや、結構美味いよ。
具沢山にしてうどんみたいにして食うのが好き。
小麦粉を少し緩めに溶いて高い位置から平べったく落とすとツルンとして美味い。
戦時中戦後のスイトンは、具なんかほとんどないか、あってもそこら辺の草とか入れて
出汁も取らず醤油か塩でうっすら味をつけただけの、小麦粉もほんのちょっとしかないから
それは不味かったらしい。
沖縄ではモービル天麩羅なる物があったらしい
恐らく過激度ナンバー1の戦時食だと思う。
うちのばぁさまが珍しく戦時中の話を語ってくれたのでちと聞いてくれ。
戦争中は家具なんて布団と服一つ。
食べ物と言えば芋をふかしただけだったりたまにお米を炊いて。
あとは野菜を生でかじるだけ。
ほんとあの頃は楽で良かったわ。家事なんて何にもしなくてよかったから。
との事。うちのばーちゃんにかかれば戦時中もパラダイスみたいなもんだったらしいw
>>148 野坂昭如の小説でも、機械油でチャーハン作ってえらい目に遭うという描写があったな。
消防の頃、田んぼで長さ40cm位の不発弾見つけて、自転車の後ろに乗っけて持って帰った。
まだ鉄屑が小遣いになる時代だったが、なぜか家の人が大騒ぎして、呼ばれたお巡りさんが
持っていった。ネリマ区小竹町の辺り。
戦前の銀座を歩いてみたいなあ
戦前は預かりっ子が家の手伝いをし、川に水を汲みにいくことが日常として
あったらしい。井戸が無く上水もちゃんと無ければ当然なのかもしれない。
昭和36年頃、中学で給食の替わりに牛乳が出た。1合(180mL)のガラス瓶に入ってたが
中身は脱脂粉乳。まずいので飲まない奴の分まで5本ぐらい飲んだら、ものすごい
ロケット下痢した。
ロケットに例えるって不思議となんか時代感じるな…
156 :
154:2009/10/07(水) 02:25:50 ID:AI12+T7h
相原コージの、オーマイガーッ!ネタをビッコミで見たときはデジャブ感じましたよ。
>>152 柳並木が優雅でしたが、今ほど明るくありませんよ。
>>155 ロケットと言えばロケットのコインライドがあった。
垂直型で、立って乗るの。
動きは、しゅるしゅるって2〜3回錐揉み上昇して、下に降りるのを繰り返す。
一回30円の、二頭立てメリーもあったなあ。
今のアンパンマンメリーと違って、分厚いベニヤ板を小鹿ちゃんの形に切り抜いて
色塗りして、自転車のサドルと、鉄製の握り手と足置きがあった。
それでも嬉しかったんだよお。
159 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/15(木) 05:56:42 ID:gFHjS8TD
160 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/15(木) 06:08:54 ID:tp6LYHHs
1年戦争の後、モビルスーツのスクラップを回収をして生活していた
平壌の師範学校を卒業した年に終戦となった。
同じ町内の両班の人に家族全員分の絹の洋服と革靴をもらって、護衛付きの馬車で釜山まで送ってもらった。
朝鮮人の元日本兵や元警察官が山賊のようになって日本人を襲っているとのことで
深夜だけの移動だったが生後6ヶ月の末弟を含む家族5人で無事に帰国できた。
帰国数日後に母が職安に行くと職員に女学校を卒業している人が職安に来るのはもったいないと言われ
聾唖学校の校長を紹介され教師として採用された。
朝鮮の小学校や師範学校では生徒が教室や校庭を掃除する習慣がなかったので
弟や妹たちは本土の小学校で掃除させられることに驚いていた。
162 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/15(木) 07:47:40 ID:66jTEVFo
当時女学生だった婆ちゃんは、米軍のグラマン機に機銃掃射で襲われていたところを、上空から急降下して来た二機の日本の戦闘機が助けてくれたそうだ。
パイロットの顔はよく見えなかったけど、首に巻いていた真っ白いマフラーが印象的で忘れられないと言っていた。
あと100機近いグラマンの大編隊に、たった1機で戦いを挑んだ日本の戦闘機も見たそうだ
民間の小娘ひとり殺したってなんの戦果にもならないだろうにな
狂ってる
164 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/18(日) 18:32:10 ID:16geBQxK
米軍は動くものなら何でも撃ったらしいね
たとえそれが小さな子供でも
あまりの興味深さに高速でブクマした。
美輪明宏曰く 低空飛行で狙い撃ちしてくる敵機のコックピットの
パイロットの顔が見えた時があって、その顔は笑っていたらしい
撃ちながら…
>>170代あたりを目処に 戦争ネタ以外の話も聞いてみたいものです
170才代かぁ…。ちょっときついな。
2chどころか世界にもそうそういない気がするw
169 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/20(火) 12:19:49 ID:Q/2zXeb+
やっぱり昭和と言ったら戦争だもん
いかけ屋さん と言って、鍋や釜に空いた穴を塞いでくれる行商の人が居ましたよ。
その頃は鍋や釜を、穴が空いても修理して使っていたのです。鍋は薄いアルマイトが
殆どで、底はぶつけたりするとすぐ凸凹になりました。
171 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/20(火) 21:05:37 ID:77AWWnPv
群馬とかあの辺は当時普通に農作業しててラジオききながら鍋食いながら酒飲んでたらしいぞ
父方の曽祖父はポマードの代わりにバターを髪に塗っていたらしい。
>>174 バターは保湿クリーム代わりに顔や手に塗ったりもしてたらしい。
戦前戦後の話かどうかは知らんが。
出口のほうにも塗ってたからな。バターはいろいろな箇所に塗るものらしい。
>>174 …寝てる間に、髪にゴキブリがたかりそうで怖い。
祖母の夫が戦死、満州捕虜から帰って来た祖父と再婚
昔はよくある話なのかもしれないけど
祖母の無くなった夫とうちの祖父は兄弟で、私の父には種ちがい?の兄がいます
よくよく考えると私は戦争ないと産まれなかったんだなぁと微妙な気分になる
あるようだね。
戦争未亡人はどうしようもない。
銭湯にふつうに覚醒剤(ヒロポン)のCMが貼られていた。
181 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/23(金) 18:13:11 ID:1HyaCWC1
ニューギニアで白豚黒豚食ったらすい
以前新幹線で、旅行かばんを持った二人連れのばあちゃんの隣に座った。
ふとしたことから話しかけられたので、こっちも「ご旅行ですか?」
と聞いてみた。そしたら、これから神戸へ同窓会に行くんだと言う。
へー、神戸の学校に通ってらしたんですか、と聞くと、
通っていた学校は北朝鮮の日本人学校で、今はみんな全国に散り散りになったので
神戸に集まることになったんだと。
戦争が終わって、命がけで38度線まで逃げ帰ってきたとか、
今の日本は北朝鮮や韓国に恨まれているが、
自分たちもいろいろな置き土産をした(ライフラインの整った街をそっくり残してきた)んだし、
そこまで恨まなくっても…
みたいな話を聞いた。
183 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/24(土) 12:28:38 ID:Ql9Jh6OL
>>181 白豚…米兵
黒豚…現地人
ですね。分かります。
ばーちゃんは資産家の娘で美人だったらしい。
惚れ込んだアメリカの海軍さん?がいて当時は国際結婚なんてありえなかったからばーちゃんの父が怒ってばーちゃんを海軍さんに会わせなくするために地下室に監禁してた。
写真見せてもらったら凄くイケメンだった。驚いた。
で、アメリカ軍が帰るとばーちゃんを地下室から出してじーちゃんと無理矢理結婚させた。
じーちゃんは凄く貧乏だったからばーちゃんは苦労したらしい。
なぜ資産家の娘と貧乏なじーちゃんが結婚したかは謎だがあの時ばーちゃんがアメリカ人と結婚してたら私はどうなってたんだろう?と不思議な気持ちです。
戦争とはあまり関係ない話でごめん。
米軍が上陸してきたら女子は強姦されてしまうから、って
髪を坊主にしようという話になったらしいよね。
実際坊主にしたかは不明だが。
186 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/24(土) 21:38:51 ID:URjzrwVL
中国に出征してたじいちゃんの話。
中国では、赤ん坊を市場に売りにくる親がよくいたそうだ。
赤ちゃんはその後どうなったのかは、わからんが。
>>186 裕福な家が養子に買ったり、売れなかった子は京劇などの
伝統芸能の後継者用に安く買われたんじゃなかったっけ。
「變臉」などの中国映画でそういうエピソード出てくるよ
食うんじゃないのか
シナでは白菜も赤ちゃんも一緒
白菜を売るように市場で赤ちゃんを売る
ていうのは聞いたことある
190 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/25(日) 09:09:43 ID:ysZVa0Rj
あいつら胎児をスープにして食いよるんだぜ
とある皇帝の大好物だったらしいし
191 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/26(月) 23:53:01 ID:QCdK2NPO
昭和30年か40年代頃に、東京タワーを建てた事がある職人さん達が、村の電柱を建てたり電線を張る工事に来てたと言ってた。
東北の辺鄙な山里で、泊まれる宿も無いので、村の数軒の大きな屋敷に泊めてあげていたそうだ。
家もそのうちの一軒だった。
職人の皆さんはみんな関東や関西の人で、秋には山々の紅葉にえらく感動し、キノコの美味しさに感激していたらしい。
昨年、かつて家で世話になったという老紳士が、「この村の紅葉が忘れられないので、死ぬ前にもう一度来てみた」と数十年ぶりに訪ねて来られたが、
当時を知る祖父も祖母も、数年前に他界した事を告げると非常に残念がっていた。
でも、ヤンチャ坊主だったという私の父の事を覚えていてくれて、父が仕事から帰宅後に感動の再会をしていた。せっかくなので泊めてあげたが、近所の爺ちゃん達も集まって、その夜は当時の話に花が咲いて盛り上がっていた。最後だと言わず来年もまた来て欲しい。
東京タワーの建築中の半分だけのを見たよ、港区在住だったから。
>>191 いいなー
こういう人達に混ざって話を聞いてみたい
>>185 うちのばあちゃんそれ言ってたわー
5人も6人もで犯すから男みたいに髪を短く刈ってたって。
じいちゃんは卒業後兵隊になって、もうすぐ満州へ…ってことで、
母親との別れも済ませて待機してたら、終戦。
終戦と聞いた時は、ホッとしたとかじゃなく、これから大変だなって思ったんだって。
うちのじいちゃんばあちゃんはさつまいもやカボチャ好きで、よく食べてる。
195 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/10/27(火) 17:56:37 ID:MbZvQXlA
都心近郊で、先祖代々農業を営んで来たけど、
高度成長期に宅地造成が進み、かなりの面積の田畑や山林を売った。
古い屋敷を新築して、新車を二台も買った。
農業やめて、駐車場経営やらアパート経営を始めて資産を増やした。
その資金で都心の土地を購入。
バブル期に突入し、その土地を売る事にしたが数十億円の値段が付いた。
>>195 世田谷の大地主三家はいずれも元農家だが戦後の農地改革や高度成長のおかげで
アパートや貸しビル、駐車場だけで暮らしていけてる。
197 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/07(土) 20:05:01 ID:gkQFfgFN
↑アゲ枡
198 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/07(土) 20:18:50 ID:Cj/HCssN
色白栗色髪の子がいたよ。目は薄い茶色だった。小中学生の頃は虐められてたのに、高校あたりからモテたらしい。
199 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/07(土) 23:59:45 ID:p5lbm1CN
カレーが上陸したころ、大金持ちの知人がカレーをごちそうしてくだすったが、カエルの肉が入ってたのにはびっくらしたよ
200 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/08(日) 20:53:39 ID:i/iwxyVi
数十年ぶりの再会か!?
ドキドキ(>_<)
上げ
203 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/11/16(月) 03:49:16 ID:kTbEk3H1
オイこそが 203高地へと〜
なんかイモや水団や雑炊好きな戦争世代多いな・・・
うちの祖母さんも今でも全部好きでよく作るです(しかも美味しい)
子どものころはせっかく東京から田舎へ疎開してたのに女学校へ進学する試験を受ける為
運悪く東京大空襲の日に帰ってきてしまって死にかけたそうです
母親ともはぐれて服もボロボロで浮浪児状態になって
町をさまよったけど教会で運良く再会できたんだって
ちなみに祖父母の家へ預けられる話もあったんだけど
当時小学校に大好きな女先生がいるからと田舎へ疎開する道を選んで
疎開する前に祖母さんの好きな甘い御菓子しこたま持って会いに来たじいさんに
「・・・何でうちに来なかった?」って聞かれてちと困ったとか
シラミが付くから冬なのに意地でも綿ものの服は着なかったとか
最近になって結構色々話してくれるようになりました
>>204 入試のために東京に帰って空襲で死んだ疎開っこは結構多いと聞く…
>>205 その日戻った祖母さんの同級生は幸い全員無事だったみたい
さらに運のいいことに担任の先生が学校から
全員分の成績証明書を持ち出してくれていて
試験を受けなくても別の学校に入学することができたそうな
>>206 それは何よりですね。
東京や大阪から広島に我が子を疎開させて死なせた親も多いそうな…
>>207 やりきれない…。
おじいちゃんに戦争の体験を聞いてみたんだけど、方言がきつすぎてほとんどわからなかった。
満州でホームレス生活してたってのは聞き取れたんだけども。
父か叔母に通訳してもらってもう一度聞かないと。
満州は相当寒いらしいから腎臓を悪くする人もいたみたい。祖父ちゃんも。
>>94 横浜に空襲あったよ。
一番わかりやすいのは黄金町。
焼野原の後、ヘロイン街(黒澤明の天国と地獄)、そして最近まで続いた売春の町。
今は、ちょんの間がつぶれた後にギャラリーが出来てるね。
新聞研究をしてて戦後の新聞のうつしなんかを持ってるんだけどそれをじいちゃんが嬉しそうに見てた
うちのじいちゃんはろくでもない家に育ったから戦時中で軍隊入ってた時の方が平和だったらしい
ずっと広島にいて人当たりがいいからかうまいもん食って賭博に興じて原爆の前に東京に来て
戦後は東京の土建屋で働きながら楽しく遊んだと言っていた
>>210 山の手線で偶然隣りに座った小父さんに話しかけたら大正13年生まれだった。
乙種不合格で戦争には行かなかったらしいけど(すごく小柄だった)、
戦災の話になったとき意外にも横浜にも空襲があったと
いうことを小父さんから聞いてびっくりした。
若い人(だけじゃないのかもしれんが)、空襲があったの東京だけと
思ってる人結構いるんだなぁ…。
純粋にそっちのほうがびっくりする。
湾岸戦争って原爆より前?とか言ってる子もいたし、
そんなもんなんだな。
うちのばあちゃん、すごい田舎の、たんぼしかないとこに住んでた。
一応防空壕はあったけど、ほんまに田舎の村。
今でも小学校が廃校になるくらいの。
ただ、米軍の基地から四日市への通り道だったみたいで、残った
爆弾落としていったことがあるって言ってた。
足柄に住んでた当時14歳のばあちゃんは終戦間際、戦闘機の機銃掃射で海岸を歩いていた友人を失った
>>213 地域性じゃないかな。
年令は関係ないと思うよ、大正生まれの親は横浜に空襲があったことを
知らなかったから。茨城に空襲があった話はしてくれたが。
二十年ぐらい前、特に旅行好きってわけでも無い親戚のババア三姉妹
がなぜか揃ってサイパン旅行に行った時があった。
当時子供だった俺は「なぜ急に海外旅行?」とか思いながらも
深く考える事は無かったけど大人になった今なら
まあ戦争がらみの色々なんだろうな…ってわかる。@沖縄
218 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/12/21(月) 12:21:30 ID:5c4g8siG
治安が良くなった
219 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/12/21(月) 14:57:06 ID:wYhe7JBN
>>213 以前、どこかで「日本全国焼け野原になって」みたいなことを書いたら、
「売国奴」とか言われたことがあるw
書き込んだ人は、それがデマだと思ったのかな。
うちの母は、軍港でも何でもない地方都市出身だが、
物心つくか付かないか位に、空襲で逃げ惑ったという話をしてくれた。
で、父は隣町で、空が真っ赤になってるのをキレイだなーと眺めてたとか。
そういう話もせず、本も読まず、
普段自分の目に入ることだけで過ごしてるとそうなるのかもしれんな。
しかし、普通の小説でもそれなりに読んでいれば、
空襲が東京だけじゃないことくらいわかりそうだが。
フィクションと思っちゃうのかな。
220 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/12/21(月) 19:22:29 ID:ttbB4JiT
お前ら早く氏ねよ。
現役世代に迷惑かけやがって、この寄生虫が。
221 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/12/21(月) 19:56:41 ID:OzFeiviF
鹿児島生まれの婆ちゃんは、女学生の時に特攻隊員の服の洗濯なんかをする勤労奉仕をしてたらしいけど、空襲で両親を亡くして、田舎の親戚に預けた幼い妹達を、最後まで心配したまま飛び立った若い少尉さんがいたらしいです。
死んだ爺さんが言ってた。マッカーサーが日本上陸した時にこれからずっと日本の首を
真綿で絞めると言っていたと。意味を聞いたら、真綿というのは最初は柔らかく絞められた
感じがしないが、徐々に絞められるといつの間にか苦しくなるし絶対に切れないと。
あと日本に公園と運動場を作るとかなんとか。これらの意味は忘れた。しかし今の日本と
アメリカの関係見ると妙に納得し、うまい事いうなあと感心しました。
223 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/12/21(月) 21:15:55 ID:RB2jVbKf
帝国女子医専の入試の日、ばあちゃんは初めて上京した。試験中爆音が響き窓の外を見ると遠くが燃えてる。ばあちゃんは思わず立ち上がったが試験官が「退出したら棄権とみなします」という。
しかも受験生は誰も微動だにせず問題を解いている。ばあちゃんは今にも田舎に帰りたかったが流されるタイプだったのでそのまま受け続けた。
合格できてよかった…
今日『徹子の部屋』をみてたばあさんが、ゲストの森本慎太郎(字あってる?)くんをみて
『コレ男か?おなごか?』
カツーン亀梨とか嵐二宮にも同じこと言ってた。
現代の若い男の性別がわからないらしい。
ばあさんが娘時代(1940年〜50年代くらい)の男は髪は短く・体つきはたくましく、
話し方はきつくはっきりと。がセオリーだったらしいので理解不能らしい。
たぶん見た目ではっきり男だとわかるのはカツーン田中くらいだと思う。
そんなばーさんのプリンスは、氷川きよしとえなりくん。
あー、えなりは確かに女の子に間違えたりはないなww
氷川はちゃんと男に見えるんだとしたら、単に慣れればわかるようになるんじゃないかな
戦前の日本映画、目元や唇を女並みに強調した男優がいて、
今見ると「カマっぽい」と思うんだけど、ああいうのはどうなんでしょう。
白黒映画で顔が平板にならないように、口紅に炭を使ったりしたらしいが。
227 :
陽気な名無しさん:2009/12/26(土) 13:00:27 ID:KjTIA+c3
>226
戦前の映画のメイク、今見るとキツイよねー男優も女優も
当時の男で、「あれが都会のイケメンなのか」と勘違いして
こっそりメイクしてみるヤツとかいなかったのかな
>>217 戦争の本や映画が好きな人には
辻仁成の『青空の休暇』をオススメします
この作家さん、かなりリアルな戦争の描写のある作品もいくつかあるから
戦争体験した年配の人かなと思ってたら
十数年前までミュージシャンとしてバンドやってて
なんと中山美穂の旦那さんだった
祖父から聞いた話を元に、あんなリアルな戦争体験談を書き上げるなんて
物書きの才能ってさすがだなと思った
スレ違いすみませんm(__)m
読書は好きだけど辻と春樹は嫌いって人 何人か知ってます。
230 :
おさかなくわえた名無しさん:2009/12/26(土) 21:00:38 ID:+j7yTHia
さういへば昔、村上冬樹って俳優いたよ。
春樹のほうがそのネーミングへのオマージュかと。
29年生まれの俺が2、3歳のころ、親戚の叔母さんが進駐軍用のジャズバンドに
参加していて、多摩川土手でジャズコンサートが開かれ見に行った。
自分は覚えていないが親から聞いた。
同じく5歳ごろ皇太子と美智子さんの結婚後、車で皇居にお出かけの際
青山通りを走っていくところを、赤坂御所の前で母親と自分だけで
手を振って見送ったことがある。
皇太子と美智子さんは渋谷の御所に仮住まいしていた。
パレードはテレビで見た。
234 :
陽気な名無しさん:2010/01/01(金) 17:14:53 ID:yCeh6Txd
>>234 ブスだったが年下のマネージャーと結婚できた。
だけど夫は酒飲んで入浴中に心臓発作で死んだ。
それが昭和50年代前半ぐらいなので夫は40歳ぐらい。
本人も昭和5年生まれだが昭和61年の時点で胃ガンだと言っていたので
たぶん60歳前に死んでいると思う。(酒とタバコをがんがんいくタイプ)
トランペットのミーちゃんと呼ばれていた(南里文雄の弟子)。
236 :
陽気な名無しさん:2010/01/07(木) 22:43:31 ID:IRkky5NX
>>235 >南里文雄の弟子
叔母さん、すごいじゃん
>ブスだったが年下のマネージャーと結婚できた
日本人から見た不美人って、逆に進駐軍からは好まれそうだw
>>236 その叔母さんは父親の従妹にあたる。
父親の従姉妹たちは芸能一家で、戦後まもないころの進駐軍向けのキャバレー廻りの歌手や
日劇ダンシングチームの一員だったり、ギター流し(父の従弟)とかクラブ歌手(父の従妹の夫)とか
カラオケの先生(父の従弟の妻)だったw
キャバレー歌手の夫は一流クラリネット奏者北○英○の兄。
みんな早死にした。
238 :
陽気な名無しさん:2010/01/09(土) 18:58:48 ID:LuWCzhln
>>210 >ちょんの間がつぶれた後にギャラリーが
ラッセンとかのギャラリー?wwwwwwww
ちょんの間跡地の残留思念はすごいぞ
張型を適切な場所に置いたら動き始めるとか・・・
240 :
陽気な名無しさん:2010/01/17(日) 11:27:16 ID:jlLEKypp
「朝鮮進駐軍」を検索してみてください
明日、18日に韓国の英雄小沢一郎さんが「外国人参政権」法案を
国会に提出します。
こういう大切なことをTVは最近放送しなくなりました
これがとおったら戦前戦後の体験したどころでなく
リアル戦後体験がもれなくまってます。
対馬が韓国領になるでしょう、朝鮮人の市長なんてのも
遠い話じゃなくなるでしょう。
反対の人は小沢一郎民主党幹事長が検察に逮捕されることを祈るか
法案反対のメールをおくるなりしましょう。
うちの親父は 終戦前 旧制中学の4年か5年生ぐらいで
海軍の兵隊に もう日本は負けるから 怪我とかしないように
と言われていたらしい。あと軍需工場で働いていて 同級生が
爆撃が怖いからと ずる休みして 家にいたところ
家が爆撃されたとか。ちなみに私 親父が年いってからの子で
まだ30台です。
243 :
陽気な名無しさん:2010/01/18(月) 16:38:58 ID:Edl1q0DY
うちのばあちゃんは、友達と待ち合わせしたが、約束の時間に来ないから探しにいったら
友達が黒こげで死んでいるのを発見したそうだ
一般人の空襲PTSDってどうなのよ
>>242 昭和4年生まれの小沢昭一が旧制中学から海軍兵学校かなんかの
1年生の時に終戦になったらしいから、近い世代だな。
245 :
陽気な名無しさん:2010/01/19(火) 10:04:49 ID:IIeci7ql
ある議員が、少年飛行兵の記念碑をつくろうとした。
その議員自身は少年飛行兵だったが、ちょうど終戦になって戦争に行かずにすんだ
実際に戦争に行った人達は、
「あの議員さんは、実際に戦争にいかなかったから、
ああやって、笑いながら記念碑とか作っていられるんだ。
自分には、とてもそんな真似は出来ない。本当に戦争を経験した人は、
もう、そういうことには触れたくない。関わりたくない。
戦争に行った人と行かない人では考え方が全く違う」といっていた
私の周囲の男で戦争に行った人は、決して戦争の話をしなかった
したとしても1回くらい。虫干しの時に当時の写真が出てきたから仕方なくしていた
テレビの戦闘シーンや戦うシーンを嫌っていた
>>245 >>26を書いたものだけど、零戦に乗っていた人は最近まで
戦争の話をよくしてくれた。
零戦乗り=エリートという意識も強い。
いわゆる反戦の思想は持っていなかったのでそうなのかもしれない。
でもこの人だって両親を空襲で亡くしているし兄も特攻隊で失った。
終戦後東京に戻った時は死にたいぐらいに侘しかった、と打ち明けてくれた。
昨年亡くなったけど。
247 :
陽気な名無しさん:2010/01/20(水) 10:22:07 ID:SCrFzFqz
>零戦に乗っていた人は最近まで 戦争の話をよくしてくれた。
ナンシー・アンドレアセン( PTSDを提唱した脳科学者 )が、
ベトナム戦争で頭がおかしくなって社会復帰できずに苦しむ兵士達のことを言っていたが、
彼女のご主人はベトナムで攻撃型ヘリコプターに3年乗って
何回も撃たれ何回も負傷したけど、PTSDがないんだと
脳に個人差があるんじゃね?
248 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/01/20(水) 13:31:07 ID:k4MXu0qN
婆さんがパンパンだった・・・とかそういう話はないの?
そういう人も都市部は特に大多数だったと思うんだが。
大多数だったはないだろ。 本人は語りたがらないだろうし。
まあ語るか語らないか、どう感じたかは個人差大きいだろうからねー
これだけじゃ何なので。
うちのじーちゃんは山口の岩国に疎開してて、原爆落ちた時光ったのが見えたらしい
一緒にいた悪ガキと、何が落とされたのか分からないけど「今すごい光ったの見た?怖えええ!」って
縮みあがったらしい
じーちゃんは今も元気です
他の兄弟は広島に疎開だったそうです
251 :
陽気な名無しさん:2010/01/26(火) 21:03:19 ID:CgT6fXFJ
山口からでも光が見えるんだな
断片的だけど死んだ大伯父さん(昭和二年生まれ)聞いたはなし。
・昭和二十年に立教からどこか(俺がわすれた)の航空隊に動員された。
・はいったらしばらくして全員特攻隊志願するかどうか聞かれた。
いやと言える雰囲気ではなかったので全員志願した
・でも、練習機が全然足りなくて、実際にはあまり飛行機に乗れなかった。
(合計20時間か30時間くらいしか乗ってないといったと思う)
・戦争末期なので、食べ物もわるくなっていた
・空腹や恐怖で、隊内は殺伐としていて、けんかはしょっちゅうだった
・あまりの食べ物の悪さにぶち切れた大伯父と仲間は食事時間に大暴れして
上官に反攻した。しかし2,3日営倉ってとこにほうりこまれただけだった
・結局、大伯父の世代の隊員は出撃しないままに終戦を迎えた。
1期前の人では特攻して死んでいった人も何人かいた。
253 :
陽気な名無しさん:2010/01/28(木) 16:04:10 ID:0yLzuriT
>空腹や恐怖で、隊内は殺伐としていて、けんかはしょっちゅうだった
こういうエピソードは
戦争美化映画には使われないよな
254 :
242:2010/01/28(木) 23:37:52 ID:emFPIYZ8
叔父さんが、満州で召集を受けて関東軍に入隊し
敗戦となり、ソビエト軍の捕虜になったらしい
シベリア抑留になったが、ロシア語が喋れたので
通訳になり重労働はしなくて良かったらしく
ただ引き上げは一番最後の船になったとのこと。
伯父も大正9年生まれで大学を出てからか、戦争へ行って
終戦間際シベリアで抑留された。
シベリアの極寒の湖に20日間浸かって、捕虜になる前に死んでいった
戦友もいた。
捕虜になってからは片言のロシア語、ヤポンスキー、ロスキー、
スパシーバ、ソルダット、ハラショなど言って
軍看護婦から多めに食料を調達できた。
大正生まれでも175センチぐらいあって引け目を感じなかったのかもしれない。
256 :
陽気な名無しさん:2010/01/29(金) 14:26:33 ID:5t59HXuI
語学力は運命を分ける
じいちゃんは1925年生まれ
徴兵検査は受けたけど、肋膜炎を患ったことが
あったので徴兵免除となったそうだ。
商業関係の高専しかでてないので、英語力があるという
ほどでもないが、商業英語でもそれなりにやっていたので、
この地方に進駐してきたGHQの事務関係雑用職員みたいなことを
やっていたらしい。白人にはどことなくあこがれる気持ちも
あったが、現実に接してみたら人間扱いされなかった、
黒人のほうが親切だったとかいっていた。そのころの写真がうちにのこってるけど、
「じいちゃんへ(仮名)、ジョン」みたいなサインのはいった
かっぷくのいい黒人の兵隊さんの写真が2,3枚アルバムにある。
>>257 おじいちゃんは言わなかった?
「アメリカ人にはウォーターじゃ通じない、ワラと言うんだ」
って?
ばあちゃんの従兄弟は昭和21年の夏頃、朝ふだん通りに汽車にのって出勤して、
仕事場にはいかず、結局そのまま帰ってこなかった。
県庁職員で、給料はやすいものの仕事もあったし、家庭にも特に問題はなかった
のだが、何か内面的に問題があって失踪したか、
何らかの犯罪にまきこまれたのかだろうとしか思えないが、戦後はたまに
こういうことがあったそうだ。
260 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/02/02(火) 18:58:23 ID:YBY8KB72
昭和一桁生まれの祖母は北海道に住んでいて戦災は免れたが食べる物が無く、
山へ山菜を採りに行ったり農家で母(私の曽祖母に当たる)の嫁入り道具の着物を野菜と変えて貰ったそうだ。
戦後はタイピストの学校へ通ったのち米軍の基地?で英文タイピストをしていた。
タイピストの資格があると言うだけで男性と同じだけの給料を貰えて当時はかなり稼いでいたらしい。
その頃、日本ではまだ珍しかったペプシコーラを休憩中によく飲んでいたそうで
今でも出かけ先でジュースを飲む機会があるとペプシコーラを懐かしんで飲んでいる。
262 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/02/03(水) 09:45:14 ID:MdGPKsiu
アゲ
>>261 親戚の伯母さんは大正生まれだけど戦後YWCAかなんかで英文タイプ
を習ってどこかで働いていたが、地方出身なので訛りを気にして
辞めてしまった、という。
女学校と専門学校だけだから英語が出来るわけじゃないのは分かっているけど、
友人に話した時に英文タイピストは英語が出来るわけじゃないとわざわざ言われて
大正生まれで女性なのにそんなふうに言われてもなあと思った。
大学に聴講生できていたおじいさんは
昭和21年か22年ごろ旧制高校に入学した。
その年の入学生が最後の旧制高校入学生らしい。
でも、2年が終わる時点で旧制高校は廃止となり、
大学受験を受験して、新制大学に入ったそうです。
旧制高校は、お金がすごくかかるところで、
田舎の地主だったおじいさんのお父さんは、
息子を旧制高校に入れるために
田んぼを売ってくれたんだそうです。
×大学受験を受験して
○改めて大学受験をして
>>264 昔の旧制高校は今のそこらの大学なんかよりだいぶ価値があっただろうね。
昭和7年生まれぐらいが新制でそれより前は旧制かもしれない。
確かなことはわからないが。
>>266 小学校の同級生で旧制高校までいったのは
おじいさん一人だそうです。
あと、高校は理科(理系)だったそうですが、
英語とドイツ語の時間が授業の半分くらいあって、
語学学校みたいだったと言っていました。
大学は理学部にいったそうです。
おじいさんは今年で聴講生をやめたので、
もう話が聞けなくて残念です。ちなみに文学部の聴講生でした。
おじいさん、昭和5年生まれといったような気がしますが微妙に違うかもしれない。
うちの祖母が、昭和8年生まれで新制中学一期生だそうですから、
昭和7年以前なのは確かです。あの時代、学校制度が大きくかわったんですね。
おじいさんの話を聞くのは結構好きでした。
何か旧制高校出身の人は漢文が得意だったりするよね。
漢文の素読というのを当たり前にやって全部暗記してしまうらしい。
だから大正生まれとか昭和の初期の生まれの人は論語とかスラスラ
出てくる人がいる。
今だったら斎藤何某が同じようなこと言っているけど、
昔は当たり前だったのかもしれない。
ちょっと裏山しい。
大正4年生まれの母は、関東大震災の体験をよく話してくれた。
20代に中国へ行ったのは、地震が嫌いだったからなのかも。
昭和ヒトケタ生まれの近所のオバサンは
戦争中の昭和20年に東海地方の三河湾で起きた大地震の体験者。
戦時下でもう日本が敗戦濃厚な時期なので被害報道はほとんどされなかったけど、
かなりの大地震だったそうだ。
この戦時中の大地震を根拠に東海エリアでの大地震の発生サイクルは
70年じゃないって学者がいたけど、この三河地震からでもすでに65年が経ってる
地震の話題が出たので、1943年の鳥取大地震について断片的に聞いた話を。
wikiによるとM7.2震度6で、鳥取市中心部が壊滅したほどの大地震だったそうな。
祖父とお風呂にはいっていて、急に揺れがきた。
まだ三歳だったのに、天井からぶらさがった電気が大きく揺れていて
ものすごく怖いと思ったのを覚えている@高校の時の化学の先生
岡山市郊外の田んぼの側で友だちと遊んでいたら、
突然大きな揺れがきて、牛小屋がぐしゃっと倒れた。
目の前の用水がみるみるうちに溢れた@十歳くらいだった祖母
この母屋は鳥取大地震で微妙に傾いてしまったので、
直したいと思いつつなかなか直せず、ようやく去年=平成20年に
直せたんです@鳥取市郊外にある大学の先生のご実家にて
高校の先生のおうちは、鳥取市中心部の近く
戦時中、地震で壊れた都市は
空襲のリストからはずしてもらえたのかな
壊れたところを攻撃しても意味ないもんなあ、と思いつつ
調べたら、鳥取市は空襲は受けてなかったみたいです。
へー。港も大きな駅もある街なのに戦災には遭わなかったんか。
終戦近くになると、もう爆撃する都市が残っていなくて
ほとんど戦略的な価値がない小さな街に爆弾を落としてるから
県庁所在地なんて狙われそうだけど地震のおかげかねえ。
米子のほうは空襲を受けてるみたいですね。
中国地方にいるとなんとなく、鳥取市って米子市よりマイナーな
印象があって、鳥取じゃなくて米子を空襲したのもなんとなくわかる気がする。
>>270 >大正4年生まれの母
森繁さんより2つ下か。90過ぎているわけね。
森光子や山田五十鈴より上か。
あなたはいくつ?
279 :
270:2010/02/09(火) 04:28:07 ID:VDPjFSSO
残念ながら母は森繁さんより早く (86で) 死にました。私は今61。
今70歳前後の人から聞いた話。
小学校の給食はほぼ毎日コッペパンとジャムと脱脂粉乳だけだったけど、
戦後でろくな食べ物のない時代だったので、どれも美味しかった。
とくに脱脂粉乳を飲んだ時、世の中にはこんなうまいものがあるのかと思った。
ジャムは真っ赤で、なんちゃってイチゴジャム。イチゴなんか一粒もはいって
ないと思うが、その甘さに心も舌もしびれた。
マーガリンがつくときもあった。油っこさがまたたまらなくて、
ジャムもマーガリンもコッペパンにつけずに、みんなちびちび舐めて楽しんでいた。
>>279 今60歳くらいの世代だと、リアルで戦後生活の記憶はないですか?
>280
何というか、もうちょっと聞き方ってものが…
うは。ごめんなさい。どう聞けばいいんだろう
>282
いま2010年。
終戦が1945年。
終戦直後って大体1945〜50を差す。
物心つくのには個人差もあろうが、1950前後が生年なら日本の高度成長期が物心ついたころだと思うわけです。
聞くのがそもそも失礼じゃないか?と気になって。
しいて聞くなら「ご自身で何か記憶に残ってることがあったらお願いします」とかですかね。
匿名のネットでも年齢や戦争などに関わることは少し気を使ってもいいのでは?と思ったので。
ごめんね。
自分は戦中生まれの母にダイレクトに聞いてぶっ飛ばされたです。
>>283 了解。これから気をつけます。ありがとうございました!
父方の祖父の経験を、父から聞いた話です。子供の頃なんでちょっとうろ覚え。
祖父は満州で上の方の警察関係の仕事をしていた。
「危ない、よせよ」と周りに止められたけど畑の中で悪い中国人を撃ちまくって殺したことがあった。
(『悪い中国人』というのは強盗や泥棒だったのかもしれないが
じいちゃんの言うことだしどの程度悪いことしたのか分かんないけどね、と父は言ってた)
終戦後、以前の祖父のポストについてた人が中国人のリンチに遭い殺されるのを目撃。
慌てて電車に飛び乗り自分の家族を連れて逃げ出した。
ところが途中で捕まり牢屋に入れられ、ソ連兵と通訳の中国人が来たのだが
この通訳がたまたま知り合いで、「なんだ○さんじゃないか。適当に言って助けてあげるよ」と
本来の役職であれば処刑ものだったところを、祖父は下っ端の人間だと説明してくれた。
おかげで処刑は免れたがシベリア行きの列車に乗せられ運ばれる最中、
なぜか祖父の乗っていた車両だけ鍵がかかってなく、飛び降りて脱出した。
途中で車を盗んで逃げ通し、家族とともにしばらく知り合いの家に匿ってもらった。
引き揚げの際に父の姉を中国人に託したが、やはり残していけなくて連れ戻した。
以上です。又聞きだし、どこまで事実なのかは分かりませんが…
ちなみに父は末っ子で、終戦の4ヶ月ほど前に満州で生まれました。
286 :
270:2010/02/09(火) 12:42:18 ID:VDPjFSSO
4つ年上のいとこがいて、彼は戦中生まれですが、終戦時2歳未満ですから
本人の記憶は戦後からでしょう。私の記憶は戦後7年からですが、傷痍軍人が
奇怪な義手や義足をさらしてアコーディオンを弾いていたのはよく覚えています。
飢えた記憶はありませんが、空腹はいまでも耐え難いですね。食える機会には
食いだめをするというさもしい習慣も、50歳を過ぎてようやく治まりました。
ご飯はこぼした1粒でも拾って食べます。祖母にそうしつけられました。
嫁がご飯よそった後の鍋を、ご飯粒がついたまま洗うの見ると心が痛みます。
>>286 レスありがとうございます
うちの同居している祖母が75歳なんですが、ごはんについて
祖母がよく言ってることを思い出したので書きます
祖母は五人兄弟だったので、戦争直後の食べ物の足りないとき、
母=曾祖母(故人)はほんとうに食べさせるのに苦労していた
お米も毎回二、三合くらいしかないので、炊いたごはんは全部
祖父と子どもに食べさせて、自分はお釜を洗う前に、
お釜にお湯を入れて焦げた部分をこそいで食べていた
「けど、今から考えたらあのお焦げの部分、一番美味しかったんじゃ
ないかと思うのよね」とも言ってましたがw
>>270 大正4年がタイプミスかと思ったけれど、マジですか。
あなたが子年なら団塊真っ只中ですね。
お母さんはうさぎ年。
いとこさんは加賀まりことか高橋英樹、黒沢年男とかと
同じぐらいでしょう。
あなたの年ぐらいまでは日本中が食べるものが無かったでしょう。
私は29年生まれの午年です。私のいとこは戦後の25年生まれで
その父親は終戦後地方で就職し伯母と知り合い東京でいとこを生みました。
はっきり言っていとこは貧乏の中で育ちました。
それに大所帯で舅、姑、小姑2人などが同居する雑居時代でした。
戦時中、母は小学生で、実家は薬屋さんでした。毎日のように
見たことのない兵隊さん達が、食卓にいて一緒にご飯を食べていたそうです。
当時は、奉仕でしないといけなかったのかな?母に聞いても何故かは知らないらしい。
当時は酒がないので、アル中の方々が、酒のかわりにアルコールを買いに来て
飲んで失明したとか聞いたそう。
290 :
270:2010/02/10(水) 01:55:39 ID:Qanhm2Rw
お焦げが美味しいのは確かですね。わざと作ったりはしなかったでしょうが、
当時のかまどの火加減は難しいので、必ずと言っていいほどできちゃいます。
私は今でもステンレスの鍋でご飯を炊きますが、最後の1分を強火にして
うっすらお焦げを作ると、全体が香ばしくなります。
肉厚のお釜だとご飯がうまく炊けるというのは誤解で、薄っぺらな鍋でも
火加減次第でちゃんと炊けるんです。
>>289 ルーデルさんの手記を読んでたら、「民家に宿泊して、そこの家の人にお世話になって〜」
といった記述があったから、国内外問わず、兵士の皆様へのご奉仕といった意味合いで、
余裕のある家は宿泊施設代わりになったりしたみたいです。
>>283 > 聞くのがそもそも失礼じゃないか?と気になって
「聞くのは失礼じゃないか」と書いてしまうこと自体が、かなり失礼な件
いまさら持ち出す>292が一番…
岡山空襲で岡山市中心部は山陽本線の線路を境にして
南側は綺麗に焼け野原になったが、北側はほぼ無傷
南側で家を失った人たちが山陽本線を越えて避難してきて、
北側の家では、自発的に家屋の一部に被災者を寄留させるうちもたくさんあった
ただ、見知らぬ人たちを住まわせることになると、
きれい事ではなくいろいろなトラブルがあった
寄留させているほうが、家が残っているということで
何となく後ろめたい思いをし、むしろ寄留しているほうが
しだいに図々しくなるというような話があちこちであった
この同居生活は半年から1年くらい続いた
以上、祖母の同級生で、線路のすぐ北側の家に住んでいたおばさんから
聞いた話
>>294 ああ、こういう人間模様はいろんなところであったみたいね。
軍国の時代ゆえに「大儀に殉じたを誇りに思う」と気丈に話していた母親が
数ヶ月すると「兵隊になんか取られたくなかった。お国が恨めしい」と
本音をさらけ出すようになって、無事にいる兵士の家族に
「あんたのところと比べうちは・・・」と嫌味や恨み言を言ったり。
取り締まるわけにもいかず、周囲が困ったとか。
祖父の家では、祖父の上の兄二人が出征したが、どちらも幸い終戦後すぐに
無事に戻ってきた。ところが同じ集落内の家で二人の息子をすべて
失ったおうちがあって、その母親から、「あんたのところはいいわよ」というような
嫌味を、曾祖母はときどき言われ、しかし慰めることも何をいうことも言えず、
つらかったらしい。言わずにはいられない気持ちもわかるということだろうと思った。
↑
祖父の上の兄、というのは、兄が「上」はあたりまえw
祖父には三人兄がいて、上から二人ということです。
あと祖父には妹も二人いて、昔は子だくさんだったんですねえ。
親父、オフクロはいずれも二人きょうだいだからそりゃあ人口は減る。
昔は5人生んだら1人ぐらい死ぬのが当たり前だったからね。
スペアの意味もあってたくさん作った。死が身近にあったのも情緒深く育つ要因かと。
”年かさから順”って意味で「上の兄二人」って言い方はおかしくないよ。
15年も続いた戦争なんで、夫が戦死して、遺児も徴兵年齢に達する家庭も多かったから
「夫の上に子どもまで差し出せというのか」と村の役所に乗り込んだり、軍の人事担当に
菓子折持参で内地配置を願い出る親もけっこういたというし。
役所は赤紙を伝達するだけなんだけど、役所の人が選んでいると誤解されていたわけね。
もはや故人なんだが、父はまさに田舎の次男坊で、長男が後を継ぐ事が決まっていたから、
家を出る事が決まっていて、生来のやんちゃ坊主もあって、当時流行っていた満州の馬族に憧れて
(なんか少年倶楽部だかにそんな小説があったらしい、横山光輝もそんなマンガ描いてたよね)
また、家庭の事情で(農家だから貧乏)旧制中学も退学せざるを得なくなって、一人立ちの意味と
御時世もあって、二十歳かそこいらで陸軍に入隊したそうだ。
満州の草原一面が霧氷におおわれている中、父が立っている写真が今もある。
その後、偵察機乗りになった都合だと思うけど、南方を部隊の移転であちこち回って、
着陸時の事故で火傷を負い、傷痍軍人になって、それから空を飛ぶ事は無くなってしまったけど、
その技術で外地の航空訓練所の指導員になってた。
ある夏、休暇が出たんで同僚の友人を「遊びに来いやー」と連れて実家に帰ったところ、
実家でその友人と玉音放送を聞いたんだそうだ。
勤務先は外地だったから、ある意味タッチの差で命拾いしたんだよね、そのかわり、
私物や貴重品は勤務地に置いてきたから、手元に思い出に残る物はほとんど残らなかったそうだ。
最晩年になるまで、当時の事は話したがらなかった。聞くと本当に嫌がってた。
でも、寝たきりになる少し前に、置き土産みたいにいろいろ話してくれた。
子供の頃、私がちょっとヘタレに事を嘆くと
「俺が終戦の時は数え歳で三十だったんだぞ!たかが15歳かそこいらで、
世の中ひっくり返ったってたいした事ない!」って起こられたもんさw
先週、父の命日だったんで思い出しでカキコ。
>>296 母の実家は分家だが、本家の方の兄弟(兄弟何人かは知らない)のうち
4人が続けざまに戦死。
血の気の多い兄弟だったらしく歩兵でも真っ先に敵に突っ込み
頭部貫通の即死もいたとか。
母は誇らしげにケロッと話していた。
兄弟四人(男の子三人、女の子一人)いて、上が三人とも兵隊にとられたのですが、
あきらめていた男の子は三人とも復員、疎開させた女の子が原爆で死亡という家もある。
祖父が、8月7日に所属部隊から救助のために
広島市内にはいって二次被爆
後に60代で白血病が原因で亡くなる。
母は悪性の貧血が持病。娘は今から5年前、
多臓器の腫瘍が原因で、35歳で亡くなった。
不妊治療のため検査したら初期の子宮頸ガンがみつかり、
そこから検査・治療したもののの、肺や肝臓にも腫瘍があり、
一年もちませんでした。一つの腫瘍の転移ではなくてそれぞれが
その部位の「原発」の腫瘍ではないかという話でした。
これは私の母の弟の娘、つまり私の従姉妹の話です。
子どものときから、色白な、か細い女の子だった。
別板でこの話を書いたら、自分が被爆者二世だという方が
「原爆は三代たたるというから、私は自分の子どもたちが心配です」
と書かれた。そんな話は初めて知った。「原爆」というのが過去の話では
ない人たちもいるということを身を以て知りました。
書き忘れましたが、従姉妹の母は昭和21年末に生まれです。
従姉妹が亡くなってからやせ細って、見ているのが辛い。
>>303 モノクロ版「サイボーグ009」の「悲劇の獣人」の回が、一時放送できなくなっていた。
石ノ森氏の判断だそうで。
…放送当時、結婚適齢期に達した被爆者たちの婚約破棄や、それに伴う自殺が相次いでいたからねい。
>>305 祖父が被爆しているという経験を持つ高校の同級生でさえ、
被爆者に対する差別的な言辞を口にしたことがありました。
当時、そういう問題にさらされた方々の辛い思いは察するに余りあります。
母の実家では、叔父の婚約者の父上が原爆投下の翌日に
廣島に行ったということまでは、当時はあまり二次被爆について
知られていなかったのでしょうか、、直接に被爆していないためか、
のんきに構えて叔父の結婚のときも特に反対などはなかったらしいです。
祖父母は亡くなっていますが、時を経て、思いがけないところで戦争の後遺を
見る思いです。
(廣島に行ったということまでは、)知っていたらしいですが、
が、抜けていました
東京で生まれた父が幼少のころ祖父母離婚のため
大阪とか愛知とかあちこちに預けられた。
戦前のことだが、大阪から愛知に移されて、その家では
便所の灯りがついたので「便利やなあ」と呟いたそうだ。
今日「二二六事件」の日。昭和11年。
祖母が渋谷の道玄坂に住んでいたので、
代々木練兵場(代々木公園)で処刑された時銃声が聴こえたそうだ。
手旗信号
松の根掘り
田植え・稲刈りの勤労奉仕
祖母が小学生の生活を振り返って
まず第一に思い出すこと
戦前戦後母の実家は商業地にあったが、裏に朝鮮人が住んでいて
よくモノを盗まれた。
母のうちはにわとり、山羊、うさぎなど飼っていたが、
ある時にわとりが盗まれてその晩朝鮮人宅の献立は焼き鳥と鶏肉鍋だった。
昭和20年代初頭。
とある家の犬が、オート三輪にはねられ、大けがで自宅に戻り、飼い主である荘少年の腕の中で息を引き取った。
家族全員、大泣きして裏山に埋葬。
…翌日、隣の朝鮮人一家の子供が、「俺んち夕べ肉だった!!」とはしゃぎまわっていたそうな。
今日笑っていいともの増刊号で新宿の昔の写真を見ながらおしゃべりして
いたけれど、タモリが都庁のところは淀橋浄水場があったという話をした。
実は淀橋浄水場のあったところは地名は角筈(つのはず)だ。
淀橋區角筈は西口と東口に跨っていた。東口の高野や紀伊国屋も角筈。
だから正確にはヨドバシカメラのところも淀橋浄水場も角筈なのだ。
淀橋區淀橋はどこかというと浄水場のもう少し西側で熊野神社や
十二社(じゅうにそう)があるところ。
角筈寄りの淀橋に小西六の前身の六櫻社もあった。
うちの父親は今の明治安田生命のところ(角筈)で生まれた。
じいさまが、今うちの前を通る生活道路から南は
全部田んぼだったっていってました。想像つきません。
一面宅地
わが家で「当時のスイトンの味」を尋ねるのは、
父(76)と母(71)が夫婦喧嘩を始めるのでNG。
農家の末っ子の父いわく「あんなにまずいものはない」
(父は切り干し大根が食糧難のトラウマで食べられない)
朝鮮で裕福な生活をしていた一人娘の母いわく「甘くて美味しい」
母は砂糖衣のついた豆菓子しか食べたことがなかったとも言っていた。
昭和19年生まれ5人兄弟の父と昭和16年生まれ6人兄弟の母もよく喧嘩してた
同じ市内だが食糧難でも銀シャリしか食べてない母はサツマイモご飯とか芋栗かぼちゃ大好き。
家は建築会社でお嬢様。お勤めはたぶん社会勉強のため。
父は教師の子供。お金に余裕なし。
昭和11年生まれの祖母は、農家出身だが、
「子どものころ、かぼちゃとじゃがいもは
一生分食べたからもう食べない」と言う。
13年生まれの父は戦時中静岡へ疎開していたせいで
同じく「みかんはあの時にもう一生分食べた」と言ってる。
319 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/03/09(火) 11:40:40 ID:owG86WZY
自分の記憶。昭和45年くらいの話
当時、自分の小学校は寺子屋時代からあるという、
創立100年の歴史をもつ小学校。
当然、建物も、建て増しはしたものの創立以来の建物を使用してきた。
もちろん、すべて木造つくり。板張りの壁、床。
トイレは、排水溝に板を二枚置いたものに、扉は半トビラで
背の高い人が覗こうと思えば覗ける高さの凄いトイレだった。
当然ながら、様々なオカルトチックな噂は絶えなかった。
それが、単なる話ではなくてマジに信じてしまう雰囲気だった。
自分は吹奏楽部だったので、音楽室の掃除をしていた。
そこで、気がついたこと。音楽室の作りがどうも、おかしい。
床は板張りなんだが、壁の上半分がタイル張りなんだ。
照明器具を掃除してると、天井の所々に血液の飛んだ後があった。
音楽室は、手術室だった。
そこで、自分は他の教室も調べてみた。
よく見ると、大半の教室の入り口のドア付近の柱には、「○号室」とかいてある。
そこで、100年祭りの学校の歴史というところを調べてみたら、
その学校は、近くには軍需工場があったので、戦時中は野戦病院に使われていたとあった。
今では、建物は取り壊され新しい校舎になっている。
軍需工場の後には、電気部品の工場が建ち、
最近は、その工場も取り壊されて 全国的にも有名な建物が建っている。
>>317 カボチャとサツマイモではなくて? ジャガイモだとしたら珍しい作柄の土地かと
昭和10年東京生まれで大学出の叔父は一生分じゃがいも食べたから
今は一切じゃがいもは食べない。
この間コインランドリーで会った81才のおばーちゃんが
戦争中は14-17歳の女子も動員されて、船を作らされたと言ってた。
そのばーちゃんが住んでたのは昔も今も造船所のある所。
戦中は軍艦を作ってて、鉄板を穴あけてボルトで止めてて
その音がすごくて、大声じゃないと周りに声が聞こえない。
そうすると物凄く怒られたと言ってた。
そのばーちゃんは今も家政婦として働いてると言ってたが
確かに声がやたらデカかった。
今のJ隊でも大声を出す訓練はされるな。喉から血が出るまで叫べとか言われた
>>322 四人で一グループの「一ホド」と呼ばれる単位がありました。
ボルトをがんがん焼いては投げる係、投げたのを受ける係、あけた穴にボルトを突っ込んでエアガンで撃つ係
(これがリーダー)リーダーと対になって撃ちこまれるボルトを受ける係です。
四人はいつも一心同体。
一人が殴られればあとの三人が仕返しし、一人が休めば三人揃って仕事ができず、一人どんくさいのがいれば
三人揃って借金をしょいこんでたとか。
電気溶接、ガス溶接の普及に伴い、「ホド」は消滅したそうです。
うちの祖母は実父が家具職人だった。
父や雇われている職人が鉛筆の尖っている方を手前にして持ち
先端に指を添えて大工道具のノミを当てて削っているのを
誰も居ない隙に子供の祖母が真似をしたらノミが指まで
勢い余って滑って行って恐ろしい事に。
死ぬほどお父さんに怒られたそうです。
326 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/04/12(月) 09:41:11 ID:c0bSZ+MP
記憶age
大正末期、今年で86になる祖母だから震災の翌年か前年(ウロ)生まれで
戦時中は青春真っ盛りで記憶も確かなはずなのだが、
不思議と辛いとか苦しいとかひもじいとか聞いたことがない。
ので先日思い切って聞いてみたら、苦労した記憶がないとのこと。
祖母の家は大きな地主で、祖母が総領娘だから大層大事にされたらしい。
米は小作が作っていたのもあるが、闇米なんかも比較的手に入りやすく、
また小作人と女中が結婚した時に独立して肉屋をやらせたために
肉も食べられたとのこと。
本人は勤労奉仕がいやで、コネで政府関係のところへ事務(という名の腰掛)に出かけ、
戦後直ぐに結婚した。
戦争中の体験談はこんなもので、期待したほどじゃなかった。
祖父は戦争へ言っていたために大変だったそうだが。
部隊が病気で全滅して、2人(祖父ともう一人)しか生還できなかったという話しだが、
他の話を聞く前に亡くなってしまったので聞けずじまい。
あまり表立っては聞けないけど、
直接空襲の被害を受けなかった人って、
本当に戦争を実感してたのかな?
実感してたとしたらどの辺でなのかな?
>>327 地主なら終戦後小作に土地をとられてかなり困ったのじゃ?
上手く立ち回ったのかな?
>>328 超ド田舎になると、元から新聞を取っていなかった人はほとんどいないわラジオも空襲もないわで
戦前も戦時中も戦後もほとんど変わりない日常(あれ?ちょっぴり不便になった…かな?)を過ごした
がために、昭和40年代くらいになっても「戦争が終わった、日本が負けた」事を信じない人もいたとか。
「だって戦前と変わらない暮らしどころか逆に豊かになってるじゃん、負けたって絶対嘘だよ」って。
>>330 新聞を取っていなかった人じゃない、新聞を取っていた人は、だった。
とにかく、戦争が始まる前にはなかった電化製品が田舎にもバンバン入ってきただろうから
そりゃ負けたとは思わんわな。
332 :
おさかなくわえた名無しさん:2010/05/21(金) 12:18:50 ID:daqBx+wu
私の親は東京都心に住んでいたけど、
戦後のどさくさで家をよこどりされたそうです。
>>332 親戚の文京区の伯父さんは戦争から帰ってきたら自分の土地と隣りの土地の
境界線を動かされて少し横取りされたそうです。
そういうことやって太った人はいっぱい居るはずだが、やったほうの人は書かない
だろうなあ・・・もう代が替わってるだろうし。
昭和19〜20年頃、広島の山村で、イノシシ猟用の犬(広島では、畜犬供出がなかったらしい)が
白まんま食べてたそうです。
…お肉を村人や軍人、偉い人に提供する立場の犬は強い!!
祖母の父は絵画を掛け軸などに表装する表具師で
結構腕が良かったらしいが、いわばぜいたく品の職人だから、
戦争末期あたりは全然仕事がなかった。
戦後しばらくして落ち着いてから仕事がガンガンくるようになった。
そんな仕事のうちでも、よくあったのが、「贋作作り」だったそうだ。
ただ贋作といっても、ひいじいさんが絵を描くわけではなく、
もちこまれたホンモノの絵を二枚とか三枚に「おろす」。
自分が映画かなにかでそういう見たことはあったが、
まさか本当にやられてたとは、しかも身内がやってたとはシランカッタ。
エアコンが普及する前は、扇風機で「これ涼しいー!」って感じてたのかな?
そういや氷屋ってのも居たらしいね。
氷屋さんは都心でも昭和36、7年まであったよ。
もっとも花柳界や料亭街は現在でも氷屋さんが来て
ゴシゴシ切って売ってる。
住宅街の場合氷の冷蔵庫があって、
これは2、3年前違うスレで勘違いしている奴がレスしてた。
氷室だって言い張っていたw
木製の氷を入れる冷蔵庫はあった。三丁目の夕日にも出てくる。
うち近くの市場には氷屋、今もあるよ。
たぶん魚屋とかに氷をおろしてる。
たまに、商店街のお祭りの時、昔を懐かしんでボールペン入り氷柱とか立ててる。