131 :
法の下の名無し:
民主制(デーモクラテイア)とは、デーモス(人民)がクラトス(力)を持つ
体制であるが、クラトスの動詞は、クラテイン(うち勝つ、征服する)である。
あらかじめ国家の中に人民対王、などという敵対関係があり、
その力と力の衝突において、人民が勝ちを占めた、という意味なのである。
その意味合いを鮮やかに描き出したのが、プラトンの「国家」における次の一節である。
そこで思うに、民主政は、つぎのようなばあいに生まれるのだ。
つまり、貧しい人たちが勝利をしめ、他の者たちの一部を殺し、
一部を追放して、残りの者に国民権と支配権とを平等に分かち与え、
また、それら国の役職が、おおむね籤できまるというようなばあいに。
2200年後のフランス革命を見通していたかのような一節である。
「国の役職が、おおむね籤できまる」などという所は、アメリカで与野党が
交替すると行政の役職まで総入れ替えとしたり、日本での派閥によってポスト配分を
している様を髣髴とさせる。闘争で勝ち得た権力を山分けにしているのである。
古代の民主政(デーモクラテイア)にしても、現代の民主主義(デモクラシー)
にしても、国内の対立闘争を前提とした制度であり、その抗争が高じて
勝つためには手段を選ばなくなると、ロベスピエールやヒトラーが生まれてくる。
選挙や多数決というのも、この国内対立を話し合いで解決するというより、
決着をつけるための平和的な闘争手段であると見なせる。
この「クラティア」という表現は、紀元前5世紀頃に出現した比較的新しい言葉であって、
それ以前に「治める」という意味で使われていたのは、「アルケイン」であった。
これはもともと「引率する」「指導する」という意味であって、「モナルキア(君主制)」
とは、モノ(一人の人間)が、国民の先頭に立って(アルケイン)、
ひざまづいて神に共同体全体の安寧を神に祈るという体制であった。
そこでは、王と国民が対立するのではなく、共に神の方に向いている。
西欧では国家国民を私有財産と見なす国王に対して、反発した民衆が王権との対立抗争
の末に戦いとったのが「国民主権」であり、それが近代民主主義の始まりであった。
王が力を持って民衆を抑える「クラテイン」と、王が国民の先頭に立って神に祈る
「アルケイン」はまったく別のものだ。
現代の西洋の王室は、再びこの「アルケイン」を役目とする古代ギリシャの
「モナルキア」に戻った。国家の中心に国民全体の幸福を祈る王がいる時、
いろいろな意見の対立はあっても、政治の究極の目的は国民全体の福祉を実現することだ、
という共同体意識が生まれる。この共同体意識があってこそ、民主主義の対立抗争という
前提が和らげられて、国民全体の衆知を集める、という本来の長所を発揮する。
英国や、オランダ、スウェーデン、デンマークなど、安定した民主主義国で
モナルキア(君主制)を採用している国が少なくないのも、このためであろう。
逆に国民の共同体意識が薄弱な所で、民主主義を形式的に導入しても、
安定せずにクーデターの繰り返しになることが多い。
興味深いことに、わが国の古代でも「クラテイン」と「アルケイン」によく似た
区別が行われていた。古代の大和言葉で「うしはく」とは、国家国民を私有財産
として領有することであり、これは王が力によって国を治める「クラテイン」に通ずる。
逆に「知らす」とは、国民の生活の実態をよく知って、心を寄せることであった。
わが国では古来から政治を「まつりごと」と呼びならわしてきたのも、
政治とはまず神をお祀りして国民の安寧を祈ることであったからである。
これはまさしく国民の先頭に立って神に祈る「アルケイン」そのものである。
昭和天皇が病床においても米の出来を心配された事が伝えられると、国民の間に
静かな感動をよんだが、これは陛下の個人的人徳というよりも、古代からの
「知らす」事を理想とする皇室伝統が現代に現れたのである。
大正末期から、昭和の初めにかけて駐日フランス大使として日本に滞在した
ポール・クローデルは、20世紀象徴主義を代表する詩人と言われているが、
「天皇は帝国を治めていない。それに耳を傾けているのである」と言う言葉を残している。
この「耳を傾けている」とは「知らす」ことそのままである。皇室伝統の本質を一言で
掴みだした詩人の鋭い直観には驚かされる。
こう考えると、民主主義の最大の機関である国会がその開催の冒頭において、
天皇が御言葉を述べられる、ということの意義が明らかになってくる。
国会が党利党略の対決、さらには乱闘や牛歩戦術に象徴されるような物理的力の
対決であっては、闘争を前提とする民主主義の欠陥が前面に出てしまう。
国会議員も党派はどうあれ、お互いに共同体の代表として、国民全体の幸福を
実現することが共通の使命である、という自覚があってこそ、建設的な議論によって
衆知を集めることが可能となる。常に国民の安寧を祈られている天皇を国会に
お迎えして、その冒頭で御言葉を聞くというのも、この自覚を再確認することに
他ならない。
国家の中心に、常に無私の心で国民全体の安寧を祈る皇室を仰ぐ、という事は、
わが国の民主主義が健全に発展するための基盤になる。そう気づけば、
国民主権を前文で「人類普遍の原理」と説く日本国憲法が、冒頭第一条で
「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」と定めたことの深い意味が
明らかになろう。