朝鮮学校付近に住む人々の生活 2

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「創氏改名」ですが、これはもともと朝鮮総督府の意志で始めたわけではなく、
朝鮮人が熱烈に望んで始まったんです。
どういうことかと言いますと、当時日本は列強の一つだったので、海外に出たら白人並の待遇を受けていた。
けれども、朝鮮人は相手にされなかった。満州で朝鮮人が馬鹿にされていたというのはよく知られている話です。
 そういう時代背景があって、「名前だけでも日本人の名前を使わせてくれ」という陳情が当時朝鮮総督だった南次郎大将のもとに殺到したわけです。
それがあまりにも頻繁に続くので、昭和十五年、皇紀二千六百年の記念事業で創氏改名が許されたんです。
 昭和十四年十月二十二日付の総督府官報を見ると、半年に限って希望するものは創氏改名を許可する。半年経っても届け出ないものは従来通り。つまり、希望者だけの申告制であることがはっきりと明記されています。

 当時の朝日新聞なんかを見ると、法令が出るともう喜んで喜んで一門を集めて会議を開いている。うちは一つこういう姓に使用じゃないか、一門は一門で統一しておこう、というふうな様子が書かれている。
 ところが、朝鮮の三千数百の邑―面(町村)の村長―面長は全て朝鮮人で―道知事や府伊(市長)には日本人もいた―自分の手柄にしようと申請したケースもあるわけですよ。
「総督府閣下が有り難い法令を出してくれたから、わが村の者に言ったところ、皆こぞってやりますというので申告に来ました」という具合にね。
今批判されているのはそういう残念なケースがものすごく誇張されているのだと思います。それでも結局、創氏改名したのは八割弱で、二割ぐらいは以前のままで通した。