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専守防衛さん:
いたと思うがいまどうしてるのやら。日本では防大が上だろうが世界からみりゃなアナポリスが上だよね。
山口県出身の「北川敬三2等海尉」は海上自衛隊幹部候補生学校(江田島)の第6分隊長である。平たく言えば、海自幹候校の第6分隊という「クラス」(33名)の担任教官である。しかし、ちょっと前までは米国海軍兵学校(U.S.Naval Academy)すなわちアナポリス(兵学校のある土地名から由来)の「Midshipman(士官候補生)Keizo Kitagawa」(二ックネーム:ケイゾウ)だった。と言うのも彼は、アナポリスを93年に卒業した将校(幹部)だからである。アナポリスで、候補生は4年の教育を受け、卒業するとすぐに海軍もしくは海兵隊将校(幹部)に任官する。
全校で約4500人の候補生の中には、世界25の国の候補生がいたが、彼は、もちろん唯一のJapaneseであった。1845年のアナポリス開校以来8人目の日本人卒業生となる。1900年(明治33年)に7人目の日本人が卒業している。かつてアメリカのアナポリス、イギリスのダートマス、そして日本の旧軍時代の海軍兵学校(江田島)は、3大兵学校と呼ばれており、アナポリス出身の有名な提督(将軍)といえば、日露戦争で活躍した瓜生外吉、第2次世界大戦時のE.キングやC.二ミッツ、W.ハルゼーなど名だたるものである。カーター元大統領も同校出身である。最近では、共和党の大統領候補J.マッケイン上院議員もベトナム戦争の英雄であり、卒業生である。
ケイゾウさんが米国海軍兵学校に行こうと思ったきっかけは、実家でアナポリスのパンフレットを見ていて、おもしろそうだったからである。そのパンフレットは、高校時代交換留学生としてアメリカヘ渡ったとき、たまたま持ち帰っていたものだった。高校を卒業した後、9月にアナポリスを受験(筆記、体力、小諭文、心理適性検査など)し、翌年の5月に見事合格との知らせを受けた。その時に、海上幕僚監部から連絡があり、卒案後の進路として海上自衛隊への誘いがあったそうだ。
しかし、この時点で彼は、自衛隊入隊は全く考えていなかったという。小学校5年生のときに、1年間だけアメリカにいたことがあったが、そのころは医者になりたいという夢を持っていた。卒業できなければ、切腹する?くらいの覚悟で乗り込んだアナポリスだったが、約1500人の同期のうち3分の1が卒業までに脱落し、残るのは約1000人という厳しい現実が待っていた。特に、初めての夏(1年生時)の訓練は容赦なく厳しく、肉体的にも、精神的にも辛かった。
ただ、辛かったことばかりではなかった。兵学校で最も印象に残っている訓練は、10人乗りヨットの艇長をやったときのものだ。1ヵ月間、大西洋を行動した。部下一人ひとりに役目を与え、彼らを信頼し、すべてを任せた。彼らに先に食事を与え、先に休ませた。彼はここで部下を大切にし引っ張っていくことを覚え、リーダーシップを身に付けた。アナポリスを出るときには、その時の部下であった下級生が涙を流し見送ってくれたという。
また、4年も外国にいると「おいしい日本料理」が恋しくもなるが、アナポリスには海上自衛官の連絡官が教官として常駐しており、時折ご馳走になるとともに家庭の暖かさに触れ、大変ありがたかったそうだ。それにもまして、最大の収穫はアメリカに同じ海軍魂をもつ多くの「同期」を持てたことだろう。
アナポリス卒業後、日本に戻り、明治以来の海軍揺籃の地である江田島の海上自衛隊幹部候補生学校に入校し、卒業。海上自衛隊の幹部になった。
海上自衛隊での北川敬三2尉は、イージス護衛艦「きりしま」艤装(艦船に装備品等を搭載すること)員・通信士、第4護衛隊群旗艦「ひえい」水雷士、護衛艦隊旗艦(当時)「むらくも」応急長、護衛艦「はるゆき」航海長とを経て、幹部候補生学校の教官になった。国際感覚優れた海上自衛官である北川2尉の教育理念の下で学ぶ幹部候補生たちは、とても貴重な時間を過ごしている。候補生たちが近い将来幹部になったときに、彼から学び獲った哲学を生かせば、海上自衛官の国際感覚もさらに鋭くなるだろう。
また、北川2尉は今の国際情勢を観て「アメリカのやろうとしていることが身近に感じる」と言う。アナポリスの約1000人の「同期」が世界中のいろいろな地域で活躍しており(既に戦死した同期もいる)、同期の考えていることは良くわかると語る。