日本びいきの外人を見るとなんか和む Part8!!!
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おさかなくわえた名無しさん:
今まで見たことのない赤い毛、青い目のソ連兵に追い立てられてあちこち歩かされた。
信じられない光景がいたるところにあった。町の一角には日本兵のあらゆる武器が
山のようにうず高く積まれていた。裸足で髪を振り乱し半狂乱で子どもの名を呼ぶ女性の姿、
ソ連兵に抱きすくめられ足をばたばたさせながら連れ去られて行く若い女性など。これが戦い
に敗れるということなのかと塩原さんは生唾を呑み目をそらした。悔しくても、どうすることも
出来ないのだ。
http://homepage3.nifty.com/kengi-nakamura/shiberia%205.htm 社宅の片隅の召集留守家族のA子さんが満人に襲われ暴行された。その上何日も居続け
居座ってしまった。その中国人は、 流暢な日本語を話す会社の傭人だった。日頃美人の噂の
高いA子さんに目を付けていたのであろう。
ソ連兵の日本婦人への暴行はすざましいものだった。12〜13歳の少女も70歳近い老婆も
その例外ではなかった。白昼でも、 又雪の上でも傍若無人にその暴行はおこなわれた。
10人の内3人は自殺をしたとの証言もある。敦化では23人という、 青酸カリによる集団自殺
が行われた。
http://www.ne.jp/asahi/home/hirakawa/hokuto-04.html
第二次大戦末期にソ連軍がドイツと満州、北朝鮮で、大規模なレイプを繰り広げた話はあまり
にも有名です。戦時中に有名なユダヤ系の作家のイリア・エレンブルグは「ゲルマン女性は
諸君の戦利品だ」という宣伝パンフレットを配り、兵士達のレイプを煽動したとされました。
ソ連についてはシベリアに抑留されていた元軍医の体験記を読むと、慰安婦の集団を
専用列車に乗せてシベリア大陸にある軍の基地を巡回慰安するサービスがあるのだそう
です。ある日彼が目撃したのは専用列車から降りた大勢の若いスラブ系慰安婦達が、
駅前の広場で人目もはばからず脱糞、放尿をしてからトラックに乗せられて、近くの基地に
商売に行ったのだそうです。日本人捕虜達は広場の汚物の掃除をさせられたと書いて
ありました。
終戦から6週間後の昭和20年(1945年)9月27日に大田(南朝鮮)の朝鮮軍司令部は、
東京の陸軍参謀次長に宛てて次の要旨を打電しました。
鉄原(ソウルの北80キロ)から脱出した日本人の報告によると、進駐して来たソ連軍は略奪の
のち、9月1日に広島屋(遊郭街)に24人の邦人婦女を閉じこめ、連日のレイプで6人が死亡、
他は10日頃にウラジオへ連行したらしい。また吉州でも250人の婦女がレイプされた後、
殺されたという。他の都市も同様かと思われる。38度線より北とは連絡不能のゆえ、中央の
外交手段で処置されたい。なお南朝鮮も米軍不在の地域は無政府状態で、邦人財産が
奪われつつある。
http://homepage3.nifty.com/yoshihito/ian-fu-1.htm
条約違反非難せず厚遇感謝…対日開戦通告時の駐ソ大使
【モスクワ=古本朗】第2次世界大戦終了間際の1945年8月8日、モスクワでビャチェスラフ・モロトフ・ソ連外相が
佐藤尚武駐ソ大使に対日開戦を通告した会談のソ連側議事録が明らかになった。
議事録による限り、大使はなぜか、日ソ中立条約を踏みにじって開戦するソ連の背信をとがめず、モスクワ駐在中
の厚遇に感謝さえしていた。
議事録は露政府の公文書館に保管され、「秘密指定」と記されている。
それによると、会談は午後5時から20分間で、ソ連外相が宣戦布告文を読み上げると、「大使は動揺した様子で、
もう一度、テキストを読み直してもよいか、と小さな声で許しを求めた」とある。
また、佐藤大使は「極東の平和維持の視点から、ソ連政府の(開戦)決定に遺憾の意を表した」だけで、依然、有効
な日ソ中立条約に背いて日本に戦争を仕掛けるソ連の行動を非難してはいない。
さらに「ソ連に滞在した3年4か月の間、自分のためにモロトフ外相がしてくれたすべてのことに対し、深い感謝を
表さなければならない」「ソ連政府は自分と日本政府に対し常に丁重だった」と礼まで述べたことが記されている。
そして退出する時、「大使は握手の許しをモロトフ外相に求めた」とある。
佐藤氏自身は後の回想録で、ソ連外相から開戦通告を受けた時、「もはや万事休す」と絶望し、形勢を盛り返す
努力をあきらめたことを明らかにしている。
ソ連は、45年2月のヤルタ会談で米英と対日参戦の密約を交わし、同年8月に参戦。ソ連はこれに先立つ同年4月、
日ソ中立条約(41年締結)の不更新を通告したが、条約の有効期限は翌年4月までで参戦は明白な違反だった。
◆日ソ中立条約=1941年4月に結ばれた。両国間の平和友好関係の維持と領土不可侵、一方が第三国から
軍事攻撃を受けた場合に他方は中立を守ることなどを定めた。南進政策を推し進めたい当時の日本と、ドイツの侵略
に対抗するため対日関係を安定させたいソ連の思惑が一致し、締結にこぎ着けた。
ttp://www.yomiuri.co.jp/world/news/20040808it03.htm
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おさかなくわえた名無しさん:2005/07/01(金) 17:36:15 ID:aluWQMte