【師匠】法学者の師弟関係スレッド【弟子】

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38法の下の名無し
>>36, >>37
東大の行政法の師弟関係は他分野と違って独自のものがある。
雄川一郎は昭和56年3月に、塩野宏は平成4年3月にそれぞれ定年退官する。
塩野が行政法の授業を持つのは昭和45年頃からなので、それから11年間ほどは
雄川・塩野の競合時期だ。
東大法学部は、当時、行政法は第1部(4単位。3年前期。公法コースは必修)、第2部
(4単位。3年後期。公法コースは必修)、第3部(2単位。4年前期。選択科目)
とあって、第1部と第2部は同じ教官が担当するのが慣例だった。
塩野がこの3年生の行政法2科目を担当したのは、受講した学生の卒業年次でいうと、
昭和46年6月、47年、50年、52年、54年、56年だ。
助手でいうと、植村栄治(47年卒)、高木光(52年卒)がこれに該当する。
他方、雄川が3年生の行政法2科目を担当したのは、受講した学生の卒業年次でいうと、
昭和49年、51年、53年、55年だ。助手でいうと、宇賀克也(53年卒)、
小幡純子(55年卒)がこれに該当する。

ところが、塩野は年長者の雄川に配慮して、共同指導制を取採り、自分の授業
やゼミの教え子でも助手になるときの正式の指導教官は雄川にした。このあたりは他分野の場合と全く異なる。
また、雄川は弟子を細かく面倒見ることはしなかったが、塩野はたとえ雄川の教え子でも
丁寧に論文の面倒などを見ていた。そんなこともあって、上記の競合時代に学生・院生・助手だった行政法研究者は、
雄川・塩野両名を恩師と称するのが普通。
ただ、最近では、雄川が没後30年近くなって知らぬ者が増えてきたのに対し、
塩野は現役で活躍しているから、(非行政法関係者に対しては)恩師として塩野の名しか挙げないケースも見られる。

要するに、行政法の場合、雄川の系列か塩野の系列かを峻別するのはしばしば困難ということだ。
あえていうなら、「受けた授業やゼミはどっちか」「名目上の指導教官はどっちか」(院生の場合は
よく知らないが、雄川の独占でもなかっただろうと思われる)を問うしかない。また、仲間うちで
「雄川系列か塩野系列か」を意識する雰囲気は全くないらしい。
なお、宇賀は上記のように授業では雄川の教え子だし助手のときの指導教官も雄川だが、
東大に残ったときは、塩野教授下の助教授という形になっている。
いずれにせよ、塩野が定年退官する1992年3月までに東大で行政法を研究して
いた若手は例外なく塩野の世話になっている。