■日航123便は自衛隊が撃墜した

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87ユキポン
>>76

この事故から10年経った1995年8月、当時の真相等が多く 発表される様になった。
そのひとつマイケル・アントヌッチ・ジュニア元米軍大尉の証言である。
(「週間文春」1995年9月28日号)

彼はその日、たまたま沖縄・那覇から横田基地米軍輸送機C130で飛んでいた。
日本側より14時間も前に墜落現場を発見した事実を公表した。 「あの飛行機事故のことは
10年経った今も脳裏に焼き付いて離れない。 JAL123便が管制塔に『緊急』を告げた時、
たまたま近くを飛んでいた。現場はすぐに発見出来た。墜落の2時間後にはアメリカ海軍の
救助ヘリが現場に着いた。あの時、救助にストップがかからなければ、もっとたくさんの人が
助かっていたに違いない。 日本の救助隊が現場に着いたのは、その14時間もたってからというではないか。」
「現場を確認後、グリフィン隊長は残骸の上空600メートルでそのまま旋回飛行を続けた。
私は横田基地 からの位置を測り、20分後には正確な位置を割り出して横田基地に知らせた。
やがて横 田基地から連絡 が入り、60キロ離れた厚木基地から海軍の救助隊が来ると知らされた。あと1時間で着くという。」
「彼ら(海軍ヘリ)は少し離れたところで、ラペル(ロープを使って懸垂降下すること)で二人
の乗員を地上に降ろし、検索しようとしている。ゲイリーがヘリと話している間に、私は司令部へ連絡を入
れた。 その時、司令部の命令はこうだった。 『日本の救助隊が向かっている。すぐ基地に戻るように。』
しかし私は次のように伝えた。 『海軍は救助に入りたいと言っています。』
すると司令部は次のように言った。 『繰り返す。すぐ基地に戻るように。海軍も同じだ。』
もはや私は『わかりました。帰還します』と答えるしかなかった。降りかけていたヘリの乗員たちは、
再びロープを登っていった。 その時、我々の900メートル上空に、日本の
飛行機が旋回しているのを認めた。午後9時20分だった。これが現場に来た最初の日本の飛行機である。」
「横田基地で待っていたのは、第316戦術航空団の副司令官ジョエル・シルズである。
グリフィン隊長が報告を終えると、シルズは 『よくやった。でもこのことは一切マスコミに話してはいけない』と言った。
理由はまったく説明されなかった。 しかし翌日のニュースは、もっと衝撃的だった。
日本の救助隊は現場を発見できず、やっと着いたのは墜落の14時間後だと言っているではないか。
私は焦って自分の地図を取り出し、墜落現場を正確に伝えたかどうか調べた。私には自信があった。
伝えた位置は正確だった。海軍のヘリは私の情報に従って現場に来たのだから、間違いない。
我々はあの時、現場の上空を飛んでいた日本の救援隊にを任せた。
それにしても、どうして墜落現場がわからなかったのか?一体、朝まで何をしていたのか?不思議でならなかった。
事故から2週間たって、私は『タイム』と『ニューズウィーク』で 生存者が4人いたことを初めて知った。
しかし残りの記事は、間違いだらけだった。生存者の一人の証言が私をぞっとさせた。
彼女は墜落後、数人の子供達の声を聞いたと言っていた。ヘリを見て手を振ったが、気づいてくれなかった
と語っていたのだ」・・・・・・と以上である。

それを受けて8.12連絡会顧問(弁護士)も 「この海軍のヘリについて事故調査の報告書にはまったく記載がないのである。
なぜか?そして米軍の援助活動にストップをかけたのは、いったい誰なのか?
C130の乗務員に対する口封じ誰の意志によるもので、その理由は何なのか?」 とコメントを出している。