>>619 >現行憲法は外国人への参政権付与を定めている、といっているの?
>それとも本来定めているべきである、ということ?
これにはいくつかのレベルがある。
@、憲法は民主主義を謳っている。
民主憲法という言葉が定着しているように、これはかなり一般的な解釈であるわけだが、
これならば、単純に、「(結論として)現行憲法は外国人への参政権を認めている(現行制度は違憲)」と言える。
しかし、実際の憲法には民主主義という言葉は出てこない。
だが、国民主権が謳われていることには、異論はないだろう?
そこで、
A、憲法は間接的ではあるが、民主主義を謳っている。
要するに、国民主権と民主主義は不可分であり、国民主権の前提に民主主義が存在すると解釈する。
国民主権の「国民」を民主主義から離れた任意の集団であることを許せば、もはや国民主権とは言えない。
具体的な例で言えば、頭のおかしな法務省民事局長がいて、
「国民とは大阪人であって、大阪人のみに国籍を認める」などと言っても、
「それでは国民主権とは言わない」として、憲法から異論を唱えられるということ。
また、この傍証として、憲法制定のきっかけになったポツダム宣言を挙げることができるだろう(
>>596 )。
この場合の答えも、@と同じになるわけだが、「国民主権の前提に民主主義が存在する」というのは、
「本来、民主主義が前提されてるはずである」ということであるから、
「それとも本来定めているべきである」にも親和性がある(ただの親和性だろうけどな)。
残りは、
B、憲法が民主主義を謳ってるわけではないが、日本政府は謳っている。
言うまでもないが、日本政府は事ある毎に日本が民主主義を国是とする国家であると言ってきた。
(例えば、
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/docs/19570900.O1J.html )
この場合の民主主義は、確かに政策の範囲内のことだろうが、日本政府にとっては、
民主主義が憲法で謳われてるとの同じ地位(大義)に位置する。
とはいえ、政策の範囲だから、「現行憲法は外国人への参政権付与を定めている」とは言えない。
正確には「憲法の民主主義」に違反するというのではないのであるが、
日本政府にとっては「外国人への参政権付与が適切」となる。
で、ここで問題だ。この場合も、Aのように、「本来定めているべきである」と言えるかどうか?
民主主義が謳われてないのだから、何が正解か(誰を国民とするのが正しいか)は分からない。
だが、憲法は、「本来定めているべきである」とは言っている。
これは上の「gXMTxp7」が不満げに言っていたことと同じで、
「憲法10条は、国民の要件を丸投げしていて、どう定めるべきか言ってない」
と言う話。また、もちろん、ここでも「国民主権?ではいったい国民とは?」と
憲法前文が国民の既定を求めてると解釈してもいい。
結局、「本来定めているべきである」とは言える。が、憲法が言ってるのはこれだけか?
憲法は民主主義を謳ってない(民主主義が正解であるとは言ってない)が、
国民指定に関して、不適切な操作をすることは違憲であるとは言ってる(15条、固有の権利)。
Aの「頭のおかしな法務省民事局長」という例は、15条違反として対処できるわけだが、
「間違ってる」と言えずに、どうして「15条違反」が言えるのか?
間違ってる(不適切である)とすら言えないのであれば、憲法15条の固有の権利は無意味な空文になるだろう。
憲法を空文扱いするのは、99条によって、とりわけ政府に対して禁止されている。
つまり、「何が適切かは不明だが、不適切な国民指定は15条違憲となる」
ちなみにこれは、科学に対する反証主義的解釈と同じ理屈。
「科学においては証明は出来ない。どんな理論も正しいと断定できない。しかし、
ある理論が間違ってるとは言える。科学では証明はできないが反証はできる」
オレはこのような理屈が不合理だとは思わない。
上でも言ったように、「消去法はBの憲法解釈でも可能」。
民主主義を理由にしなくても、「現行制度(国民指定)は違憲である」とは言える。
そして、日本政府は、これを了承する必然性がある。
なぜなら、日本政府は民主主義を認めていて、民主主義を認めれば不適切な指定であることは明確だから。