ハートって、法実証主義の立場にだと思うのだけど、
一方で自然法を認めているようにも見える。どうなんでしょう?
詳しい人教えて下さい。
>>90 人間の物理的条件(食べないと死ぬ、外敵から身を守る甲羅がない etc.)から、
「最小限の自然法」が帰結する、というような言い方は確かにしている。
けれどそれは、およそどんな法体系でもそれらを考慮した(生存保障的な)ものにならざるを得ないだろう、
というだけで、仮に生存の保障に全く無関心な法体系が存在したとしても、
その法体系が「最小限の自然法」に反しているがゆえに「もはや法ではない」というようなことにはならない、
というのが大筋での ハートの立場だと思う。
92 :
90:05/01/17 15:01:18 ID:1mshuN1v
>>91 どうもです。
なるほど、ハートの「自然法」は、人間行動の傾向・法則みたいなものであって
規範をさすのではない、ということでしょうか。
> 食べないと死ぬ、外敵から身を守る甲羅がない
これは人間の物理的条件というよりも、甲羅を持たない生物一般の
生存条件のように思えますが。
そうすると、甲羅を持たない生物はみんな自然法のもとに
生きてるんですかね?
猿の自然法、ねずみの自然法、カエルの自然法、蛆虫の自然法・・・
うーん、自然法主義者って、やっぱドキュソ?
94 :
法の下の名無し:05/01/17 15:24:39 ID:55AKY7bN
、,._ /彡
Yy、`'ヽ、 ,/ /l +
ヽ \ ,`フ"~^"~^` 、〈 ,レ +
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メ _ "シ ,. ヾ`
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>>93 人間の生存をより効率的なものにするために法が発生したのだ、
と考えるならば、人間の生存に無関心な法体系はそう多くは出現しないだろうし、
そういう生存に無関心な法体系は歓迎すべからざる法体系であるといってもよいだろう、
ということですわよ。「あるべき法」について、人間の物理的条件によって、
ある程度までは言える事がある、というのがハートの「最小限の自然法」。
食べなくても生きられ、外敵から充分に身を守れる甲羅があれば、
社会の形成も法の形成もなかっただろう(歴史的にというよりは仮想的に)、
っていうことがいいたいのね。
歓迎すべからざる「悪法」だからといって、それが法でないことにはならない、
というのが自然法主義と法実証主義を分けるところ。
で、この点に関してはハートは完全に法実証主義なの。
そもそも、ハートが人間の言語的営為としての「法」について語っている以上、
動物の自然法がどうの、なんてのは基本的に問題外だしね。
もし人間が甲羅を持っていたら、もし人間がスーパーサイヤ人だったら、法のあり方は現在の
法のそれとは違うものであったかもしれないけど、人間は今のこういうあり方だから、
現在の法はそうならざるを得ないという意味で法実証主義なんだろうね。
ちょっと違うかな。
甲羅を持っていて、食べる必要がなければ、我々が「法」と呼ぶような営為は存在しなかっただろう、って言ってるの。
「違う法のあり方」とかじゃなくて、「法」そのものが不要だろうから発生しないだろう、と。
で、人間は現実にはご飯を食べなくちゃいけなくて、甲羅がないから現にこういう法や社会があるんですよ、と。
んで、生存のための条件から法が生じてきたのだとすれば、生存を保障しないような法は「悪法」だと言っていいよね、と。
ここまでの議論は別に法実証主義とは関係がない話なの。
でも、「悪法」だからといって、それが法でないことにはなりませんよ、
だから、ナチスの法も、ユダヤ人の生存を保障しない(「最小限の自然法」に反した)「悪法」なんだけど、
「法」であることに変わりはないですよ、という、この部分が法実証主義なわけ。
もちろん、法だからといってそれを遵守する義務もないから、
「〜は法である」という記述的命題には特に規範的含意はないのね。
98 :
90:05/01/17 22:15:24 ID:RyToZowm
私が当初、十分に読解できなかったテキストの記述を一部抜粋しておきます。
「ハートは『法の概念』において、以上のほか、法と道徳の問題にも言及し、
『自然法』について論じている。彼によれば、法はどのような内容でももつことが
できるというのではなく、人間の本性や環境についての自明の真理(人間の傷つきやすさ、
おおよその平等性、限られた利他主義、限られた資源、限られた理解力と意志の強さ)
からして、生命・身体・所有などに関する相互自制のルールなど、「自然法の最少限
の内容」ともいうべきものが法の課題になるとする。人間のおかれた経験的条件に
基づくこうした規範的要請が、ハートにおいては、法的ルールの道徳的評価基準を
提供するものとなる。」
(有斐閣Sシリーズ 田中成明・亀本洋他 「法思想史」p242)
>もちろん、法だからといってそれを遵守する義務もないから、
>「〜は法である」という記述的命題には特に規範的含意はないのね。
ハートは、法の効力問題と遵法問題を分けているわけですが、
まず、このような「法」の理解は、我々が通常理解するところの「法」
とは違いますよね。例えば、普通「各人の意思にかかわらず、交通ルール
は遵守されなければならない」とされるわけですが、ハートの「法」だと、
「自分の意思に反するならば、遵守しなくてよい」ということになるのですか?
法実証主義者は例えば、こう考えます。
「法は『私を遵守せよ』と主張する規範の体系のうちで〜な特徴を持つもののことを指す。」
しかし、『私を遵守せよ』という命令は法体系が勝手に主張すればいいだけで、
私が遵守しなければならないかどうかはまったく別の問題だ、と。
交通ルールも「藻前らの意思にかかわらず、私を遵守せよ」と主張しますが、
私がその遵守要求に従うべきかは全く別の問題なのですな。
そして、法実証主義者は基本的には遵法責務の存在を否定します。
そうしないと、「悪法もあくまで法である」の代表例であるナチス法体系の遵法責務を認めることになり、
話が無駄に面倒くさくなるからです。
その上で、ある法体系が、政治哲学上の理由から従ったほうがイイ!という状況があることは認めるわけです。
だから、「自分の意思に反するならば、遵守しなくてよい」とまで言うわけではありませんが、
「法は法であるがゆえに従われねばならない」とは言わないわけです。
(法が「私は法なのだから、私に従え!」と勝手に吼えているなぁ、というか、吼えなきゃ法じゃないしなぁ、とは思うけどね。)
100 :
90:05/01/18 00:43:36 ID:zlp3UikE
>>99 うーん。お答えいただいたのですが、もう少し質問させて下さい。
交通法規は、制限速度の規定のほかに、その規定に違反した場合の
罰則も定めていますよね。また、刑法199条は、殺人の禁止とその罰を定めている。
交通法規が「この道路は60キロまで」と主張しているのに対して、それを
遵法する責務はないとして、私は120キロの速度で走る。刑法は「人を殺すなかれ」
と主張しているのに対して、それを遵法する責務はないとして、私は人を殺してみる。
これらの場合、私には罰則が適用され、免停なり死刑なりにされるのでしょうか。
「遵法責務の存在を否定すること」の意味内容に関わるのだと思うのですが、
それは、法が予定する罰則・強制を免れることをも意味するのでしょうか
(これは多分、少なくとも上の場合、不当な結論でしょう)?
あるいは、事実問題として私は「勝手に」一般道を120キロで走れるし、駅のホームから
人を突き落とすことができるが、法の側でも「勝手に」免許を停止したり、警察官を
差し向けて私をねじ伏せてくる、ということなのでしょうか(これでは
ナチスを止められませんよね)?
どのように考えておられるのでしょう?
結局「ある法体系が、政治哲学上の理由から従ったほうがイイ!という状況」
がポイントになるのだと思われますが、私はここの理解が十分にできない。
具体例を出して説明していただけるとありがたいです。
101 :
90:05/01/18 00:46:00 ID:zlp3UikE
あ、教えて君ですいません。自分でも調べます。
>「遵法責務の存在を否定すること」の意味内容に関わるのだと思うのですが、
> それは、法が予定する罰則・強制を免れることをも意味するのでしょうか
> (これは多分、少なくとも上の場合、不当な結論でしょう)?
遵法責務は「法は、法であるがゆえに従われなければならない」ということを意味します。
遵法責務が存在しないからといって、「従わないと痛い目に遭うから従う」ということは大いにありうることです。
法が法であるから従う、というのを内的服従と呼び、法が刑罰で威嚇するから従う、というのを外的服従と呼んで区別する事が出来ます。
で、法実証主義は、「法って何ですか?」という問いに対する一つの解答に過ぎないので、
それ自体でナチスの「合法的な」(だが邪悪な)行動を止められるわけではありません。
(「悪法は法に非ず」という自然法思想だって、ナチスの暴力を止められるわけではありません。)
>結局「ある法体系が、政治哲学上の理由から従ったほうがイイ!という状況」
>がポイントになるのだと思われますが、私はここの理解が十分にできない。
>具体例を出して説明していただけるとありがたいです。
例えば、「最大多数の最大幸福」を目指す功利主義は政治哲学の代表例ですが、
ある具体的な状況で、法を守ったほうが人々の幸福が増進されるならば、功利主義はその法律への服従を命じます。
しかし、その法が何らかの原因で愚劣だったり邪悪だったりし、違反する方が人々の幸福を増大させるような代物である場合、
功利主義はためらうことなく違法行為をすべきである、と主張するでしょう。
従って、功利主義に拠れば、ある法準則に従うか否かは、それが幸福を増進するかどうかのみで決まるのであって、
それが「法である」かどうかはどうでもいいことなのです。
だから、遵法責務が存在しなくても、ある法への服従が人々の幸福を増進するならば、それに服従するべきことになります。
つまり、遵法責務を否定することと「自分の意思に反するならば、遵守しなくてよい」というのは全く別のことなのです。
この立場に立つと、ナチス法体系の内のある法準則は守ると人々が不幸になり、違法行為のほうが人々の幸福を増進しますから、
それに違反すべき政治哲学(この例の場合功利主義)に基づく理由があることになります。
しかし、違反すると後が怖いので、ユダヤ人の幸福など無視して法を遵守するドイツ人が圧倒的多数だったわけですが、
そこから先はそもそも哲学がどうこうできるような問題ではありません。思想をどうこねくり回そうと痛いことはしたくないのが人間ですからね。
103 :
90:05/01/19 00:44:24 ID:pypjgUAF
>>102 なるほど。内的服従と外的服従の区別を考えることと、遵法責務を
認めるか否かの判断について、理解が増進しました(まだ分らない
ところの方が多いですが)。あと、感想ですが、考える立場の違いを感じました
多分、私は神学者の立場で神を考えていて、102さんは宗教学の立場で神を見
ていたのかなと思ったのです。
ところで、
>>102の考え方だと、例えば、裁判官が、ナチスの邪悪な法に対して、
「最大多数の最大幸福のためには、神威と理性に基づく自然法の存在を認め、この悪法が
自然法に違反し無効であることを宣明する方が有利だ」と考え、悪法の無効と被告人
への不適用を宣言する、というのはアリですかね?
"神威と理性に基づく自然法"の実在を、法実証主義は認めないのだとしても。
>>103 >多分、私は神学者の立場で神を考えていて、102さんは宗教学の立場で神を見
>ていたのかなと思ったのです。
概ねその理解で正しいと思います。法実証主義者は大体そういう位置から法を見ます。
但し、実生活においては、宗教学者が信仰を持っていることもまたよくあることです。
法実証主義者も、現実には法に服従する「善き市民」であることが殆どでしょう。
>ところで、
>>102の考え方だと、例えば、裁判官が、ナチスの邪悪な法に対して、
>「最大多数の最大幸福のためには、神威と理性に基づく自然法の存在を認め、この悪法が
>自然法に違反し無効であることを宣明する方が有利だ」と考え、悪法の無効と被告人
>への不適用を宣言する、というのはアリですかね?
当然ありです。現実のほうは「神学」のレベルで営まれているわけですから、
「宗教学」の知見に基づいて、こうこうすればどれそれの神学論争で勝つ事ができ、
十字軍遠征が止められるだろう、と作戦を立てるのと変わりありません。
むき出しの「宗教学」では神学論争で負けてしまいますから。
ただ、これは学者の誠実さが問われる場面だ、という人もいるでしょう。
上の例だと、功利主義は人々の幸福にとって誠実さはこの場合むしろ害悪だ、というでしょうが。
105 :
90:05/01/19 21:58:06 ID:zthqRTek
>>104 了解しました。
「法」に対して向ける視座の違いが分って有意義でしたよ。
未熟者の質問にお付き合いいただき有り難うございました。
次回もまた宜しくお願いします(^^)v