【主権】 樋口陽一 【人権】

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208法の下の名無し
憲法十三条の幸福追求権から、電車内での痴漢権が導かれるかどうかは学説上対立がある(賛成説として、桐ヶ谷章「レイプは教祖の特権」・創価法学84号144頁、
石田穰「幸福追求における民事免責可能性」・民商雑誌78号。反対説として、初宿正典「暇つぶしは手鏡で」有斐閣、辻村みよ子「エロティックな幸福追求権」・成城法学特別号三巻)。
だが、敢えて蟻川助教授が今回の挙に出たのは相応の理由があると解すべきである。助教授は、つとに、樋口教授の主張する
「痴漢権は幸福追求権の一種であるが、婦人の権利条約によりその権利は法学的に停止させられている」(樋口・佐藤・芦部「注釈日本国憲法」75頁)ことに疑義を抱いていた(蟻川「憲法的自慰」2頁)。
しかし一方では人権の氾濫は慎むべきである(田中成明「転換期の日本法」75頁)。ゆえに、新しい人権を時事的問題を背景にクローズアップさせるべく、
性の解放を市民的価値に普遍化させたかったとみるのが至当であろう(三井理峯「我は平民」15頁)。